「しばらくは淡々と分析作業が進められていた。だけどある日、眞瀬木(ませき)の子息は突然乱心したとある」
 
「狂ったのか?」

 普通に暮らしていたらそんな状況には縁がない。蕾生が驚いて聞くと、皓矢(こうや)は言葉を選びながら答えた。
 
「──その表現が正しいかはわからないが、眞瀬木の子息は突然暴力的になり、その場を荒らして、同僚達の制止を振り切ってそのまま出奔したそうだ。乱闘のどさくさに紛れて、(ぬえ)の腕の毛を一握りむしってね」
 
 イマイチ情景が見えてこない蕾生(らいお)は、とりあえずの事実だけを確認する。
 
「持って帰ったっていう遺骸は、腕毛だったのか」
 
「そうだね。最初に見た記録に遺骸とだけあったから、もっと肉体に近いものを持ち出したのかと思ったのだけど、詳しく調べてみたら体毛を数グラムというものだった」
 
「毛だったら、たいした被害じゃねえってことか?」
 
 蕾生の問いに、皓矢が少し困って言った。
 
「うーん、そこは意見がわかれるね。お祖父様だったら毛一本でもお怒りになると思うな。
 だけど、当時は鵺の分析を始めたばかりだったし、幽保(ゆうほ)は天才がゆえに物事を過小評価するくせがあったから、僅かな体毛だけではどうにもできないだろうと見逃した可能性が高い」
 
「ふうん……」
 
「眞瀬木は結界術の達人だったから、僅かな体毛のために本格的な探索をするのが面倒くさかったのかも」
 
 皓矢がわかりやすい言葉を使っているおかげで、蕾生もなんとか理解できている。
 
銀騎(しらき)の爺さんが尊敬してるわりに、テキトーなヤツだったんだな」
 
「まあ、天才がゆえだ。何かあったとしても、退ければいいだけという自信の表れだね」
 
「そうすると、昨日永が言ってたのとは違うくならねえか?」
 
 蕾生がそう聞くと、皓矢は少し考えた後答える。
 
「……眞瀬木の技術と銀騎の技術に鵺の未知数の妖気を足したヤバい術かも、っていう話かな?」
 
「それ」
 
「いや、昨日の話を否定するのはまだ早いかな。鵺の体毛を眞瀬木がどう使ったか、それ以前に体毛にどれだけの妖気があったのかがわからないからね」
 
「銀騎ではわからねえのか?」
 
 蕾生の問いに、皓矢はまた困りながら笑う。
 
「そういうアプローチで調べ直すにはサンプルがいるんだ。残念ながらうちにあった鵺のサンプルは君が二つとも壊してしまったろう?」
 
「ああ、そっか……」
 
「まあ、とりあえず僕からの報告は以上だ。(はるか)くんに伝えて欲しい」
 
「わかった」
 
 とは言ったものの、蕾生には些かの不安が残っていた。それまでの話を頭の中で反芻する。だが皓矢の質問でその作業は中断された。
 
「君達の方は何かわかったかい?」
 
「ああ、実はさっき──」
 
 問われるまま、蕾生はさっき見聞きした雨辺(うべ)(すみれ)の状況を辿々しく説明した。
 
「……一日五回のお祈り、小さな像に、家宝の……指輪かい?」
 
「さいしんのわ、って言ってた。言葉の意味はわかんねえ。見た目は黒くてピカピカの石でできた指輪だった。民芸品みたいなやつ」
 
「さいしん、さいしん……ね。わかった、こちらでも調べてみよう」
 
 それがどういう意味でどんな漢字で書くのか蕾生にも全くわかっていないので、皓矢も頭を捻っていた。
 狸寝入りしている梢賢(しょうけん)なら検討がついているのだろうかとは思ったが、横を見ると梢賢は相変わらず寝息をわざとらしく立てているので諦めるしかなかった。
 
「あと、(あおい)のやつが飲んでるっていう薬も見せてもらったけどよ……」
 
「ほう?どんなだった?」
 
「小さい紙のお札だった。変な動物の絵が描いてあって、それを見たら吐き気がした」
 
 蕾生がそう言うと、皓矢は更に真面目な顔で聞き返す。
 
「──比喩ではなく、物理的に?」
 
「ああ。気持ち悪くて、急いで家を出たんだ。梢賢はあの絵は鵺なんじゃないかって」
 
「そうか……何故そんなことをするんだろう」
 
「あの女が言ってたのは、あれを飲むのは鵺の使徒として覚醒するためだって」
 
 蕾生の説明に、皓矢は顔を近づけて興味深そうに聞いた。
 
「覚醒?するとどうなるんだい?」
 
「そこまではわかんね。人によって違うって言ってた。なんか、上位の存在になれるとか……」
 
「随分漠然とした表現だね。それでも雨辺菫はそう信じてるんだね?」
 
「ああ」
 
 蕾生は改めて小さな仏像を一心に祈っていた菫の姿を思い浮かべた。今思い出しても少し寒気がする。
 皓矢は何かを考えながら蕾生に注告した。
 
「そんなふわっとした表現で、人一人を洗脳しているんだとしたら、伊藤という人物は相当危険かもしれない」
 
「……」
 
「とにかく気をつけて、慎重に行動しなさい。永くんと鈴心(すずね)にもきつく言って欲しい」
 
「わ、わかった」
 
 蕾生達を簡単に手玉に取った皓矢がここまで言うには相当な危険があるのかもしれない。蕾生は改めて気を引き締める。
 
「じゃあ、切るよ。炎天下で熟睡するのも限界だろうからね」
 
「ああ」
 
 皓矢の電話が切れるとすぐに、梢賢は片目を開けた。
 
「ぐうぐう……終わった?」
 
「おう」
 
「あーよく寝たー!」
 
「嘘つけ、汗ダラダラじゃねえか」
 
 蕾生がつっこむと、梢賢は待っていたと言わんばかりに大袈裟に怒って見せた。
 
「死ぬかと思ったわ!男の長電話は嫌われるで!」
 
「す、すまねえ……」
 
 だが素直に謝る蕾生に毒気を抜かれて、梢賢は溜息を吐きながら腰掛けていたガードレールから飛び降りた。
 
「よし、冷房の効いた店で昼飯食って帰ろ!姉ちゃんのメシは薄くてかなわんわ」
 
「はいはい……」
 
 そうして二人はまた駅前へ戻っていった。日差しがジリジリと更に厳しくなってきていた。