今日は愛人のところ? じゃあ夕飯いらないね

「オープンマリッジぃ?」

 妻、明里(あかり)から提案された聞きなれない言葉に、牧野忠(まきのただし)は怪訝な声を出して首を傾げた。

「なにそれ。なんか面倒なイベントごと? 俺やだよ」
「違うわよ。そういうんじゃなくて、夫婦の在り方に関する話」
「はぁ」

 どっちにしろ面倒そうな話だ、と忠は興味のなさそうな相槌を打った。

「簡単に言うとね。お互いに不貞行為を容認するって関係性のこと」
「はぁ!?」

 ぎょっとして、忠は大声を上げた。

「ふ、不貞行為って……つまり、えーと、あれだ、不倫を認めるってことか?」
「そうね、そういうこと」

 大人しい妻からは出てきそうにない発想に、忠は狼狽えた。
 どうして急にそんなことを。まさか、と息を呑む。

「お、お前、まさか、他に好きな男でもできたのか」
「違うわよ。私は別にいないけど」

 その言葉に、忠はどきりとした。『私は』。

「最近、私たちセックスレスでしょう」
「へ? あぁ、えー……まぁ、そうなる、かな」
「だからね。何か刺激が必要なんじゃないかと思ったの。あなたが他の女性を抱いて、それで新鮮な気持ちで私とも向き合ってくれるなら、それもいいんじゃないかと思って」
「へ、えー……」
「でもそれだと不公平だし、私だって、他の人に抱かれたら、もっと違った魅力が出るかもしれないでしょう。だから、お互いに認め合いましょう、って」

 正直なところ頭は混乱していた。まさか妻から不倫を推奨されるとは。しかしこれは、願ってもない申し出なのでは。

 というのも、忠は既に不倫をしている。会社の取引先の女性と、関係を持っている。しかし妻はなかなかに勘が鋭い。そのため、気づかれないように細心の注意を払って行動していた。

 万が一妻にバレてしまったら、当然のことながら自分の方が罪に問われる。しかし、今この提案を受け入れれば、妻から許可を得ている不倫なのだから、今後はさほど気にしなくても良いことになる。

「うん、わかった。お前なりに悩んで提案してくれたんだよな。それなら、俺は文句ないよ」

 さも理解のある夫のふりをして、神妙に頷いて見せる。それに、妻はほっとしたように微笑んだ。

「良かった。じゃぁこれ、契約書作ってみたの。サインしてくれる?」
「契約書? 本格的なんだな」
「だって、後から私はそんなの許してません、って言われたら困るでしょう?」
「それもそうか」

 忠はすんなり納得した。口約束だけで、後で翻されたら困るのは自分の方だ。
 忠は渡された契約書の内容にざっと目を通した。

 1.互いの不貞行為を許容すること。

 2.関係を持った相手の素性を互いに報告すること。

 3.不貞行為に必要な費用は、個人の趣味に使用可能な範囲で賄い、共用の生活費を使用しないこと。

「これ二つ目の必要か? 不倫相手のことなんて知りたい?」
「だって、どこの誰とも知れない相手じゃ、危険があるかもしれないでしょう。万が一性病を移されたり、妊娠ってなった時には二人で対処しないといけないし。あんまり人数が増えすぎると、お金が足りなくて三つ目にも抵触するかもしれないし? お財布見張っておかなくちゃ」
「うーん……まぁ……仕方ないか」

 忠は金にだらしないところがある。不倫も風俗も無制限、となってしまえば、使い込んでしまうかもしれない。そのくらいのストッパーは必要だろう。

 面倒ではあるが、忠にとって不利な条件は何もない。そう考え、忠は契約書にサインをした。
「みーきーっ!」

 繁華街の中心から少し外れた細道にて。
 ご機嫌な笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる忠に、派手な金髪をくるくると巻いた女性はぎょっとして、きょろきょろと周囲を見回した後、鬼の形相で忠を睨んだ。
 その表情に忠が驚いて足を止めると、しっしっと手を払う仕草をして、再び周囲を警戒してから、近くのホテルへ入っていった。

