それからもゆうやと南央は連絡を取り合ったり、学校外のいろいろなところで会ったりした。休みの日に図書館で待ち合わせして商店街を散策したこともあれば、部活終わりにお腹が空いてラーメン屋に行ったこともあった。
「最近は生徒会選挙で忙しくて。演説会の準備したり、手引きを作ったり。そもそも立候補者が少なくてさ、推薦を募ってるんだけどそれすら出てこないの。まあ私も先生からの推薦だったけど、何やってるかわからない生徒会なんてふつう入りたくないよね」
ご飯を食べながらではスマホで会話ができないので、食事中は大抵、ゆうやが一方的に話して南央が相槌を打つのが定番となっている。もう何年も誰かに自分のことを話す経験をしてこなかったゆうやは、これまで胸に納めていた学校や母への愚痴も零せるようになっていた。
そうした日々を越えて、学校でも少し変化が訪れた。休み時間はいつも動画を見ながら過ごしていたのが、メッセージアプリを開いて南央とやりとりするようになったのだ。クラスメイトと同じように、休み時間を友達と話して過ごす。ただそれだけのことが無性に嬉しかった。
『そういえば4時間目に席替えしたよ!』
南央にメッセージを送るとすぐに既読がついた。
『どこ?』
『私は前の席って決まってるんだけど』
『なんで?』
『フォローしやすいからじゃない? 知らないけど』
前のクラスでもそうだった。耳の聞こえないゆうやを筆談でフォローするには前の席がいいと、誰が決めたかわからないルールが暗黙の了解として浸透している。後ろの席だと発言するときに大声を出さないといけないから別に前の席でもいいのだけど、その配慮には気味の悪いものを感じる。
まあ、もう慣れてしまったけど。
『教壇の前の席になった!』
『ハズレじゃん』
『ちなみに隣は逢坂くん』
『マジかよ。おれもか』
『学校に来たとき間違えないでね!』
『笑』
そんなメッセージを送り合っていると授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴った。名残惜しくも適当なところでやりとりを切り上げて、五時間目の準備をする。本鈴が鳴り終わるのと同時に先生が入ってきた。
挨拶はだいたい先生が教壇に立って「日直号令」の合図を出し、日直が「起立」と言って始まる。日直の声が聞こえないゆうやは、クラスメイトが椅子を引く音に合わせて立ち上がるのだが――。
「……りーつ」
立つタイミングを窺っていたゆうやに突如、間延びした号令の声が届いた。ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がるクラスメイト。ゆうやだけが取り残され、座ったまま。なかなか次の号令がかからず教室がざわめきだす。
「……に?」
「ど……したの?」
次の号令がかからないのは日直の平野が、ゆうやが立ち上がるのを待っているためであるが、当の本人はそうとも知らず、血走った目で教室を見回していた。
周りの目にはゆうやが異様に映っていることだろう。誰も声をかけられないでいる。ゆうやが立ってくれないと先に進まないのに、声をかけられない。腹の内を探るような不思議な時間が流れている中で、ふと、トントンと机を叩く音がした。
「青……さん。……ってください」
前を向くと、手のひらを上にして持ち上げる動作をとりながら先生が言った。ゆうやは半ば呆然とした状態で立ち上がり、それからはみんなと同じタイミングで礼をして着席したが、授業が始まってもシャーペンを持てなかった。
平野の声をゆうやは知らない。彼とは三年で初めて同じクラスになって、それ以前はなんとなく顔を知っている程度の間柄だった。どこかで耳にしたことがあるかもしれないが、少なくとも彼の声を意識して聞いた覚えはない。だから、号令をかけた声が本当に彼のものかは断定できない。
一方で、先生の声は知っている。去年も彼女の授業を受けており、声を聞いて、確かにこんな声だったと記憶が蘇った。聞こえている。ゆうやの脳内が勝手にアフレコしているわけではない。残念ながらはっきりとは聞き取れないけど、間違いなく、耳が人の声を拾っている。
久しぶりに聞いた人の声は、なんだか作りもののように聞こえた。
なんの前触れもなく耳が聞こえなくなったなら、突然聞こえるようになってもおかしくない。ゆうやがその答えにたどり着いたのは、すべての授業が終わった後だった。
このことを真っ先に話したい人がいる。
今日は水曜日。部活が休みなのですぐに会える。
学校が終わり、ゆうやは待ち合わせ場所の歩道橋のベンチに急いだ。しかし、よく使うベンチに南央の姿はなかった。他のベンチも探して一通り回ったけど南央はいない。メッセージもなく『どこにいる?』と送っても既読がつかない。駅ビルの中も探した。その時点で、歩道橋に着いてから二十分が経っていた。
(逢坂くん、どこにいるんだろう……)
妙な胸騒ぎがする。電話してみようか。決心がつかなくて試さなかったけど、この際、迷っている場合ではない。
(お願い、出て!)
