藤生の邸宅の裏を通り過ぎて、少し獣道を登ると急に開けた場所に当たった。そこでは楠俊はじめ村の男達が数人で木を組んで舞台のようなものを建てている。
さらにその後方に大きな藤の木があるのがわかった。藤棚などで整えられているわけではなく、野生のまま伸び放題といった様子で、周りの木々にもその蔓が巻きついている。
すでに開花の時期は過ぎており、青々とした葉の中に点々と実がなっているのが見えた。
「おー、こりゃ凄い!」
「見事です」
堂々たる姿の藤はその長い歴史を体現しているようで、永も鈴心も感嘆の声を上げた。二人の様子を見た剛太は誇らしげに胸を張っていた。
「ひいひい、あ、だめ、これ重い。ライオンくーん」
着々と組み上げられていく舞台の下で、梢賢が泣きそうな声を出しながら木材を持て余している。
「情けねえな、ったく」
見かねた蕾生は二メートルはある木材をひょいひょいと左右に担いで梢賢の代わりに運んで行く。
「ウソやん、イカついわあ」
「まあ、凄いのねえ」
梢賢だけでなく、康乃も目を丸くして驚いていた。
「力だけが取り柄ですから」
鈴心の声が聞こえた蕾生は、視線だけこちらを向いて睨みつけた。鈴心は涼しい顔で目を逸らす。
「ああ、康乃様すみません。こちらです」
「はいはい」
舞台の横から現れた楠俊に促されて、康乃はその場を離れた。
「あの舞台の奥にあるのが、例の藤の木か……」
「とても立派です……」
残された永と鈴心が感心しきりに呟いていると、得意げな顔をして剛太がそこに割り込んだ。
「あれが資実姫様が宿る樹齢千年の藤の木です。我が家の家宝です!」
きっと鈴心に良いところを見せたいのだろうと悟った永は一歩引いて黙る。それで鈴心が剛太に話しかけた。
「あの藤の木は、藤生の方が植えたんですか?」
「いえ。元からこの地に自生していたものです」
剛太はハキハキと元気良く答えていく。鈴心は質問を続けた。
「なのに資実姫様が宿っていらっしゃるんですか?ここに移り住んでいらしたのに?」
「ああ……藤生の歴史をご存知なんですね。ならお話します!京にいた頃、資実姫様が宿っていたのは桑の木でした。その桑の木に祈るととっても綺麗で丈夫な絹糸が出てきたんです」
頼んでもいないのにスルスルと話が出て来る剛太の様子を、永は後ろで黙って見ていた。
この場を任されたと悟っている鈴心は少し笑って相槌を打つ。
「素敵なお話ですね」
「はい!その絹糸を帝に献上してご先祖様は高い地位を得ました。ですが戦に負けて、落ち延びねばならなくなりました。桑の木だけはどうしようもなくて、ご先祖様は泣く泣く京を去ったそうです」
「痛ましいことです」
鈴心に促されていることも意識しないまま、剛太は少し興奮しながら一気に喋る。
「この地に流れ着いて、ご先祖様はそれでも毎日京に置いてきた資実姫様を思って祈り続けたそうです。そうしたら、この里に古くから生えている藤の木から、京にある桑の木と同じ絹糸が出てくるようになったんです!」
「それは──奇跡でしょうか?」
鈴心がそう聞くと、剛太はパッと明るい表情になって大きく頷いた。
「僕もそう思います!それからはあの藤の木に資実姫様がお移りになったとして、御神体として手厚くお祀りしているんです!」
「そう言う事だったんですか。大変勉強になりました」
そこまで聞いたところで、舞台の上に上がっている康乃が剛太を呼んだ。
「剛太、貴方も良く見ておきなさい」
「あ、はーい!すみません、ちょっと失礼します」
「お疲れ様です」
「えへへ……」
一礼して送り出す鈴心に、はにかんだ笑顔を残して足取り軽く剛太は康乃の所へ向かった。
「……」
「ナイス、リン。グッジョブ色仕掛け」
剛太の背中を見送る鈴心に永が親指を立てて話しかけた。その顔はまだ笑顔が張りついている。
「は?何のことです?」
「いやいや。思わぬところから重大な情報が聞けたねえ」
「ちょっと、心が痛いです。よいしょし過ぎたかもしれません」
鈴心にとってみれば剛太くらいの子どもは等しく赤ん坊のようなものだ。そんな純粋な存在を持ち上げて情報を得ようとしたことに罪悪感を感じていた。
「まあまあ。しかし、驚いたね」
「はい。まさか藤絹というものが、あの木から出てくるとは……本当でしょうか?」
「それは実際に目にするまでは信じられないけどね。嘘を言っているようにも見えなかったな」
永もすでに遠くなった剛太の姿を見やってから言うと、鈴心も頷いた。
「はい。剛太さんの目は真っ直ぐでした」
「真っ直ぐリンを見てたけど、ね」
「はい?」
永の微かな嫌味にも、鈴心は首を傾げていた。
先に雨都家に帰っていた永と鈴心は縁側で涼みながら二人の帰りを待っていた。
蕾生と梢賢が藤生の手伝いから解放されたのは昼をとうに過ぎた頃だった。
「あー、疲れた!」
戻ってくるなり縁側に突っ伏した梢賢を永は苦笑して迎える。
「二人ともお疲れ様」
「ああ。そっちはなんか聞けたか?」
体力お化けの蕾生は梢賢とは対照的に散歩から帰ったような雰囲気であった。
「そりゃあもう。リンが良くやってくれたよ」
「有難きお言葉」
永はうっすら嫌味を言ったつもりなのだが伝わっておらず、粛々と受ける鈴心の態度に複雑な気持ちになった。
「……」
そんな細かい機微があることなど察することのない梢賢は縁側をゴロゴロ転がりながら、気の抜けた風体で聞く。
「ええ?なんかわかったんかぁ?」
「うん、資実姫なんだけど──」
永は梢賢と蕾生に剛太から聞き出した話をした。それを聞いた梢賢はようやく起き上がって腕を組みながら考える。
「祈ると藤の木から絹糸か……オレと姉ちゃんの力の上位互換ってとこかな?」
「つまり梢賢くんは、実際に絹糸を出してるのは藤生の人間だって思うの?」
「せやなあ。京にいた頃とは別の木からも糸が出たんやろ?てことは木を媒介にして、藤生の人間が糸を生み出してるって考えた方が自然やないか」
「確かに」
理解の早い二人の会話を聞きながら、蕾生は少しがっかりして言った。
「なんだ。絹糸を出す木があるわけじゃねえのか」
「んー、その可能性もなくはないけど、ちっと無理があるかなあ……」
「藤の木の奇跡ではなく、藤生の異能力ということですね」
鈴心も梢賢の見解に頷いていた。三人に比べて素人考えの蕾生は素朴な疑問を投げる。
「けど、直接糸を出せる梢賢達の方が凄くねえか?」
「いや、オレ達の糸はすぐに消えてまうからな。藤生の出す絹糸は完全に物質として成り立っとる」
梢賢がそう解説すると、鈴心と永も口々に考えを述べた。
「絹糸を物質として定着させているのが藤の木の力なのか、藤生の力なのかの判断が難しいですね」
「その意味で、藤の木にも奇跡の力があるとは言えるかもしれないね」
藤生の絹糸を出す異能力が梢賢姉弟のものだと同質であるなら、神木を通すことで物質化させていると考えられなくもない。その場合、神木そのものにも何らかの神秘があることになる。