 忠はそれを見送って、ぽりぽりと頭をかいて腕時計を見た。
 五分、十分。しっかり時間が経ったのを確認して、忠も先ほどの女性と同じホテルに入る。

 慣れたように部屋へと向かい、スマホから連絡を入れると、扉が内側から開く。
 迎え入れた相手に笑顔を向けて、忠は部屋へと入った。



「で、何なのよ最初のアレ」

 一通り楽しんだ後。ベッドに転がったまま、忠の不倫相手――美紀(みき)は、半眼でそう問いかけた。

「ああ、そうだ。聞いてくれよ! 俺たち、もうこそこそ会う必要ないんだぜ」

 さも喜ばしいことのように告げる忠に、美紀は声を荒げた。

「ちょっと、まさか離婚とかしてないでしょうね!? やめてよ、アタシあんたとは完全に遊びなんだから」
「わーかってるよ。そうじゃなくてさ。嫁が、いくらでも不倫していーって」
「はぁ……?」

 胡乱な美紀に、忠はオープンマリッジのことを説明した。

「ふぅん……。ああ、今はそんなのあるんだ。へぇ」

 スマホで検索しながら、美紀は呟いた。

「でもそれ、大丈夫なの? 奥さん、本当に納得してるの?」
「向こうから言ってきたんだぜ。それに、ちゃんと契約書だって書いたんだから! 絶対大丈夫だって」
「絶対、ね」

 疑わし気な美紀に、忠は不機嫌そうに顔を歪めた。なんだ、てっきり喜んでくれると思ったのに。
 気の削がれた忠は、舌打ちして仰向けに転がった。

「まぁとにかくさー。今後は、時間ずらして待ち合わせしたりとか、家や会社から遠い場所で会ったりとか、連絡の履歴逐一消したりとか、そういうことぜーんぶ気にしなくていいわけ。だって嫁公認だからな!」

 能天気な忠の言葉に、美紀は溜息を吐いた。

「あのね、あんたはそれで良くても、アタシは良くないんだけど。あんたといるところを知り合いに見られたら、結局アタシの方は不倫してるって叩かれるのよ?」
「えぇー? 言えばいいじゃん、許可取ってるって」
「ばか、そんなのわざわざ説明できるわけないでしょ。そういうのはね、いつの間にか広まってるもんなの」
「あーそう」

 煩わしさから解放されると思ったのに、否定的な美紀に忠は不貞腐れた。
 結局、美紀とは今後もそれなりに気をつけて会うことになった。
 別にいいか。今後は美紀に拘らなくても、誰とでも遊べるのだから。
「お帰りなさい」
「ただいま」

 帰宅して、妻に上着と鞄を預け、妻の用意した風呂に入り、妻の作った料理を食べ、妻に注いでもらった酒を飲む。
 アルコールで気分が良くなり、忠の機嫌はいくらか浮上していた。
 やはり、この妻を手放すのは惜しい。世話をしてくれる人間がいなくなるのは困る。女性としての魅力はもう感じないが、離婚は考えられない。妻が不倫を認めてくれて本当に良かった。

「ああ、そうだ。あのさ、不倫のことなんだけど」
「オープンマリッジ、ね」
「呼び方なんかなんでもいいだろ」

 結局やっていることは変わらないのに。何をそんなに拘るのか。

「なに?」
「相手を報告するって話だったろ。これ」

 スマホの画面に写真を出して、説明する。

「彼女は時田美紀。会社の取引先の社員で、独身。これからちょいちょい会うことにしたから」
「ずいぶん早いのね。もう相手が見つかったの?」
「まぁな。こう見えて俺、モテるからさ」

 自慢げに告げて、忠は胸を張った。本当は元々不倫をしていたからだが、それは妻にはわからないことだ。もう少し時期を見ても良かったが、いざバレてもいいとなるとボロが出るかもしれない。早めに申告しておくに越したことはない。

「美紀さん、ね。うん、わかった」

 妻は穏やかに微笑んだ。怒っている様子は微塵もない。
 それはそれでなんだかつまらなさを感じ、忠は唇を尖らせた。
 まぁ、いい。これから、何人だって女は抱けるのだから。
 いざ始めてしまえば、罪悪感も抵抗感もない。美紀とだけ不倫をしていた時は、背徳感がスパイスにもなったものだが。許可されてしまうと、それはそれでつまらないものがある。
 とはいえ、気は楽だった。何を気にすることもなく、自由に遊ぶことができた。二人、三人、と遊ぶ相手を増やしていって、彼女たちを妻に報告しても、嫌な顔をされることはなかった。