祈る気持ちで発信音が切れるのを待った。発信音は止んだ。けど、それは望んでいた止み方ではなく、音声通話のキャンセルを伝えるもの。つまり、出なかった。どうして出ないのと、イライラのようなものが自分勝手にこみ上げる。
もう一度、電話をかけてみる。トントンと肩を叩かれたのは、発信ボタンを押してすぐのことだった。振り返るとそこには、なんともない様子で、よっ、と手を挙げる南央がいた。いつものラフな格好に顔を隠すマスク、無造作な金髪。手にはビニール袋を提げている。本当にいつも通りの南央がそこにいて、ゆうやは足の力が抜けるような感じがした。
駅ビル内の通路でへたり込むわけにはいかないのでなんとか足に力を入れて、通話をキャンセルする。
「なんで、電話に出ないの」
平静を装い尋ねると、南央はスマホを奪い、自分との専用メッセージ画面に文字を打ち始めた。
『スマホを充電したまま家に忘れてきた。それで100均でノートとペン買ってた』
打った文を見せて、ついで手に持つビニール袋も見せてくる。
どうやらその中にノートとペンが入っているらしい。
――ゆうやと会話するために。
なんとも言えない気持ちになった。胸が熱くなるような締めつけられるような、現存する言語では言い表せない感情。言葉にできないもどかしさからゆうやは俯いた。
けど、すぐに思い立って顔を上げる。
「逢坂くん。おはよう!」
時間的には、こんにちは。もしくは、早いこんばんは、の時間帯だけど、この際、どの挨拶でもいい。ただ聞きたかった。南央の声が聞きたい。
南央が戸惑いながらも微笑を浮かべ、スマホに返答を打とうとしたので、すかさず止めに入る。画面に手を置き文字を打たせないようにしてもう一度、「おはよう」と言った。
「……はよう」
南央が渋々、口頭で応える。その瞬間、周りの音が一切消えて、南央の声だけが鮮明にゆうやの耳に届いた。最初の一音は聞き取れなかったけど、よくわかっていないまま曖昧にする挨拶がはっきりと届いた。
南央の声は想像した通りだった。優しく柔らかさを持ちながらも、どこか猛々しい声。初めて聞いた声なのにまったく違和感がなくて、むしろ懐かしさに涙が出てくるような気さえしてくる。
「逢坂くんの声、いい声だね」
目尻を下げてゆうやが言うと、南央の目がおもむろに開かれていった。
「聞こえ……のか?」
ゆうやは深く頷いた。
◇
歩道橋のベンチに移動し、南央はマスクを、ゆうやはスマホをそれぞれしまった。
「これ」と言って、ゆうやが自分と南央の間に置かれたビニール袋を指さす。
「無駄にしちゃってごめんね」
「……いよ。聞こえる……になってよかったじゃ……」
「うん。でも、まだちゃんとは聞こえないの。電波が悪い状態で電話してるみたいに、声が途切れて聞こえる」
「……切れて?」
そっか、と南央の目に陰が落ちる。まだ聞こえない部分があるということは、まだストレスに侵されている状態にあるということ。完治とは呼べず、手放しに喜べる状況ではないために南央はその後の言葉を飲み込んだ。
が、少なくともゆうやには大きな前進。ゼロかイチかで捉えたらゼロなのだろうけど、ゼロとイチの間にある有理数も入れたら限りなくイチに近い。
「ありがとう」
自然と感謝が出るのも至当だった。
「逢坂くんのおかげだよ」
「俺……別に何も……ない」
(何もない? ……ああ、何も〝して〟ないか)
南央の言葉を脳内で変換して理解する。
「逢坂くんはふつうに接してくれる。だから、私もふつうにしていられる。半年間なんの変化も起こらなかったのに、逢坂くんと出会って聞こえるようになったんだから、逢坂くんのおかげでしかないじゃん」
ストレートな褒め言葉をもらった南央は苦笑した。
「それは言い……ぎ」
「言いすぎじゃないよ。あ、でも、逢坂くんは筆談しないといけないから大変だったよね」
ゆうやの視線が落ちて、二人の間のビニール袋まで落ちた。それを見ると、こんなものまで買わせてしまったと心苦しさが募る。自分は喋れるのに南央には喋らせない。南央に限った話ではなく母や先生、クラスメイトにもそう。ゆうやが人と話すのを諦めたのは、相手にだけ手間を取らせてしまう後ろめたい気遣いのせいでもあった。
憂うゆうやを見て、南央は察した。ビニール袋を掴む。中身を取り出すとまずノートの表紙をめくり、次にボールペンの芯を出して、記念すべき一ページ目に文字を書いた。
