その後、深月は本邸の炊事場に顔を出した。

 朝食の時間が迫っていることもあり、中ではおかずや汁物をよそったり、膳を運んだりと、女中たちが忙しなく動き回っている。

 その風景に以前の懐かしさを覚えながら、深月は話しかける機会を窺う。

 すると、近くを通りかかったからし色の着物の女中が気づいて声をかけてきた。

 「お嬢さま、おはようございます。こんな場所になにかご用ですか」

 「おはようございます。お忙しいところすみません、鈴の」

 「ああ、猫の餌ですか。用意しておきました」

 深月の言葉を途中で遮り、女中は炊事場の隅から鈴の朝ご飯が入った器を持ってきた。

 「どうぞ」

 淡白な声と素振りで渡された器を、深月はしっかり両手で受け取る。

 「いつもありがとうございます、園子さん」

 「あ、いえ」

 名前を覚えられていたことが意外だったのか、園子という名の女中はバツが悪そうに担当場所へ戻っていった。

 深月は刺々しい視線を感じる炊事場に深々とお辞儀をし、その場を離れた。

 「やあね、嫌味かしら。あのお嬢さま」

 「あんなにご立派な着物で炊事場に入ってきて、もしここで汚したらあたしたちが咎められるのに」

 「だいたいここをどこだと思っているの。隊長さまの花嫁だか知らないけど、猫まで飼い始めるだなんて。お家の庭と勘違いでもしているのかしら」

 背後から聞こえてきた言葉の数々に深月は悄然とする。

 深月は他人よりも耳がいい。あやかしものの血を引く禾月も似たように身体能力が高くなるという話だが、それは稀血の深月を例外ではなかった。

 (……前にも、似たようなことがあったわ)

 働き手がいればそれだけ意見が集う。庵楽堂で働いていたときも様々な雑言が飛び交っていた。

 この距離では自分の意志と関係なく、自然と音を拾ってしまう。

 自覚はあったけれど、深月は本邸の女中たちからあまりよく思われていなかった。直接嫌われる行動を取ったことはない。でも、彼女たちの言い分を聞くに最もだと思う部分が多かった。

 全員がそうだとは言わないが、裕福な家の娘は自尊心が高く、使用人を見下す傾向にある。母が娘に、そう躾けることもあるからだ。

 例を上げるなら以前の奉公先の愛娘、麗子もそうだった。

 役立たずな人間は問答無用で折檻され、虫の居所が悪いと難癖をつけられる。深月の陰口を言っていた彼女らは、そういったお屋敷で働いていた経験がある者ばかりのようで、突然現れた深月の存在を警戒していたのだった。

 鈴の世話は成り行きとはいえ、我が物顔で敷地を使用しているように映っているのだろう。炊事場に綺麗な着物姿で現れたことで、忙しく懸命に働く彼女たちには嫌味に見えたのかもしれない。

 (どうすればいいんだろう)

 触らぬ神に祟りなしとも言うが、深月が居場所をここに望んだ以上一切関わらずにいるのは不可能だ。しかし深月は他人との関係構築を積極的におこなったことがない。正しいやり方もわからない。

 それどころか以前は目の敵にされるのが当たり前で、改善しようという考えすら浮かばなかった。

 使用人のことなので朋代に相談すればなにかしら道筋が見えてくるかもしれない。けれど朋代は彼女たちにとって上司にあたるわけで、把握されるのをよしとするだろうか。

 伝えてしまったら、より悪印象を与えるのは深月にも想像がついた。

 (まずは名前を、間違えないようにしないと)

 折があって話せる状況になっても、相手の名前すらわかっていないのは失礼だと、深月なりに考える。

 さすがに隊員は数が多いので全員の名前を把握するのには苦労するだろうが、頭の中ですでに姿が記憶されている彼女たちの名前を覚えることは難しくないはずだから。