事情聴取を終えた後、明里は時間外受付をしている窓口へ離婚届を出しに行った。
 婚姻届を出した時は二人だったのに、自分一人で、こんな紙切れ一枚で関係を終わらせることができるなんて。結婚とは、いったい何なのだろう。

「お待たせ。終わったわ」

 力なく微笑んだ明里に、霧崎は一瞬手を伸ばしかけて、そのまま下ろした。

「お疲れ様。……よく、頑張ったな」
「――うん」

 泣き出してしまいそうだったが、それが悲しみからなのか、安堵からなのかはわからなかった。

「今日は疲れただろう。ホテルに戻ってゆっくり休むといい。これからのことは、また明日考えよう」
「もう帰るの?」

 反射的に返してしまってから、明里は俯いた。霧崎は明里を気遣ってくれたのに、自分ばかり性急に。欲求不満みたいだ、と恥ずかしくて顔を上げられなかった。
 霧崎は驚いたように息を呑んで、口元を手で覆った。彼が照れている時の仕草だった。

「その、さすがに今日すぐに、というのは、些か」
「そうよね、ごめんなさい。私ったら、恥ずかしいことを」
「ああいや、そうではなく。俺の方が……がっついてしまいそうで」

 意外な言葉に、明里は目を瞬かせた。いくら裁判で不利になるからといっても、全然触れてこないものだから、性欲は薄い方なのだと思っていた。
 先ほど触れようとして止めた手。あれが、もし。そういうことなら。

「私は……それでも、構わないのだけど」

 勇気を出して言葉にすると、目を丸くした霧崎が、明里の手を引いた。

「えっ?」

 そのまま通りに出て、タクシーを拾う。霧崎が明里の宿泊するホテルを告げて、タクシーが走り出した。
 二人は終始無言だった。ただ、握られた手が、やけに熱かった。


 ホテルにつくと、霧崎はフロントでダブルの部屋を取った。明里の部屋はシングルで連泊しているので、霧崎を連れては入れない。幸い空きがあったようで、キーを受け取って、二人は部屋に向かった。
 明里は心臓がうるさいくらいに音を立てているのを自覚していた。別に処女ということもないのに、初めてのような期待と緊張があった。
 ドアを開けて部屋に入ると、自然に閉まる時間すら惜しいというように霧崎が強くドアを押して閉めた。後ろからついていく形だった明里が、ドアと霧崎に挟まれる。
 明里が声を上げる間もなく、霧崎は明里を強く抱きしめた。

「明里……っ」

 切羽詰まったような声で頭まで抱え込まれて、明里はやっと、この人の腕の中に収まることを許されたのだと、涙が零れた。

修司(しゅうじ)さん……!」

 霧崎の名を呼んで、その広い背を抱き返す。
 明里の涙を拭った手で頬を包んで、霧崎が明里にキスをする。
 随分と長い間していなかった行為に、呼吸の仕方を忘れそうになりながらも、明里は夢中で応えた。
 ドア一枚隔てたところは廊下だというのに、部屋の中までの僅かな間も待てなかった。
 そのまま貪るようにキスを繰り返して、霧崎の手が明里の服にかかった時、ようやく明里は待ったをかけた。

「待って。さすがにそれは、シャワーを浴びてから」
「待てない」

 間髪入れずに返ってきた答えに、腹の奥が疼いた。こんなにも自分を求められるのは、いつぶりだろうか。

「せ、せめてベッドに……ひゃあ!?」

 軽々と抱え上げられて、明里が悲鳴を上げる。そのまま広いダブルベッドに横たえられて、覆いかぶさった霧崎と目が合った。
 この目が。何度も自分を助けてくれた。
 この人の目が好きだ。
 そして今、その目は情欲の色に染まっている。それを引き出したのが自分だということに、目眩がした。
 もうこのまま溶けて消えてしまっても、幸せだと思った。

 霧崎の愛撫は性急だが優しかった。本当にそのまま蕩けてしまいそうだと思っていたところで、霧崎が避妊具を取り出した。

「――あ」
「どうした?」

 声を上げた明里に、霧崎が問いかける。明里は言おうか言うまいか迷って、意を決して口にした。

「あのね、私、子どもが欲しいの。だから、できればそのままで」

 明里の言葉に、霧崎は呆けているようにも見えた。やってしまった、と明里は唇を震わせた。先走ってしまった。霧崎は恋人になってくれるとは言ったが、その先をどうするかなど、一度も話したことはないのに。
 考え込むように眉を寄せた霧崎に、忘れて欲しいと撤回しようとすると。

「半年だけ、待ってくれないか」
「……え?」

 予想の斜め上からきた回答に、明里は間抜けな声を漏らした。

「いや、明里の年齢を考えれば、すぐにでも妊娠のために取り組みたい気持ちはわかる。けど、せっかくの新婚期間が殆どないのは少し寂しい。半年だけ、二人きりの時間をくれないか」

 ぽかんとしたままの明里に、霧崎が焦った様子を見せる。

「わ、悪い。わがままだろうか」
「……結婚、してくれるの?」
「ん? ああ、子どもが欲しいと言うから、てっきり結婚もするものかと……は、早とちりか!?」
「ううん、そうじゃなくて。恋人になるって話はしてたけど、結婚のことは、言わなかったじゃない。だから、するつもりがあると思わなくて」
「それは……明里は、結婚で辛い思いをしただろう。それなのに、すぐに再婚という気分にはなれないだろうと。だから、明里の傷が癒えるまで待つつもりだった」
「待って、その後は……?」
「勿論、プロポーズするつもりだった」

 最初から。この人は、ずっと一緒にいてくれるつもりだった。
 そのことがわかって、明里はまた涙を零した。
 離れることを怖がっていたのは、自分だけだった。
 この人は、明里を裏切ったりはしない。

 霧崎は泣きじゃくる明里の頭を撫でて、キスを落とした。
 宥めてくれている霧崎が辛そうで、明里ははっとした。

「ご、ごめんなさい、途中で」
「いや……大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫だから。今日はこれ……有りで、続きしましょ」

 言いながら、明里は避妊具を手に取った。そしてそれを明里の手で霧崎につけてやる。
 口でつけるやり方も忠に教わったが、あれはあまり好きではない。それに、霧崎に手慣れているとも思われたくなかった。
 手でつけるのも微妙だっただろうか、と顔色を窺ったが、多分喜んでいそうなので良しとした。
 薄い膜を一枚挟んで、霧崎と繋がる。
 もうすっかり忘れていた女としての機能が、全て目覚めていくようだった。
 誰かと繋がるということが、こんなにも温かくて、満たされるものだったとは。しがみつくように握った手を、ずっと離さないでいてくれる。何も言っていないのに、どうして明里の心がわかるのだろう。
 離さないで。離れないで。この人を、決して手放したくない。

「……明里」

 大好きな目が、自分だけを映している。
 今霧崎の世界には、明里だけが存在している。
 明里の世界にも、霧崎だけが存在している。
 世界に二人きりになっても、生きていける気がした。

「修司さん、愛してる」

 キスをせがんだ明里に、霧崎が深く口づける。

「俺も、愛してる」

 幸せ過ぎると怖くなる。
 忠を騙して手に入れた幸福だ。いつか、しっぺ返しが来るかもしれない。
 だとしても、もう諦めたりはしない。泣き寝入りなどしない。
 どんな手を使ってでも、この幸福を守り抜いてみせる。

 決意と共に、明里は霧崎の首に腕を絡めた。