「要するに、藤の木と藤生の人間はニコイチっちゅーことやな」
「ややこしい」
蕾生は眉を顰めて呟いた。結局、絹糸を生成しているのは藤生の人間なのか、藤の木なのか結論が出ないからだ。
ただ、梢賢の言う通り、藤生の人間と藤の木が揃ってはじめて絹糸が出来上がるという事実だけは変わらない。
「確かに。何にしろ、藤絹が生成されるプロセスはわかったね」
永も苦笑しながら蕾生に応えた。絹糸の生成に係る詳細はわからないが、ざっくり言えば藤生の不思議な力の結果だということだ。それは一般社会では決して理解されないだろう。
「そら、原材料なんか説明できんで。珪兄やんの事業は先が暗いな」
「でもあの人なら口八丁手八丁でなんとかしてしまうかも」
「せやなあ……」
鈴心の言葉にも頷きながら梢賢は難しい顔で考え込んでいた。
「ところで祭がいよいよ明日ですが、眞瀬木珪や雨辺菫はどう動くのでしょうか」
蕾生以外の三人が思考のために数分黙ったままでいると、鈴心が話題を切り替えた。
それにまず梢賢が答える。
「珪兄やんは明日は大忙しやで。実質、眞瀬木は織魂祭の責任者やからな。悪巧みしてる暇なんかないで」
「けど、明日は村中のエネルギーがここに集まるよね」
「絹織物のことか?そらまあ、そうやけど。ハル坊は珪兄やんがそれを利用する思てんのか?」
「どう利用するかはわからないけど、そんな膨大なエネルギーをただお焚き上げするなんて勿体無いと思うんだよねえ」
梢賢にとっては永の意見は盲点だった。毎年の行事なので慣れてしまっている梢賢には、それが警戒すべき事だとは思っていなかったからだ。
「けどそれは毎年やってんで。なんで今年に限ってそうなるんや?」
すると鈴心が神妙な面持ちで割って入った。
「雨辺葵が覚醒間近だからです」
「ちょ、っと待てよ。葵くんにそのエネルギーを使うっちゅーことか?あり得へん!そもそも、雨辺は里に入れへんよ!」
慌てる梢賢を他所に、やはりこの手の知識が足りない蕾生が鈴心に尋ねる。
「葵にそのエネルギーを使ったらどうなるんだ?」
「そこまではちょっと」
「なんだよ」
てっきり鈴心にはその先の想像がついているのかと思った蕾生はまたもがっかりした。詳しい見解がないのなら、鈴心の杞憂に終わるかもしれない。梢賢も蕾生もそう感じていると、突然永が叫ぶ。
「あ!」
「なんだよ?」
「例年とは違うことが今年は起きてる!」
「それって?」
首を傾げて蕾生が問うと、永はおもむろに編み上げたレースを見せた。
「これだよ」
「──永が編んだやつか?」
それを見て鈴心の方が青ざめて答える。
「ハル様のエネルギー……」
「あ──」
そこまで言われてとうとう梢賢も口を開けて固まる。更に永は不安気な顔で続けた。
「これに、キクレー因子が吸われてるとしたら?」
「葵くんに使ったら、鵺化の引き金になってしまうかも……」
「──まじかよ」
蕾生にもやっと非常事態だとわかった。それと同時に永は珍しく焦って狼狽えていた。
「どうしよう、梢賢くん!今からでも断れない?」
「んなこと出来るかいな!康乃様の決定は絶対やし、ハル坊かて喜んで参加する言うたやんか!」
「だってこんな事になるなんて思わなかったもん!」
「オレかてそうや!」
言い合う二人に向けて、鈴心は疑いの眼差しである可能性を述べる。
「待ってください。そうなると、私達を織魂祭に招待した康乃さんはどうなんです?」
「──え?」
「まさか、あのおばさんも……」
「グルってこと?」
蕾生も永も康乃の朗らかな笑顔を思い浮かべ、その裏に隠れる悪意を想像する。それまで気付きもしなかった可能性に皆が押し黙った。
「それはもっとあり得ん!!康乃様が葵くんを鵺化させる理由がない!」
最初にそれを打ち消したのは梢賢だった。首をぶんぶん振って否定する。
「確かに今の所、理由は見当たらないけど……」
永は消極的だったが、鈴心の考えは辛辣だった。
「眞瀬木の鵺信仰は雨都に影響を及ぼしたんですよね?本家筋の藤生には及んでいないと言い切れますか?」
言われた梢賢は心外だと言うように声を荒らげる。
「眞瀬木は今でこそ藤生の分家扱いやけど、元は成実家お抱えの呪術師やぞ!主人にそんな洗脳じみた事するかいな!」
誰よりも正しいはずの里長を疑われて憤慨する梢賢の気持ちを慮って、また沈黙が流れた。
だが、走り出してしまった想像は永の心を蝕んでいく。
「最初から、この村全体が僕らの敵だった……?」
「ハル坊!考え過ぎや!」
「でも、辻褄が合い過ぎて……」
鈴心もそんな永の不安に引きずられていく。思考が悪い方へと向かいかけた時、蕾生の大きな声がそれを堰き止めた。
「お前ら落ち着け!永の悪い癖だぞ!」
「ライくん……」
「お前、今、梢賢まで疑いかけただろ」
「……」
ピクリと肩を震わせた様を見て、梢賢も驚いて困惑した。
「なんやてぇ!?」
それを低く冷静な声で制して、蕾生は永に向き直る。
「ちょっと梢賢も落ち着いてくれ。永、そもそも俺達は雨都が困ってるから力になりたいと思ってここに来た」
「うん……」
「それは何故だ?雨都には沢山恩と借りがあるからだろ」
「そう……」
「なのに、その雨都を疑ったら本末転倒だ。雨都だけは疑ったらダメなんだ。前提を見失うな」
蕾生の真っ直ぐな言葉に、鈴心の瞳にも光が戻ってくる。
「そう、でした……」
「……ライオンくん」
そうして永も肩で大きく深呼吸してから梢賢に向き直る。
「梢賢くん、ごめん。僕、ちょっと焦ってたよ」
「──ええで。それだけハル坊は真剣になってくれたっちゅーことや」
「あー、ほんっと僕の悪い癖だよねえ!考え過ぎて疑心暗鬼になっちゃうの!」
少し大袈裟に頭を抱えて言う永の口調は、余裕を取り戻して明るくなっていた。
「ハル様は思慮深い方ですから」
「単細胞のライオンくんに救われたな」
「おい、お前ら」
鈴心と梢賢が慰める言葉に引っかかった蕾生は遠慮なく文句を言った。少しの間笑い合った後、永は改めて両手を打ってまとめる。
「よし、話を戻そう!康乃さんまで疑ったのはやり過ぎだったけど、とりあえず絶対に阻止しないといけない事はわかったよね!」
「絹織物及びそのエネルギーが眞瀬木珪の手に渡ること、ですね」
「まあ、儀式が無事に済めばお焚き上げするだけやからな」
鈴心も梢賢も思考の方向性が決まってスッキリした顔をしていた。
「絶対に、焼く」
「ライオンくんが言うと怖いわあ」
梢賢の冗談で場は和やかになったが、蕾生は一人納得のいかない顔でぶすったれた。
鈴心は一人縁側に座って夜空を眺めていた。日ごとに満ちていく月の姿を追っていると遠い日々を思い出す。
「……」
「もうすぐ満月かな?」
「ハル様」
その声に振り向くと主の姿があった。永は微笑みながら鈴心の隣に腰掛ける。
「いいねえ、夏の宵にお月見。有名な随筆にも書いてあったよね」
