夏の暑さもようやく収まってきて、過ごしやすくなってきた季節。
 あたしは駅前の広場で後輩を待っていた。少し前までは外で待っているのが厳しい暑さだったけれど、今は日陰を選べばそれほどでもない。十数分待つくらいならどうということはない。あの子を待たせるわけにはいかないから、あたしはいつも待ち合わせ時間よりかなり早く着くようにしている。
 あの子を待たせないようにする理由はひとつ。すぐナンパされるからだ。
 やがて、あたしの言いつけ通りに、待ち合わせ時間の五分前くらいになって、あたしの待ち人である夢望(ゆめの)が姿を現した。今日はノースリーブで丈の長いワンピースに、白いカーディガンを着ている。肩掛けの小さな鞄には小物やスマートフォンが入っているのだろう。黒いミディアムヘアを揺らしながら、きょろきょろと辺りを見回してあたしを探しているようだった。あたしは壁際から離れて、夢望のところへ向かう。
 夢望はあたしの存在に気づいて、ぱっと晴れやかな表情を見せた。
飛鳥(あすか)さん!」
 小走りで駆け寄ってくる夢望の姿に、あたしは目眩がしそうになった。
 ああ、なんて可愛いんだ。芸能人にだって負けちゃいない。そこらのアイドルよりもずっと可愛い。ほら、近くにいた男の人だって夢望を目で追っている。
 そんな可愛い夢望を独り占めできる優越感。あたしはそれを顔に出さないようにしながら、夢望と合流する。
「ごめんなさい、いつもお待たせしちゃって」
「いや、いいよ。あたしもそんなに待ってない」
「そんなこと言いながら、飛鳥さんは一時間とか待ってそうですからね」
「さすがにそこまでは待たないよ。十五分くらいかな」
 あたしが正直に答えると、夢望は驚いたような顔をした。
「十五分も、こんな暑い中で待ってたんですか?」
「え? そこまで暑くないでしょ。十五分くらい余裕余裕」
「ごめんなさい飛鳥さん。やっぱりわたしももうちょっと早く来るようにしたほうがいいんじゃないですか?」
 夢望はそう言うけれど、万一夢望があたしより早く着いた場合のことを考えると、あたしは夢望の提案を受け入れることはできない。というのも、夢望には前科があるからだ。
 あたしはその前科を思い出してしまって、くすりと笑った。
「いちばん最初に遊びに行った時さ、夢望が先に来たじゃない? 飛鳥さんを待たせるわけにはいかない、なんて言って」
「あ、そうでしたね。わたしは後輩なんだし、絶対飛鳥さんより早く行かなきゃって思ってました」
「それで一時間前に来て、ナンパされてたじゃん。あたしが来たからよかったものの」
 あたしの思い出話に、夢望は眉尻を下げた。あまり思い出したくないことのようだった。
「あ、あれは、たまたまです。いつもナンパされるわけじゃないです」
「二回目も三回目もナンパされてたから、こりゃあたしが先に行かないとだめだって思ったんだよね」
「うっ……そうです、なんででしょうね? わたし、ひとりでいるとすぐ声かけられちゃう。悩みなんです」
「まあ、可愛く育ったってことだよ。いいこといいこと」
 あたしは平凡な容姿に育ったから、夢望の悩みには共感できない。けれど、夢望は夢望で大変なのだろう。歩けばナンパされ、大学でもナンパされ、女子からは妬みを買う。そういう意味では、可愛いというのは可哀想なのかもしれない。自分ではどうすることもできないのだから。
「行こうか。って言っても、あたしは今日何するのか知らないんだけど」
 今日はあたしが夢望に呼び出されたのだ。大学の講義が休みである土曜日、都合が良ければ会いたいと言ってきた。たまたまアルバイトが休みだったから承諾したのだけれど、何をするのか聞くのを忘れてしまっていた。夢望と出かけるということだけでも、あたしにとっては幸せだったからだ。
 夢望はあたしの横に並び、駅ビルを指した。
「今日の目的はですね、プレゼント選びなんです」
「プレゼント?」
 誰だ、夢望からプレゼントを貰えるなんていう羨ましい奴は。あたしは頭一つ分くらい背が低い夢望を見て、先を促した。
「はい、友人がそろそろ誕生日らしくて。何か買ってあげられたらな、と」
「そうなんだ」
 あたしは平静を装って答えた。心の中では様々な思いが荒波のように騒いでいた。
 夢望にだって友人くらいいるだろう。あたしも、夢望が他の女子と一緒にいるのを見たことはある。普通に考えたら、その中の誰かではないだろうか。大学生になっても誕生日プレゼントのやり取りくらいしたっておかしくない。まして、夢望はまだ大学一年生なのだから、高校生の頃の習慣を引きずっているのだろう。
 夢望はあたしの誕生日にも同じことをしてくれるのだろうか。でも夢望に誕生日を教えた記憶はない。幸いにして、あたしの誕生日は一月だからまだ先だ。これからでも貰えるチャンスはある。夢望のことだから、こっそりと準備して、あたしの誕生日当日に渡してくれるのかもしれない。かもしれない、というのは、あたしの自信のなさの表れだった。
 これで、実は相手が男子で、今は友人だけどいずれ恋人になりたい人なんです、とか言われちゃったらどうしようか。あたしはその時でも平常心でいられるのだろうか。
 あたしは夢望から目を逸らして、一歩踏み込んだ質問を投げた。
「友達は、男の子?」
「はい?」
 聞き返されてしまった。あたしが夢望のほうを見たら、夢望は破顔して笑った。
「あはは、そんなわけないじゃないですかぁ。あげる相手も、あげたい相手もいません」
「そっか。いや、ほら、夢望はよく男の子にも話しかけられてるからさ、仲良い人もいるのかな、なんて思って」
 あたしは口早に言い訳をまくしたてた。夢望に男の影がないことがわかって、幾分かあたしの心の中は落ち着きを取り戻していた。
「飛鳥さん、わたしが言ってる友人は、高校の頃の女の子ですよ。今でも時々会ってるんです」
「へえ、そうなんだ。仲良いんだね」
 湧いてきた嫉妬の感情を押し殺す。夢望には気づかれないように。
 夢望はあたしの醜い感情を悟ることなく、優しい微笑みを見せた。
「そうなんです。あっ、ちゃんと飛鳥さんの誕生日にもプレゼント贈りますからね」
 まるであたしの黒い心を見透かしたかのように、光が降り注ぐ。あたしは頬が緩むのを抑えることができなかった。
 そっかあ。夢望はあたしの誕生日にもプレゼントをくれるのか。それくらいの仲だと思ってくれているんだ。
「ありがと。あたしの誕生日って言ってたっけ?」
「一月十一日ですよね」
 当たっている。あたしの記憶にはないが、話していたらしい。でも夢望に話したら覚えていると思うんだけどなあ。
 その疑問があたしの顔に出ていたのか、夢望が種明かしをしてくれた。
「実は、飛鳥さんのお友達に訊いたんです。飛鳥さん本人に訊くのが恥ずかしくって」
「そうだったんだ。別に、直接聞いてくれていいのに」
「それで過ぎちゃってたら困るじゃないですか。飛鳥さんは一月だからいいですけどね」
 確かに。過ぎていたら気まずいだろう。祝うとしてもやりづらいことこの上ない。こういう時、誕生日が四月や五月の人は可哀想だと思う。誕生日を訊かれる頃には、大抵過ぎ去ってしまっているだろうから。
「なので、今日は飛鳥さんの好みを探りつつ、わたしの友人のプレゼントを探すのが目的です」
「あたしの好みを探るって、言っちゃっていいの?」
「あっ」
 夢望が固まる。予想はしていたけれど、あたしの好みを探るのは隠していたかったらしい。夢望はこういう天然さがある。あたしは苦笑した。
「まあ、行こうよ。雑貨屋とかでいいのかな?」
「は、はい。知られちゃったなら、堂々と好みを聞いていいですよね」
 夢望は開き直ったようだった。あたしに促されるまま、二人で駅ビルの中に入る。少し強めに効いている冷房が、外で待っていて熱を持ってしまった身体を冷やしてくれる。エスカレーターを上がって、雑貨屋に向かう。
「夢望からなら何貰っても嬉しいと思うけどね」
 あたしは本心を言ったが、夢望の賛同は得られなかった。あたしを見上げてくる瞳には疑いが込められている。
「ほんとですか? 変な生き物のぬいぐるみとかかもしれませんよ?」
「そんなの来たら、実はあたしのこと嫌いなのかなって思っちゃう」
「ほら、そうでしょう? プレゼント選ぶのって難しいんですよぉ。わざと変なもの贈って笑いを取るのもいいですけど、ちゃんとした物はあげたいし」
 ちくり、と心に針が刺さる。夢望にそう思われている友人が羨ましい。いや、これは、妬ましいというほうが適切だろう。
 あたしは嫉妬しているのだ。あたしは、夢望を独占したいのだ。
 だって、あたしは夢望のことが好きだから。愛しているから。
 自分が女性しか好きになれないのだと気づいたのは、中学生の頃だった。あいつとあいつが付き合っている、なんて噂話ばかりする立場だったあたしが、男子から告白された。好きです、付き合ってください。そう言われても、心が全く動かなかったあたしは、告白を断った。その時は、単にその男子のことを好きじゃないだけだと思っていた。
 けれど、仲が良かった女子が別の男子に告白されて付き合うようになった時、あたしは言いようのない絶望感と嫉妬心を抱いた。
 どうして。あたしがいるのに、どうして他の男子のところに行ってしまうの。
 そこで初めて、あたしはその女子に恋していたのだとわかった。言い換えれば、自分の恋人に浮気されたような気分だったのだ。相手の女子はあたしのことなんてただの友人の一人だと思っていたのだから、浮気も何もない。その子から彼氏の自慢や惚気を聞かされるうちに、あたしの心はずたずたに引き裂かれていった。結局、中学校を卒業するまで、あたしはその子のことをずっと好きだった。
