「もう、ビックリしちゃったよ」
 歩道橋の下で、見知らぬ男の子はホッとしたように胸をなでおろした。
 それはこっちのセリフなんだけど……。
「あんな危ないことしたらダメだからね。見ててヒヤッとしたからさ」
 あなたのほうがよっぽどじゃない!
 だって……だって、空飛んでたんだよ?
 そんなあたしの心の叫びにはまったく気づかないまま、男の子は近くにある自販機に小銭を入れた。
 ゴロン、と出てきたあたたかいミルクティーを二本手に取る。
「はい、あげる」
「あたしに?」
「あたたかい物飲んだら、少し気が楽になるでしょ」
 ふわっ、とした微笑みを見てると、ちょっぴり気持ちが軽くなる。
「ありがとう――」
 なんか、気い遣わせちゃって申し訳ないな。
 まったく知らないひとなのに。
「聞かせてくれる? きみの話」
「え?」
「なにか悩みごとがあるんでしょ?」
 悩みごとっていうか、なんというか。
「そこまで大げさな話でもないんだけど」
 そっけなく言うあたしに、男の子はニッと口元をゆるめて、
「それでもいいよ。少しでもきみの気分が晴れるんなら遠慮なくつき合うから。あ、自己紹介がまだだったね。オレ、真白(ましろ)。きみは?」
 と、たずねてきた。
琉花(るか)……」
「琉花ちゃんか。よろしく!」

 少し歩いたところにあるベンチに腰かけて、あたしは今日あったことを真白に話した。
 初対面だけど、ううん、初対面だからか、友だちに話すよりも打ち明けやすかった。
「ふだんならスルーできたのかもしれないけど、今日はなんだか一度に降りかかってきちゃって」
 あたしはミルクティーをぐっと飲みこんだ。
「結局さ、みんな自分には関係ないと思ってるんだよね。障害とか、病気抱えてるひとのこと。だから、一方的に『ガンバレ』とか、『キモい』とか、『泣けるよねー』とかってサラッと言えちゃうんだよ。自分たちとは別の世界にいるって考えてるんだ」
 まるでスマホやパソコンの画面でも見てるみたいに。
 すぐ目の前にいるのに、一枚のガラスで隔てられてるみたいに。
 どうせ別の世界にいる人間だから、聞こえやしないし、怒ってもきやしない。
 だからカンタンに好きなこと言えちゃうの。
 ほんとうは同じ世界にいるのに。
「確かに、パラアスリートみたいに障害に負けずに活躍してるひともいるし、余命わずかな女の子のラブストーリーが切なくて泣けるのも分かるんだけど、なんか、どこかさめちゃったの」
「さめる?」
 あたしはうなずいて、
「世の中って、きっとあたしみたいな障害者や、病気と闘ってるひとたちのこと、ただのキャラクターとしか見てないんだろうなって」
 とつぶやくと、真白は目をパチクリさせた。
「キャラクター? キティちゃんみたいな?」
 あははっ、おもしろいけどさぁ。
「そんなんじゃないって。なんていうか……ひとに笑われたり、泣かれたりするのが役目のキャラクター。ただ、そのためだけの」
 がんばっている姿に勇気をもらえるとか、見た目がキモいとか、余命わずかにもかかわらず懸命に生きている姿に涙が止まらない、とか、いいこと悪いことみーんな好きなだけ言うだけ言って。
 それで、最後にはきまってみんなこう思うの。
 あぁ、自分はあんなふうに生まれてこなくてよかった、って。
「そう考えてたら、なーんかなにもかもどうでもよくなってきて。もし、ここから思いきって飛び下りたら、誰かから『切ない』とか『ドラマチック』とか言われるのかなー、なんて考えが浮かんで」
「なんてこと思いつくんだよ……!」
 真白はミルクティーの缶をにぎりしめたまま、あたしの話をじっと聞いてた。
 しかも、涙ぐんでる?
