先日降った花散らしの雨によって花見をする間もなく桜の見頃を終えた高校三年の春。登校二日目を迎えた今日という日を、青葉(あおば)ゆうやはしばらく忘れないだろう。

 窓際の前から二列目の席が彼女の初期配置であるが、席に着く現在、目の前には金色の稲穂が成っている。正しくは金色の髪の毛がそよ風に揺れているだけのだが、あまりに目がパキッとする金色具合だから秋の田園風景を郷愁してしまった。ここが教室だと忘れてしまうくらいに。

 新学期のメインイベントといえばクラス替えだが、母の強い要望により学年主任のクラスに配置されるのが事前に決まっていたゆうやはいつもと変わらない初日を過ごした。

 学年主任は一組を担当すると決まっているから一組に自分の名前があるかを確認して、誰とも一喜一憂することなく体育館に向かう。

 始業式では春休みの間になんらかの成績を残した生徒への表彰式が執り行われたり、不定期に行われる「私の体験発表」の時間が設けられたり、生徒代表として旧二年一組の学級委員長が挨拶したりしたけど、ゆうやが壇上に立つことはなかった。生徒会長であるにもかかわらず。

(あと二か月もすれば任期が終わる。この一年、私がみんなの前に立って生徒会長らしい姿を見せたのはどれくらいだろう。はじめの半分はそれなりにあったけど、後半はほとんどなかった。もう誰も、私が生徒会長だと知らないんじゃないかな)

 何を話しているのかわからない始業式の最中、靴と床が擦れる音や窓から吹き込む風の音を聞きながらゆうやはそんなことを考えた。

 そうしてなんのわくわく感もない初日から一日経った今日、昨日は空席だった前の席に座る男の子がいた。しかも、一風変わっている。髪色が金色なのだ。それも濁った金色ではなく白に近い金色。フランス人形のようだと思った。

 うちの高校は染髪を禁じる校則がないので染めている人はたくさんいるが、ここまで鮮やかな金髪にする人はいない。初めて見た。ゆうやは子どものようにその頭をじっと眺めた。

 しばらくして、急にその頭が振り向いた。そして何かを睨みつける。

 ゆうやははじめ、自分に向けられたかとドキッとしたが、彼の攻撃的な目はゆうやより後ろ――教室の中央を向いていた。誘われるように視線の先を追うと、クラスメイトがグループを作って机に座ったり椅子に足を乗せたりしている。

「うるせえな」

 金髪の男子が言うと、クラスメイトたちは焦ったように顔を逸らした。

 彼が何を言ったのか、その前にクラスメイトたちが何をしていたのか。ゆうやにはわからなかったけど、吸うのも嫌になるほどの空気がこの場に充満していることだけは感じ取った。

 耳が聞こえなくなる前から学校という場は悪い「気」に溢れていた。それは噂話だったり陰口だったり、時に面と向かった悪口だったりから生まれてくるもので、誰にも見えないのに多くの人が感じている。今はそうした声が入ってこないけど、声は聞こえなくても空気や表情でわかる。

 結局、耳を塞いでも感じ取ってしまうのだ、学校に巣くう悪意というやつは。

 金髪の男子が向き直るより早くゆうやはクラスメイトたちから視線を逸らし、窓の外の殺風景に目を配った。

 それからも金髪の男子は一人でいることを好んだ。彼の名前は逢坂(あいさか)南央(なお)。この一週間で手に入れた情報はそれくらいで、周りが彼を避けている理由も彼が一人でいる理由も見当がつかなかった。

 尋ねてみようかと一度思い立って話しかけようとしたが、授業が終わるとすぐにワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んで、外界とシャットアウトするかのように顔を伏せてしまうので声をかけられなかった。

(まあ声をかけても会話はできないんだけど)

 そして一週間が経った頃、逢坂南央は突然、学校に来なくなった。

 ◇

「はあ……」

 ゆうやはため息が声となって出た感覚があって口を押さえた。聞かれたかと焦り、周囲に視線を配る。放課後の教室は街中のように無秩序で誰も気に留めておらず、そっと肩の力を抜いた。帰り支度の途中だったので、バッグに教科書等を移動させる作業に戻る。