 高校に入って、あたしはますます女性しか目に入らなくなった。でも、その想いを明るみに出すことはなかった。ずっとずっと想い続けて、そのまま心の中で燃え尽きるのを待つことしかできなかった。
 だって、女性が女性を好きになるなんて、受け入れられるはずがないから。世の中では性的マイノリティがどうこうとか言われているし、女性同士が付き合うような漫画や小説はありふれているけれど、いざ自分の身に起こったら、きっとその人はあたしを軽蔑する。そんな目で見ていたのかと嫌悪感を抱いてしまう。
 だからあたしは、誰かを好きになっても、じっと我慢することしかできなかった。好きな人に嫌われるのが怖かったのだ。
 今だってそうだ。あたしは夢望のことが好きだ。手を繋ぎたい、キスしたい、その先のことだってしたい。一緒にいるだけでもある程度は満たされるけれど、肉体的な繋がりが要らないわけではない。あたしの心は、一緒にいるだけでは完全に満たされないのだ。
 でも、この想いは秘めておかなければならない。今の関係を失いたくないのなら、今のままで我慢するしかないのだ。どうしたって、この先に進めるはずがないのだから。夢望が本当のあたしを受け入れてくれるはずがないのだから。
 雑貨屋に着く。夢望が真っ先に向かったのはアクセサリの棚だった。あたしは普段からアクセサリを着けないから、この棚自体が見慣れない物に映る。それなりに安くて、きらきらと輝いて見えるから、学生でも着けやすそうなアクセサリが並んでいた。
「飛鳥さん」
「なに?」
「あの、その」
 夢望は言い淀み、視線をあちこちに動かす。何か見つけたのだろうか。あたしは夢望の言葉を待つ。
「ペ、ペアリングって、どう思います?」
 棚をちらりと見ると、一対になった銀色の指輪がいくつか陳列されていた。
 ペアリング。それは、恋人の象徴ではないだろうか。若い男女が恋愛感情もなしにペアリングを身に着けることはないだろう。仲の良い同性の友人でも、ペアリングはちょっと重いのではないだろうか。
 夢望はペアリングをあげたいのだろうか。それくらい、その友人は仲が良いのだろうか。
 ふうん。嫉妬心がむくりと起き上がって、あたしを嫌な奴にする。
「あげたいの?」
「や、あげたいわけじゃないんですけど、飛鳥さんはどう思うのかなって」
 夢望の質問の意図が読めなかった。どう思うか、とは、どういうこと?
「うぅん、なんていうか、恋人感? あるよね?」
「恋人感、ですか」
 夢望はあたしの言葉を繰り返す。その表情が少し曇ったような気がした。
「うん。恋人じゃなかったら着けないんじゃないかな」
「なるほど。恋人感」
「どうしたの? ペアリング、気になった?」
「や、大学で着けてる子がいたので。どういう意味に捉えられるのかなって」
 その夢望の言葉は嘘だと思った。夢望は何かがあって、ペアリングを買おうかどうか迷っているのだ。あるいは、迷っていたのだ。だからあたしに意見を求めた。
 そうはさせない。ペアリングを渡すなんて許さない。そんな醜い感情を抱えたまま、あたしはアクセサリの棚を見つめる。この嫉妬心を忘れさせてくれるような何かを探していた。
「飛鳥さんはほとんどアクセサリ着けないですもんね」
「そうだね。失くしちゃいそうでさ」
「ネックレスとかなら失くさないですよ。ほら、こういうのとか可愛いかも」
 夢望は星のモチーフが付いたネックレスを手に取り、あたしの首元に近づける。自然と夢望との距離も縮まって、あたしは胸が高鳴ってしまった。
 そうだ。今はあたしが夢望を独占しているのだ。この時間を精一杯楽しむべきだ。
「夢望は何か欲しい物ないの?」
「欲しい物ばっかりですよ。わたし、物欲すごいんです」
 夢望はピアスも指輪もネックレスも着けている。どれも派手ではないが、目を向ければきらりと輝いて見えた。
「安いのなら買ってあげようか?」
「ええ? だめですよ飛鳥さん、そういうことは軽々しく言っちゃいけません」
 怒られてしまった。夢望のためだったら全然惜しくないのだけれど。
「あ、これ、可愛い。どうです、似合います?」
 夢望はピアスを耳に当てる。可愛い。ピアスが霞んで見える。
「夢望は何を着けても可愛いよ」
「またぁ。飛鳥さんはその冗談好きですよね」
 あたしは本心から言ったのに、笑い飛ばされてしまった。
 ああ、やっぱり、あたしは仲の良い先輩以上の存在にはなれないのだ。夢望をどきどきさせるような存在にはなれないのだ。
 あたしはその落胆が表に出ないように、微笑むだけだ。



 女性が好きだと言っても、誰でも好きになるわけではない。性的マイノリティというと、途端に嫌悪感を示す人がいるが、こちらにも選ぶ権利はある。異性なら誰でも好きになるわけではないのと同じだ。その相手が同性というだけ。
 だが、性的マイノリティだと知ると、それまでと同じように付き合ってくれる人は少ないだろう。だから、あたしは自分が性的マイノリティであることを誰にも伝えていない。おそらく大学の中で、いやあたしの友人の中で最も仲が良い夢望でさえも、あたしの秘密を知らない。黙っていれば、変なことをしなければ、意外と気づかれないものだ。
 あたしが通う大学は単科大学で、他の大学とは違って学部がひとつしかない。必然的に一学年の人数は少なくなり、全員が同じ講義を受けるのだから、学年全体が顔見知りのような状態になる。
 そんな中で性的マイノリティを暴露する勇気なんてあるはずがない。好奇の目を向けられ、誰も寄り付かなくなるのは目に見えている。これだけ狭い世界なのだから、噂は一瞬で広まってしまう。
 幸い、あたしが夢望に出会うまでは、つまりあたしの学年と先輩方には、好意を抱くことはなかった。好きだと思わなければ、ただの友人や先輩と何も変わらない。何も意識する必要はない。
 だが、あたしは夢望に出会ってしまった。ほとんど一目惚れだったと思う。ああ、やはり自分は女性が好きなのだなと痛感した。どんなに格好良い男性を見ても動かなかった心が、一瞬にして奪われてしまったのだから。
 夢望と知り合ってから、あたしはずっと夢望の写真を持ち歩いている。特別な関係でもないのに、スマートフォンの壁紙にするのはリスクが高いような気がしていた。特に、夢望に見られた時に、何と答えればよいかわからない。
 でも夢望をいつでも見られるようにしたい。悩んだ結果、いつも持ち歩く手帳に夢望の写真を挟むことにしたのだ。あたしが最も綺麗に撮れた、夢望の笑顔の写真を。
 大学の講義のため、校内を移動している間でも、夢望の笑顔を見ることができる。あたしは歩きながら手帳を開き、夢望の写真を見る。すると、自然と顔が緩んでしまう。
 そんなことをしていたせいで、あたしは誰かにぶつかってしまった。ひらりと写真が落ちる。
「ああ、すみません」
 大柄な男性だった。あたしがぶつかってもびくともしないくらい身体が大きくて、鍛えているかのように筋肉質だった。
 そして、彼はあたしと同じ学年の人だった。
「あ、新橋(にいはし)くん。ごめんね」
 あたしは謝りながら写真を拾おうとする。しかし新橋くんのほうが早く写真に手が届いた。新橋くんは写真を拾って、はっとしたような顔であたしを見た。
三枝((さえぐさ)さん、これって」
「ありがと、拾ってくれて」
 あたしは奪い取るように写真を受け取った。
 まずい。こんなところは誰も通らないだろうと思って完全に油断していた。あんなに緩んだ顔を見られていたはずだ。
 新橋くんとは話したことがない。同じ学年の、大柄な男性という印象しかない。誰とよく一緒にいるとか、どんな性格とか、何も知らない。それは新橋くんにとってもたぶん同じことで、新橋くんもあたしがどんな人間なのか知らないはずだ。
 大丈夫。隠し通せる。逃げ切れる。あたしは写真を手帳に挟んで、すぐ立ち去ろうとした。
 しかし、新橋くんはあたしに尋ねた。
「それ、彼女?」
「……え?」
 思いもしなかった言葉に、あたしの反応は遅れ、思考は硬直した。そしてそれが、何よりもあたしの性癖を示してしまっていた。
「そうなのか。彼女、なんだな?」
「ち、違う。見たでしょ、女の子だよ。友達の写真」
 あたしは焦って否定した。本当のあたしを知られるわけにはいかない。しかも、顔くらいしか知らない相手に。
 けれど、新橋くんは優しく微笑んだ。
「友達の写真なら、もっと無表情で見るものだろ。そんな顔じゃなかった」
「そうかな? そんな顔してた?」
「してたよ。もう、恋する乙女って感じの目」
 新橋くんはあたしを追い詰める。きっと、全てを悟られている。でも、あたしは抵抗した。
「可愛い子だからね。ああ可愛いって思って見てただけだよ」
「三枝さん、大丈夫」
 新橋くんは両手を広げて、自分が無害であることを主張した。それに何の意味があるのか、あたしにはわからなかった。
「大丈夫って、何が?」
 他人には話さないという意味だろうか。それとも、自分は何の偏見も持っていないということだろうか。どちらにせよ、新橋くんがあたしの性癖を知ってしまったのは間違いないようだった。せっかく、ここまで隠し通してきたのに。
 けれど、新橋くんはあたしの想像を軽く超えてきたのだ。
「俺も同じ人間だから」
「同じ? 夢望が好きだってこと?」
 あたしが夢望の名前を出すと、新橋くんは首を横に振った。
「確かに可愛い子だとは思う。でも、それだけだ。それ以上の感情はない」
「じゃあ、どういうこと?」
 新橋くんはそこで躊躇いを見せる。少し間を置いて、新橋くんは告げた。
「三枝さんが女性を好きなように、俺は男性が好きなんだ」
 あたしは息を呑んだ。新橋くんはあたしの反応を窺っているようだった。
 男性が好き? あたしと同じように、新橋くんは男性に性愛を抱くということ?