「なにも本気で飛び下りようとしたわけじゃないよ。全然、全然そんなんじゃないから。ただ、あたしの気持ちなんて、まわりの誰にも分かってもらえないんだなーって、やさぐれモードに入ったというか」
 真白はスンッと鼻を鳴らして、
「確かに、今まできみが抱えてきた悲しみとか心のなかのモヤモヤは、まわりのひとにはすぐには伝わらないかもしれない。今、こうして聞いてるオレだって、ちゃんと理解できてるかどうか自信ない」
 と、少しぬるくなったミルクティーをグビグビッと飲んだあと、
「だけど、分かるときが来るかもしれない。百パーとはいかないけど、何十、ほんの何パーセントだけでも」
 と、つぶやいた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、人生は映画やドラマとちがって二時間では終わらないでしょ。どんなに感動的な出来事が起こっても、目を背けたくなるほどつらいことに巻きこまれても、幕は下りずにずっと続いていくんだよ」
 真白はあたしのほうをまっすぐ向いてそう言った。
「今日きみに心ない言葉投げかけたっていう女の子たちも、ずっと学生のままでいるわけじゃないだろ? その子たちが大人になって社会に出て、就職したり、家庭を持ったり、育った環境や世代の異なる多くのひとと出会っていくうちに、自分とは関係ない、別の世界の話だって思ってたことが、突然自分の生活とつながるかもしれない。そんなとき、単にからかうつもりで言ってた言葉が、実は身近なひとを深く傷つける行為だったって少しずつでも理解できるようになると思う。時間はかかるかもしれないけどね」
「……もしかして、あなたも誰かからいろいろ言われたことあるの?」
「え?」
「だって、さっき――」
 あたしが空を指さすと、
「あぁー、あれね。昔からああなるんだ、すっごく驚くと。変なクセだろ?」
 真白は照れくさそうに笑った。
「クセって……すごい力じゃない!」
 映画に出てくるスーパーヒーローみたいだよ。
 だけど、真白は首を横に振って、
「すごくもなんともないよ。身体が高く飛んじゃう。それだけだし」
 と、そっけなく答えた。
「でも、もし世間に知られたら大さわぎになるでしょ?」
 SNSとかで紹介されたら一躍インフルエンサーだよね。
「どうかなぁ。空中に浮かぶトリックなんてめずらしくないし、ネットなんかに取り上げられたところで、フェイク動画だって鼻で笑われるだけだよ。今、そういうのいくらでもあるじゃん。オレ的には特技っていうより、厄介なモノなんだよね。琉花ちゃんなら、この悩み分かってくれると思うんだけど」
 ザバッ! とバケツで冷たい水をぶっかけられたみたいにハッとした。
 そうだ……ダメじゃん、あたしってば。
 つい真白のことうらやましがっちゃった。
「ごめん。イヤだよね、どこかが他のひととちがうっていうだけで、まわりから色眼鏡で見られるのって。他のひとたちにとって、どんなに風変わりでも、不思議に見えても、自分にとっては、それがずっと『普通』なのに」
「そーそー。オレにとっては、小さなころからあたり前だったからさ。たまにくしゃみしたり、しゃっくりが出るのと同じような感じだったから。はじめは親も心配して何回か病院に連れて行かれたけど、結局原因不明でそのまんま。ばあちゃんには、いっつも浮き足立ってるから宙に浮かぶようになったんだって、事あるごとにからかわれるし」
 と、真白はちょっぴり困ったように眉をひそめた。
「ふふふ、おばあさん鋭いね」
「こんなヘンな力があるのって自分だけなのかな、って悩んだ時期もなかったわけじゃないよ。だけど、ある日同じような力を持つ仲間がやって来ても困るよね。いっしょにこの地球を救おうなんて言われてもオレ断るし」
 あんまりあっさりと真白がそう言うものだから、あたしは飲んでいたミルクティーをふき出しそうになった。
「なんでよ、そこは協力してあげなよ」
「だってオレ、地球を救うヒーローになるよりも、何気ない毎日送ってるほうがホッとするから。普通に学校に行って、友だちと遊んで、うまい物食うほうが幸せ。それに、こんな能力があったところで、肝心なときには何の役にも立たなかったし」
