「ねぇ、忠。もし、私がパート辞めるって言ったらどうする?」
「はぁ?」
夕食をとりながら明里が話を振ると、忠は不機嫌そうに声を上げた。
「何だそれ。お前がやりたいって言ったんじゃん」
「うん、そうなんだけどね。ちょっと、居辛くなるかもしれなくて」
「なんかやらかした?」
平然と聞く忠に、何故この人の思考はこうなのだろう、と溜息が出る。普通に何かあったのかと聞けないのだろうか。
「上司がね、男の人なんだけど。ちょっと……セクハラ? みたいなの、されちゃって」
冗談めかして笑ってみせる。それに忠は思い切り顔を顰めた。
「そんなの気のせいじゃない? 二十歳そこらの新入社員ならまだしも、その歳で自意識過剰だって」
ずきりと、胸の奥が刺されたように痛んだ。
こういう回答がくるって、わかっていたはずなのに。
「そもそも、そんくらい受け流すのが社会人だろ。パートだからって仕事なめてんじゃないの? ま、専業主婦だったし無理ないか。いいよなー女は。ちょっと嫌なことがあったら、旦那の稼ぎをアテにして辞めちまえるんだから」
「……忠が、専業主婦になれって言ったんじゃない」
言い返した明里にむっとして、忠は乱暴に食器の音を立てた。
「そりゃ結婚したんだから、夫の世話するのが最優先に決まってるだろ。お前は要領悪くて仕事と両立なんかできっこないから、専業主婦で許してやったんじゃないか」
「ならパートを辞めることも許してくれればいいじゃない。どうして今になって駄目なの?」
「お前もいい加減、主婦の仕事に慣れただろ。家事ごときで一日終わるわけないんだし、暇してるくらいなら少しは家計を助けろよ」
だったらその家事ごときを、一度でいいから私と同じレベルでやってみせてよ。
そう言いたくなったのをぐっと堪えて、なるべく穏便な言葉を選ぶ。
「だから、パートを始めたじゃない。いずれ子どもができた時のために、少しでも貯めておこうって。でも、働きながら忠の要求するレベルで家事をこなすのはしんどいの。二人とも働くなら、少しでいいから手伝ってもらると助かるんだけど」
「働きたいって言い出したのお前だろ。やりたいことやらしてやってんのに、何でその負担を俺が背負わないといけないんだよ」
「忠が自分の稼ぎだけじゃ子どもは無理って言ったからでしょ。仕事もして、家事もして、育児も私だけがするの? 忠は子どもができても、全部私にやらせる気なの!?」
子どものことを持ち出した明里に、忠は一層不機嫌になり席を立った。
「母親なんだったら、全部できて当然だろ。それができないと思うなら、お前は母親になる資格なんかない」
言い捨てて、忠はダイニングを出て行った。ドアが強く閉まる音がしたので、自室に籠もったのだろう。都合が悪くなるとすぐ逃げる。
もう駄目だ。忠と話し合いで解決することは不可能に近い。それでも、明里は少しだけすっきりしていた。心臓がうるさく音を立てているが、嫌な感じではなかった。ついに言ってやった、という気持ちがあった。
こんなに強く自分の意見を言ったのは初めてだった。ずっと夫に従順な妻を演じ続けてきたから。
自分の意見はどうせ全部潰される。だったら黙って従った方が傷つかない。
それ以外に生きる術がなかった。忠に捨てられたら、自分の未来は真っ暗なのだと思っていた。
そんなことはないと。ほんの一瞬でも、思えたから。
明里は御守りを取り出して、スマホのキーパッドを一つずつ押す。
「――もしもし。ご相談が、あるのですが」
「はぁ?」
夕食をとりながら明里が話を振ると、忠は不機嫌そうに声を上げた。
「何だそれ。お前がやりたいって言ったんじゃん」
「うん、そうなんだけどね。ちょっと、居辛くなるかもしれなくて」
「なんかやらかした?」
平然と聞く忠に、何故この人の思考はこうなのだろう、と溜息が出る。普通に何かあったのかと聞けないのだろうか。
「上司がね、男の人なんだけど。ちょっと……セクハラ? みたいなの、されちゃって」
冗談めかして笑ってみせる。それに忠は思い切り顔を顰めた。
「そんなの気のせいじゃない? 二十歳そこらの新入社員ならまだしも、その歳で自意識過剰だって」
ずきりと、胸の奥が刺されたように痛んだ。
こういう回答がくるって、わかっていたはずなのに。
「そもそも、そんくらい受け流すのが社会人だろ。パートだからって仕事なめてんじゃないの? ま、専業主婦だったし無理ないか。いいよなー女は。ちょっと嫌なことがあったら、旦那の稼ぎをアテにして辞めちまえるんだから」
「……忠が、専業主婦になれって言ったんじゃない」
言い返した明里にむっとして、忠は乱暴に食器の音を立てた。
「そりゃ結婚したんだから、夫の世話するのが最優先に決まってるだろ。お前は要領悪くて仕事と両立なんかできっこないから、専業主婦で許してやったんじゃないか」
「ならパートを辞めることも許してくれればいいじゃない。どうして今になって駄目なの?」
「お前もいい加減、主婦の仕事に慣れただろ。家事ごときで一日終わるわけないんだし、暇してるくらいなら少しは家計を助けろよ」
だったらその家事ごときを、一度でいいから私と同じレベルでやってみせてよ。
そう言いたくなったのをぐっと堪えて、なるべく穏便な言葉を選ぶ。
「だから、パートを始めたじゃない。いずれ子どもができた時のために、少しでも貯めておこうって。でも、働きながら忠の要求するレベルで家事をこなすのはしんどいの。二人とも働くなら、少しでいいから手伝ってもらると助かるんだけど」
「働きたいって言い出したのお前だろ。やりたいことやらしてやってんのに、何でその負担を俺が背負わないといけないんだよ」
「忠が自分の稼ぎだけじゃ子どもは無理って言ったからでしょ。仕事もして、家事もして、育児も私だけがするの? 忠は子どもができても、全部私にやらせる気なの!?」
子どものことを持ち出した明里に、忠は一層不機嫌になり席を立った。
「母親なんだったら、全部できて当然だろ。それができないと思うなら、お前は母親になる資格なんかない」
言い捨てて、忠はダイニングを出て行った。ドアが強く閉まる音がしたので、自室に籠もったのだろう。都合が悪くなるとすぐ逃げる。
もう駄目だ。忠と話し合いで解決することは不可能に近い。それでも、明里は少しだけすっきりしていた。心臓がうるさく音を立てているが、嫌な感じではなかった。ついに言ってやった、という気持ちがあった。
こんなに強く自分の意見を言ったのは初めてだった。ずっと夫に従順な妻を演じ続けてきたから。
自分の意見はどうせ全部潰される。だったら黙って従った方が傷つかない。
それ以外に生きる術がなかった。忠に捨てられたら、自分の未来は真っ暗なのだと思っていた。
そんなことはないと。ほんの一瞬でも、思えたから。
明里は御守りを取り出して、スマホのキーパッドを一つずつ押す。
「――もしもし。ご相談が、あるのですが」