 あたしは言葉を失ってしまった。まさか、同じ大学の同じ学年で、性的マイノリティに遭遇するとは思わなかったのだ。
「いきなりこんなこと言ってごめんな。同じ側の人間だと思って、浮かれちゃった」
 新橋くんは取り繕うように言った。あたしが引いていると思ったのだろうか。
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「そうだよな。俺もびっくりしてる。それで、俺の推測は当たってるのか?」
 もう逃げられないだろう。あたしは観念した。同じ性的マイノリティだという新橋くんになら、知られても構わないだろう。同じ秘密を抱えているのだから。
「そうだよ。あたしは夢望が好き。女の子として、好き」
「やっぱり。そういう目してたもんな」
「そんなにわかりやすかった?」
「ああ、うん。外でその写真を見る時は注意したほうがいい」
 やんわりと警告されてしまった。あたしは何も言うことができなかった。
「あっ、俺も男が好きってことを証明したほうがいいよな? じゃないと、三枝さんだけが秘密を晒したみたいになっちゃうよな」
 新橋くんはどこか浮かれたような様子でスマートフォンを操作する。あたしが何か言うよりも先に、新橋くんは線の細い男性の画像を見せてきた。
「俺の好きな人だ。格好良いだろ?」
「ああ、まあ、整ってるね」
 あたしは男性を見てもときめくことがないから、容姿がよいかどうかくらいしかコメントを言えない。モデルか何かでもやっているかのような風貌だった。がっちりした新橋くんとは対極にいるような男性だった。うちの大学では見かけない顔だから、きっと別の大学の人なのだろう。
「だろ? 優しいし、気が利くし、しかも格好良い。悲しいことに女にモテるんだよなあ」
「そりゃそうでしょ。彼女いるんじゃないの?」
「いないって言ってた。まあ、だからって俺にチャンスが巡ってくることはないんだけどな」
 新橋くんが自虐的に呟いた言葉が、あたしの心にも刺さった。
 そう、相手がフリーだからといって、あたしたちにチャンスが巡ってくることはないのだ。そもそも同じ土俵に立つことすら許されていないのだ。異性として、性愛の対象として認識されることはないのだから。
 新橋くんはあたしと同じ悩みを持っているのだろう。好きな人とは絶対に結ばれない。表立って愛を叫ぶことさえできない。でも、好きなものは好きなのだ。恋してしまうのだ。
 そう思うと、急に新橋くんに親近感が湧いてきた。同じ悩みを持つ者同士、仲良くやっていけるような気がしたのだ。
「いやあ、言ってみるものだな。前々から三枝さんは怪しいと思ってたんだよ」
「えっ、そうなの?」
「同じ側の人間にはわかるよ。牧原(まきはら)さんだっけ、その子と話してる時の三枝さんは別人みたいだからさ」
「うわ、ほんとに? みんなに気づかれてないかな?」
「大丈夫だろ。みんな、そういう気持ちがあるなんて思いもしないんだから」
 当事者であるあたしでさえ、周りに性的マイノリティがいるはずがないと思っていたのだから、普通の人なら想像もしないことなのだろう。新橋くんはあたしと夢望が話しているのを見かけたから、あたしが性的マイノリティだと見抜けたのだ。逆に、新橋くんが先程の写真の男性と話しているのを見たら、あたしもピンと来るのかもしれない。
 新橋くんはぐっと拳を握って、あたしの目を見て言った。
「応援してるよ。三枝さんならいけるかもしれない」
「やめてよ。どうにもならないよ」
 あたしが諦めの言葉を口にすると、新橋くんは顔をしかめた。
「そんなことないかもしれない。俺の目だと、牧原さんだって三枝さんのこと好きかもしれないって見える」
「今のままで充分だよ。夢望と一緒にいられるだけでいい」
「……まあ、そうだよな。友達として一緒にいられるだけでも充分幸せなんだよな」
 新橋くんは寂しげに笑った。きっと、今の新橋くんも同じ状況なのだろう。近くにいて、手が届くのに、心を触れ合わせることはできない。自分の秘密を打ち明けたら、きっと相手は離れていってしまう。だから、本心を隠して付き合うしかない。
「ひっそり生きていくしかないんだよな。もっと堂々とオープンにできたらいいのに」
「ね。せめて、好きな人には伝えられるようになりたい」
「そうだよなあ。俺、あいつに知られて軽蔑されるのが怖いんだよ」
「わかる。今までの関係が完全に崩れちゃうもんね」
「今まで誰にも言えなかったんだ。こんな話するのは三枝さんが初めてだよ」
「あたしも。新橋くんが初めて」
 二人で顔を見合わせて笑う。
 仲間ができた気分だった。秘密を共有できる相手がいれば、苦しい時に吐き出すことができる。夢望が他の人と話していて嫉妬した時だって、新橋くんになら話すことができるのだ。
「なあ、これからも愚痴とか聞いてくれるか? 男が男の話するのって気持ち悪いって思う奴もいてさ、話しづらいんだよ」
「いいよ。あたしも聞いてもらう」
「どんとこいよ。俺たち、同じ人間なんだからさ」
 新橋くんは厚い胸をばんと叩いた。何でも受け止めてくれそうだった。
 講義の開始を告げる鐘が鳴って、教室を移動していたことを思い出す。新橋くんも忘れていたようで、やばい、と焦った声を出した。
「移動だったな。急ごう」
「うん」
 あたしは新橋くんと次の講義の教室まで移動する。今までただの顔見知りだった人が、なんだか頼もしく思えてくる。
 いやあ、思わぬ形で仲間を得られた。こんなこともあるものだね。



 その日以来、あたしは新橋くんとよく話すようになった。新橋くんは見た目と違って繊細で、よく気が回る人だった。新橋くんの恋人になる人はきっと幸せになるだろうと思う。報われない恋をしているというのが、何とも辛い話ではあるのだけれど。
 午後、講義の間が空いてしまう曜日だったから、あたしは時間潰しのために学食を訪れた。家が近ければいったん帰るというのも選択肢のひとつだけれど、あたしの家はそんなに近くない。往復だけで次の講義の時間になってしまうから、帰ることはできないのだ。家が近い人が羨ましい。
 この大学の学食は、学食だからといって食事だけしか販売していないわけではなく、喫茶店代わりに利用することもできる。だから、あたしみたいに講義の間が空いて暇になった学生が訪れることも多い。実際、あたしの学年の学生の顔もちらほら見受けられる。
 あたしはアイスコーヒーを注文して受け取り、席を探す。のんびりと課題をこなすつもりだった。まだ期日は差し迫っていないけれど、早めに片付けておくほうがよいだろう。
 と思ったら、新橋くんの姿を見つけた。なんだか嬉しそうな顔をしている。何かよいことがあったのだろうか。
 あたしは新橋くんの正面の席に向かい、新橋くんに声をかけた。
「新橋くん、何かいいことでもあった?」
「お、三枝さん。聞いてくれよ」
 あたしが席に座ると、新橋くんはにこにこしながら話を始めた。
「好きな人と一緒に遊びに行けることになったんだ」
「え、ほんと? よかったじゃん、デートじゃん」
「いや、二人じゃないからデートじゃないんだけど。でも嬉しいよなあ」
 新橋くんは心の底から喜んでいるようだった。こちらまで幸せな気持ちになる。
 新橋くんとその相手は、あたしと夢望の距離よりは遠いようだった。話を聞く限りでは、二人でどこかに出かけるような仲ではなく、数人のグループの中の一人、という感じだった。だから今回遊びに行くというのも、おそらくはその数人で行くのだろう。
「しかもさ、なんと旅行なんだよ。一泊二日」
「ええ? いつ?」
「冬休み。まだちょっと先だけど、みんなで北海道に行こうって話になってさ」
 好きな人と旅行か。それは、なんとも羨ましい話だ。
 あたしが夢望を誘ったら、夢望は来てくれるのだろうか。二人だけの旅行になるだろうから、さすがに気後れしてしまうだろうか。それとも、あたしの想いなんて知らないから、ただの先輩後輩の仲として来てくれるのだろうか。
「よかったじゃん。いいなあ」
 あたしが羨望を隠さずに祝福すると、新橋くんは笑顔を見せた。
「だろ? これは、三枝さんに報告しないといけないと思って」
「ホテルに泊まるの?」
「ああ、そう、そうなんだよ。四人で行くんだけどさ、四人部屋ってあんまりないんだな。二人部屋を二部屋、っていうパターンのほうがホテルの候補が多いんだよ」
 二人部屋。それは、千載一遇のチャンスなのでは?