「この子が、佐知。××大学の三年生」
「大学生? 大丈夫なの?」
「年齢的には成人してるし、向こうも承知の上だから大丈夫」
「ふぅん。彼女、五人目よね。そんなに同時進行して、大丈夫?」
「あー、えっと、最初の美紀と、二人目の可南子とはもう切れてる。から、佐知とー、雅とー、あー……誰だっけ……えー、そうだ。真琴、で三人? かな」
「そう。お金には気をつけてね」
「わーかってますぅ」

 唇を尖らせて、忠はぶうたれた。

 それぞれに使える金額には限りがある。ホテルのグレードを落としたり、食事を奢らせたりしているが、やはり一人減らすべきか。
 佐知は大学生だし、最初は余裕のある大人であるところを見せたい。ブランドバッグの一つも贈りたい。となると、真琴を切るか。あれにはそろそろ飽きてきた。
 三人くらいはキープしておきたかったが、金のことを考えれば二人くらいが今後は安定するかもしれない、と忠はぼんやり考えた。

 それからは、定期的に相手を入れ替えて、二人から三人程度をキープするようにした。新しい相手を増やした時は、古い相手は切る。最初は辛うじて覚えていたが、だんだん入れ替わりも複雑になり、忠本人が相手の名前を把握しきれなくなってきたこともあり、次第に妻に報告しなくなった。
 最初はきちんと報告していたし、今更相手が変わったところで大差ないだろう。金額はそれなりにセーブしている。
 だから何も問題はない。全ては順調だ。

 そう、思っていた。
「ただいまー」

 いつものように帰宅すると、家の明かりが消えていた。怪訝に思って、再度大きな声を出す。

「ただーいまー!」

 返答はない。仕方なしに靴を脱ぎ散らかして部屋に上がるも、部屋はしんと静かで冷たく、人の気配がなかった。

「はぁ……?」

 忠は呆然と声を漏らした。そして、次第に怒りの感情が湧き上がってきた。夫が帰宅したというのに、何故出迎えの一つもないのか。
 上着と鞄をソファに放り投げて風呂場へ向かうと、風呂も沸いていない。舌打ちして、スマホを手に取る。
 妻に電話をするが、出ない。メッセージアプリも既読にならない。
 いらいらしたままシャワーのみ済ませ、風呂を出る。

「あ」

 何の準備もせずに入ってしまったので、タオルがない。着替えもない。

「あーもう!!」

 怒鳴り散らすようにしながら、濡れたまま部屋に戻る。手あたり次第に引き出しを開けて、なんとか目当てのものを引っ張り出す。

 ぐぅ、と腹の虫が鳴いて、冷蔵庫を開ける。何もない。
 妻はできるだけ作り置きなどをしなかった。出来立てでないと、忠が文句を言うからだ。
 ぶつぶつと文句を言いながら非常用のカップ麺をすすり、忠はテレビを見ながら酒を飲み、そのままソファで寝落ちした。
 翌朝。忠はチャイムの音で目を覚ました。やっと妻が帰ってきたのかと、忠は勢いをつけて玄関のドアを開けた。

「おい! お前、今までどこ行って」
「牧野忠様ですね。わたくし、弁護士の霧崎と申します」
「は、あ……?」

 ずいっと目の前に出された名刺に、忠はうろたえた。

「本日はお休みだと伺っております。少々、お話よろしいですか」
「え、えぇ。構いませんよ」

 忠は内弁慶だ。外面は良い。弁護士という肩書に怯み、表面上は丁寧に接したが、内心は動揺していた。
 弁護士が、いったい何をしに自宅まで。

 霧崎を家に上げ、ダイニングのテーブルに着かせ、茶を出す。相手が軽く礼をしたのを確認して、忠も向かいに座った。

「それで、何の御用ですか」
「単刀直入に申し上げますと、奥様から、離婚調停を任されております」
「はぁ……?」

 寝耳に水、といった様子の忠に、霧崎はいくつかの写真を取り出した。

「これは、忠様で間違いないですね」

 それは、不倫相手たちとの写真の数々だった。相手はどれもばらばらで、少なくとも十人以上いる。

「え、えぇ。そうですが」
「ということは、この女性たちと不貞行為があったことは認めるのですね」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 不貞行為、と言われて、忠はピンときた。まさかとは思ったが、妻は不貞行為を理由に離婚しようとしているのか。
 オープンマリッジを言い出したのは、妻の方からだ。契約書もきちんと交わしている。原本を持っているのは妻の方だが、忠は念のためにコピーを個人的に保管していた。
 馬鹿な女だ。きっと、原本を隠せばなかったことになると思っているのかもしれない。そんな簡単な手に引っかかったりはしない。

