青葉(あおば)ゆうやの耳は突然、人の声を通さなくなった。
 街中の雑踏も先生の授業も友達の談話も、人が発する声の何もかもが聞こえなくなって、彼女の世界は「音」に包まれるようになった。

 小鳥のさえずり、草木の戯れる音、ヘリコプターのプロペラ音、モーターの起動音、換気扇が回る音、スマホのフリック音、窓を開ける音、ヒールの足音。人の声がなくなっただけで、世界はいろいろな音に溢れているのだと知った。

 しかしそれは、嬉しいとはとても言えない事象だった。

 人の声が聞こえなくなったのは、文字通り、突然のこと。朝起きたらとかイヤホンをつけたらとか、何か特定のアクションを起こしたわけでもなく、数学の授業を受けていたら急に先生の声がしなくなった。

 はじめは集中していない生徒をあぶり出そうとあえて黙ったのかと思ったが、顔を上げれば先生の口は変わらず動いていて、黒板を叩くチョークの音も聞こえる。クラスメイトの誰も反応を示さなかったので、自分だけが声を聞き取れていないとしばらくして理解した。

 それが、今から半年前の出来事である。

 原因はわからなかった。耳鼻科と神経内科に行ったが異常は見当たらず、心療内科を受診したら「大きなストレスがかかって無意識に音を遮断しているのかもしれない」と言われた。

 その診断では納得できず、もっと大きな病院の耳鼻科で診てもらおうと言ったのは、ゆうやの母親。彼女の母は職業病なのか「トラブルが起きたとき、まずは原因と責任の所在を明らかにしなければならない」の信念を持っており、ストレスという曖昧な理由は彼女を納得させるものではなかった。

 先生に噛みつく母をゆうやが止めた。どうして人の声〝だけ〟聞こえなくなったのかはわからないけど、ストレスによるものという診断自体に異論はなかったから。

 でも、今にして思えば、自分の娘がストレスで精神を壊したなんて信じたくない母の言う通りに異論を唱えておけばよかったのかもしれない。

 そうすれば、少なくともあんなことは起こらなかっただろうから。