 あたしが思ったことと同じことを新橋くんも考えているようだった。声を潜めて、あたしにしか聞こえないように話す。
「だから、うまいこといけば一緒の部屋になれるかもしれない」
「すごい。うまいこといきそうなの?」
「わからん。どうやって話を持っていけばいいかわかんなくてさ。あいつと一緒の部屋がいいって言い出すのもおかしな話だろ」
「今はどうやって決めることになってるの?」
「決まってない。たぶん、当日にじゃんけんかくじ引きで決めるんじゃないか?」
「うわあ。運だね」
 あたしは興奮で火照った顔をアイスコーヒーで冷やす。新橋くんも水を飲んだ。ふう、と一息ついて、新橋くんはまた小さな声で話す。
「で、三枝さん、何かいい方法ないか?」
「一緒の部屋になる方法?」
 あたしが応えると、新橋くんは頷いた。
「そう。誰にも怪しまれずに、あいつと一緒の部屋になる方法」
「ええ……そんなのあるかなあ」
 男女の旅行であれば、普通に考えたら男子部屋と女子部屋に分かれる。しかし同性の旅行であれば、どのような組み合わせでも受け入れられるはずだ。そこで、相手を指名するというのは何か理由が必要になる。しかも、怪しまれないような理由が。
「普段から四人なの? その中でさ、特に仲が良い組み合わせとかないの?」
「ないんだよ。全員同じ高校の同級生で、誰かと誰かが特別仲が良いとかはない」
「だからじゃんけんかくじ引き、か。どうしようね?」
「でもさあ、同じ部屋になったらそれはそれで困るんだよなあ」
 新橋くんの気持ちが急に翻って、あたしは困惑した。寝る時まで好きな人のそばに居られることを願っているのではないのだろうか。
「どうして?」
「寝られないだろ。好きな人がすぐそこにいるんだぞ」
「ああ、そういうこと」
 ピュアだ。あたしは思わず笑ってしまった。あたしは隣に夢望がいたって眠れるから、新橋くんの純真さが可愛く思えた。そうそう、こういうところがあるんだよね。
 あたしの反応を見て、新橋くんはちょっと顔を赤くした。
「な、なんだよ、おかしいかよ」
「いや、別に。確かに、緊張しちゃって眠れないかもね」
「そうだろ? あっちはただの友達だと思ってるだろうから、すぐに寝ちゃうんだろうなあ」
「ねえ、別の部屋になるほうがいいんじゃない? 新橋くん、絶対寝不足になるよ」
「そうかなあ。俺もそんな気がするんだけど、でも同じ部屋になりたい気持ちもあってさ」
 どちらになっても新橋くんの悩みは解決しないようだった。好きな人の近くにいたいという気持ちはあって、でも近づきすぎるとどきどきして眠れなくなってしまう。うーん、何とも甘酸っぱい恋だ。これが男女だったら、もっと表立って応援することができるのに。
「なあ、三枝さんはどっちがいいと思う? 同じ部屋か、違う部屋か」
 難しい問いだ。旅行を楽しむのなら違う部屋がよいだろうし、恋を選ぶのなら同じ部屋を狙うほうがよいだろう。あたしはうぅんと唸った。
「違う部屋、かな」
「あれ、そうなのか? なんで?」
「同じ部屋だと新橋くんが耐えられないような気がして。変に緊張しちゃったり、眠れなくなったりしたらおかしいでしょ。ていうか、恋心がバレるんじゃないかって思う」
「ああ……なるほど」
 新橋くんは妙に納得したようだった。はしゃいでいた気持ちが萎えていくのが見える。
 新橋くんの気持ちがバレるわけにはいかない。でも、同じ部屋になってしまったら、きっと新橋くんはいつも通りではいられない。察しのよい人がいたら、新橋くんの想いが悟られてしまうかもしれないのだ。そうなれば、きっと旅行どころの話ではなくなってしまう。これはあたしの偏見だけど、女性同士よりも男性同士のほうが強い嫌悪感を抱かれるような気がする。
 そんな目で見ていたのか、と思われないためにも、隠し通せないのなら少し距離を取っておくべきだ。新橋くんのように、気持ちを押し殺せないのなら。
「旅行中なら二人になるチャンスは他にもあるだろうしさ。いきなり同じ部屋で寝るって、ちょっとハードル高いんじゃないかな」
「そうか。そうだよなあ」
 新橋くんは椅子の背もたれにだらりと身体を預けた。あたしが現実を見せてしまったような気がして、申し訳ない気持ちになる。
「まあ、偶然同じ部屋になっちゃったらそれでいいんじゃない。そこはもう、天に任せる」
「そうだな。その日の運に任せるか」
 新橋くんは身体を起こして、水を飲んだ。それから深く息を吐く。
「ありがとう、三枝さん。ちょっと悶々としてたんだよ」
「力になれたかどうかはわかんないけど、解決したならよかった」
「いや、いいアドバイスだったよ。俺も浮かれすぎないようにしないとな」
 あたしはなんだか照れ臭くなって、アイスコーヒーを飲んでごまかす。冷たい液体の苦味がすうっと流れて、あたしの心を落ち着かせる。
 ふと学食の入口に目を向けると、夢望が友達数人と入ってくるところだった。大学は狭いけれど、夢望に会うのは珍しい。普段は待ち合わせでもしないと会えないから、こうして見かけると得した気分になる。
 夢望もあたしの存在に気づいたのか、ぱあっと顔が明るくなった。しかし、すぐ正面の新橋くんも目に入ったようで、すっと表情が元に戻った。夢望は新橋くんのことを知らないから、なんかごつい人がいると思ったのだろうか。
 あたしが片手を振ると、夢望も振り返してくれた。ああ、可愛い。癒される。
「絶対いけると思うんだけどなあ」
 新橋くんがぼそりと呟く。あたしは夢望から新橋くんへと視線を移した。
「なにが?」
「俺の目には、二人が付き合っているように見える」
「はは、ないない。夢望はああいう子なんだよ」
 自分で言っていて悲しくなってくるが、夢望はきっと親しくなった相手には同じ対応を取るだろう。あたしだから表情が明るくなるわけではないし、手を振ってくれるわけでもない。ただ、仲が良い相手がいたからやっただけだ。それ以上の感情はない。
 新橋くんは声のトーンを抑えて、あたしに訊いた。
「なあ、本当に気持ちを伝える気はないのか? 俺は絶対いけると思う」
「ないよ。ない。今のままで充分だよ」
 それはあたしが自分に言い聞かせるような言葉だった。今のままで充分。これ以上を望んで、今を失ってしまったら、それは耐えられない。今を失うくらいなら、このぬるま湯のような関係で満足すべきなのだ。
 あたしが否定したのに、新橋くんは得心していないような顔だった。新橋くんは勘が鋭いところはあるけれど、あたしと夢望の関係に関しては、見立てが間違っている。あたしたちはそんな関係になれないのだ。
 夢望たちはあたしたちから離れた席に座った。言葉を交わせなかったのは残念だけれど、お互い友人が近くにいるのだから仕方ない。あたしは夢望から視線を外した。あまりじっと見つめているのもおかしい。
「なあ、三枝さん。あの子、すげえこっち見てるぞ」
「ええ? 夢望が?」
 新橋くんに言われて夢望のほうを見たら、ばっちり視線が合った。夢望は慌てたように目を逸らしたが、こちらを見ていたのは明らかだった。
「何か話したいことでもあるのかな」
「さあ? でも、すげえこっち見てる」
「何だろう。後で訊いてみようかな」
「俺がいるから遠慮したのかもな。なんか、ごめんな」
「いやいや、あたしが来たんでしょ。まだ見てる?」
「チラ見に変わったけど、見てるな」
 新橋くんは楽しそうに笑った。
 あたしが友人といるのがそんなに珍しいのだろうか。あたしは首を傾げるしかない。
 まあ、そんなに気になるなら夢望から言ってくるだろう。わざわざあたしから話を向けるようなことでもない。たまたま新橋くんみたいないかつい男がいたから、気になっただけだ。
 あたしはアイスコーヒーを喉に流し込む。新橋くんがどうして笑ったのか、あたしにはわからなかった。



 その日の帰り、夢望が会いたいと言ってきた。別に珍しい話ではないから、本日二度目の学食で会うことにする。
 何か話でもあるのだろうか。あたしはまたアイスコーヒーを注文して受け取り、夢望の姿を探す。先に来ているはずだけれど。
 学食の中を見回してみると、夢望の姿を見つけた。しかし、隣に男性が座っている。友人だろうか。あたしは夢望の交友関係を完璧に把握しているわけではないけれど、あまり見ない顔だった。そんなに親しくない人なのかもしれない。講義でグループ発表などがあると、それまで話したこともない人と絡むことになるから、そういう関係かもしれない。
 どうしよう。話が終わるのを待つほうがよいのか、このまま突撃してしまってよいのか。
 あたしが悩んでいるうちに、夢望があたしに気づいた。夢望は席を立ってまで自分の存在をあたしにアピールする。そこまでしなくてもわかるのになあ。あたしは夢望の行動が可愛くて、つい頬を緩ませてしまう。
 夢望の隣にいた男性は夢望に何かを言って、去っていった。というか、たぶん夢望がどこかへ追いやった。話の途中ではなかったのだろうか。あたしが来たせいで話の腰を折ってしまったのなら申し訳ない。
 あたしは夢望の正面の席に行き、アイスコーヒーを置いて座った。夢望は笑顔で迎えてくれた。
「飛鳥さん、お疲れ様です」
「今の、よかったの? なんか話してたみたいだったけど」
 あたしが今の男性のことを訊くと、夢望は複雑な表情を見せた。しまった、あまり話したくないことだったのだろうか。
「大丈夫です。大した話じゃないので」
「そう。なら、いいんだけど」
「それよりも、です。飛鳥さん、わたしに隠し事ですか?」
「え?」
 いきなりそんなことを言われても、あたしには何のことだかさっぱりわからない。夢望に隠していることなんて、この恋心以外にはないと思うんだけど。
 あたしが理解できていないことを悟ったのか、夢望は言いにくそうに話した。