「はい。ここに来てから慌ただしくて、気持ちを落ち着けてから寝るための習慣になってしまって」
永は鈴心の顔を覗き込みながら心配そうな声音で聞いた。
「──眠れないの?」
「少し。明日が気になってしまって」
「そっか。ライくんとは反対だ。明日のためにもう寝るってさ」
「ライらしいです」
蕾生の話をしていると雰囲気が和んでいい。永はそれでようやく尋ねることができた
「……少し聞きそびれたことがあって」
「何でしょう」
「リンの体は銀騎さんと同じ実験の被験体なんだろう?銀騎さんはキクレー因子が不活性らしいけど、リンはどうなんだ?」
本当は日中に聞けたら良かったのだが、蕾生はともかく梢賢がいると茶々が入ってドタバタした雰囲気になってしまいそうだ。
少し怖い気もするが二人きりで静かな場所でじっくり聞く方がいいと思い直して、永は鈴心を探していた。別の用事もあることだし。
「私の中の因子は、リンの魂と融合した事もあって、今は体に馴染んでいるそうです」
鈴心は特に動揺することなく、言いにくそうにすることもなかった。それで抵抗感が薄れた永は更に聞いてみる。
「それって、僕やライくんと同じ状態ってこと?」
「ハル様やライの体とキクレー因子の結びつきを理想の形とするなら、私はどれくらい近づけたのかが詮充郎の研究テーマでした。
ですから貴方達の体を詳細に調べ、私と照合して答え合わせをしたかった」
「ああ……そういう事か。あの時は頭ごなしに否定したけど、今落ち着いて聞くと興味深いね」
永がそう言うと、鈴心は眉を寄せて怒る。
「だからと言って詮充郎に協力するなんて論外です」
「それはそうなんだけど、リンの体の事がそれで解明するなら悪くないな、とちょっと思った」
鈴心の中にあるキクレー因子は鵺由来の純粋なもののままなのか、銀騎詮充郎が作ったレプリカの因子なのか。
永の考えでは今の所五分五分だ。リンの魂の比重が上なのかどうかで、今目の前にいる御堂鈴心という人間をリンとして認識していいのかが決まるのではないか、と永はたまに考えることがある。
永にとっては目の前の鈴心は、少し年若いがリン本人に見えている。ならそれでいいじゃないかと思う反面、銀騎詮充郎に身体を弄られているという事実が頭の片隅にこびりついて離れない。
そういう永の複雑な心境を知る由もない鈴心は単純に言葉通りの意味にとって即座に否定する。
「いけません、私なんかのためにそんなことをしては」
「ええ?何で?僕にはライとリン以上に大事なものなんて無いけど」
当然のように言ってのけた永に、鈴心は俯いてしまった。何かを懺悔するかのような表情だった。
「私は……そんな身分では……」
「バカだなあ、あれから何百年経ったと思ってんの?もう僕らはただの子ども同士だよ、何の力もない……さ」
珍しく自嘲気味に言う永に、鈴心は顔を上げて今度は労りの表情を見せる。
「ハル様も、明日が不安なんですか?」
「まあ、自信満々ではないよねえ。祭をやり過ごしたとして、雨辺の問題は何一つ片付いてないし」
苦笑しながら言う永に、鈴心は少し力をこめて励ますように言った。
「祭が終わったら、葵くんの容体を見に行かなくては。お兄様にも相談しましょう」
「そうだね。悔しいけどキクレー因子の専門家はすでにあっちだからさ」
「はい。葵くんは必ず助けましょう……!」
その瞳。強く揺るがない光を帯びた瞳に、永は何度も助けられた。心の拠り所と言ってもいい。蕾生に対する気持ちとはまた別の感情が込み上げていく。
「じゃあ、一生懸命なリンにご褒美だ」
「?」
永は持て余す感情を胸の奥にそっとしまって、主君然とした笑みを浮かべて隠し持っていた包みを手渡した。
「もうすぐ誕生日だろ?」
「ご存知だったんですか」
「当然。変態妹から聞き出すの苦労したよ。さらにあの人の目の届く所で渡すと面倒だから、今渡しとく」
この現場を星弥が見たら嫉妬でとち狂うかもしれない。そんな想像をしてしまった鈴心は笑った。
「そうですね。開けてもいいですか?」
「もちろん」
鈴心は丁寧に包み紙を開けていく。紙の小袋にはネイビーのレースをあしらったサテンのリボンが一組入っていた。
「リボン……クリップですね。落ち着いた色でとても可愛いです」
「銀騎さんはさあ、ピンクとか真っ白のフリフリー!って感じのリボンをお前につけたがるじゃん?だからたまには大人っぽいのがいいかなって」
「……リボンが既に大人っぽさとは離れている気もします」
「えっ!気に入らなかった?」
慌てる永に、鈴心はまた笑う。
「冗談です。ありがとうございます」
「二度目にお前に会った時、まさかのツインテールだったから結構ビックリしたんだよ?」
「ですよねえ」
銀騎の家で星弥に紹介された時の事を思い出す。必要以上にゴテゴテ飾られた様だったので鈴心は苦笑した。
「でも少し嬉しかった。いつも長い黒髪を伸ばし放題で気にしなかったのに、今回は身なりを整えてくれる人がいるんだって」
「あれは整え過ぎですけどね」
「──似合ってるよ、ツインテール」
真っ直ぐにそう言う永の表情に、鈴心は少し照れてしまった。
「あ、ありがとうございます……」
「さあ、そろそろ寝ようかな!おやすみ!」
急にソワソワし出した永は立ち上がって、鈴心の頭をポンポンと軽く叩いてそそくさと去っていった。
「おやすみなさい……」
その背に向かって鈴心は親愛の情を込めた。
辺りはまた静寂に包まれた──訳ではなかった。
「デバガメが出てこないなら殺します」
「ひいい!ごめんなさいっ!」
鈴心が低く冷たい声で言うと、庭木の裏から梢賢が飛び出した。その姿めがけて猛禽睨みをきかせると、梢賢はヘラヘラと笑っていた。
「ま、まあまあ、ええ雰囲気やったやないのぉ!とても主従には見えんかったで!」
「邪推は許しません」
「ピッ!」
鈴心の更なる冷たい声に梢賢は縮み上がった。それでやっと溜息混じりで鈴心は態度を緩和させる。
「何か用ですか?」
「用っちゅーか、なんちゅーか、確認やねんけど……」
梢賢は相変わらず軽い口調だったが、目はいつも以上に真剣だった。
急に夜風が舞う。
それにつられて放たれた言葉がやけにハッキリと聞こえた。
「鈴心ちゃんは、今回はちゃんと転生したやんな?」
「──」
鈴心は大きく瞳を見開いて立ち尽くしていた。
「……」
様子を伺う梢賢を冷静に見定めて、鈴心はいつも通りの淡々とした顔で言った。
「当たり前でしょう。何が言いたいんです?」
「いやあ、オレも言っててよくわからんのよ」
うへへ、と笑いながら頭を掻く梢賢は飄々としている。
「……」
鈴心が身構えていると梢賢は一人で頷いて踵を返した。
「まあええわ。君らの感じやと心配することもあらへんやろ。単なる老婆心でした!おやすみぃ」
そうして梢賢はあっという間に縁側を上がって、自室の方向に去っていった。
「……」