 ふと、前の席に目がいった。机の中がすっからかんの空いた席。そこの主である逢坂南央が姿を見せなくなって、はや三週間。彼は登校一週間で不登校になってしまった。

 前に人がいないから授業中は視界がクリアで助かっているが、前後の席の人と答案を交換して採点し合うときにいつも一人になってしまうので少し寂しくもあり、たまにその席を見ては彼が学校に来ない理由をゆうやは考えていた。

 いくつか理由は思いつくけど答えは出ない。こうかと思っても確認しようがないので、結局はいつも「いいな」と羨んで終わる。
(こんなにも居心地が悪い場所、私だって本当は来たくない)
 バッグのファスナーを閉めながら、ゆうやは意味もなく涙を流したい気分になった。

「クスクス」

 バッグの持ち手を取って立ち上がろうとしたとき、隣を忍ぶような笑い声が通りすぎた。クラスメイトが何やら楽しげに話している。ゆうやは彼女たちを目で追った。

 厄介なことに、ゆうやの耳は人の声は聞き取らないけど息づかいは聞き取ってしまう。だから、人の鼻で笑う音は聞こえてくるのだ。

 この場合は誰かの発言に対して思わずくすっと笑ってしまう愉快な笑いのようだけど、うまく聞き分けができないとあざ笑っているように聞こえてしまい、それが自分に向けられているのではないかと勘ぐってしまう。

 彼女たちはこちらに目もくれず教室を出ていった。自分に向けられた笑いではないと確認が取れると、ゆうやは今度こそ立ち上がり教室を離れた。


 帰り道。ゆうやの足は迷うことなく駅ビルの中へ向かう。

 毎週水曜日は部活が休みなので、まっすぐ家に帰れば何かとうるさい母親と長い時間を共にしてしまう。かといって一緒に時間を潰してくれる友達もいないので、いつもこうして駅ビルに入っている店に寄り道しているのだ。

 しかし、この日はちょっと違った。

 駅に隣接する二つのビルを繋ぐ歩道橋。そこではメジャーデビューを夢みる若者たちがよく路上ライブをしていて、ゆうやも通りすがりにたびたび聞き耳を立てるのだが、今日はその音楽がゆうやの足を止めるものだった。

 パフォーマンスしているのは三人組の男女グループで、センターの女性と右隣に立つ男性がユニゾンを聴かせ、女性の左隣に立つ男性がギターを弾いている。歌声が聴こえない代わりに、ギターの音が何にも邪魔されずに届く。それは笑顔を見せながら泣くような、心を震わす音だった。

 しかし、こんなにも優しい音を奏でているのに、足を止めてまで聴く人は少ない。周りを見ると一人、二人、三人……。

(あれ?)

 ゆうやの視線がある一点で止まる。足を止める少ない客の中に一人、見覚えのある顔があった。

「パチパチ」

 その人物に目を奪われている間に演奏が終わり、まばらな拍手が起こる。ゆうやも慌てて拍手を送った。

 気づくと〝彼〟の姿はなくなっていた。ボーカルの紹介で早速次の曲に移ろうとしているが、ゆうやは後ろ髪を引かれる想いでこの場を離れてあとを追った。

「ま、待って」

 駅ビルに入る前に彼を捕まえた。薄いトレーナーにチノパン姿の彼。髪色が稲穂のように金色に輝いている。マスクで顔の半分が隠れていても、その髪色で誰だか一瞬でわかった。逢坂南央。三週間ぶりに見る彼はあまり変わっていなかった。

「なに?」

 眉を顰めて南央が訊く。ゆうやはワンテンポ遅れて尋ねた。

「どうして学校に来ないの?」
「……は?」
「…………」
「あんたに関係ないだろ」

 南央はマスクを直して歩を進める。無視されたと思ったゆうやは彼のトレーナーの裾を掴んで引き止めた。

「教室で何かあったの?」
「何かって……」

 南央が振り返ってゆうやの手が裾から離れる。

「なんで俺が説明しなきゃいけないんだよ。クラスのやつに訊けばいいだろ」

 心底面倒くさそうに突き放す言葉はしかし、ゆうやには届かない。彼がマスクの下で口を開いている間、ゆうやが過ごすのは謎の見つめ合う時間。その時間が、ゆうやに「彼が何かを喋っている」と理解させた。
 途端にゆうやの顔に困惑が浮かぶ。