「これ、見てください」

 忠は契約書のコピーを霧崎の前に出した。

「私と妻は、オープンマリッジといって、このような契約書を交わしています。これはコピーですが、ほら。二人のサインもちゃんとあるでしょう。私たちは、お互い合意の上で不倫を認めていたんです」

 忠の訴えに、霧崎は表情を変えずに、契約書の二つ目を指で示した。

「こちら、ご覧いただけますか」
「え?」
「関係を持った相手の素性を互いに報告すること――とありますね。あなたは、奥様に、きちんと相手の女性のことを伝えていましたか?」
「も、勿論です! 写真を見せて、名前も」
「お相手、全員?」
「――……それ、は」

 忠は言葉に詰まった。途中から面倒になって、全員を報告はしていない。

「この写真の女性たち。奥様は、どなたのこともご存じでないそうですよ」
「そ、それは!」

 忠は再度写真に目を落とした。もはやどれが誰だかも覚えていないが、確かに彼女たちは比較的新しい不倫相手たちで、報告はしていない可能性が高い。

「ほ、報告は、しました! 妻が覚えていないだけで」
「奥様は、報告された際に、お相手のことを全て写真で記録されています」
「そんなの、消してしまえば、言ったか言わないかなんてわからないじゃないですか」
「ではあなたは、報告した時のことを証明できますか? お相手の写真は全てとってありますか? お名前の記録は?」

 忠は黙った。途中から報告をさぼったから、全ての女性の写真はないし、もはや名前も覚えていない。

「ですが、そもそもオープンマリッジというのは、不貞行為を不問にする、という契約でしょう。それを認めた時点で、私の方に責任などないはずです」

 忠の態度に、霧崎は溜息を吐いた。

「あのですね。そもそもオープンマリッジとは、当人同士の約束事であって、法的拘束力はないんですよ。契約書も素人の手作りで、弁護士立ち合いの元作成されたものでもない。しかもあなたはその約束事すら破っている。これであなたに勝ち目があるとお思いですか」

 忠は言葉に詰まった。弁護士相手にこれ以上やり合うのは分が悪い。

「妻と、話をさせてください。二人で話し合います」
「残念ながら、奥様はあなたとはお会いになりたくないそうです。わたくしが一切を任されております」
「それは一方的すぎやしませんか」
「あなたのしたことを考えれば、当然だと思いますが」

 それで納得できるはずがない。妻が言い出したことなのに。自分が悪いはずはない。直接話せば、絶対に妻だって説得できる。
 あれほど自分を理解してくれる女はいない。あれほど手際よく面倒を見てくれる女はいない。こんな自由に不倫させてくれる寛大な女はいない。すんなり手放すには、些か惜しい。

「妻の気持ちを考えれば、当然です。ですが、どうしても、直接会って謝りたい。きっと、何か誤解があるんです。許してもらえるまで、私にできる限りのことをします。ですから、どうか、お願いできませんか」

 忠は真摯に頭を下げた。このくらいはお手のものだ。
 そんな忠をじっと見つめて、霧崎は口を開いた。

「一つ。奥様から、条件を預かっております」
「条件……?」
「簡単な質問です。それに答えられたら、あなたとお会いになると」
「本当ですか!」
「ただし。答えられなかった場合は、慰謝料を請求するそうです」

 慰謝料。その言葉に、忠は怯んだ。不倫にさんざん使い込んだので、忠の貯金はほとんどない。

「逃げ道はあります。もし、質問に挑戦せずにこのまま離婚を認めるのであれば、奥様とは会えませんが慰謝料の請求も無しです」

 忠は迷った。回答を誤れば、慰謝料。挑戦しなかったら、離婚。どちらにせよ、忠は何かを失う。
 何も失わないためには、質問に正解するしかない。霧崎は簡単な質問だと言った。弁護士が、ここで嘘は言わないだろう。

「わかりました。質問を、受けます」

 真っすぐ見据えた忠に、霧崎は質問を投げかけた。

「では、お尋ねします。奥様のお名前は?」

 忠は拍子抜けした。なんだ、そんなこと。本当に、えらく簡単な質問だった。
 そんな、まさか、結婚相手の名前がわからないはず。

 そんな、はずが。

「――……」

 忠の喉が引き攣る。
 待て。待ってくれ。わかる。絶対、わかるはずなんだ。だって何度も呼んでいた。

 ――本当に?