『大変じゃない』
ページの真ん中に、殴り書きのような文字がでかでかと浮かぶ。さらにページをめくって付け足した。
『リハビリで文字を打つのも書くのも練習したし(笑)』
「ええ? 物理的にってこと?」
吃驚するゆうやを見て、南央は子どものような無邪気な笑顔を見せる。あまりに屈託なく笑うのでゆうやもつられて頬が緩み、そして、以前に南央から言われた言葉を思い出した。
音声認識アプリを紹介したときのことだ。『こういうアプリがあるよ』と教えたのに対し、南央は『スマホにしゃべりかけるのはなんか恥ずいから文字を打つのでいい』と言った。『気づいたんだけど、文字にしようとすると一度考えをまとめられるからいいな』とも。
余計な気遣いをさせない。そんな南央だからゆうやは愚痴を零せるようになったし、必要のない気遣いもしなくなった。自分の尺度で相手を推し量ることこそいらない気遣い。あまり深く考えるのはよそう。南央と出会ったことで心に余裕を持てるようになっていた。
『……の後、十六時半から……前園雅氏の記者会見を生中継……伝えします。前園氏は聴覚……を持つ映画監督として知られ――』
決して大きくはない街頭モニターからにわかに流れてきたニュース。夕方の報道番組を放映しているようで、アナウンサーがフリップを使って前園の経歴を紹介し始めた。時刻のテロップは【4:20】と表示してある。
「どこかお店に入る?」
記者会見の模様を耳にしながらここで話すのもなあと思い、そう尋ねると、南央は「だな」と言って立ち上がった。二人は駅ビルに入る。
◇
翌日。鐘が鳴る前から道具一式を片づけていたゆうやは、授業終了後、なるべく存在を悟られないように早足で教室を離れた。
ただでさえ居心地が悪かったのが、さらに居辛い場所へと変化した学校に逃げるところはない。それでもかろうじて見つけたのは、あまり使われてなさそうな別棟のトイレ。一番奥の個室に飛び込んで、便器の蓋を下ろして座った。
はあ、と吐き出した息が鉛のように重い。頭痛がする。乱れてもいない呼吸を落ち着かせるように、便座蓋の上で体育座りをして時間が過ぎるのを待った。
五分くらいして顔を上げる。
(そろそろ戻らないと……)
動きたくないと言う体を無理やり動かして教室に戻った。まもなく授業が始まるというのにガヤガヤしてうるさい教室。やっぱり人の声は雑音でしかないと耳を塞ぎたくなる。授業が始まれば静まるからもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせて席に着こうとしたとき、黒板が前の授業のまま放置されていることに気がついた。
一時間目の授業で習った化学式がびっしりと書かれている。このまま次の授業が始まると、日直を立たせて消す作業を挟む。先生によっては自分で消す場合もあるが、次の授業の先生は絶対に生徒にやらせる。その待っている時間が非常に気まずくて、苦痛に感じるのでゆうやは苦手だった。
(仕方ない。やるか)
下手に優等生をやってきた自分の立場を恨みつつ、黒板消しを手に取って端から消し始めた。
一度クリーナーできれいにしようかというとき、そばにクラスメイトの沢田が立っているのに気がついた。
「あ、ごめん」
と、ゆうやは黒板側に体を寄せる。沢田は無言で自分と教卓の間を通り抜けた。沢田が通り抜けた方向に黒板消しクリーナーがあるのであとに続こうと思ったが、なぜか彼が急に動きを止めて振り返ってきたのでゆうやも立ち止まった。嫌な予感に胸がざわついたのはそんなときだ。
振り返った沢田の顔が険しい。落ち着かない様子で目が彷徨い、時折、的外れの方を向く。
ゆうやは何かを察した。沢田が時折目を向ける方へと視線をずらすと、教室の後ろで固まる男子の集団が映った。いたずらを仕掛けようとする企み顔で沢田に「イケイケ」と手で合図を送っている。沢田が「ごめん」と誰にも届ける気のない声で呟くのを、ゆうやは一音も聞き逃さなかった。
悪意が目に見えた。
そして、吐き気がする。
「青葉ってほんとは耳が聞こえるんだろ?」
ごめんの声と打って変わって、あえて教室中に聞こえるような大きな声で沢田が煽り始めた。
「だって、前園だって聞こえないって嘘ついてたし」
ゆうやにはそれらが途切れ途切れに聞こえた。さりとて何について話しているのかは一瞬で理解し、そして歯の根を鳴らす。