「え、ごめん。聞こえないんだけど」
「だから――」

 南央は苛立ちマスクを下ろすと、さっきより音量と口調を強くして同じ言葉を繰り返した。それでもゆうやの困惑は収まらない。

 無理もなかった。ゆうやの耳が聞こえないのは学校では周知の事実。そして、ゆうやと話すときにはスマートフォンを用いるのも周知の事実である。

 言葉を伝えるのに手話という手段もあるけど誰もが使えるものではないので、多くの人が当たり前に持っているスマホのメモ機能を使って文字で話すのが通例となっている。だから、なぜ南央が口頭で答えてくるのかわからなかった。

 なぜスマホで答えないのか。自分が聞こえない人間だと知っているはずなのに。

 少し思案して、ゆうやは自分の考えを改めた。今、スマホを持っていないのかもしれない。彼の格好はラフで、バッグも持っていない。もしかしたら散歩の途中なのかも。それなら持っていなくてもおかしくない。

 ゆうやはバッグから自分のスマホを取り出して、メモアプリを開いてから彼に渡した。

「は? なに。連絡しろって? 自分でやれよ」

 突き返されてしまった。スマホを持っていないわけではないらしい。ということは……。

「私、耳が聞こえないんだけど……知らない?」

 スマホを握りしめて、残った可能性を口にしてみた。
 すると、南央の三白眼がみるみる開かれていく。

「ごめん」

 どうやら当たったらしい。同じ学校に通っていながら自分を知らない人がいたのだと驚きつつも、どうしてか胸にかすかな喜びが押し入ってくるのを感じた。


 歩道橋の通り道に立っていた二人は、通行人のラッシュを避けるように中央分離帯の役目を果たしている花壇のベンチに腰かけた。

 まず先に南央がマスクをポケットにしまってスマホを取り出す。自分から話を始めようとメモアプリを開いて、しかし指が行き先を失う。何を言おうか迷っているようだ。

「さっき路上ライブ聴いてたよね」

 見かねたゆうやが話題を提供すると、ポコポコとフリック音を鳴らしながら文字を打ち込んだ。

『なんとなく』

 画面を見せられてゆうやは一笑した。

「どんな歌だった?」
『死にたいとか消えたいとかそんなうた』
「えっ、そんな歌だったの? メロディーはすごく優しい感じだったのに」

 実は刺激的な曲だったと知り、目を丸くする。そんな後ろ向きな歌をあの場で歌っていたかと思うと、いっそ可笑しくもあった。だから道行く人は足を止めなかったのか。
 ポコポコと、また文字が打たれた。今度はゆうやのほうから画面を覗く。

『メロディーはわかんの?』
「あ……」

 南央から指摘されて口を滑らしたことに気がついた。順を追って説明するつもりだったのに〝音は聞こえる〟ことを先に言ってしまった。ぐっと唇を噛むゆうやだったが、黙っていても誤解を与えるだけだと思い直し、小さく口を開く。