 最後に妻の名前を呼んだのはいつだったか。彼女のことを、名前で呼んでいただろうか。家の中だから。二人しかいないから。名前で呼ばなくても、呼びかければ相手のことだとわかった。
 自分が呼んだ女の名前は、不倫相手の名前ばかりだ。いくつもの名前が頭を巡るのに、どれが誰のものかわからない。
 スマホの登録名は『嫁』だ。そもそもカンニングは許されないだろう。ああ、さきほど契約書のコピーを渡すんじゃなかった。あれは既に伏せられている。あそこには、妻の名前が書かれていたのに。

 思い出せ。今さっき、目にしたはずだ。

「あ」

 張りついた喉を、無理やり震わせる。

「――明美(あけみ)

 霧崎は、黙ったまま目を伏せた。

 ――外れた。

 忠は一気に足元から崩れ落ちるような気分になった。エレベーターが高速で降りる時のような、奇妙な浮遊感が襲う。

「残念です。慰謝料の請求については、後日改めてお話に伺います。ひとまず、本日はここまでで」

 霧崎が席を立つ。呆然とした忠を残して、霧崎は律儀にお辞儀をして、部屋を出ていった。

 残された忠は、強く拳を握りしめ、腹の底から吐き出した。

「くっそおおお!!」

 あの女。あの女!

「騙しやがって!!」

 オープンマリッジ、などと。耳障りの良い言葉を使って。
 結局、これが目当てだったのだ。忠がボロを出して、慰謝料をふんだくれる時が来るのを待っていたのだ。
 なんて強欲で計算高い女。

「いいさ。とことん争ってやる」

 ――俺は悪くない。俺は悪くない……!

 忠の目は、ぎらぎらと憎悪に燃えていた。
「終わったぞ」

 霧崎が車に乗り込むと、助手席の女がふわりと微笑んだ。

「お疲れさま。どうだった?」
「やはり、名前は言えなかった。自分の妻の名前すら呼べないなんて、どういう神経してるんだか」
「そういう人なのよ」

 苦々しげな霧崎に、明里は苦笑した。

「もっと早く離婚すれば良かったのに」
「あれでなかなか、周到な人だから。小心者とも言うけど。以前は証拠が掴めなくて」

 明里は、忠と美紀の不倫を把握していた。しかし、なかなか尻尾が掴めずにいた。
 そこで思いついたのが、オープンマリッジだ。忠の性格を考えて、明里の方から許可を出してしまえば、これ幸いと奔放に振る舞うだろうと。
 そこで仕込んだのが、二つ目の条件。
 これを絶対に忘れるだろうと、踏んでいた。忠が、明里との約束事を律儀に守り切るはずがないのだ。適当にしても許されると思っている。

 守ってくれるなら、それでも良かった。
 名前を、覚えていてくれたのならと。チャンスもあげた。
 全てを台無しにしたのは忠だ。もう挽回の余地はない。

「これが無事に済んだら、俺たちも晴れて恋人か」
「そうね。だからもうちょっとだけ、待っててね」

 霧崎と明里の間には、恋愛感情がある。しかし肉体関係はない。裁判で不利にならないためだ。だから明里は、オープンマリッジで一度も忠に相手の報告をしていない。そのことにも、気づかなかったのだろう。

 馬鹿な人。

「騙される方が、悪いのよ」
 (ただし)と二人で暮らしていたマンションを出て。明里(あかり)は暫くの間、ホテル暮らしをしていた。自分でも贅沢だとは思うが、離婚が成立していない状態で霧崎(きりさき)の家には転がり込めない。家が見つかるまでの辛抱だと言い聞かせた。
 忠は案の定ごねていた。これは時間がかかるかもしれない、と明里は溜息を吐いた。
 相手の不倫が原因だとしても、それを理由にすぐに離婚することはできない。忠が納得しないのであれば、裁判に持ち込むしかない。不貞の証拠は明らかであるから、争えばまず勝てる。しかしそれでは一年程度かかることを覚悟しなければならない。
 弁護士の霧崎がついているし、忠の性格を考えれば、協議離婚は難しいと思っていた。それでも、忠さえ納得してくれるなら、それが最も早く穏便だった。
 慰謝料を取ると宣言したものの、それはきちんと制裁を下すという意思表示に過ぎず、正直なところ明里にそれほど金に対する執着はなかった。そんなことでぐだぐだと時間を浪費するくらいなら、財産などくれてやるからさっさと自分を自由にしてほしかった。
 明里ももう若くはない。新しい人生を歩むための時間は、少しでも長くほしい。
 望めるなら。新しい、家族だって。
 ホテルの部屋の窓辺で、明里はそっと(はら)に手を当てた。