昨日、一つのニュースが世間を駆け巡った。
作品の盗作疑惑を持たれていた映画監督、前園雅が、弁明の場として記者会見を開いた。前園は聴覚障害を持つ著名人として名を馳せており、エンターテインメント性に社会風刺を織り交ぜた彼の作品は多くの人から支持を得ていた。そんな作品たちが実は盗作だったのではないかと週刊誌に取り上げられたのが先週のこと。
当初、前園はSNSで反論していたが、提供者不明の証拠が次々と出てきて意見を述べる場を設けた。社会が注目する中で開かれた記者会見。鋭い言葉の刃で追及する記者があぶり出したのは、彼の聴覚障害が実は嘘だったという新事実。会見での彼の立ち振る舞いを記者が見逃さなかった。言葉巧みに誘導し彼を逆ギレさせ、本性を白日の下にさらした。
それまで多大な評価を得ていた前園は猛バッシングを浴び、そして今朝方、自身のSNSで一部作品の盗用と聴覚障害の虚偽を認めたのだ。怒りの矛先は前園の作品に出演した俳優、さらには同じ聴覚に障害を持つ罪のない人たちにまで向けられた。
「嘘ついて耳が聞こえないとかやばくね」
「障がい者のふりしとけば優しくしてもらえると思ったんだろ、タチ悪いよな」
「オレら、いじめてたとか疑われたけど、そっちのが十分いじめじゃん」
後ろから悪意に満ちた言葉の刃物が飛んでくる。教室はいつの間にか静まり返り、空気の悪さを感じて顔を顰める者や彼らの意見に同調する者、関わりたくなくて知らんぷりする者、さまざまな反応を見せている。
口火を切った沢田は誰よりも顔を引きつらせ、今にも逃げたそうにしている。彼は二年まで大人しいグループにいた。それが三年になると運動部員を中心とした集団に入っていた。今後ろで野次を飛ばす男子グループだ。背伸びをしたのか目をつけられたのかわからないが、いいように利用されてしまったらしい。
行動に移したのは沢田だが裏で糸を引いているやつらがいて、悪いのはそいつらだ。かといって、最終的に自らの意思で動いた彼になんの罪もないわけではない。彼もまた、悪意の増長に加担してしまった罪人である。
生まれも年齢も職業も違う。同じ特徴が一つあるだけ。なのに、その一つの共通点ですべてを結びつけたがる人が多すぎる。この場合は、聴覚障害は嘘だったと嘘ついた人が一人いただけで、すべての聴覚障がい者が嘘つきだと思っている。狭い世界で物事を捉え、理解できないものは排除する。タチが悪いのはどっちだよ。
ゆうやは自分の心が急速に消えていくのを感じた。
「まだ聞こえてないふり?」
何も答えないゆうやを一人の男子がニヤつきながら煽る。その瞬間、ぷつん、とゆうやの中で何かが切れた。耳が聞こえるようになってよかったと、南央と喜んだのが遠い昔のよう。昨日は最高の一日だったのに、タイミングとしては最悪だった。聞こえないままだったら、悪意は感じ取っても悪口をスルーできたのに。
何か言えよ。クラスのみんながそう言っている気がして、ゆうやは手に持っていた黒板消しを思いっきり投げつけた。黒板消しは後ろの壁に当たり、近くにいた男子集団をチョークの粉塗れにする。突然の奇行に、これまで傍観を決めていた周りのクラスメイトが小さな悲鳴を上げた。反撃しないと高を括っていたのだろう、男子たちは呆気にとられている。
「何が言いたいのかわからない!」
ゆうやは叫び、教室を飛び出した。
本当は今日、学校に来たくなかった。前園の嘘が明るみに出て、似たような身体的特徴を持つ自分も同じ目で見られるのではないかと怖かったから。何も悪いことはしていないのに、周りにどう見られるかわからなくてビクビクしていた。
かといって、休むわけにもいかない。ずる休みをすれば母が勘ぐって学校に電話し、もっと大事になる。そうなったら、空気ですらいられなくなる。
居場所はゼロが最低ラインではない。
マイナスになって際限なく落ちていく。
だから、行く以外の選択肢がなかった。
(でも、やっぱり来るんじゃなかった)
「最近は生徒会選挙で忙しくて。演説会の準備したり、手引きを作ったり。そもそも立候補者が少なくてさ、推薦を募ってるんだけどそれすら出てこないの。まあ私も先生からの推薦だったけど、何やってるかわからない生徒会なんてふつう入りたくないよね」