「音は、聞こえるの。メロディーとか生活の音とか。あと自分の喋る声もなんとなくわかる。人の喋る声だけが、聞こえない」

 南央の指がピクッと動いた。

「嘘じゃないよ」
「別に疑ってないよ」

 反射的に口頭で返答してしまい、即座に文字に起こす。

『疑ってない』

 打たれた文字に驚くゆうや。

「……信じてくれるの?」
『ほんとなんだろ』

 唇を噛んだときよりも熱い温度が頭に上ってくるのを感じた。

『どうした?』
「ううん、なんでもない」

 誤魔化すようにスマホの画面から顔を背け、行き交う人々を眺めると、

「半年前、急に人の声が届かなくなったの――」

 一言一句を大切にするように、ゆっくりと話を紡いだ。


 耳が聞こえなくなったことはすぐさま学校中に知れ渡った。担任がクラスメイトに伝え、そこから樹形図のごとくあっという間に。

 大方の反応は我関せず(えん)。遠い国で起こっている戦争をテレビやネットの中の出来事としか思っていないような無関心を貫いた。残りの反応は哀れみと気遣い。

〝あの子は耳が聞こえないから配慮しないと〟
〝何か困っていたら助ければいい〟
〝気を使わせないようにいつも通りでいよう〟

 ゆうやにはそんな心の声が聞こえた。もしかしたら、実際に口に出していた人もいたかもしれない。声が届かないのをいいことにゆうやのそばで彼女の噂話をする人がいたと、あとになって教えてくれた子がいたから。

 ふつうにしていてくれたらいいのに、配慮するのが当たり前。その考えが透けて見えてもどかしかった。

 ただ、そうした周囲のサポートもあり――他にも所属するバレー部では別メニューを用意してもらったり、授業ではなるべく文字に起こしてもらったり――以前と環境が変わっても生活そのものを大きく変える必要はなくて、しばらく様子を見ることになった。

 しかし、一向に治る気配がなく、はじめは耳の病気を疑っていた母もストレスの原因を考えるようになり、そしてあの日、ゆうやの生活が一変する出来事が起こった。

 あれは忘れもしない大雨の日、教室でのんきにご飯を食べていたゆうやのもとに隣のクラスの先生が駆け込んできた。先生に呼ばれて職員室に行くとその前には生徒の野次馬がいて、野次馬を分け入って中を覗くと地獄絵図のようなシーンが広がっていた。

 何やら怒っているらしく、すごい剣幕で先生たちに詰め寄るゆうやの母。そんな母に平謝りする学年主任。担任は二人の間に立ち、両手を広げて母をなだめている。

「うちの娘はいつも疲れた顔をして家に帰ってきます。生徒会長と部長を兼任し、みんなが仕事を押しつけるからだと愚痴を零していたこともあります。娘の耳が聞こえなくなったのは、学校の責任ではありませんか?」

 ゆうやの母はそう先生たちに詰め寄っていた。聞こえないゆうやは野次馬の誰かに状況を説明してもらおうとしたが、結局、誰にも説明をもとめられず、自力で話を聞けないことがこんなにも厄介で恐ろしいことなのだと痛感した。

 しかし、それ以上に恥ずかしさが(まさ)った。

 状況がわからなくてもただ一つ明らかだったのは、野次馬も周りで見守る先生たちもみんなが迷惑そうにしていたという事実。睨みつける人もいれば、娘のゆうやを訝るように見る人もいた。

 身内が人様に迷惑をかけているのが、とにかく恥ずかしくて仕方がなかったのだ。

 その後、人目につかないよう応接室に案内された母とともにゆうやも連れていかれ、そこで初めて母が学校に乗り込んできた訳を知った。

 人の声が聞こえなくなるくらいストレスを抱えた娘。その原因は、生徒会長をやらせバレー部では部長を任せ、すべての責任を押しつけ放置した学校のせいではないのか。それが母の主張だった。つまり、いじめがあったのではないか、と。母はその単語をみんなの前で口にしたらしい。

 生徒会長や部長の責務がストレスだったのは事実だが、誰でもこのくらいのストレスは抱えているだろう程度のものだったし、何よりサポートしてくれた事実もあるから責任を学校側に押しつけるのはお門違い。ゆうやは毅然とした態度で反論したけど母は主張を変えず、いじめと決めつけ、対応次第では大事にするとまで言った。

 実際にその事実はなかったのに、いじめの疑いを向けられた側はたまったものじゃない。野次馬が顔を顰めるのも無理なかった。

 母の職員室での騒動は光のように拡散され、次の日には皆が知る出来事となってしまった。

 そして、その日からモンスターペアレントの娘として生きることを余儀なくされたゆうやは、誰からも話しかけられなくなり、やがて嘘つき呼ばわりされるようになった。耳が聞こえないのは嘘ではないか、と。