 ――子ども? 俺たちにはまだ早いんじゃないかな。

 妊娠を告げた時。忠は喜んでくれると思っていた。恋人だった頃には、子どもは好きだと言っていたし、結婚後は女の子と男の子、両方が欲しいなどと話していたから。
 けれど、結婚後。夫婦なのだからもう必要ないと言って避妊をしなかったのは忠の方なのに、いざ妊娠すると、今の自分の給与では養えないだのなんだのと理由をつけて、結局中絶することになった。
 明里は深く傷ついたが、その時はまだ忠に気持ちも残っていたので、子どもの養育環境を考えてのことだと自分を納得させて中絶した。
 しかし長く結婚生活を続けてわかった。忠は子どもなど望んでいなかった。
 何故なら、忠自身が子どもだったから。いつも自分が一番でなければ気が済まない。明里が自分以外のことに時間を割くのが許せない。いつでも自分を優先してほしい。だから、自分より構われる子どもなど、邪魔なだけだった。
 
 今にして思えば、それが全ての始まりだった。
 
 中絶後、明里は暫くの間性行為を拒み続けていた。とてもそんな気分にはなれなかったからだ。半ば無理やり行為に及ばれたこともあったが、その時の明里の反応が気に食わなかったのだろう。忠は、明里を求めることをしなくなった。そのことに明里は、どこかほっとしていた。そして寂しさを感じない自分が、寂しかった。
 忠は明里の代わりに、他の女を求めた。
 夫の不倫に気づいた時、世の妻と同じように、明里も勿論ショックを受けた。それでも、「やっぱり」という気持ちの方が強かった。自分がもう、女として見られていないことに、薄々気づいていたからだ。それを言及する気にもなれなかった。不倫を止めたからといって、その分自分を求めてほしいとは思えなかったから。
 その後、明里はパートを始めた。忠が他の女に時間を割いているのに、自分ばかりが忠のためだけに時間を使うことに嫌気がさしたのかもしれない。せめてもの抵抗だった。
 忠は結婚当初、明里を束縛したいがために専業主婦になることを命じていた。だから明里は正社員の仕事を辞めて、家事に専念していた。けれど、数年が経過すれば、忠の明里に対する執着も薄れていた。パートを始めることに異論はなかった。むしろ、外の世界と接することで、中絶のことを思い出さなくて良いのではないか、と勧められた。明里が外に興味を向けることは、忠にとっても都合が良かったのだろう。
 明里は外に働きに出るようになっても、家事に手を抜くことは何一つ許されなかった。だから、毎日の疲労は増していった。
 こんなに頑張って、いったい何をしているのだろう。どれだけ夫を支えても、その夫は余所の女に貢ぐために働いている。
 けれど忠と別れたとして、その先自分はどうすればいいのか。不倫に気づいたといっても、明確な証拠はない。慰謝料は取れるのだろうか。パートの給料で生活していけるのだろうか。この歳でバツイチなんて、再婚のあてもない。そうしたら、子どもは二度と望めない。もしも、もしも忠が改心するようなことがあれば。子どもを持つことも、この先あるのではないか。
 そんな僅かな希望だけを胸に、ぎりぎりの精神で日々を送っていた。
 
 霧崎と出会ったのは、そんな頃だった。
「牧野さん。ちょっといいかな」
「はい」

 パート先の上司に呼び出されて、明里はオフィスの部屋を出た。
 レジ打ちなどの不特定多数と関わる仕事が苦手だった明里は、オフィスワークを探した。派遣が多いので厳しいかと思われたが、運良く中小企業の事務員として働けることになった。
 女性のパートは三人。長年勤めているお局が一人、二児の母が一人、そして明里。直属の上司は四十歳ほどになる男性の課長。