ご飯を食べながらではスマホで会話ができないので、食事中は大抵、ゆうやが一方的に話して南央が相槌を打つのが定番となっている。もう何年も誰かに自分のことを話す経験をしてこなかったゆうやは、これまで胸に納めていた学校や母への愚痴も零せるようになっていた。
そうした日々を越えて、学校でも少し変化が訪れた。休み時間はいつも動画を見ながら過ごしていたのが、メッセージアプリを開いて南央とやりとりするようになったのだ。クラスメイトと同じように、休み時間を友達と話して過ごす。ただそれだけのことが無性に嬉しかった。
『そういえば4時間目に席替えしたよ!』
南央にメッセージを送るとすぐに既読がついた。
『どこ?』
『私は前の席って決まってるんだけど』
『なんで?』
『フォローしやすいからじゃない? 知らないけど』
前のクラスでもそうだった。耳の聞こえないゆうやを筆談でフォローするには前の席がいいと、誰が決めたかわからないルールが暗黙の了解として浸透している。後ろの席だと発言するときに大声を出さないといけないから別に前の席でもいいのだけど、その配慮には気味の悪いものを感じる。
まあ、もう慣れてしまったけど。
『教壇の前の席になった!』
『ハズレじゃん』
『ちなみに隣は逢坂くん』
『マジかよ。おれもか』
『学校に来たとき間違えないでね!』
『笑』
そんなメッセージを送り合っていると授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴った。名残惜しくも適当なところでやりとりを切り上げて、五時間目の準備をする。本鈴が鳴り終わるのと同時に先生が入ってきた。
挨拶はだいたい先生が教壇に立って「日直号令」の合図を出し、日直が「起立」と言って始まる。日直の声が聞こえないゆうやは、クラスメイトが椅子を引く音に合わせて立ち上がるのだが――。
「……りーつ」
立つタイミングを窺っていたゆうやに突如、間延びした号令の声が届いた。ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がるクラスメイト。ゆうやだけが取り残され、座ったまま。なかなか次の号令がかからず教室がざわめきだす。
「……に?」
「ど……したの?」
次の号令がかからないのは日直の平野が、ゆうやが立ち上がるのを待っているためであるが、当の本人はそうとも知らず、血走った目で教室を見回していた。
周りの目にはゆうやが異様に映っていることだろう。誰も声をかけられないでいる。ゆうやが立ってくれないと先に進まないのに、声をかけられない。腹の内を探るような不思議な時間が流れている中で、ふと、トントンと机を叩く音がした。
「青……さん。……ってください」
前を向くと、手のひらを上にして持ち上げる動作をとりながら先生が言った。ゆうやは半ば呆然とした状態で立ち上がり、それからはみんなと同じタイミングで礼をして着席したが、授業が始まってもシャーペンを持てなかった。
平野の声をゆうやは知らない。彼とは三年で初めて同じクラスになって、それ以前はなんとなく顔を知っている程度の間柄だった。どこかで耳にしたことがあるかもしれないが、少なくとも彼の声を意識して聞いた覚えはない。だから、号令をかけた声が本当に彼のものかは断定できない。
一方で、先生の声は知っている。去年も彼女の授業を受けており、声を聞いて、確かにこんな声だったと記憶が蘇った。聞こえている。ゆうやの脳内が勝手にアフレコしているわけではない。残念ながらはっきりとは聞き取れないけど、間違いなく、耳が人の声を拾っている。
久しぶりに聞いた人の声は、なんだか作りもののように聞こえた。
なんの前触れもなく耳が聞こえなくなったなら、突然聞こえるようになってもおかしくない。ゆうやがその答えにたどり着いたのは、すべての授業が終わった後だった。
このことを真っ先に話したい人がいる。
今日は水曜日。部活が休みなのですぐに会える。
学校が終わり、ゆうやは待ち合わせ場所の歩道橋のベンチに急いだ。しかし、よく使うベンチに南央の姿はなかった。他のベンチも探して一通り回ったけど南央はいない。メッセージもなく『どこにいる?』と送っても既読がつかない。駅ビルの中も探した。その時点で、歩道橋に着いてから二十分が経っていた。
(逢坂くん、どこにいるんだろう……)
妙な胸騒ぎがする。電話してみようか。決心がつかなくて試さなかったけど、この際、迷っている場合ではない。
(お願い、出て!)