「午後の人、誰ですか?」
「午後の人?」
「学食で一緒に話してた人です。あの、大柄で、筋肉すごそうな人」
「ああ、新橋くんね。同じ学年の人だよ」
 あたしが答えると、夢望は疑うような視線を向けてくる。
「同じ学年の人? それだけですか?」
 あたしは答えに詰まった。それだけか、と言われると、秘密を共有する仲ではある。単なる友人の一人というには大きい存在だった。
 でも夢望にそんなことは言えない。あたしは努めて平静を装った。
「それだけだよ。何だと思った?」
「飛鳥さんに彼氏ができたのかと思いました」
 夢望は正直に告白した。あたしはたまらず笑ってしまった。
 新橋くんがあたしの彼氏。それは絶対にありえないことだ。あたしは笑いながら否定した。
「それは、ないよ。新橋くんは友達だよ」
「そうなんですか? 実は好きな人なんだ、とか言いませんか?」
「あたしはもっと線が細くて華奢な人がタイプだよ」
 夢望みたいな。なあんて言えたらいいのにな。
 あたしの気持ちが伝わるはずもなく、夢望は安心したように言う。
「よかったぁ。飛鳥さんの彼氏とか言われたらどうしようかと思いました」
「あたしに彼氏いないこと知ってるでしょ?」
「はい。だからびっくりしたんですよ。飛鳥さんが知らない男の人と一緒にいるから」
「新橋くんは最近仲良くなったからかな。夢望は知らないかもね」
 というか、たぶん夢望が知っている男友達は誰もいない。あたしに友達と呼べる男性はごくわずかしかいないのだ。顔見知り程度なら大学に何人かいるけれど、友達だと紹介できるような男性はいない。そんな中に入ってきた新橋くんは稀有な存在だった。
「夢望はそれを訊くためにあたしを呼んだの?」
「はい。飛鳥さんに彼氏ができたら困っちゃいます」
 どきりとした。あたしに彼氏ができたら困る。それは、どうして?
 新橋くんの言葉が頭の中でこだまする。絶対いけると思うんだよなあ。
 その見立ては間違っていると思っていたけれど、実はそんなこともないのかもしれない?
 夢望に訊こうと思った。なぜ、あたしに彼氏ができたら困るのか。
 でも、あたしの口から出ていったのは、別の言葉だった。
「できないよ。周りに気になる男もいないしね」
「そうですか? でも飛鳥さん綺麗だから、言い寄ってくる男がいるんじゃないですか?」
「それは夢望のことでしょ。夢望こそ、気になる男はいないの?」
「うぅん、いませんねぇ」
 その答えを聞いて安堵する自分がいた。まだ、あたしは夢望の隣にいられるのだ。
 夢望はきっと彼氏ができたら彼氏を優先するようになるだろう。そうなれば、あたしは今のように夢望と会えなくなる。夢望の中でのあたしは小さくなってしまう。あたしはそれが嫌だった。子どもみたいな我儘だけれど、あたしは夢望の一番でいたかった。
「言い寄ってくる男がいたら、飛鳥さんが守ってくれますし。さっきみたいに」
「さっき? ああ、さっきの男の人?」
 やはり邪魔をしてしまったようだ。けれど、夢望は笑っていた。
「あの人、しつこいんですよね。どこか遊びに行こうって誘われてて、ずっと断ってるんですけど、何度も言ってくるんです」
「へえ、そうなんだ」
「さっきは飛鳥さんが来てくれたからよかったですけど、あまりにも誘ってくるから、いっそ行ったほうがいいんじゃないかって思っちゃいます」
「いやあ、それはだめだよ」
 あたしは反射的に答えてしまった。どんな相手であろうと、夢望と二人で出かけるなんて許せなかった。それはあたしだけの特権にしたかった。
 少し食い気味に答えてしまったからか、夢望は驚いているようだった。あたしはその場を取り繕うように言葉を重ねる。
「そういう奴はさ、徹底的に断るしかないよ。一回でも一緒に行ったら彼氏面されるかもよ」
「そうなんですか? めんどくさいですねぇ」
「まあ、困ったら呼んでよ。あたしがどれだけ役に立つかはわからないけど」
「はい。ありがとうございます、飛鳥さん」
 夢望は大輪の花のような笑顔を見せた。あたしも微笑みを返す。
 ああ、本当に、あたしが夢望の彼氏になれたらいいのに。そうしたら、夢望だって恋人がいると言えるのに。どうしてあたしは男に生まれてこなかったのだろうか。
 男に生まれていたら、こんな気持ちを抱いて苦しむことなんてなかったのに。



 困ったら呼んで、とは言ったものの、本当に呼ばれるとは思わなかった。
『たすけて 二講』
 夢望からこんなメッセージが来てしまったら、あたしは何を捨ててでも行くしかない。
 講義が終わってからしばらく友達と喋っていたら、こんなメッセージが届いたのだ。あたしは急用ができたと言って友達の前から去り、急いで第二講義室に向かう。第二講義室では一年生の講義が行われていたはずだが、時間的にもう終わっているだろう。そこで、夢望に何かあったのだろうか。
 あたしは息を切らして第二講義室の扉を開けた。がらんとした講義室の中、教卓の前に、夢望とこの前見かけた男性がいた。
 彼はあたしが来たのを見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「飛鳥さん!」
 夢望はあたしに駆け寄ってくる。胸に飛び込んでくるかのような勢いだったから、あたしは驚いてしまう。
「えっ、あの、ごめん、状況がよくわからないんだけど」
「いいんです、行きましょう」
「え? え、いいの?」
 この男性は放置してよいのだろうか。当惑するあたしの手を取って、夢望は講義室の出口へと向かう。
「いいんです! とにかく、もう話しかけないで、迷惑なの!」
 夢望にしては強い口調だった。あたしは聞いたことがない剣幕で怒る夢望に手を引かれるまま、第二講義室から出ていく。残された男性はこちらを、あたしを睨んでいた。
 ずんずんと歩いていく夢望についていく。第二講義室から離れて、校舎の入口付近まで来ると、夢望は背後を気にした。追ってくるような人ではなかったようで、一安心する。
「すみません飛鳥さん、急にお呼びして」
 夢望はしゅんとした様子であたしに詫びる。
 大方予想はついた。あの男性に何度も誘われて、自分一人では断れなくなって、あたしを呼んだのだろう。夢望があんななよなよした男と一緒に出かけるのを防げてよかったと思う。
「また誘われたの? 懲りないねえ」
「や、違うんです」
「え? 違う?」
 夢望は躊躇いを見せて、あたしから視線を逸らして言った。
「告白、されたんです」
「……告白?」
「そうです。好きです、付き合ってください、ってやつです」
「いや、うん、そっか、告白されたんだ」
 夢望よりあたしのほうが動揺していた。落ち着けと思っても、冷静ではいられない。
 告白。そりゃあ、されるよなあ。
 今回はお断りしたのだろう。そうでなければあたしが呼ばれるはずがない。
 でも、次回は? その次は? 夢望ならいくらでも機会はある。告白を受けるうちに、よい人に出会ってしまうかもしれない。いつかは、彼氏になる男が出てくるかもしれない。
 その時、あたしは祝福するのだろうか。それとも落胆するのだろうか。
「断ったのに食い下がってきたんですよ。だから、飛鳥さんに乱入してもらったんです」
「まあ、間に合ってよかったよ」
 あたしはうまく笑えているだろうか。夢望が告白されたという、考えてみればよくある話だというのに、どうしてここまで衝撃を受けているのだろうか。
 心のどこかで、夢望があたしからいなくなることはないと思っていたのではないだろうか。余裕をかましていたのだ。あたしが夢望の中で一番だと思っていたのだ。
 けれど、この先もそうだとは限らない。あたしたちはただの友人関係に過ぎない。恋人が現れれば、一番でいられるはずがない。
 どうしてそんな単純なことを忘れていたのだろうか。あたしは自分の中に生まれた焦燥感に対抗する術を持っていなかった。夢望がいつか離れていってしまったら。そんな考えが頭の中を占めていた。
「飛鳥さん? どうしました?」
 夢望が心配そうにあたしを見つめている。あたしは無理にでも微笑みを浮かべた。
「いや、何でもないよ。相手の男性には悪いことしちゃったなと思って」
「いいんです、あんな人、どうにでもなれば」
 夢望の怒りは収まらないようだった。よほど怒っているらしい。
「ねえ、飛鳥さん」
 夢望が急に真剣な表情を見せたから、あたしは戸惑った。その先を、聞いてはいけないような気がした。
「好き、って何ですか?」
「え?」
 夢望の問いかけの意味がわからなかった。夢望はあたしをまっすぐに見ていた。
「好きって、どういう感情なんですか?」
「どう、って言われても」
 あたしは返答に窮した。一言で表すなら、何と言えばよいのだろう。
「わたし、誰かに恋したことがないんです。だから、好きだって言われても、どういう意味なのか全然わからなくて」
 夢望は静かに言った。あたしは黙ったまま、夢望の話を聞いていた。
「飛鳥さんは、誰かを好きになったことがあるんでしょう? どういう気持ちなんですか?」
「うーん、そうだね」
 どういう気持ちなのか。それは、痛いほどによく知っている。
「一緒にいると嬉しくて、離れていると寂しくて、その人の一番になりたい、って感じ」
「そういう、感じなんですか?」
 夢望には伝わっているのだろうか。あたしは、夢望のことをこう思っているのだ。
「あとは、自分だけのものにしたい、とか」
「……ほお」
「いつだって一緒にいたいし、笑っていてほしい、かな」
「……はあ」
 どうやらいまひとつピンと来ていないようだ。夢望は難しい顔をして、あたしの言葉を噛み砕いている。
「飛鳥さんは、今もそういうふうに想っている人がいますか?」