鈴心はもう一度月を見上げる。
月は、何も教えてはくれなかった。
織魂祭当日、雨都家がある実緒寺には早朝から多くの村人が詰めかけていた。本堂に入り代わる代わる焼香と祈りを捧げていく。
主催の藤生康乃と剛太は上座に座り、続いて分家扱いの眞瀬木墨砥、珪、瑠深が次席に控え、賓客である永、蕾生、鈴心も末席についた。
雨都は本来裏方であるが、梢賢は永達の接待役として隣に座っている。
本堂は当然仏教色の強い装飾ではある。鎮座している釈迦像も何ら変哲のない一般的な仏像には見えるが、どことなく異質な雰囲気だった。
とは言え、仏教に造詣のない永達にはなんとなくそんな気がすると言うだけで、具体的にどこが違うなどはわからない。
柊達の装束は、深縹の法衣に金襴の袈裟、頭には立帽子で大きな法要での正装だという事がわかる。
脇に控える楠俊は少し格下の装いで、松葉色の法衣に木蘭の袈裟、頭には六角帽子を被っていた。
柊達と楠俊が唱える念仏の様なもの、その調子や発音などが独特な印象だった。しかし一般的な念仏と何が違うとはこれもはっきりとはわからなかった。
おそらく麓紫村特有の祝詞ではないかと永は考える。
雨都がここに来るまでは眞瀬木が呪術師だったので神道よりの宗教観だったろう。しかし、そこに雲水が仏教を持ち込んだことでそれと融和してこの様な独自の宗教になっているのではないかと永は想像している。
早朝から始まった大法要が長時間続いており、さすがの永も正座している足が痺れてきた。
蕾生はとっくに胡座をかいており、瞼も重そうに舟を漕いでいる。
「……ねみ」
「ライ!しゃんとしなさい!」
だらしなく欠伸をした蕾生を鈴心が小声で叱責した。
永はそんな二人に気を配る余裕がなく、目の前の眞瀬木珪を注視している。
しかし、珪はじめ眞瀬木の誰もが涼しい顔で法要の祝詞に聞き入っていた。特に異常な雰囲気は見られない。
永遠に続くかと思われた村人の列が途切れ、本堂には主催者達と永達だけになった。
代わりに寺の境内は随分賑やかな様子だ。お参りを済ませた村人の多くがまだとどまっているのがわかる。
「では康乃様、剛太様」
「はい」
法要の全てを終えて、楠俊が康乃と剛太を伴って本堂を出る。続いて眞瀬木、雨都の者、その後に永達と梢賢が寺を出て藤生家の方へ向かって歩く。
さらにその後ろを少し間を空けて、村人達がぞろぞろとついてきた。
「おや?瑠深さんが見えませんね。さっきはいらしたのに」
周囲に気を配るのが常の鈴心が辺りを見回しながら言うと、隣を歩く梢賢がその理由を答える。
「ああ、ルミは先に行ってるよ。今年はアイツが舞うからな」
「?」
そんな短い回答では鈴心でも何のことかわからない。だが考える間もなく藤生家に着いてしまった。
邸宅の裏道を通って昨日準備された舞台へと一同は流れて行く。
真新しい木材で建てられた四畳程の舞台の上には、井桁に組まれた檀木がある。舞台には前方に昇降台があり、その前には観客席として数席が用意されていた。
最前列は康乃と剛太のみ。その後ろの四席に永達と梢賢が座る。
村人達はその後ろですし詰めかつ立ち見であった。人々は皆舞台の上に注目していた。
間もなく舞台の影から人が現れた。眞瀬木の三人だった。
先頭は鈴を持った瑠深で、白い着物に赤い袴、その上に千早という舞衣を羽織っている。千早には藤の花が大きく刺繍されていた。
次いで白い袍に白い差袴という祭事用の正装に身を包んだ墨砥と珪が歩いてくる。二人とも頭に冠を被り、墨砥は横笛、珪は小太鼓を持っている。
三人は最前列の康乃と剛太に深々を礼をした後、舞台に上がった。瑠深は舞台中央に静かに立ち、後方左右に分かれて墨砥と珪が楽器を構えた。
トントンと珪が小太鼓を叩く。それを合図に瑠深が鈴をシャン、シャンと鳴らしながら舞い始めた。墨砥の笛が繊細で不可思議な音色を奏でる。
スラリとした瑠深の手足が綺麗に弧を描き、舞台の上には清廉な空気が宿り始めた。
「──」
鈴心は瑠深の舞に魅了されていた。蕾生も眠気など忘れて視線が舞台に釘付けになる。
「すげえな……」
「なんて、美しい……」
感動しきりの二人に対して、永は氷のように冷静であろうとしていた。
瑠深の舞の後ろで小太鼓を叩く珪から視線を外さない。
梢賢が忙しいと言っていたのはこういうことか、と思った。確かに演奏中でしかもこれだけの衆人の前では何も出来ないと思われた。
舞が静かに終わる。拍手などは起きなかった。これは神への捧げ物であり、見せ物ではないからだ。
ただ鈴心と蕾生はあまりの美しさに拍手することさえも忘れていただけだったが。
瑠深が舞台を降りると代わりに横に控えていた八雲が舞台へ上がり、壇木で組まれたお焚き上げの台座を舞台の中央に出す。墨砥と珪もそれを手伝った。その間に柊達と楠俊も舞台に上がって行く。
柊達がまた祝詞を唱え始めて、八雲が壇木に火を放った。
「康乃様、お願いします」
「はい」
瑠深の声かけでまず康乃が舞台に上がる。
お焚き上げ台の前まで進み、手持ちの絹織物を炎の中に投げ入れてから祈った。火は少し強くなり、白い煙が空高く舞い上がっていく。
一連の儀式を終えた康乃はゆったりと舞台から降りて、村人達に深々と一礼して言った。
「では、皆さんもよろしくお願いします」
その言葉に従って、村人達は続々と列を作って順番に舞台へ上がり、それぞれの絹織物を火に焚べていく。
炎は勢いを増して、パチパチと火の粉を爆ぜながら陽炎を作っていった。
炎の周りがユラユラと揺らめいて、どこか異世界にでも通じてしまうような、空との境界を曖昧にしていく。
最後に墨砥が同じように儀式を終えると、康乃は永の方を向いて言った。
「では最後に、賓客の周防様、お願いします」
「あ、はい」
永は静かに立ち舞台へと進む。壇上のお焚き上げ台は既に近づくだけで強い熱気を放っていた。村人達がそうしていたように、永も自作の絹織物を焚べて手を合わせた。
脇で控える珪との距離はほんのわずか。祈り終わった永が珪に視線を移すと、珪は薄ら笑いを浮かべていた。
勢いを更に増して行く炎に煽られたその表情は不気味な凄みがあり、永に緊張を与える。
しかし、特に何をするでもなく、永も珪も一瞬視線を合わせただけで二人の距離は離れていく。緊張が解けずに身体を強張らせたまま、永は舞台を降りた。
「では、最後の祝詞を捧げます」
柊達が良く通る声で祝詞を読んでいく。八雲と楠俊がまた火を焚べて炎は最大に大きくなった。
一心に読み上げる柊達の声とともに、織物が爆ぜて灰になる。その残り香が天へと還っていった。
「無事に燃えてくな……」
「そうですね……」
蕾生も鈴心も燃えていく炎を眺めながら少し呆然としていた。
永は一人頭をフル回転させて周囲を注視していた。珪は舞台から降りて八雲、瑠深とともにその脇に控えている。
おかしい、何もしないなんて。だったらさっきの笑みはなんだったんだ?