祈る気持ちで発信音が切れるのを待った。発信音は止んだ。けど、それは望んでいた止み方ではなく、音声通話のキャンセルを伝えるもの。つまり、出なかった。どうして出ないのと、イライラのようなものが自分勝手にこみ上げる。
もう一度、電話をかけてみる。トントンと肩を叩かれたのは、発信ボタンを押してすぐのことだった。振り返るとそこには、なんともない様子で、よっ、と手を挙げる南央がいた。いつものラフな格好に顔を隠すマスク、無造作な金髪。手にはビニール袋を提げている。本当にいつも通りの南央がそこにいて、ゆうやは足の力が抜けるような感じがした。
駅ビル内の通路でへたり込むわけにはいかないのでなんとか足に力を入れて、通話をキャンセルする。
「なんで、電話に出ないの」
平静を装い尋ねると、南央はスマホを奪い、自分との専用メッセージ画面に文字を打ち始めた。
『スマホを充電したまま家に忘れてきた。それで100均でノートとペン買ってた』
打った文を見せて、ついで手に持つビニール袋も見せてくる。
どうやらその中にノートとペンが入っているらしい。
――ゆうやと会話するために。
なんとも言えない気持ちになった。胸が熱くなるような締めつけられるような、現存する言語では言い表せない感情。言葉にできないもどかしさからゆうやは俯いた。
けど、すぐに思い立って顔を上げる。
「逢坂くん。おはよう!」
時間的には、こんにちは。もしくは、早いこんばんは、の時間帯だけど、この際、どの挨拶でもいい。ただ聞きたかった。南央の声が聞きたい。
南央が戸惑いながらも微笑を浮かべ、スマホに返答を打とうとしたので、すかさず止めに入る。画面に手を置き文字を打たせないようにしてもう一度、「おはよう」と言った。
「……はよう」
南央が渋々、口頭で応える。その瞬間、周りの音が一切消えて、南央の声だけが鮮明にゆうやの耳に届いた。最初の一音は聞き取れなかったけど、よくわかっていないまま曖昧にする挨拶がはっきりと届いた。
南央の声は想像した通りだった。優しく柔らかさを持ちながらも、どこか猛々しい声。初めて聞いた声なのにまったく違和感がなくて、むしろ懐かしさに涙が出てくるような気さえしてくる。
「逢坂くんの声、いい声だね」
目尻を下げてゆうやが言うと、南央の目がおもむろに開かれていった。
「聞こえ……のか?」
ゆうやは深く頷いた。
◇
歩道橋のベンチに移動し、南央はマスクを、ゆうやはスマホをそれぞれしまった。
「これ」と言って、ゆうやが自分と南央の間に置かれたビニール袋を指さす。
「無駄にしちゃってごめんね」
「……いよ。聞こえる……になってよかったじゃ……」
「うん。でも、まだちゃんとは聞こえないの。電波が悪い状態で電話してるみたいに、声が途切れて聞こえる」
「……切れて?」
そっか、と南央の目に陰が落ちる。まだ聞こえない部分があるということは、まだストレスに侵されている状態にあるということ。完治とは呼べず、手放しに喜べる状況ではないために南央はその後の言葉を飲み込んだ。
が、少なくともゆうやには大きな前進。ゼロかイチかで捉えたらゼロなのだろうけど、ゼロとイチの間にある有理数も入れたら限りなくイチに近い。
「ありがとう」
自然と感謝が出るのも至当だった。
「逢坂くんのおかげだよ」
「俺……別に何も……ない」
(何もない? ……ああ、何も〝して〟ないか)
南央の言葉を脳内で変換して理解する。
「逢坂くんはふつうに接してくれる。だから、私もふつうにしていられる。半年間なんの変化も起こらなかったのに、逢坂くんと出会って聞こえるようになったんだから、逢坂くんのおかげでしかないじゃん」
ストレートな褒め言葉をもらった南央は苦笑した。
「それは言い……ぎ」
「言いすぎじゃないよ。あ、でも、逢坂くんは筆談しないといけないから大変だったよね」
ゆうやの視線が落ちて、二人の間のビニール袋まで落ちた。それを見ると、こんなものまで買わせてしまったと心苦しさが募る。自分は喋れるのに南央には喋らせない。南央に限った話ではなく母や先生、クラスメイトにもそう。ゆうやが人と話すのを諦めたのは、相手にだけ手間を取らせてしまう後ろめたい気遣いのせいでもあった。