「うん。いるよ」
 目の前に。そんなことをいう勇気は、あたしにはないけれど。
 夢望が一瞬だけ悲しそうな表情を見せた気がした。あたしが何か言うよりも早く、その顔は微笑みに上書きされてしまった。
「いるんですね、好きな人。わたし、応援します」
 相手が自分だとも知らず、夢望はそう言った。あたしは口元を歪めることしかできなかった。
「ありがと。まあ、叶わない恋だよ」
「そうなんですか? 写真とかないんですか?」
 大量に持っている。もしあたしが男だったら、ここで告白するんだろうな。
 でも、あたしは女で、夢望も女。カップルが成立するとは思えない。あたしが自分の気持ちを伝えても、夢望には軽蔑されてしまうだろう。
 この気持ちは秘密にすべきなのだ。どれだけ吐き出したいと思っても。
「内緒」
「ええ、そんなぁ。飛鳥さん、見せてくださいよ」
「やだよ、恥ずかしいし」
「わたしにも見せられないんですか?」
「内緒」
「ふぅん、わかりました。わたしの知ってる人なんですね」
 あなた自身ですけどね。あたしはそう言いたい気持ちを抑えて、微笑みを返した。
「さあ、どうでしょう」
「やっぱり、この前の大きい人、新橋さんなんじゃ」
「新橋くんじゃないなあ。新橋くんにも好きな人いるしね」
「ええ? じゃあ、誰なんでしょう?」
 夢望がいくら考えたところで、正答に行き着くはずがない。この状況で自分だと思える人間はきっと存在しない。
 まして、相手が同性だったのなら、なおさらだ。



 あたしの中に生まれた焦燥感は消えることがなかった。
 このまま何もせずに過ごしていたら、いつか夢望には恋人ができて、あたしから離れていってしまう。そうしたら、またいつものように、恋の炎が燃え尽きるのをじっと待つしかない。
 でも、今回はいつもとは違った。あたしの想いが強すぎるのだ。
 夢望を失いたくなかった。ずっと一緒にいたかった。ずっと夢望の一番でいたかった。これまでのようにじっと耐え忍んだところで、この炎が燃え尽きることはないように思えた。
 困り果てたあたしは、新橋くんに話を聞いてもらうことにした。新橋くんなら、あたしの本当の気持ちを話すことができる。本当のあたしを曝け出すことができる。
 誰かに聞かれることを恐れて、あたしは駅前のカフェを指定した。ここなら同じ大学の人に、あたしを知っている人に聞かれる心配はない。新橋くんも了承してくれた。
 あたしがカフェに着くと、新橋くんは二人がけの席に先に座って待っていた。あたしは新橋くんの正面に座る。
「どうした、話があるなんて」
 新橋くんは心配そうな表情であたしを見た。メッセージだけでは伝えきれないと思って、詳細は伝えていなかったのだ。
「ごめん、急に。ちょっとあたしひとりじゃ解決できなさそうで」
「いや、いいよ。牧原さんとのことだろ?」
 あたしは頷く。どこから話したらいいものか悩んだが、かいつまんで話すことにした。
 夢望が告白されたこと。断ったけれど、他の人が現れた時にはどうなるかわからないこと。あたしは夢望の一番でいたいこと。どうにもすることができない気持ちがずっともやもやと心の中にあること。
 あたしが話している間、新橋くんは黙って耳を傾けてくれていた。
「それで、どうしたらいいかわからなくなっちゃったの」
「なるほど。確かに、今の関係だとふわっとしてるよな。彼氏ができたら、だけじゃなくて、大学を卒業したら同じことだろ?」
 そうだ。考えてみれば、別に誰かが現れなかったとしても、大学を卒業するタイミングでは離れてしまうのだ。その時、あたしと夢望は同じ関係を保てるのだろうか。
「俺は卒業しても運よく関係を続けていられてる。でも三枝さんはわからないよな。まだだいぶ先の話だけど、卒業するタイミングは絶対に来るんだから、その時に同じ悩みに直面することになる。遅かれ早かれ、この悩みは出てくるんだよ」
「新橋くんはどうしたの?」
「俺は気持ちを伝えなかった。受け入れてもらえる自信がなかったんだ。でも、そのまま忘れられないように、四人で遊べるように声を上げてる。ほとんど俺が企画してるんだよ」
「それでも、寂しくない?」
「寂しくないわけじゃないけど、元から三枝さんたちみたいに近かったわけでもないからな。俺は会えるだけでも満足だから、今のままで充分なんだよ」
 新橋くんは優しく微笑んだ。
 気持ちを伝えなければ、一番にはなれないかもしれないけれど、友人関係を続けることができる。今の新橋くんのように、時々会って話をすることはできるだろう。
 でも、夢望の一番ではいられない。あたしよりも近しい人がいて、あたしよりも好きな人がいて、その人は夢望の全てを手にすることができる。夢望に触れることができる。友人であるあたしにはできないことが、できる。
 じゃあ、気持ちを伝えたら? そんなのはわかっている。軽蔑の目を向けられるのだ。
 だからやっぱりあたしは、この気持ちを伝えずに秘めるしかないのだ。新橋くんのように、友人関係で満足するしかないのだ。
「で、三枝さんはどうしたいんだ?」
「夢望の一番でいたい。ずっと一緒にいたい」
「だろ? それだったら、気持ちを伝えてもいいんじゃないか」
 新橋くんの提案に、あたしはすぐさま首を横に振った。
「だめだよ。受け入れてくれるはずがない」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、おかしいでしょ? 女が女を好きになるなんて、物語の中だけの話だよ。あたしはそんな人に出会ったことない」
 あたしがそう言うと、新橋くんは顔をしかめた。
「そんなことないだろ。ここにいるじゃないか」
「ここに?」
「俺は、男が好きだ。男が男を好きになる見本がここにいるんだ。女が女を好きになったっておかしくない」
 新橋くんは力強く言った。あたしは何と答えたらよいのかわからなくて、口をつぐんだ。
 それは、そうかもしれない。新橋くんみたいに、普段はどう見ても普通の人なのに、実は性的マイノリティだったということがあった。だから、夢望があたしと同じ性癖だったとしてもおかしくない、ということだろうか。そんな都合の良い世界があるだろうか。
「そもそも夢望は誰かに恋をしたことがないから、男も女もないのか」
「え? なんだって?」
 あたしが呟いた言葉を新橋くんが拾い上げる。あたしは改めて説明することにした。
「夢望に言われたんだ。好きってどういう感情なんですかって。誰かに恋をしたことがないから、どういう感情なのかわからないんだってさ」
「へえ、そうなのか。恋したことがないって、珍しいな」
「あたしがこういう感じだよって話しても、難しい顔しちゃって。ほんとに恋したことないのかも」
「だったらさ、本当に男も女もないんじゃないか? 牧原さんは性別なんて関係なくて、人で選んでくれるかもしれない」
 新橋くんは興奮した様子で言うが、あたしとは温度差があった。あたしにはそんな希望的な憶測はできなかった。
 世の中、そんなにうまくいくはずがない。なんだかんだ言っても、夢望は女性に恋することはないのではないか。あたしが希望を持って挑んだところで、振られて終わりのような気がする。
「無理だよ。そんなうまくいかないよ」
「三枝さん、あのさ、三枝さん自身が、自分の想いを否定してるんだよ。自分を軽蔑しているんじゃないのか」
 新橋くんに言われてはっとした。
 あたしが、あたしの性癖を軽蔑している。女性が好きな女性のことを軽蔑している。
 それは、そうだ。そんな人がいるはずがないと言って、軽蔑しているのはあたし自身だ。絶対に受け入れられないと言っているその裏側には、軽蔑する心があるのではないか。
「俺も、この気持ちを明かしたら軽蔑されるかもしれないと思って、ずっと黙ってきた。三枝さんも同じだろ。でも、今回もそれでいいのか? それでいいかどうか、悩むくらいに好きなんじゃないのか?」
 新橋くんの言葉が胸に刺さる。でも、あたしはその先に進めない。軽蔑されるのが、怖い。夢望に嫌悪の目を向けられるのが、怖い。
「なあ、勇気を出そうよ。こんなに悩んだことないんだろ?」
「ない。今までは、絶対に受け入れられないからって自分を押し殺してきた。でも今は、夢望を失うのが怖くて、そんなの嫌だって思ってる。夢望の恋人になりたいって思ってる」
「だったらさ、踏み出してみよう。告白するんだよ」
「それで、だめだったら? 夢望に軽蔑されたら? そんなの、耐えられない」
「俺は自分のことを棚に上げるけど、告白したほうがいいと思う。牧原さんなら受け入れてくれると思う。軽蔑されることなんてない」
 新橋くんは強く言い切った。それがとても頼もしく思えた。あたしが新橋くんのほうを見ると、新橋くんは穏やかに笑っていた。
「大丈夫だよ。牧原さんは三枝さんのことが大好きだ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「見てたらわかるよ。俺は二人がこっそり付き合ってると思ってたんだから」
 新橋くんと出会ったときに、前々から怪しいと思っていた、と言われたことを思い出す。新橋くんの目には、あたしたちは恋人関係に映っていたのだ。
 それでもあたしは踏み出せない。だって、夢望にとっては仲の良い友人の一人かもしれない。それで勘違いして告白して、あまつさえ軽蔑されるようなことになれば、あたしはきっと生きていくことができないくらいの傷を負う。
「わかんないよ。夢望は距離感の近い子かもしれない」
「そんなこと言ってるうちに、牧原さんを取られちゃうかもしれない」
「それは、そうだけど」
 新橋くんは身を乗り出して、あたしの目をまっすぐに見つめた。
「三枝さん、告白したほうがいい。勇気を出そう」