 課長は明里を資料室に連れて行った。
 ドアを開けてくれた課長に御礼を言うと、課長はそのままドアを閉めた。
 明里は、嫌だな、と思いながら口に出せなかった。もう若くもないおばさんが、異性と部屋に二人きりにされたくらいで不快感を示すなど、自意識過剰だと言われるのではないかと躊躇った。
 上司なのだし、何か内密な話なのかもしれない、と自分を納得させる。
 しかし、明里の不安は的中した。

「牧野さんはさぁ、お子さんいないよね」
「ええ、まぁ」
「それって、夫婦仲が良くないの?」

 不躾な質問に、明里は顔を顰めた。

「そんなことを答える義務はありません」
「いや、ごめんごめん。子どもが大きくなって、ってパート始める人は多いんだけどさ。専業主婦から、なんでもないのに急に働き始めるって珍しいから。旦那さんとうまくいってないのかなって」
「課長には関係ありません」
「いや、うちもさぁ。もう夫婦仲なんて、すっかり冷え切っちゃってて。お互いどこで何してようがお構いなし。だからさぁ」

 課長に手を握られて、指で手の甲を撫でられる。
 その手つきにぞっとした。

「お互い、割り切った関係とか、どう?」

 恐怖と羞恥で声が出なかった。今すぐ殴ってやりたいのに、握られた手は氷のように動かない。
 せめて罵倒してやりたい。けれど、上司にそんなことをして、クビにならないだろうか。やっと見つけた事務職なのに。やっと仕事にも慣れてきたのに。
 そんなことをぐるぐると考えていると、黙っていることを肯定と取ったのか、青ざめた明里の顔が見えていない課長は更にその手を明里の腰元へ伸ばした。

「――失礼」

 割って入った声は、低く冷たかった。
 誰もいないと思っていた二人は、驚いて声の主を見た。

「な、君、い、いつから!?」
「最初からいましたよ。ここは資料室なんですから、誰がいてもおかしくはないでしょう」
「そ、それはそうだが……君、うちの社員じゃないな?」
「顧問弁護士の顔くらい覚えておいたらどうですか」
「顧問弁護士!?」

 来客用の来館証を下げたその男性は、名刺を取り出して課長に差し出した。

「御社の顧問弁護士、霧崎です」
「あ、ああ……」
「ところで。一部始終を聞いておりましたが、上司が部下にする発言としては不適切なものが含まれていたように思いますが」
「あ……! あれは、コミュニケーションの一種で……な、なぁ!?」

 課長に振られて、明里は肩を揺らした。
 課長のぎらついた目に、言えばどうなるか、という恐怖が喉を詰まらせる。
 そんな明里に、霧崎がゆっくり視線を合わせる。

「本当ですか」
「あ……」
「セクハラは被害者の訴えがなければ無効です。あなたの意志表示がなければ、これは()()()()()()になります」
「セ、セクハラだなんてとんでもない! 弁護士だかなんだか知らないが、この程度のことで口出しされる謂れは」
「あなたには聞いていません。彼女に聞いています」

 じろりと睨まれて、課長が口を噤む。霧崎は体格が良く強面だったので、弁護士という肩書を抜きにしても、中肉中背の課長からしたら威圧感があり怖いのだろう。
 明里も、初対面の弁護士が僅かばかり怖かった。その表情は優しくも柔らかくもなかった。けれど、目が。

「私は、セクハラだと感じました」

 震える声で言いながら、ぎゅっと手でスカートを握りしめる。

「立場の差を利用して、関係を迫るような発言は恐怖でしかありません。二度と私に関わらないでください」

 ――その目が、大丈夫だと言っている。

 セクハラだと言い切られた課長は声を荒げようとしたが、霧崎がそれを制した。

「お聞きの通り、被害者の証言も取れましたので、あなたの処分は追って通達があるでしょう。では」
「ま、待て! そんな勝手なことが」
「行きますよ、牧野さん」

 促されて、明里は半ば呆然としながら資料室を出た。後ろから課長が何か言っているようだったが、耳に入らなかった。ただ黙って歩く広い背中だけを見て、明里は小走りで付いていった。


「大丈夫ですか」

 小さな休憩スペースにつくと、ようやく霧崎が口を開いた。それにはっとして、明里は慌てて頭を下げた。

「た、助けていただいてありがとうございました!」
「いえ、仕事ですから」

 淡々と言われて、明里は何故だか少しだけ気落ちした。そんなことはわかっていたはずなのに、どんな言葉を期待したのか。

「先ほどの会話は録音してあります。詳しい調査はこれからになりますが、最低でもあなたと部署が離れるように配慮しましょう。報復行為があるかもしれませんから」
「報復……」