憂うゆうやを見て、南央は察した。ビニール袋を掴む。中身を取り出すとまずノートの表紙をめくり、次にボールペンの芯を出して、記念すべき一ページ目に文字を書いた。
『大変じゃない』
ページの真ん中に、殴り書きのような文字がでかでかと浮かぶ。さらにページをめくって付け足した。
『リハビリで文字を打つのも書くのも練習したし(笑)』
「ええ? 物理的にってこと?」
吃驚するゆうやを見て、南央は子どものような無邪気な笑顔を見せる。あまりに屈託なく笑うのでゆうやもつられて頬が緩み、そして、以前に南央から言われた言葉を思い出した。
音声認識アプリを紹介したときのことだ。『こういうアプリがあるよ』と教えたのに対し、南央は『スマホにしゃべりかけるのはなんか恥ずいから文字を打つのでいい』と言った。『気づいたんだけど、文字にしようとすると一度考えをまとめられるからいいな』とも。
余計な気遣いをさせない。そんな南央だからゆうやは愚痴を零せるようになったし、必要のない気遣いもしなくなった。自分の尺度で相手を推し量ることこそいらない気遣い。あまり深く考えるのはよそう。南央と出会ったことで心に余裕を持てるようになっていた。
『……の後、十六時半から……前園雅氏の記者会見を生中継……伝えします。前園氏は聴覚……を持つ映画監督として知られ――』
決して大きくはない街頭モニターからにわかに流れてきたニュース。夕方の報道番組を放映しているようで、アナウンサーがフリップを使って前園の経歴を紹介し始めた。時刻のテロップは【4:20】と表示してある。
「どこかお店に入る?」
記者会見の模様を耳にしながらここで話すのもなあと思い、そう尋ねると、南央は「だな」と言って立ち上がった。二人は駅ビルに入る。
◇
翌日。鐘が鳴る前から道具一式を片づけていたゆうやは、授業終了後、なるべく存在を悟られないように早足で教室を離れた。
ただでさえ居心地が悪かったのが、さらに居辛い場所へと変化した学校に逃げるところはない。それでもかろうじて見つけたのは、あまり使われてなさそうな別棟のトイレ。一番奥の個室に飛び込んで、便器の蓋を下ろして座った。
はあ、と吐き出した息が鉛のように重い。頭痛がする。乱れてもいない呼吸を落ち着かせるように、便座蓋の上で体育座りをして時間が過ぎるのを待った。
五分くらいして顔を上げる。
(そろそろ戻らないと……)
動きたくないと言う体を無理やり動かして教室に戻った。まもなく授業が始まるというのにガヤガヤしてうるさい教室。やっぱり人の声は雑音でしかないと耳を塞ぎたくなる。授業が始まれば静まるからもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせて席に着こうとしたとき、黒板が前の授業のまま放置されていることに気がついた。
一時間目の授業で習った化学式がびっしりと書かれている。このまま次の授業が始まると、日直を立たせて消す作業を挟む。先生によっては自分で消す場合もあるが、次の授業の先生は絶対に生徒にやらせる。その待っている時間が非常に気まずくて、苦痛に感じるのでゆうやは苦手だった。
(仕方ない。やるか)
下手に優等生をやってきた自分の立場を恨みつつ、黒板消しを手に取って端から消し始めた。
一度クリーナーできれいにしようかというとき、そばにクラスメイトの沢田が立っているのに気がついた。
「あ、ごめん」
と、ゆうやは黒板側に体を寄せる。沢田は無言で自分と教卓の間を通り抜けた。沢田が通り抜けた方向に黒板消しクリーナーがあるのであとに続こうと思ったが、なぜか彼が急に動きを止めて振り返ってきたのでゆうやも立ち止まった。嫌な予感に胸がざわついたのはそんなときだ。
振り返った沢田の顔が険しい。落ち着かない様子で目が彷徨い、時折、的外れの方を向く。
ゆうやは何かを察した。沢田が時折目を向ける方へと視線をずらすと、教室の後ろで固まる男子の集団が映った。いたずらを仕掛けようとする企み顔で沢田に「イケイケ」と手で合図を送っている。沢田が「ごめん」と誰にも届ける気のない声で呟くのを、ゆうやは一音も聞き逃さなかった。
悪意が目に見えた。
そして、吐き気がする。
「青葉ってほんとは耳が聞こえるんだろ?」