静かに立ち続ける珪の姿を睨みながら永がそう考えた時、村人達の列を割って入ってくる婦人の姿があった。
「ご機嫌よう、麓紫村の皆さん」
祭の厳かな雰囲気を割って入ってきたのは黒い礼服に身を包んだ雨辺菫だった。
白い肌はいつにも増していっそう白く、口元の紅だけがくっきりと鮮やかに見える。
その手に引いているのは息子の葵。白いシャツ黒い半ズボンを着て一言も発さず、その瞳は虚ろで何も映していないようだった。
「御前、剛太様!!」
一番に動いたのは眞瀬木墨砥だった。真っ直ぐに舞台を目指して進んでくる菫から二人を守ろうと、その進路を避けるように脇へと素早く連れていく。
驚き慌てる梢賢も永達もその行動に従った。
「す、菫さん!?」
「バカな、どうやって入った?」
狼狽する梢賢と墨砥に向けて菫はクスクスと笑いながら言う。
「あら?村人の皆さんにお願いしたら入れてくれましたよ?うふふ……」
葵と繋がれていない方の手を口元にあてて笑う様は妖艶で、その中指には黒い石造りの環がはめられている。
「……」
葵の表情には生気がなく、菫に歩かされているようだった。
「ハル様、葵くんの様子が変です!」
「ああ……心ここにあらずって感じだ」
「藍ちゃんがいない……」
鈴心は辺りを見回して藍の姿がどこにも見えないことに不安を募らせた。葵が異常な姿で現れたのに、葵を常に守っていた藍がいない。
「永、あの指にしてるの、例の家宝だ」
「あれが、サイシンの輪?」
菫の手元を確認した蕾生が指したことで永は初めて犀芯の輪を目にした。黒光りしている石の環は禍々しい雰囲気を醸している。
「どないなっとんねん……」
「梢賢……ッ!」
菫の後方から、優杞が息を切らせてよろめきながら走って来た。ぼろぼろに汚れた姿を見て、梢賢も夫の楠俊もギョッとする。
「姉ちゃん!?」
「優杞!」
妻の異変を認めた楠俊は舞台の横から飛び降りて、迂回して優杞の側に駆け寄った。
「はぁ、はぁ……あなた、ごめんなさい」
夫に支えられながら這々の体でいる優杞に楠俊は厳しい声で聞いた。
「何があった?」
「突然あの女が寺にやって来て、藤生の方向へ向かおうとするもんだから、里の男達が止めようとしたの。そしたら、あっという間に全員吹っ飛ばされて……」
「ウソやろ……」
まだ目の前の光景が信じられない梢賢を睨みつけて優杞は叫ぶ。
「梢賢、あんたあの女知ってるね!?」
「う……」
「いいか、梢賢!これはあんたの責任だ。死ぬ気で止めな!あの女はもう人間じゃない!」
「あ……う……」
姉弟のやり取りも全く意に介さず、菫はゆっくりと舞台に近づいていった。
すぐに康乃が動く。墨砥はそれを止めようとしたが、その腕は振り払われた。
康乃は菫の歩みを遮るように舞台の前に立った。
「貴女、雨辺の方ね?」
「その通りです。初めまして、藤生の御当主様。私は菫、この子は息子の葵と申します」
「……」
菫は仰々しく笑って一礼する。葵はその場で微動だにしなかった。
それを受けて康乃も微かに笑って威厳を込めた声音で言う。
「今日は里では一番大切な行事ですのよ。日を改めてくださる?」
「あら、一番大切な日だからこそ参りましたの。私達もこれを奉納させて頂きたいと思いまして」
菫はハンドバッグから手製の絹織物を取り出した。その乳白色の輝きは、先ほど皆で炊き上げたものと遜色ない。
思いもよらなかった物を見て、康乃は厳しい視線を投げて言った。
「何故、貴女がお持ちなのかしら?」
「眞瀬木の方に頂きましたの。ずうっと私達を支援してくださっている──ね」
含み笑いながら菫はチラと珪の方を見た。それを聞いた墨砥が目に見えて狼狽する。
「な、……んだと?」
「チッ」
舌打ちした珪を見て永はやっぱり、と思った。菫を支援していたのは珪だったのだ。あんなに得意げに誤解だと言っていたのに。
「あの舞台の上に奉納するんですよね」
炎は下火になって燻っている。しかし菫はそれでも絹織物を手に足を一歩進めようとした。
それを制して康乃が立ちはだかる。
「申し訳ないけれど、雨辺のご先祖様は資実姫様の元にはいらっしゃいませんよ」
余裕を感じさせる笑みだった。本当に康乃に余裕があったかはわからない。けれど虚勢だとしてもそうした康乃の態度は菫を苛立たせた。
菫は歯軋りした後、恐ろしい形相で手を振り上げる。
「!!」
「──させぬ!」
その腕は康乃に届くことなく、墨砥に掴まれた。瞬時に康乃の前に走り出て菫を止めたのだ。その後ろで康乃は毅然と立って菫を睨んだ。
「御前、お下がりください」
「でも──」
墨砥が康乃に気を取られた瞬間を菫は見逃さなかった。
「邪魔よ」
菫は力任せに腕を振り上げ、その反動で墨砥を身体ごと吹っ飛ばした。それは常人の力ではなかった。
蕾生は菫の様子に驚いていた。今まで会っていたお淑やかな菫ではない。鬼女のような様相を目の当たりにし、蕾生は背負った白藍牙を意識し始めていた。
「父さん!」
高く舞い上がった墨砥は空中で身を翻して着地し、駆け寄った瑠深と合流する。
二人はすぐに臨戦態勢をとった。瑠深はジリジリと菫との距離をつめていく。墨砥はその後ろで瑠深に呼吸を合わせていた。おそらく二人がかりで菫を捕えるつもりだ。
だが、菫はそんな二人をつまらないものでも見るような目で見ていた。
「──ハッ!」
「──ッ!」
瑠深が手を組み掛け声を上げると、菫の体がビタッと周りの空気とともに固まった。その隙に墨砥が回り込んで後ろ手に捕える。
「あんた、目的は何!?うちを陥れるなんてどういう了見なの!?」
瑠深が詰問すると、菫は眉をへの字に曲げて泣くような声で言う。
「酷いわ……私は里に挨拶に来ただけなのに」
その弱々しい声とは真逆に、菫は捕らえられた腕をぐっと広げて墨砥を押し返した。
「ぬぅ!」
「どうして……あたしの緊縛が効いてないの!?」
瑠深は手を組み替えて術を強めた。しかし、菫の動きは止まらなかった。
「酷いわ、酷いわ……私はただお祝いして欲しいだけなのに」
亡霊のようにゆらりと立ちながら菫は今度は本当に涙を流す。