「……でも」
 あたしの中で渦巻いている不安感が新橋くんにそのまま伝わればいいのに。あたしが言い淀んでいると、新橋くんは言葉を続けた。
「だって、告白したいくらい好きなんだろ。今までと違うんだろ?」
「違う。今までは黙ってたけど、夢望は、違う」
「俺たちが告白したいくらい好きって、とんでもなく好きなんだと思うんだよ。運命の出会いじゃないけどさ、そういう類のものなんじゃないのか?」
 運命の出会い。あたしはその言葉に引き寄せられた。
 夢望にはほとんど一目惚れだった。それからとんとんと仲良くなっていって、今こうして告白するかどうかまで悩んでいる。これは、あたしにとっては運命の出会いと呼ぶべきものではないだろうか。これを逃してもよいのだろうか。
「運命の出会いを逃してもいいのか? 自分に自信を持てよ。きっとうまくいく」
「夢望に嫌われないかな。言ったら、もう元の関係には戻れないでしょ?」
「関係を進展させるために告白するんだろ? 失敗した時のことばかり考えるんじゃなくて、成功した時のことを考えたらいいんだよ」
 成功した時。夢望と恋人になれた時。二人で一緒に過ごすことも、手を繋ぐことも、キスすることも、できる。あたしがずっと夢に思い描いていたことが、できる。それはどれほど美味しい果実なのだろう。あたしを吸い寄せるには充分すぎるくらい、大きくて甘いのだ。
「大丈夫だって。牧原さんなら大丈夫、受け入れてくれるよ」
 新橋くんはそう言い続ける。あたしと夢望の普段の様子を見て、言っているのだろう。新橋くんは勘が鋭いほうだから、なんだか本当に大丈夫なように思えてくる。
 夢望なら受け入れてくれるだろうか。あたしが女でも、恋人にしてくれるだろうか。
「まあ、告白できてない俺が何を言うんだって話なんだけど。告白したいくらい好きな相手なら、自分を曝け出してもいいんじゃないか?」
 自分を。女性が好きだという自分を隠さずに、伝える。
 あたしは深く息を吐いた。気持ちは、固まった。
「わかった。夢望に言う」
「おお! そうだよ、勇気を出そう」
 新橋くんの表情が明るくなった。あたしは少し恥ずかしくなってしまった。
 夢望には、本当のあたしを知ってもらいたい。あたしはこういう人間なんだと伝えた上で、それでも関係を続けてくれるのか訊きたい。それで夢望が嫌だと言うのなら、あたしたちの関係性はその程度だったということだ。あたしの片想いだったというだけ。
「応援する。いつ言うんだ?」
「ええと、決心が揺らがないうちに?」
「明日? 明後日?」
 随分と短い期間だな。新橋くんの瞳がきらきらしている。他人の恋話を聞いている女子のようだ。いや、他人の恋話であることには違いない。
「じゃあ、明日。夢望の都合が良ければ」
「メッセージ送っちゃえよ。そしたらもう逃げられなくなる」
「そうだね。送ってみる」
 あたしは勢いそのままにスマートフォンを出して、夢望にメッセージを送る。
 明日、講義が終わったら話がしたい。迎えに行く。メッセージで送るのはこれだけだ。これ以外に送れることはない。
 夢望からはすぐに返事が来た。短く、はぁい、とだけ返ってきた。
 ああ、送ってしまった。自分で自分の首を絞めているような感覚。これでもう、夢望と話をするところまで来てしまった。
「どうだった?」
「いいって。明日、夢望に話すよ」
「おお! 頑張れ、応援してる!」
 新橋くんはうきうきした様子でそう言った。他人の恋話がそんなに楽しいのだろうか。まあ、楽しいよね。あたしが新橋くんの立場だったら、同じような表情を浮かべるだろう。
「結果は教えてくれよな。まあ、わかってるけど」
「わかんないよ。振られたら慰めてね」
「ああ、わかった。いくらでも泣けばいいよ。そばにいる」
 なんとも頼りになる男だ。あたしは今から泣きそうになった。
 ああ、どうしよう。夢望との関係は明日までかもしれない。明日、あたしは生きる希望を失うかもしれない。
 でも、それ以上に、夢望と恋人になった後のことを考えてしまう。恋人になったら何をしようか。どこに行こうか。そんなことばかり、頭の中に浮かんでくる。
 新橋くんは不安と妄想に駆られているあたしを見て、やわらかく笑った。
「俺たちは自分らしく生きていくのが難しいけどさ、好きな人の前でくらい、自分らしくしていたいよな。三枝さんがそうなるのを願ってる」
「うん。ありがと、新橋くん」
「ああ、俺も緊張してきた。大丈夫だってわかってても緊張するよな」
「わかんないってば。ていうか新橋くんが緊張してどうするの」
 あたしは笑った。明日もこうやって笑えることを願うしかない。



 あたしがどれだけ思い悩んでいても、時間は勝手に進む。その日の講義はあれよあれよと進んでいき、いつもの倍くらいの早さで過ぎ去った。正直、ほとんど何も覚えていない。こんなことなら家にいればよかったのかもしれないが、それはそれで、ずっと同じことを考えてばかりだっただろう。まだ講義に出席しているほうがマシだ。
 約束通り、あたしは講義が終わってから夢望を迎えに行った。一年生の講義が終わるのが早かったのか、夢望は講義室にひとりで残っていた。あたしが来ると、夢望は表情を柔らかく崩した。
「飛鳥さん、お疲れ様です」
「ごめんね、待たせちゃって」
「いいえ。いつも飛鳥さんをお待たせしてますから、たまにはわたしが待つ番でも大丈夫です」
 夢望の表情が少し硬い気がした。あたしが何の話をするのか、見透かしているみたいに。
 案外、夢望はあたしの話を予想しているのかもしれない。それで、どうやって断ろうか考えていて、本当は聞きたくなくて、こんな顔をしているのかもしれない。
 あたしは夢望の隣の席に座る。夢望がいつもより遠くに感じられた。
 けれど、もう止められない。あたしは告白すると決めたのだ。新橋くんの応援を受けて、ここに来たのだ。あたしの気持ちを、夢望に伝えるのだ。
「飛鳥さん、お話って何ですか?」
 夢望が静かに尋ねてくる。ああ、たぶん、夢望はあたしの話を察している。いつものような軽い話ではないことを悟っている。
「うん。あのね、夢望」
 胸が苦しくなる。ここから逃げてしまいたくなる。いっそ別の話をしてごまかしてしまいたくなる。
 けど、逃げちゃだめだ。言うんだ。夢望の一番になるために。
 あたしは噛みしめるように息を吸い込んで、それから告げた。
「あたしは、夢望が好き」
 夢望のほうを見ることはできなかったから、夢望が今どんな表情をしているのかはわからない。けれど、きっと多少なりとも驚いているのだろうと思った。予想はしていても、実際にこんな話をされたら驚くに決まっている。
 軽蔑されたくない。けれど、この想いを口にしてしまったなら、もう言うしかない。夢望の一番でいたいなら、逃げることは許されない。
 あたしは絞り出すような声で続ける。
「あたしは、女の人しか好きになれないんだ」
「その……好き、っていうのは、前に教えてくれた感情ですか?」
 好きということが理解できなかった夢望に教えたことだ。あたしは首肯した。
「そうだよ。あれは、夢望のことを言ってた。だから、あたしの好きな人だよって写真を見せることができなかった」
「普通は、男の人に対して抱くべき感情ですよね?」
 夢望は確認するように問う。あたしはゆっくりと頷いた。
「うん。でも、あたしは夢望が好き。恋愛の対象として、好き」
「……飛鳥さん」
 あたしはそこで初めて夢望を見た。夢望はあたしを見ないで、遠く、黒板のほうを見つめていた。
「わたし、好きってどういうことなのか、訊いたじゃないですか」
「うん。いまひとつ、伝わってなかったかな」
「考えてみたんです。一緒にいると嬉しくて、離れていると寂しくて、その人の一番になりたくて、その人を独り占めしたい、って、どんな人なんだろうって」
 前にあたしが言った言葉だ。あたしは黙ったまま夢望の先を促した。
「そんな人、今までいませんでした。一緒にいると楽しい人はいましたけど、離れても寂しいと思わないし、その人を独り占めしたいなんて思ったことなかった」
「そう。じゃあ、夢望はまだ恋してないんだね」
 あたしは精一杯に平静を装いながら相槌を打った。
 それは、あたしがその人ではないと言われているのと同じだと思った。夢望にとっては、あたしは恋の対象ではなかったのだ。泣き出したくなるのをぐっと堪えて、夢望の次の言葉を待つ。
 ああ、やっぱり、踏み出さないほうが幸せだったのだ。この恋は秘めておくべきだったのだ。
「違うんです、飛鳥さん」
「違う?」
 夢望はあたしの言葉を否定した。あたしは夢望が言いたいことが理解できず、聞き返すことしかできなかった。
「今までは、いなかったんです。でも、今はいるんです」
 鋭い刃で心を抉られた気分だった。あたしは何も言うことができなかった。
 そうか。いるのか、好きな人。恋を知らなかった夢望に恋を教えた人。誰だよ、そんな羨ましい奴。あたしと代わってくれよ。
「独り占めしたい。ずっと一緒にいたい。離れたくない。そう思うことが恋だっていうなら、わたしは恋を知りました」
「そうなんだ。それは、いいことだね」
 そう言うのがやっとだった。あたしは涙が出てきそうになるのを必死に堪えていた。
「その人は優しくて、格好良くて、綺麗で、いつでもきらきらして見えるんです」
「好きな人はきらきらして見えるよね。うん、わかるよ」
「わたしのことを甘やかしてばかりで、でも、だめなことはちゃんと叱ってくれるんです。お姉ちゃんっていうよりは、お兄ちゃんだと思うんです」
「うん?」
 あたしは耳を疑った。声が裏返ってしまった。
 お姉ちゃんというよりは、お兄ちゃん。それはつまり、相手は女性だということ?