ごめんの声と打って変わって、あえて教室中に聞こえるような大きな声で沢田が煽り始めた。
「だって、前園だって聞こえないって嘘ついてたし」
ゆうやにはそれらが途切れ途切れに聞こえた。さりとて何について話しているのかは一瞬で理解し、そして歯の根を鳴らす。
昨日、一つのニュースが世間を駆け巡った。
作品の盗作疑惑を持たれていた映画監督、前園雅が、弁明の場として記者会見を開いた。前園は聴覚障害を持つ著名人として名を馳せており、エンターテインメント性に社会風刺を織り交ぜた彼の作品は多くの人から支持を得ていた。そんな作品たちが実は盗作だったのではないかと週刊誌に取り上げられたのが先週のこと。
当初、前園はSNSで反論していたが、提供者不明の証拠が次々と出てきて意見を述べる場を設けた。社会が注目する中で開かれた記者会見。鋭い言葉の刃で追及する記者があぶり出したのは、彼の聴覚障害が実は嘘だったという新事実。会見での彼の立ち振る舞いを記者が見逃さなかった。言葉巧みに誘導し彼を逆ギレさせ、本性を白日の下にさらした。
それまで多大な評価を得ていた前園は猛バッシングを浴び、そして今朝方、自身のSNSで一部作品の盗用と聴覚障害の虚偽を認めたのだ。怒りの矛先は前園の作品に出演した俳優、さらには同じ聴覚に障害を持つ罪のない人たちにまで向けられた。
「嘘ついて耳が聞こえないとかやばくね」
「障がい者のふりしとけば優しくしてもらえると思ったんだろ、タチ悪いよな」
「オレら、いじめてたとか疑われたけど、そっちのが十分いじめじゃん」
後ろから悪意に満ちた言葉の刃物が飛んでくる。教室はいつの間にか静まり返り、空気の悪さを感じて顔を顰める者や彼らの意見に同調する者、関わりたくなくて知らんぷりする者、さまざまな反応を見せている。
口火を切った沢田は誰よりも顔を引きつらせ、今にも逃げたそうにしている。彼は二年まで大人しいグループにいた。それが三年になると運動部員を中心とした集団に入っていた。今後ろで野次を飛ばす男子グループだ。背伸びをしたのか目をつけられたのかわからないが、いいように利用されてしまったらしい。
行動に移したのは沢田だが裏で糸を引いているやつらがいて、悪いのはそいつらだ。かといって、最終的に自らの意思で動いた彼になんの罪もないわけではない。彼もまた、悪意の増長に加担してしまった罪人である。
生まれも年齢も職業も違う。同じ特徴が一つあるだけ。なのに、その一つの共通点ですべてを結びつけたがる人が多すぎる。この場合は、聴覚障害は嘘だったと嘘ついた人が一人いただけで、すべての聴覚障がい者が嘘つきだと思っている。狭い世界で物事を捉え、理解できないものは排除する。タチが悪いのはどっちだよ。
ゆうやは自分の心が急速に消えていくのを感じた。
「まだ聞こえてないふり?」
何も答えないゆうやを一人の男子がニヤつきながら煽る。その瞬間、ぷつん、とゆうやの中で何かが切れた。耳が聞こえるようになってよかったと、南央と喜んだのが遠い昔のよう。昨日は最高の一日だったのに、タイミングとしては最悪だった。聞こえないままだったら、悪意は感じ取っても悪口をスルーできたのに。
何か言えよ。クラスのみんながそう言っている気がして、ゆうやは手に持っていた黒板消しを思いっきり投げつけた。黒板消しは後ろの壁に当たり、近くにいた男子集団をチョークの粉塗れにする。突然の奇行に、これまで傍観を決めていた周りのクラスメイトが小さな悲鳴を上げた。反撃しないと高を括っていたのだろう、男子たちは呆気にとられている。
「何が言いたいのかわからない!」
ゆうやは叫び、教室を飛び出した。
本当は今日、学校に来たくなかった。前園の嘘が明るみに出て、似たような身体的特徴を持つ自分も同じ目で見られるのではないかと怖かったから。何も悪いことはしていないのに、周りにどう見られるかわからなくてビクビクしていた。
かといって、休むわけにもいかない。ずる休みをすれば母が勘ぐって学校に電話し、もっと大事になる。そうなったら、空気ですらいられなくなる。
居場所はゼロが最低ラインではない。
マイナスになって際限なく落ちていく。
だから、行く以外の選択肢がなかった。
(でも、やっぱり来るんじゃなかった)