「お祝い?」
永が怪訝に聞き返すと、泣いていたはずがすぐにニヤリと笑って菫は高らかに宣言した。
「私の息子がうつろ神となって、里に降臨するお祝いを──!」
その言葉にその場の全員が凍りついた。
「な……」
「何ですって?」
墨砥も康乃も動揺して一瞬動きを鈍らせた。その隙に乗じて珪が右手を挙げるのを梢賢の目が捕らえていた。
「……」
「まずい!葵くん!」
危険を察知した梢賢は葵に駆け寄った。
「爆ぜろ、裁きの熱波」
潜もった珪の声が聞こえた。梢賢は葵に覆い被さって身を伏せる。しかし、二人に危害は加えられず、すぐ側で菫の悲鳴が響いた。
「キャアアアア!」
「菫さん!?」
驚いて顔を上げると、菫は立膝をついていた。その身体から焦げた匂いがする。
「灰砥様!?何をなさるんです?」
菫は珪に向けてそう呼びかける。梢賢も永もその名がここで出たことに驚いていた。
珪は眼鏡を整え直してゆっくりと菫に近づいてくる。
「困った人だ。いつになったらわかってくれるのか……。僕は珪ですよ、灰砥伯父さんの代わりだって言ったでしょう?」
しかし菫は恐怖に怯えながら地面に手をついた。
「灰砥様、申し訳ありません!気に障ったのなら謝ります。ですが、息子の葵はここまで来ましてよ」
もう何処を見ているのかわからない瞳をして菫が言うと、珪はにっこり笑って言った。
「ええ、よくやりましたね。メシア様もお喜びになるでしょう」
「ああ、灰砥様……」
その言葉に菫が恍惚の表情を見せると、珪は顔を顰めて短く呪文を発する。
「──熱波!」
「アアアァァァッ!」
珪の呪文とともに、菫がまた悲鳴を上げる。炎など見えないのに菫の身体は焦げていった。電磁波で熱せられた肉塊のようだった。おぞましい匂いが場を埋めていく。
「僕は珪だと言っただろう。学習しない女だ。だから寄生虫は嫌なんだ」
「申し訳……申し訳ありません……」
吐き捨てる珪の言葉に、菫は地面に伏してブルブルと震えながら謝り続けた。
「珪兄ちゃん!もうやめてくれ!酷すぎる!!」
梢賢が叫んで懇願すると、珪は冷たく言い放った。
「梢賢、この女の末路はお前にも責がある。お前が甘やかすから図に乗ったんだ」
「それは──そうかもしれんけど……」
二の句が告げない梢賢に変わって蕾生も永も、鈴心でさえも口々に抗議した。
「ふざけるな!梢賢はその人を正気に戻そうとしてた!」
「そうです、その為に僕らは呼ばれたんだ!」
「梢賢は一生懸命やりました!」
三人の姿を憐れむように見てから、珪は溜息をつき静かに言う。
「鵺人の方は黙っててくれませんか。いよいよ最後の詰めなのでね」
「え?」
聞き返した永を無視して、珪は菫に向き直った。
「菫」
「──」
弱々しく顔を上げる菫に向けて、珪は穏やかな笑みを与える。
「今までご苦労だったね」
「は──?」
「僕はね、お前のような人間が一番嫌いなんだ。働きもせず他人の力で生かされているくせに、自分は特別だから当然だと思い上がる。──虫唾が走るよ」
「あ、あの……?」
何を言われているのか、もはや菫には理解できていなかった。それを満足げに眺めて珪はもう一度右手を挙げる。
「さあ、己の罪を清算するといい。せめて最期に息子の役に立つことでね」
非情な呪文が紡がれた。
「我が視線は獣を貫く。地に堕ちろ、冷たき屍の輝石」
「ヒアアァアァッ!葵……あおい、アオイ、アオ──」
絹を裂くような悲鳴をあげて菫の身体は発光していく。最愛の息子の名を呼びながら、その存在は消えていった。
地面には拳大の紫色の石が転がった。次いで犀芯の輪だけが地に落ちる。菫の姿はどこにもなかった。
「菫さん!?」
「──!!」
梢賢の腕の中で、葵はその光景を見ていた。瞳が衝撃に揺れる。
「石化の術!?どうしてお前がそれを!?」
「呪力の低い僕にはできるはずがない、とお思いですか?お父さん?」
動揺する墨砥に珪は笑いかけた。それは侮蔑の笑いだった。次いで瑠深も震えながら言う。
「でたらめよ。その術は遺体や遺骨を永久保存するための秘術。生者にかけるなんてできるはずない!」
「やれやれ。瑠深、伝統ばかり教わっていては進歩できないぞ。僕のように既存のものをアップグレードしていかないと時代に置いていかれる」
「そんな……それでも、兄さんの実力でできるとは──」
その言葉に顔を顰めた後、ニヤリと笑って珪は得意げに説明を始めた。
「可愛い妹のために種明かしをしてあげよう。菫には何年も石化促進の術をかけていた。もうあの体は石になる寸前だったんだ。そういう状態にもっていけば、僕程度の呪力でも実行できるという訳だ」
「なんて……卑劣!」
そこまで聞いた永はそう罵らずにはいられなかった。蕾生も怒りを堪えながら拳を強く握りしめる。
「お前は……何と言うことを……」
墨砥は現実に打ちのめされて肩を落としていた。珪の策謀に愕然としている。
「珪兄ちゃん!菫さんはどうなったんだ!?戻してくれよ、早く!」
おそらくあの紫色の石が菫だろうと思った梢賢が叫ぶと、珪は溜息をついていた。
「瑠深の話を聞いていなかったのか、梢賢。石化の術は遺体を保存するためのものだ」
「え……」
「雨辺菫は、死んだんだよ」
「──」
その冷たい目には、地に落ちた石ころなどとうに映っていない。梢賢は言葉を失った。
「なんてこと……」
「そんな……鵺の、鵺の呪いは……こんなにも人を破滅させるのか──」
鈴心も永も、あまりに残酷な結末に打ちひしがれた。その横で、蕾生は己から怒りの感情が湧き上がっていくのを感じていた。
「ウソだ……菫さんが死んだなんて、ウソだ……」
首を振ってうわごとのように呟く梢賢に、珪は更に追い討ちをかける。
「嘘じゃない。菫は永久に石になったんだよ。お前のその楓石のようにね」
「──!」
梢賢は胸元に手を置いて衝撃に耐えるように肩を震わせていた。
「何ですって……」
それを聞いていた鈴心も同じように震える。
「まさか、楓サンを石に変えたのは──」
永は橙子から聞いた話を思い出していた。