 夢望はそこであたしと目を合わせた。その瞳は真剣で、あたしを捉えて離さなかった。
「まだ、わかってくれませんか、飛鳥さん」
「ええと、ごめん、相手は女性なのかな?」
「女性です。飛鳥さんと同じだったんです。わたしが恋をしたのは、女の人だった」
「そっか。それは、すごい偶然だね」
 まさか夢望があたしと同じになるとは思っていなかった。きらきらしたモデルのような、それこそ新橋くんの想い人のような男性を想像していたのだ。
 夢望が初めて恋した女性とは、いったいどのような人物なのだろうか。綺麗で、格好良いということは、すらりとした美しい女性をイメージさせる。
「せっかくの初恋の相手、見せてくれる?」
 あたしは思ったよりもダメージを受けていないようだった。夢望の好きな人の顔を拝んでやろうという気分になるくらいには、平常心を保つことができていた。
 しかし、夢望はにわかにあたしを睨んだ。
「飛鳥さん、まだ、わかりませんか」
「え? うん、あっ、あたしの知ってる人なんだ?」
「とぉってもよく知ってると思います。見せてあげますね」
 そう言って、夢望が取り出したのは小さな鏡だった。
「はい、飛鳥さん」
「はい?」
「わたしの恋の相手です。よぉーく見てください」
 あたしは夢望が持つ鏡を覗き込む。当然だが、あたしが映っている。
 まさか。いや、そんなはずはない。あたしは自分の中に浮かんだ妄想をかき消して、何もわからないふりをする。
「ええ? ただの鏡じゃん」
「わかってて言ってますよね? そうやって、わたしで遊んでるんですよね?」
 夢望は鏡をしまう。それから、あたしをじっと見つめた。
「わたしが好きなのは、飛鳥さんです」
「……ええ?」
 聞き間違いかと思った。まさか、そんな。
 驚いて固まってしまったあたしの手に触れて、夢望は晴れやかな笑みを浮かべた。
「わたしたち、両想いだったんですよ」
「そっか。そうだったんだ」
 間近に見る夢望の明るい笑顔はとても可愛かった。少し目尻に浮かんでいる涙は、きっと嬉し涙だろう。あたしだって泣きたい気分だ。
「飛鳥さん」
「なに?」
「好きです。大好きです」
「うん。あたしも、好きだよ」
 まさか、こんな過程を踏むことになるだなんて。
 あたしは夢望の肩を抱いたまま、告白の結果を噛みしめていた。
 ありがとう、新橋くん。新橋くんが背中を押してくれなかったら、こんなに幸せなことにならなかったと思う。あたしは夢望を呼び出すこともなかったし、きっと、夢望に性的マイノリティを告白することもできなかったはずだ。適当に濁して、自分の気持ちを秘めたまま、夢望と友人として付き合っていたことだろう。そしていつかは、夢望が離れてしまっていただろう。
「飛鳥さんからお話があるって言われて、実はちょっと期待してたんです。もしかして、飛鳥さんはわたしのことが好きなんじゃないかって」
 さすが、何度も告白されている人は違う。あたしは頷いた。
「そうだよ。あたしが女性しか好きになれないことと、夢望が好きなんだってことを伝えようと思った」
「その割には、すごく深刻そうな顔してましたよ」
 そんな顔をしていたのだろうか。確かに、そうだったかもしれない。
「ごめん。まさか、夢望の好きな人があたしだなんて思わなかったから」
「鈍いんですよ、飛鳥さんは」
「いや、だってさあ」
「あっ、恋人になったんだからペアリング買いましょう! 恋人だったら着けてもいいんですよね? わたし、飛鳥さんとペアリング着けたいんです」
 いつぞやの話を思い出す。恋人感がある、とあたしが言ったことを覚えているのだろう。もしかしたらあの時から、夢望はあたしのことを好きだったのかもしれない。夢望本人でさえも気づいていなかっただろうけれど。
「うん。買いに行こうか」
「はい! 飛鳥さん、ちゃんと着けてくださいね」
「あたしは、チェーンを買ってネックレスにするよ。指輪は落としそうだし」
「じゃあわたしもそうします。お揃いにしましょう」
 夢望は嬉しそうに笑った。つられてあたしにも笑顔が生まれる。
 幸せだ。これ以上ないくらいに、幸せだ。
 あたしは夢望と結ばれた幸福感に浸りながら、夢望との時間を過ごした。



 その夜、あたしは新橋くんに電話した。メッセージで伝えるだけでは足りないと思った。
「どうだった?」
 新橋くんの第一声はそれだった。気になって仕方がないという様子が伝わってくる。
「無事、恋人になりました」
「おおお! そうだよな、そうだと思ったんだよ!」
 電話口の向こうで新橋くんが喜んでいるのがわかる。自然とあたしの顔が綻ぶ。
「ありがと、新橋くん。新橋くんのおかげで恋人になれた」
「いや、俺は何もしてないよ。そうか、よかったじゃないか!」
「ほんとに、ありがと。踏み出してみるものだね」
「だろ? 俺も三枝さんを見習ってアタックしてみようかなあ」
「うん。アタックしてみたら何か変わるかもしれないよ」
 新橋くんの恋もうまくいくといいと思った。あたしと夢望よりは少し距離があるみたいだから、いきなりは難しいにしても、いつかは二人で会えるような関係になってほしい。その時は、あたしが新橋くんの背中を押す番だ。
「それだけ。ごめんね、電話しちゃって」
「いや、嬉しいよ。また惚気話聞かせてくれよ」
「うん。それじゃ」
 通話を切る。あたしは自分のベッドに身を投げ出して、天井を見つめる。
 夢望と恋人になったという実感は、まだない。これから徐々に恋人らしくなっていくのだろうか。恋が実った経験がないあたしにはわからない。
 勇気を出してよかった。こういう結果が待っていると知っていたら、もっと早く告白したのに。こんなに思い悩むこともなかったのに。
 周りに性的マイノリティを公表するつもりはないから、これからもこっそり夢望と付き合っていくことになるだろう。それでも、あたしの心はとても軽かった。だって、大好きな人の前で自分らしくいられるのだから。
 あたしは手帳から夢望の写真を取り出す。もう、こんなふうに隠れて眺める必要はないのだ。自分のスマートフォンを操作して、壁紙を夢望の写真に変える。誰かに何か訊かれたとしても、後輩の写真だと言ってしまえばよい。良い写真でしょう、と自慢げに。
 夢望からメッセージが届く。声が聞きたいです。そんな直球な要望に、あたしは一人で笑ってしまった。
 夢望に電話しよう。あたしだって声が聞きたい。
 あたしはいつもよりずっと軽やかな気分で、夢望に電話をかけた。