ソフィアの願いごと

 春の雨は嵐みたいだな。
 ベッドから身体を起こしたわたしは、窓の外に広がる景色を見た。
 強い風に揺れる草木。
 窓に当たってよじれていく雨粒。
 わたしの瞳はその光景たちを眺めていた。
 どれくらいそうしていただろう。"起きているの"と家族に呼びかけられたわたしは重い腰を上げて起き上がった。
 
 朝食を食べたわたしは姿見の前に立った。
 皺がひとつもないブラウスに袖を通す。スカートも汚れひとつ付いていない。はじめて着る制服はとくべつお洒落なデザインじゃないけれど、ちょっとだけ気分が上がる。
 ブレザーを羽織る前に、髪の毛に触れる。
 慣れた手つきで頭の上で結わうと、ここで一周ぐるりと回った。
 着崩れがないかチェックする傍ら、リボンに結わえられたポニーテールが揺れるのが目についた。
 わたしはつい目を細めてしまう。
 
 人はみんな、色んなものを見て聞いて世界を広げていく。
 ただ、幼い年頃のはじめては目についたものを指さしては"あれはなあに"と両親に聞いてみたりする。良いことも、ときには悪いことも。
 自分に向けられた興味がそうだったように......。
 
 わたしの名前はカレン。
 わたしの髪の色は、――ブロンドなんだ。

 ・・・

 玄関で言ってくるよと声をかけると、母親は案の定声をかけてくれた。
()(れん)、無理しないでいいんだよ」
「いいって、だいじょうぶだよ」
 わたしは抑揚のない声で制すると、まだ硬いローファーを履いた。そうしてドアを開ける。心配を隠せない母親の視線を浴びながら。
 
 折り畳み傘を差しながら、わたしはまっすぐに歩いていく。
 たしかに、今日ばかりは学校に行きたい気持ちが高ぶっていた。こんな気持ちになるのは何時ぶりだろう。
 
 それはやっぱり、入学式だからだと思う。
 
 新しい生活の場所はどんなところだろうか。
 楽しかったらいいなと考えてみるけれど、それはぼんやりとしたまま手を離してしまった風船のように飛んで行ってしまう。
 わたしのような子は居ないと思っている。クラスを探しても、学年を探しても。
 学校にひとりでも居たらいいなと、そんな薄い期待をなんとなく抱いていた。
 
 わたしはハーフだから。
 肌の色や瞳は幸い日本人と遜色なかったけれど、髪の毛の色は母親ゆずりだった。
 海外でも通じる"カレン"に"花蓮"という漢字を付けてくれたのは、日本で暮らしていくためだったそうだ。
 花が咲き誇るみたいに人生が豊かでありますよう。そんな願いを込めたと言っていたっけ。
 でも、カタカナで書いた方が、自分に似合っている気がする。

 ・・・

 定刻通りに電車がホームに滑り込む。
 これは小さい頃住んでいた国ではあまり見られない光景だった。ドアが開くとみんな行儀よく降りて乗り込んでいく。さすが日本だなって思う。
 そんな集団の一部になったわたしは、何気なくドアの脇に立った。
 発車ベルが鳴る。
 そのメロディーの最中、こちらに向けて走ってくる女の子の姿があった。
 あ、同じ制服を着ている。
 わたしはその気付きからなのか、思わず身を乗り出して腕を出す。彼女もこちらに気づくと、力強く駆け出しては手を広げて思いっきり腕を伸ばす。
 
 そうだね、一緒に高校に行こうよ。
 
 ふとこんな言葉がわたしの脳裏を駆け巡る。
 しかしながら、ここでドアは閉じられてしまい成す術もなかった。
 ゆっくりと走り出す電車。膝に手をついて息を整えながらこちらを見つめる彼女の姿に、わたしは目を離せなかった。
 いつかまた、学校できみのことを見てみたい。
 
 電車の窓から住宅街が見える。
 はじめて訪れる地域は背の高いビルなんて見られず、緑がとても多かった。
 こういう光景を閑静な住宅地なんて言葉で表現できると実感するとともに、なんだか人気のない寂しさを感じずにはいられなかった。
 それは、電車の中とは真逆に思えた。車内では女子高生たちが談笑する姿があった。
 知らない制服を着た彼女たちは屈託のない笑顔を作って、色々と会話を広げていた。春休みにどうやって過ごしたとか、また同じクラスになれたらいいね、とか。
 その光景を、わたしは不思議な面持ちで見つめる。
 あんな風に仲の良い友達が出来たら嬉しいなって思った。それでも、無意識のうちに音楽プレイヤーの音量を上げていた。
 