確か楓は呪いに詳しい人の治療を受けたと言っていた。あの時も眞瀬木のことだろうとは思っていたが、こういう意味もあったのかと思い至る。
「おかあ、さん……?」
おぼつかないままだった葵がとうとう口を開いた。梢賢の腕から逃れて地面に転がる紫色の石に近づく。
「葵くん!?だめだ!」
「お母さん……?」
震える手でその石を取り瞳を揺らすその姿に、珪はまたニヤリと笑った。
「まずい!」
永が危険を叫ぶ。
鵺化の条件。
対象者が身的あるいは精神的に大きなストレスを抱えた時──
「お母さん!お母さん!お母さんッ!!」
鵺が顕現する。
「葵く──」
梢賢の声は届かなかった。
蕾生は自らの経験を元に、これから何が起こるのかを知っていた。白藍牙を握ってその時に備える。
「葵くん!?」
葵の身体が青く発光した。続いてどこからか黒雲が現れその身体を包んでいく。
「黒雲……!」
永はまたも己の無力さを嘆いた。
「さあ、うつろ神の降臨だ」
珪は邪悪な笑みを浮かべながら、その呪いを迎えるために両手を広げた。
葵を覆っていた黒雲が晴れた。頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎。そこには黒い色の鵺が深い怒りを帯びて立っていた。
「あ、葵くん……?嘘だろ……?」
梢賢をはじめ、その場の誰もが今見ている光景を信じられずにいた。
永は後悔と己の力不足に打ちのめされかけた。だがすんでのところで心を奮い立たせる。
「優杞さん!楠俊さん!村の人達を遠くに逃してください!」
「え?あ……」
「早く!皆、殺される!早く逃げるんだ!」
永の叫びを聞いて村人達は我に返り、半狂乱となって寺の方向へ走る。群衆雪崩が起きそうな雰囲気で、危険を感じた楠俊が村人達の元へ駆け寄った。
「みな、落ち着いて!とにかく寺まで走って!」
指示を出しながら楠俊は妻の方を省みる。優杞はあちこちに怪我を負っており、腰が抜けてしまっているようだった。
だが夫婦のアイコンタクトで楠俊は苦悶の表情を浮かべながら先に走り出す。
「梢賢くん!優杞を頼む!」
「私は大丈夫、機敏には動けないけど自分の身くらいは守れる」
「姉ちゃん……」
「それよりも、あんたはこの状況を良く見ておくんだ。これから何が起きても後悔しないように」
優杞の真剣な言葉に、梢賢は葵のいる方を向いて息をのんだ。
黒い鵺となった葵は低く唸っている。目の前の康乃を狙っているようだった。
蕾生はその前に立ちはだかって白藍牙を構えた。
「俺が食い止める。その間に──」
「わかった。葵くんが元に戻る方法を探す。リン、優杞さんと梢賢くんの援護を」
「御意」
永と鈴心がばらけた後、珪は懐から棒状の呪具を取り出した。
「フ、フフ。素晴らしい!まだこの犀髪の結すら使っていないのに鵺化するとは!葵、君は本当に救世主だ!」
蕾生は横目で珪を見ながら、その手に持った呪具の禍々しい空気を感じていた。
それは永も同様で嫌な予感がしていた。あれを使われる前にけりをつけなければならない。
「おい、珪!葵くんを元に戻せ!」
永が注意を引こうとわざと大袈裟に叫ぶと、珪は顔を歪めて笑いながら答えた。
「はあ?冗談でしょう?ここまで来るのに僕がどれだけの金と労力をかけたと思ってるんです?」
「その手に持ってんの!キクレー因子の制御装置だろ!それで葵くんの因子を鎮めろよ!」
それを聞いた梢賢は僅かに希望を持って鈴心に聞いた。
「ほ、ほんまか?」
「銀騎でも似たような装置を作っていました。おそらく可能だとは思うんですが……」
銀騎詮充郎が作った萱獅子刀のレプリカ、今の白藍牙のことだが、皓矢がそれを使って鵺化した蕾生を人の姿に戻したことがある。
だが、あれは皓矢の磨かれた対鵺の術があったからではないかと鈴心は考えていた。それを行使できる人材がこの場にいるのだろうか。
事態が膠着しつつある頃、康乃が舞台の上にいる柊達に呼びかける。
「達ちゃん!」
「は、は!」
「動けますね?降りてきて剛太をお願い」
「はい!」
命を受けた柊達は昇降台を使って舞台を降り、梢賢達の側で震えている剛太の元へ走った。
「御前もお下がりください。あれは危険です」
墨砥は蕾生の隣までやって来て、後ろの康乃に言う。しかし康乃は厳しい顔のまま拒んだ。
「いいえ。これは私に定められた運命です。私はこの里を守る義務がある……!」
「御前……。では私より前にはお出にならぬよう」
康乃の決意に腹を決めた墨砥は蕾生とともに鵺と対峙するべく構えた。康乃も毅然と鵺化した葵を睨む。
蕾生は永が習っていた剣道の構えを思い出しながら白藍牙を構える。
「葵、聞こえるか。蕾生だ。俺はお前の仲間だ、わかるか?」
蕾生は目の前の葵が自分と「同じ」ものだと言うことを感じていた。何がどうとかはわからない。けれど葵と意思の疎通が出来るのは自分しかいないと思った。
だが黒い鵺となった葵の目は虚ろに曇り、怒りにまかせて低く唸った後蕾生に飛びかかる。
「!」
来る!と思った瞬間、蕾生は白藍牙を盾に葵の爪を弾いた。それまではただの木刀だと思っていた白藍牙は、まるで鋼のような硬さで葵を弾いた。
「ガッ!……ウゥ」
白藍牙に弾かれた葵は身を翻して着地し、蕾生を注視しながら一歩後ずさった。
葵の攻撃を受けたからか、白藍牙は鈍くも白く光っており、とてもその素材が木であるとは思えなかった。
皓矢から碌にレクチャーも受けずに使ったものの、ちゃんと対抗できていることに蕾生は素直に驚いた。
「なんと素晴らしい呪具だ!そして素晴らしいお力!さすが鵺人、いや、黄金の鵺!」
蕾生と葵の攻防を見た珪は興奮しきりの表情で讃える。
しかし永は珪が「黄金」という言葉を使ったことに驚いていた。そんな事まで知っているだなんて、情報収集に自信があると言っていたのは伊達ではなかったのだと。
「ああ、私の鵺もその高みに昇らなければ……」
そうして珪は興奮したまま手に持っている犀髪の結という呪具を高く掲げた。おそらく「正しい」使い方をするつもりだ。