 不穏な言葉に顔が青くなる。霧崎は気遣う気配を見せたが、そのまま言葉を続けた。

「他にも証言が取れて、被害者が複数存在し、かつ悪質だと判断されたら懲戒処分も可能ですが。今回の件のみでは、厳重注意と、できて異動までかもしれません。継続性があればまた別ですが……会話からすると、あれが初回ですよね?」
「……はい」

 明里は暗い顔で俯いた。あの場での危機は脱したが、明里の感じた恐怖に見合う制裁はあの男には与えられないのだ。
 異動というのだって、課長が異動になるのではなくて、明里の方が異動になるのかもしれない。やっと仕事に慣れてきたところだったのに。
 それでも、会社からすれば、パートの方がどうとだってできるのは当然だ。

「男の人って、いいですね」

 脈絡がないと思える明里の発言に、霧崎は戸惑うように眉を上げた。

「あんな風に人を踏みつけにして、ちょっと怒られたら、それで済むんですね。学校みたい」

 先生に怒られて、喧嘩両成敗で、はい仲直り。我慢するのはいつだって被害者の方だけ。
 向こうはそれで済むことを知っている。許されることが織り込み済みなのだ。

「セクハラしても、知らなかったとか、からかっただけとか。不倫しても、男の甲斐性とか、満足させない妻が悪いとか。なんでそんな、子どもみたいな言い訳、するんでしょうね。それが通っちゃうんでしょうね。こっちばっかり、仕事辞めさせられたらどうしようとか、生活費渡されなかったらどうしようとか、いつも立場が弱くって。逆らえないことばっかり」

 黙っている霧崎は、女は話が飛んでばかり、とでも思っているだろうか。
 霧崎に不倫のことを零しても仕方ないとわかってはいるが、課長のセクハラで、明里は忠のことを思い出していた。
 どうせ明里が逆らえないと知っている。離婚なんかしたら生きていけないことを知っている。
 いつも有利な立場から、人をコントロールして。生殺与奪を握っている。
 でもそんな弱音を吐けば、世間は握らせた方が悪いという。
 悔しくて、明里は涙を零しながらも、嗚咽は漏らさぬようにと唇を噛みしめた。

「……どうぞ」

 差し出されたハンカチを明里は黙って受け取った。自分のハンカチは持っていたが、こんな状況でも相手に恥をかかせるまいと働いた頭が滑稽だった。
 霧崎はそれきり、ただ黙って明里の前に立っていた。
 肩を抱くことも、頭を撫でることもしなかった。セクハラになるから当然だろう。
 けれど、慰めの言葉一つかけないとは。
 今まで出会った男性で、泣いている女にこんな態度を取る人は初めてだった。大抵は機嫌を取ろうとするか、興味がなければ放置するか。
 けれど、言い訳もせず、慰めもせず、立ち去りもせず、本当にただそこにいるだけの男が。
 今まで出会った男性の中で、最も誠実だと思った。


 暫く静かに泣き続けて、明里が落ち着きを見せ始めると、霧崎は名刺を取り出した。

「これを」
「ええと……?」
「社内で話しにくいことがあれば、いつでもご連絡下さい。或いは、別件でも」

 別件。つまり、セクハラの件以外でも、相談にのってくれるということだろうか。

「わたくしの専門は企業案件ですが、家庭問題に強い者を紹介することもできますので」

 どきりと、明里の心臓が鳴った。不倫と零してしまったから、慰謝料や離婚の相談をしたいと思われているのかもしれない。
 正直、まだそこまで踏み切れてはいない。夫婦間のことは夫婦で解決できたら理想だとは思う。けれどこの名刺は、御守として持っておくのもいいかもしれない。

「……ありがとうございます」

 名刺を受け取ると、霧崎は次の仕事があると言って、足早にその場を立ち去った。
 もしかして、次の予定が詰まっているのに、明里が泣き止むまで付いていてくれたのだろうか。そう思えば、自然と頬が緩んだ。

「……あ、ハンカチ」

 返しそびれてしまった。
 汚れたまま返すわけにもいかないし、洗って返さなくては。何か御礼の品の一つでも付けた方がいいだろう。何がいいだろうか。
 そんなことを考えながら、明里は自分の心が久しぶりに浮かれているのを感じていた。