 人の声が聞き取れないと証明するのは、案外、難しい。話しかけても反応しないからといって聞こえないとはならず、無視すれば聞こえないふりができてしまう。まして音は聞こえるのに人の声だけが聞こえないのは、論理的に考えておかしい――と、感じる人が多いのだ。中には、たかがストレスで半年も、と思っている人もいるらしい。

 理解できることは正しくて、理解が及ばないことは間違っている。それが水槽のような世界で培われた思考だ。

 自分が嘘つき呼ばわりされているとゆうやが知ったのは、三月上旬の面談時。担任と学年主任から耳の具合を尋ねられた流れで聞かされた。

〝本当に聞こえないのか? 今でも?〟

 探りを入れるように何度も訊かれた。さらには、その場にいない母親の顔色を窺うかのように言葉を選びながら、数人から不満が上がっているとも言われた。

 ゆうやは何も言い返せなかった。じゃあ証明してみろと反論されても、証明する方法が思い当たらなかったから。
 唯一残された音が、そのときばかりはいらないと思ってしまった。


「だから、逢坂くんが信じてくれて嬉しかった」

 ゆうやはそうして話を締めくくった。面と向かって「嬉しい」と口にしたのが照れくさくて、話し終わってもすぐには南央の反応を窺えなかった。

 南央とは反対方向に顔を背けるゆうやの肩を、南央が軽く叩く。スマホの画面にはこんな文字が――。

『理解した』

(なんでそんなかしこまった言い方なの?)
 ゆうやは可笑しさに突き動かされて笑みを零した。

「そんなに難しい話じゃなかったでしょ」

 半笑いで訊くと、南央は首を振った。

『じゃなくて、さっきあんたが言った言葉』
「さっき?」
『教室でなにかあった』

 そんなこと言ったっけ? と首を捻り、遡及する時間を挟んでから思い出す。文字で見ると台本のセリフのように感じた言葉は、確かに自分のものだ。南央を引き止めたときの。

『なにがあったのかあんたが知らないわけがわかった』
「それを理解したってこと?」

 南央が頷く。

『教室でずっと俺のうわさしてたの聞こえなかった?』

 見せられた文を三回くらい読み直してから「うん」と返事した。

『おれのこと知ってる?』
「もちろん。同じクラスの逢坂南央くん」
「そうじゃなくて」言いかけて、続く言葉はスマホに託した。

 短い文を打ち終わった後に南央の動きが止まったのを、ゆうやは見逃さなかった。覗こうと思えばどんな文を打ったのか画面を覗けるけど、彼が自らの意思で見せてくるのを待つ。

 南央はゆうやの方を見ずにスマホだけ寄せてきた。そこにはたった六文字、こんな言葉が刻まれていた。

『留年したこと』

 素っ気ない説明だった。その前に会話をしていたとしてもすぐに理解できる人がはたしてどれだけいるか。自分を知っているかと訊いて留年に繋がるのだから、自分が留年したことを知っているかと問いたいのだろうけど、主語か修飾語を加えてくれてもよかったのではないか。優しくない。

 ただ、会話するのにわざわざ文字を打たせている身としては文句をつけられないので、「そうなんだ」とひと言で応えた。

『もっと驚けよ』
「これでも驚いてるよ」

 ゆうやの言葉を聞いて、南央は苦笑を浮かべた。それからスマホに指を置いて、今度はさっきと打って変わって長い文章を綴り始めた。

 ポコポコとフリック音がとめどなく鳴り、指がせわしなく動く。ゆうやはその動きを眺めたり南央の真剣な表情を覗き見たりして、打ち終わるのを静かに待った。

 ふとしたタイミングでフリック音が止まった。南央がおもむろに顔を上げる。どうやら打ち終わったようでスマホを渡してくる。落とさないよう両手でしっかり受け取り、『もっと驚けよ』の下に長々と綴られた文章に目を通す。


 半年前、交通事故にあってしばらく学校に通えない時期があった。だからあんたが耳聞こえないの知らなかった。

 けっこう大きな事故だったらしい。リハビリして学校に戻ろうとしたときにはもう受験シーズン真っ只中で、出席日数も全然たんなくて進級できなかった。学校やめるかもっかいやりなおすか選択を迫られたんだけど、2年も通ったから今さらやめるのはもったいないと思って留年することにした。