「やめろぉ!」
永は叫んだ。鵺化した葵に更なる力の活性化を図られたら蕾生はただでは済まない。
「神女の髢よ!」
珪の短い呪文とともに、犀髪の結の先端が一瞬だけ光った。
「!?」
だが、何も起こらない。蕾生と鵺化した葵は距離をとって睨み合いを続けている。珪の動作など気にしてはいないようだった。
「珪!言ったはずだ、お前では扱えない。ストッパーが掛かるように調整した」
舞台の脇にいた八雲が歩みを進めて言った。
それを聞いた珪は顔を歪めて歯を軋ませる。
「余計な事を……瑠深ィ!!」
「は、はい……」
憤りに任せた珪の呼ぶ声に、瑠深は気圧されながらも返事をした。妹を見る兄の目は、既に常軌を逸している。
「お前が使いなさい」
「ええ?」
犀髪の結を瑠深に差し出してニヤリと笑う珪。その姿に邪なものを感じ取った八雲は大声で制する。
「珪、よすんだ!」
「八雲!あれは何なのだ?」
蕾生とともに葵と対峙していた墨砥だったが、堪らず八雲に聞いた。八雲は後悔に顔を歪ませて俯きがちに答える。
「……術者の呪力を引き金に鵺の妖気を増幅して対象に放出するものだ。墨砥兄さん、すまない。珪に頼まれて鵺の妖気を元に、俺が作った」
「何故そんな危険なものを作った!?」
「申し訳ない。職人として、鵺の妖気を扱う誘惑に勝てなかった……」
墨砥は叱責するより先に、呪術師として当然浮かんだ疑問を投げる。
「鵺の妖気?そんなものがどこにあったのだ?」
「犀芯の輪だ。あれを使った」
「だがあれは雨辺がはめていただろう?」
菫は犀芯の輪を指に嵌めて現れた。見せた常人ならざる力もあの環が成したことだろうと墨砥は思っていた。
そして菫が石になった今、犀芯の輪はまだ鵺化した葵の足元に転がっている。
するとその会話に珪が笑いながら入って来た。
「いやだなあ、お父さん。あんな重要な呪具雨辺には勿体無いですよ。とっくに回収済みです」
「じゃ、じゃあ、菫さんが持ってたのは……?」
梢賢が恐る恐る聞くと、珪はまたそちらを向いて可笑しそうに言う。
「八雲おじ様渾身のレプリカだよ。まあ、僕がその後呪毒を仕込んだけどね。おかげで菫の石化が上手くいった」
「珪兄ちゃん……いつからそんな風に」
「そんなことはどうでもいい。瑠深、この犀髪の結に呪力を込めなさい。お前なら、鵺のその先を導くことができる」
梢賢の言葉を鼻で笑って、珪はもう一度瑠深に犀髪の結を差し出して命令する。
「瑠深、だめだ、聞くんじゃない!」
「父さん……」
瑠深は墨砥と珪に挟まれて困惑していた。
「瑠深ぃ、兄さんの頼みだ、聞いてくれるだろう?僕ら兄妹で眞瀬木を盛り立てていくって約束したじゃないか」
「に、兄さん……」
父と兄。どちらが正しいのだろう。どちらの言うことを聞けばいいのだろう。瑠深はその狭間に立って混乱していく。
「瑠深!」
「瑠深ィ!!」
「あ、ああああっ……!」
困惑、そして恐怖。大切な家族の間で板挟みとなり苦しむ瑠深の姿が、蕾生の中であの日祖父に苦しめられた星弥の姿と重なった。
「てめえら、いいかげんにしろ!!」
叫んだ蕾生の怒号は、その場の空気をビリビリと震わせた。
「!!」
その気迫に押され、眞瀬木の三人は身体を強張らせる。蕾生から漂う強者の匂いを感じたからだ。
「ライくん、落ち着──黄金の、雲?」
ここで蕾生まで怒りに呑まれて鵺化してしまっては危険だ。永は宥めようとしかけて、蕾生の周りに漂う黄金色の靄に気付く。
「そいつをお前らの欲望で振り回すんじゃねえ……!」
墨砥と珪を睨む蕾生の迫力は、その場の全員から言葉を奪った。そしてそれは葵にも同様で、更に慎重さを見せてもう一歩後ずさった。
「うあっ……!」
「ライくん!」
蕾生は膝を震わせて苦悶に顔を歪めた。
「は、るか……、ちょっと、俺、やばい──」
「ライ!落ち着きなさい!」
鈴心も懸命に叫んだ。だが、蕾生は片手で頭を抱えて苦しむ。
「あ、あぁ……」
永は蕾生の周りに増えていく黄金色の靄を注意深く観察していた。これまでの鵺化ならもっと禍々しい黒い雲が出て来たはずだ。
だが、今見えている黄金の雲は、とても清々しい。
それなら──
「ライ!構わない!その怒りを解放しろ!」
「ハル様!?」
驚く鈴心に頷いた後、永は蕾生に向けて言う。
「ただし、前みたいに怒りに任せるんじゃない!その怒りをコントロールするんだ!お前の中の鵺を従えるんだ!」
「鵺を……従える……」
頭を重そうに抱える蕾生に、永は真っ直ぐな瞳で大きく頷いた。
「ライくんなら出来る」
「でも、もし──」
不安気な蕾生に向けて、永はにっこり笑ってもう一度頷いた。
「大丈夫だライくん。僕らは君を愛してる」
「──」
「君がどんな姿になったって愛してる。──君を、信じてる」
君はこんな呪いなんかに負けやしない。
一度勝ったんだ、きっとまた勝てる。
僕らはそう、信じてる。
永の思いは鈴心にも、もちろん蕾生にも伝わっている。
「ライ、思いっきりやりなさい」
鈴心も信頼の瞳を向けて頷いた。
そこで蕾生の気持ちも決まる。
「これ、頼む」
「!」
蕾生が投げてよこした白藍牙を受け取った永は驚いた。手に持った途端にビリビリととてつもないエネルギーが伝わる。木材であることは間違いないのに、未知なるものを触っているような感覚だった。
「おい、ガキ!駄々こねてないでしっかりしやがれ!」
蕾生は葵を見据えて叫んだ。
「ガァ!」
その気迫に鼓舞されたのか、鵺化した葵は地面を踏み締め短く吠え、臨戦体勢をとった。
「仕方ねえから付き合ってやるよ……!!」
蕾生は自分の中に渦巻いている強い力を解放した。すると強い風とともに黄金色の雲が舞い上がる。雲はどんどん増えて蕾生を包み光り輝いた。
「眩しっ!」
「なんちゅーこっちゃ……」
瑠深は眩しさに目を眩ませ、梢賢は呆然とその成り行きを見届ける。
「これは……凄い、凄いぞ……ッ!」
珪は歓喜の声を上げ震えていた。
雲が晴れる。
金色に光る毛をなびかせて、気高い狒々の眼差しを持った鵺が雄々しく立っていた。