 女子高生たちが荷物をまとめて降りていく。
 その中のうちの一人が、ドアの脇に立っているわたしの方をちらりとのぞき込んだ。明らかに髪の毛を見つめた瞳は、"どうしてなんだろう"と言わんばかりだった。
 時間にしてみたら一瞬だったと思う。
 でも、わたしは彼女の意識を分かってしまうところもあるから困ってしまう。
 いったん膨らんだ気持ちは抑えることができずに、"なんであんな色なんだろうね"、"もう染めているなんて生意気だね"などと聞こえてきそうなんだ。
 
 ここで、音楽プレイヤーの曲が切り替わった。
 先に流れていたバラードからとても異なる、ポップな曲調。思わず首を縦に振ってしまうリズムは、わたしの好きなアニメのオープニングテーマだった。
 『プリンセス・ソフィア』。
 悪い者を懲らしめるヒロイン。その姿に多くの子供たちが熱中していた。
 わたしもその一人。
 
 いつしか、テレビ画面の向こう側に映るきみに、わたしは恋をしていた。
 なんで。どうして。
 そういう言葉を耳にするたびに幼い記憶を思い出す。
 幼い頃からそうやって尋ねられたことがあった。彼らはみんな揃ってわたしの髪を指さして、"どうしてそういう髪の色なの"と質問してくる。
 容赦なかった。
 それでもわたしは、丁寧に返していった。
 「お母さんが外国の人なんだよ」
 ちゃんとこう答えたら、みんな分かってくれた。そうやって理解してくれるからわたしも嬉しかった。
 その安堵はずっと続くと思っていた......。
 
 中学校に上がったら、今までの空気が一変してしまった。
 地域の小学校から色んな生徒たちが集まって、ひとつの空気を作り出す。そこで生まれるものは強弱を作り出す淀んだものだった。
 いつの間にか、ある女子生徒の周りに人が集まるようになっていた。
 休み時間に談笑するのもお手洗いに行くのも、放課後に帰るのだってあの子の後ろに付いていく。それは日に日に大きくなって、圧迫感を生んでしまう。
 ある日、そんな子たちと公園で話すことになった。
 あまり接点のない生活を過ごしていたとはいえ、ちょっと話すだけならいいかとわたしは出かけていった。
 なにも疑うこともせずに。
 それでも、このまま雑談が続くんだなあと思っていた時だった。そのグループの中心にいた彼女が急に切り出した。
「ねえ、どうしてそんな髪の色なの」
 母親が外国の人だって、いつも通りに応える。きちんと伝えたら分かってくれると信じていたんだ。それは、今日この日までだった。
「校則破って染めてちゃダメでしょう」
 純粋な心は、邪悪な心に塗りつぶされる。
 正直な意見はひとつも受け取ってもらえず、返されたのは気味悪いくらいまでの嘲笑う表情だった。
 あまりのことに何が起きているのか分からなかったわたしは、気づいたら周りの子たちに腕を締め付けられていた。
 時間にしてみたらあっという間だったのかもしれない。
 でもスローモーションのように感じてしまう。
 彼女が鋏を取り出して、こちらに近づけてくる。いつの間にかわたしの長い髪は切り落とされてしまった。
 これが、わたしがはじめて感じた恐怖。
 
 日の落ちる時間までわたしは泣き続けてしまった。
 
 それから、わたしが学校に行く日はまばらになってしまった。
 たまに学校に行っても、あのグループとは近づかない方が良いというこそこそとした雰囲気を感じるだけで、わたしの心配なんてあまりしてくれなかった。
 いつの間にか、わたしの呼び方は"ヘンな髪の子"だった。
 最初の頃はお母さんが文句を言いに学校に行ってくれたそうだ。でも、わたしはもう学校のことなんてどうでもよかったから、すぐに自分の部屋にこもるようになった。
「みんなの笑顔を守る姫! プリンセス・ソフィア!!」
 この台詞を聞くたびに、わたしの心は震えた。
 塾に行く時間以外ではアニメを見るようになった。中でもいちばん気に入ったのが『プリンセス・ソフィア』だった。
 日曜日の朝に放送している、女児向けアニメの金字塔。
 心優しくてしっかり者の女の子である香織(かおり)ちゃんが、不思議な力を手に入れて変身し悪の組織と戦うストーリーだ。
 変身の決めポーズには毎度お決まりの名乗り口上をあげ、バトルシーンに突入していく。
 必ず悪者は撤退していくから予定調和みたいなものを感じる。それでも、わたしは目を輝かせて見ていた。
 同い年くらいの子が勇気をもって戦っていく。
 なびくポニーテールやスカートというデザインも相まって、かっこ良さの中に可愛らしさも感じられた。
 その姿がとても素晴らしくて、恋に近いような気持ちが芽生えていた。
 ソフィアがわたしの心も救ってくれないかと思っていたんだ。自分に嫌がらせした子たちも懲らしめてくれないだろうかって。