 新しいクラスのやつには始業式の日に担任から説明したらしい。なんて言ったのか知らないけど。

 で、おれは2日目からの登校。教室ではみんなおれのうわさしてた。けんかで入院して留年した不良だとか年上だから斜に構えてるとか、てきとーなこと抜かしてた。おれがいないと思ってトイレで陰口言ってたやつもいたな。留年して恥ずかしくないのかって。

 残り1年通えばいいだけだろって思ってたけど、年下のクラスはすげー居心地悪かった。周りの目が気になって、だから学校にいくのやめた。


 最後まで目を通して、最初に戻る。
 二周してからスマホを返した。

 ゆうやの脳裏には登校二日目の教室での出来事が映っていた。クラスメイトを睨みつけるあのときの光景が。まさにあのとき彼らは南央の噂をしていて、それを黙らせるために南央は睨みつけたのだろう。話が聞こえなかった自分は何も知らず、のんきに彼の金髪を眺めていた。そして、悪意に気づきながらも知らんぷりした。

 ゆうやは胃がきゅっと縮むような感じがして、思わずその辺りを押さえた。

「逢坂くんは明日も学校に来ない?」
「行かない」

 あえて口頭で答える南央。彼がなんて言ったのかわからないけど、きっと明日も来ないだろう。ゆうやも、あえて聞き返すような野暮はしない。ベンチに手をついて、レースカーテンの雲がかかる空を見上げる。

「私も行きたくないな、学校」
「嫌なら行かなきゃいいじゃん」
「逢坂くんが書いてたこと、居心地が悪いって。私もわかるな。すごく息苦しい」
「…………」
「でも、家も苦しい。海に沈んでるかと思うくらい息できない。だったら学校に行って空気でいるほうがマシ」

 もし口から出た言葉を可視化できたなら、ゆうやのそれは空を上る前に消えているだろう。もし口から出た言葉に匂いがあったなら、ゆうやのそれは嗅ぐ前に空気に溶けてなくなっているだろう。そのくらい弱々しい言い方だった。

 溶けて消えていく自身の発言に寂しさを覚えていると、隣からポコポコと音がした。南央が何か文字を打っているのだろう。ゆうやは空から目を逸らさなかった。

 フリック音が止んで、腕をちょんちょんとつつかれる。

『おれみたいに留年したくなかったら行ったほうがいい』

 画面の下、ギリギリのところにその一文が付け加えられていた。南央らしい言葉だ。説得力がある。ゆうやは曖昧に頬を緩めて「うん」と答えた。

 けど、南央の言葉はそれだけではなかった。画面をスライドして、画面外にあった一文を出現させる。

『そのかわり、おれがいつでも話きく』

 三行下にはそんな一文が記されていた。
 いいの? 反射的に顔を上げたゆうやの顔は嬉しさを物語っている。わかりやすい彼女の表情(かお)を見て、南央が微笑みながら頷いた。

「明日は? 明日も暇?」

 前のめりに期待を寄せるゆうや。
 しかし、「あっ」と声を漏らした。

「私がダメだった。水曜日と日曜日以外は部活があるんだ」
『部活終わりでもいいよ。どうせヒマだし』

 スマホの画面から視線を上げると、南央はなんてことない顔をしていた。

 視線を落としてもう一度、機械に打ち込まれた文字を眺める。手書きと比べて冷たく感じると言われやすいそれが、ゆうやには手を繋いで踊っているように見えた。
 久しぶりの感覚だ。明日が来るのが楽しみだなんて、一体何か月ぶりだろう。もしかしたら、高校に入ってから一度も明日を嘱望したことはなかったかもしれない。

 周りに倣ってなんとなく過ごした一年半。
 居心地の悪さに閉じ込められていた半年。

 ずっと水の中にいるような感覚だった高校生活は、三年目にしてようやく水面を見た。

 そうして二人は連絡先を交換し、会う約束をして別れた。