「え?」
 真白は少しうつむいて、小さなため息をついた。
「オレさ、中学のころからずっと大好きで応援してたバンドがいたんだけど、こないだそのボーカルが亡くなったんだ。飛び下り自殺だったんだって」
 冷えてきた夕暮れの空気が、ぎゅっとあたしたちを締めつけた。
「もうホント信じられなくて。亡くなる前日までSNSも更新されてたから、なんで!? って感じで。そのニュース観たとき、オレ文字どおり飛び上がって驚いて、天井に頭ぶつけちゃって」
 そう話す真白の顔は笑ってたけど、ミルクティーの缶を持つ手は震えていた。
「昔からずっとあこがれてて、オレにとっては神さまみたいな存在で、住んでる世界が全然ちがいすぎると思ってたんだけど、もうステージで歌う姿を生で観たり、そのひとの歌う新曲を聴くことができないって分かったとたん、神さまも同じ世界に住んでたんだなって、悲しいけど実感したんだよね」
 真白は、ぐっと顔を上げた。
 夜のとばりがおりてきて、すっかり藍色に変わった空に小さな星が灯っている。
「オレにもう少しちゃんとした力があれば、スーパーマンみたいにそのひとの元に飛んで行って、助けることができたのかもしれない。だけど、実際は地球どころか、人っ子ひとり救えないままで。厄介なモノしょったまま、このまま生きていくしかないのかなって思ってたんだけど、今日はじめて自分の力が役に立った気がしたよ。こうやって琉花ちゃんに会うことができたから」
「真白くん……」
 真白はニッと目を細めて。
「真白でいいよ。オレ、さっき歩道橋の上できみに声かけることができて、ほんとうによかったな、と思ってるんだ。きみにとってはウザいとか余計なお世話だったかもしれないけど、もし死んじゃったらウザいとすら思ってもらえないしね」
「ウザいなんて思ってないよ。あたしも今日真白と話せてよかった。真白にもいろいろあったんだね」
「あ、ゴメンね! きみの話聞くつもりが、いつの間にかオレの話ばっかりしてた」
「いいよいいよ。ミルクティーもおごってもらったし。ほんっと、意外とハードル高いんだよね、ただ普通に平穏な毎日を送るって。高望みしてるわけじゃないのに」
 劇的なドラマの主人公になりたいわけじゃない。悲劇的な運命をたどるのもイヤだし、まわりのひとに熱い感動を届けられるほどがんばれないの。
 だけど、これからも、いろんなひとになんやかんや言われるんだろうな……。
 深くうつむいているあたしに、
「ねぇ、琉花ちゃん。もしまた今日みたいにくじけそうになったときは、オレのこと思い出して空見上げてよ。オレ、どっかで浮かんでるかもしれないから」
 真白はそう明るく声をかけてきた。
「雲じゃないんだから……」
 急に笑わせないでよ。おなか苦しくなっちゃう。
「いや、ホントホント。オレ、地球を救うヒーローにはなれないけど、琉花ちゃんのヒーローにはなれると思うから。まあ、浮かんでるだけしかできないけど、オレの姿見たら、いろいろ抱えてるの自分ひとりじゃないんだ、って分かるでしょ」
 ズルいなぁ。
 さっきまで笑い転げてたのに、そんなふうに言われたら心にジーンときちゃうじゃん。
 あたしは、真白にさとられないよう涙をぬぐって、
「ありがとう。じゃあ、もし真白がつらいときには、今度はあたしがミルクティーおごるね」
 と、笑顔で答えた。
「あ、オレのときはできたらミルクティーじゃなくて、コンビニのから揚げよろしく」
「えぇ? ミルクティーより高くない?」
「でも、それがあればオレ一発で元気になるから。もしものときは頼むね」
「やだー」
 ふたりしてひとしきり笑い合ったあと、
「じゃあ、これからも元気でいてね、琉花ちゃん。
きみが望む普通の生活送れること願ってるから」
 と、真白が手を差し出した。
 あたしも自然と真白の手をとって、
「うん。あたしも真白に会えてよかった」
 と答えた。
「それじゃ、またね」
 そのとき真白と交わしたのは、握手とそんなあいさつだけ。
 おたがいの住所も、電話番号も、SNSの連絡先も交換しなかったけど、なぜか、そのとき、あたしたちはしっかりと結びついた気がしたんだ。
 同じ「仲間」として。