 ・・・

「学校に無理して行かなくて良いのよ。
その代わり、たまにはお店を手伝って頂戴ね」
 助手席に座ったわたしに母親が声をかける。それがお小遣いになるからと言う。
 お互いにシートベルトを閉めたのを確認したら、慣れた手つきで車を発進させた。
 わたしの母親は小さな仕立て屋を営んでいる。自宅の一階は工房になっていて、その奥の方は倉庫になっていた。たまに忍び込んでは、色とりどりの生地を眺めるのがとても楽しかった。
 短く切り揃えられた髪型は仕事人のよう。その溌剌とした声に呼びかけられるたびに、わたしは宿題を止めて出かける準備をしていった。
 時折、生地の買い出しに行くことがある。それは仕事に必要なことだと思う傍ら、わたしを気分転換に連れ出したいんだなと感じていた。
「うん、いいよ」
 わたしは運転席の方を見ずに、まっすぐ前を見つめて答える。
 親に迷惑をかけているとか、両親が無理して気遣ってくれてるんじゃないかとか、色々考えてしまう。とくにお母さんはどう思っているんだろう。
 いつも楽しい時間なんだけど、色んな感情を感じてしまうから、わたしはどうすればよいのか分からなかった。
 車のウィンドウを開けて、風を感じたかった。

 ある日突然に聞かれたことがあった。
 何か欲しいものはないのかって聞かれても、何のことだか分からない。居間でテレビを見ていたわたしは、きょんとした表情を作ってしまった。
「お母さん、急になに......?」
 難しい言葉で、こういうのが鳩が豆鉄砲を食ったよう、というのを感じる。
 ゆっくり思い出して、と首を傾げながら戻っていく姿にわたしは慌てて声をかけた。数秒経って気づいたことは、今月わたしの誕生日だということだった。
「待って、待って。欲しいのがあるからちょっと聞いてほしいんだ」
 気をよくして振り返った母親に、わたしは手元にあった雑誌を開いて見せた。
 それは月刊で発行されているアニメ雑誌だ。一番大きな特集が『プリンセス・ソフィア』だったこともあって、わたしは何にも使う予定のなかったお小遣いを揃えては買いに行ったことがあった。
 わたしが欲しがったもの。それはいわゆるコスプレだ。
 キャラクターの設定画が大きく掲載されているページに、香織ちゃんの学生服が載っていた。アニメオリジナルのデザインをしたセーラー服だけど、リボンが所々に使われていてとても可愛かった。
「それじゃあ、余所行きで着られる服にアレンジしようかしら」
 それから母親は時間を見つけては製作してくれるようになった。
 わたしの身体の寸法を測って、いちばん似合うであろう生地を買い付けに行って。
 でも、異変を感じたのは服を作り始めた時だった。
 
 わたしの目の前に映ったのは、大きな鋏。
 あの時を思い出す。鋏の音が怖い。
 またわたしの髪が切られるんじゃないか。そう錯覚してしまって、慌てて母親の腕にしがみついた。
「やめて、切らないで!!」
「ちょっと、何言っているのよ!!」
 鋏やミシンを扱う人に触れていはいけないという。
 でも、わたしはそんなことを構う余裕がなかったんだ。
 裁断されていく生地は雨粒がよじれるように、曲がってしまった。もう台無しになってしまったものをわたしは見ようともせずに、慌てて部屋に駆けていく。
 けっきょく、わたしの誕生日プレゼントは、自分の涙と一緒に流れていってしまった。
 駅の出入口から空の様子を眺めていた。
 相変わらず雨は止まず、むしろ少し強くなっているような感じがしている。
 慌ててバスに乗る子たちの姿を横目に、わたしは傘を広げて歩いていく。
 明日からは晴れるという予報なんだけど、本当なんだろうか。きちんと晴れるかもしれないし、今日の雨が長引いてしまうことだってあるだろう。
 これから先、何が起きるなんてわからない。
 だから、わたしは今日の雨を見ておきたかった。
 きちんと歩いて学校に行こう。教室の雰囲気だけでも感じよう。
 また悪い子と出会ってしまったらどうしよう......。
 わたしの心を撫でるように強い風が吹いた。思わずよろけたわたしは傍にあった水溜りに左足を突っ込んでしまった。
 これは困ったと、慌てて目先のところにあったマンションの軒先に避難する。
「ああ、どうしよう」
 ローファーを脱ぐと、もう靴下からぐっしょりと濡れてしまっていた。しかも片方だけなんて余計に気持ち悪い。
 脱いでしまおうか我慢して履いて行こうか。
 迷ったあげく、靴下の上にローファーを履き直した。
 
 だけども、わたしはこのまま歩いていくことはできなかった。

 ・・・

 また再び空を見上げる。
 その場に立ち尽くしたまま、どれくらいの時間が経っているだろう。
 右手には折り畳み傘がぶらりと揺れている。いや、正確には折り畳み傘だったもの。先ほどの強風にあおられたときに、骨が折れてしまった。
 何度か差し直そうとするものの、いつもみたいに広がることはできずにしぼんでしまう。
 もう捨てるしかないだろう。
 そういえば、わたしも中学校で捨てられたんだっけなどと考えると、わたしの頬に苦笑が混じる。
 
 登校する時間にはまだ余裕があるから、少しなら小降りになるのを待てるかもしれない。
 でも、しばらく経っても雨のようすは変わらない。仕方がないから、走って行ってしまおうか。
「......仕方ないかあ」
 誰にも届かない独り言をつぶやきながら、わたしが足を踏み出した時だった。
 
 ......不思議と、わたしが雨に濡れることはなかった。
 
 視界の縁からそっと差し出してくれたもの。
 わたしの頭上に咲いたのは傘だった。しかもきちんとした大きなやつ。
「あの、良ければ入ってください」
 抑揚のある明るい声はイヤホン越しでもはっきりと聞こえた。その声の主はこちらを見つめている。わたしもきみの方から瞳を離せなかった。
 記憶の糸をたどる。お互いに持ち合わせたものがリボンのように形作られるのは難しくなかった。
「さっきはありがとうございます。駅で腕を伸ばしてくれて」
「ううん、わたしこそ」
 目の前に映る人物は、駅のホームでわたしの乗る電車に乗り込もうと走っていた子だった。まさかこんなところで出会うなんて思いもしなかった。
「......だから、助けようとしてくれたお礼です。
私の傘に入って学校に行こう、ソフィアちゃん!」
 屈託のない笑みに、ついわたしの目は丸くなる。それより、アニメを知っているなんて。
「当たり前だよ! 私まだ小さい妹居るから、毎週欠かさず見てるんだ。
それで、駅であなたのことを見て、ソフィアが本当に居るんだって思っちゃって。だから見失わないよう、近くのドアから乗り込みたかったんだよ」
 恥ずかし気もなく告げる彼女に、わたしの顔はもう真っ赤だ。
 そういえば、『プリンセス・ソフィア』は主人公の香織ちゃんが金髪だったっけ。アニメ作品だから気にも留めなかったけれど、わたしも一緒だと気づいたのははじめてのことだった。
 
 彼女が差し出す傘に、わたしはためらわないで入る。
 恥ずかしさも後ろめたさも不思議と感じなかった。

「私の名前は理沙(りさ)っていうんだよ」
「わたしの名前は花蓮。よろしくね」
 ひとつの傘の下、わたしたちはお互いに自己紹介をする。
 童顔に眼鏡で、アニメに出てきたら主人公を引き立てる友人みたいな感じだろうなという印象を受ける。お互いに外国籍っぽい名前で興味深い感じがした。
 この子と同じクラスになれますように。

 ・・・

 呼びかけられる言葉で、わたしが受け取る雰囲気もだいぶ変わるんだ。
 明るい足取りのまま、視界の先に高校が見えてくる。
 
 実のところは、プリンセスは悪い奴を懲らしめているだけじゃなかった。
 みんなに迷惑をかけるものに対して怒っているだけ。アニメではよく学校のシーンを見ることがあったけど、それは周りに迷惑をかける男子に対して叱っているんだ。
 
 それはみんなに笑顔で生活していてほしいと願っているから。
 
 わたしは、また香織ちゃんの服を作ってもらうようお願いしてみようと思う。
 これまでとこれからを夢見て、人は生活しているんじゃないかと考えた。
 ソフィアの願いごとを胸に、新しい生活を過ごしてみたいな。
 
 春の雨は温かい。

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