雨都梢賢がダサい件についての話題が一段落すると、蕾生は少し遠慮しながら別に話題を切り出した。
「あのさ」
「うん?」
「今のうちに聞いておきたいんだけどさ」
「どしたの、改まって」
蕾生があまりに消極的に聞くので、永は深刻になり過ぎないように明るい声音で聞き返す。
それで蕾生は思い切って言うことができた。
「楓って人のこと」
「あー……そっかあ……」
「まだ、俺が知らない方がいい事があるなら無理には聞かねえけど──」
蕾生の疑問は当然だった。蕾生だけは転生する度に記憶がリセットさせているのだから、雨都梢賢の大叔母である楓に関する知識はゼロだ。
蕾生が鵺に変化する身であるほどの濃い呪いを受けていることを隠しておきたかった永は、つい最近まで前世を知りたがる蕾生の質問をずっとはぐらかしていた。
過去には自分が鵺化する運命だと知った途端に、その心的衝撃で鵺になってしまったこともある。
そういう経験から永は蕾生には最小限の知識しか与えてこなかった。常に心的ストレスによって鵺化してしまう危険があるので、蕾生は消極的なのだ。
だが、もう隠しておく必要はない。蕾生は鵺化を乗り越えたのだから。
「いや。正直、僕にもここから先のことはどうなるかわからないんだ。いつもならライが鵺化したら即終了だったからね」
だから永は蕾生が疑問に思ったことはこれからは全て答えるつもりでいる。
「鵺化の向こう側があるなんて初めてのことですからね」
鈴心にもその方針は言わなくても伝わっている。
「なら──」
「うん。これからは僕らが知ってることは何でも教えるよ。僕らも知らない事だらけだけどね!」
「じゃあ、頼む」
そうして蕾生はやっと安心してずっと聞きたかったであろう話をせがんだ。
「わかった。雨都楓サンに初めて会ったのは、前の前の転生だからええとどれくらいだ?」
「およそ五十年前です」
永は少し眉を顰めて記憶を辿る。
鈴心のアシストがあってようやく思い出したように当時の説明を始めた。
「そうそう、それくらいだね。僕がまだライくんにも転生の事を伝えていない、リンも合流していない頃、突然彼女は現れた。セーラー服を翻して颯爽と、ね」
「どうやってわかったんだ?」
リン──転生前の鈴心が毎回都合よく現れることは既に聞いていた蕾生だったが、雨都楓までも突然永を訪ねてくるとは不思議で仕方ない。
「いやあ、それについては楓サンに聞いても教えてくれなくって。今回の事といい、雨都には僕らの居所がわかるツールがあるのかもしれないね」
「麓紫村に行ったらわかるでしょうか?」
「──期待はしてるけどね。で、いきなり目の前に慧心弓を突きつけて彼女は言ったよ、「返しにきた」って」
どうやら永と鈴心にも雨都のことはわからないことがあるらしい。
全てを呪いが引き合わせていると考えてもよいものか、蕾生は迷った。そこで思考を停止してしまってはいけない気がする。
「慧心弓ですが、随分前に雨都に──当時は別の名前でしたが預けたんです。そして彼らは弓を持ったまま行方知れずになってしまった」
鈴心の言葉を引き取って、永はやはり思い出すように、所々眉を顰めながら続けた。
「楓サンは雨都家がこれまで僕らに関わってきたことを、宿命って言ってた。
蔵に隠すように仕舞われていた弓と一本の矢。それから一緒に置かれていたこれまでのことが書いてある文献を隈なく読んでそう思ったって。
宿命は果たさなければならない、ってなんか思い詰めた感じだったんだよね、最初」
すると鈴心も頷きながら補足する。永に比べて鈴心は記憶を引き出すのに淀みがない。
「当時、雨都は銀騎に男子が生まれない呪いをかけられていましたから、その事も大きな要因だったんでしょう。
私達と関われば自ずと銀騎も出てくる。そうすれば雨都にかけられた呪いを解くことができるかもしれない」
「そうだね、彼女の目的はむしろそっちだった。僕らに関わるのはついでだってはっきり言ったから」
「楓って人は一人で来たのか?」
「そうだよ」
蕾生の中で単身銀騎研究所に乗り込んできた雨都梢賢の姿とまだ見ぬ楓の姿が重なった。
「じゃあ、雨都の代表ってことか」
「違う。彼女の行動は雨都の総意じゃない。あくまで独断でやってきたんだ、家出同然でね」
「なんでそこまでして?」
予想に反した永の答えに蕾生は驚いた。少なくとも雨都梢賢は身内には告げてきていたようだったから。
「詳しくは教えてもらえなかったけど、限界がきてるって言ってた。当時彼女は故郷のことを里って呼んでたんだけど、このままじゃ里は先細りだって」
「雨都の呪いを解けば、故郷が救えるってことか?」
「さあ……。どんな因果関係があるかはわからないな。とにかく慧心弓と翠破を手にした僕は楓サンと一緒に行動することにしたんだ。彼女が現れた直後にリンとも合流できたからね」
「私達は萱獅子刀を探すために、楓は呪いを解くために銀騎に近づく必要があった。目的が一緒ですから、手を組むことにしたんです」
そこまで話すと、永は溜息を吐きながら当時を振り返った。少し納得していないような雰囲気だった。
「それにしても彼女の行動力はとんでもなくってね。なんだかんだあったけど、楓サンがいつの間にか主導権を握ってて、「雨都楓とその一味」みたいになってたよ」
永は常に自分が主導していないと気がすまない性質がある。大勢の臣下を従えた武将だった頃の名残りだろう。
「雨都楓は俺達を利用して、自分達にかけられた呪いを解いたってことか?」
そんな永の雰囲気を察して、雨都楓にかつて利用された可能性を聞いてみる。
だが、即座に鈴心が首を振った。
「結果だけを見れば、そういう見方もできるかもしれません。でも、私達はそうは思っていません」
その言葉に永も追随した。
「まあ、楓サンの目的は達成されて、僕らはまた失敗した。でも僕はせめて楓サンが救われたからいいと思ってる。ずっと雨都の厚意に甘え続けてきたんだ、それくらいの恩返しはしなくちゃならない」
「そうです。だから雨都梢賢と言う男がやって来た時は私は嬉しくもありました。楓のやったことが報われたんだって」
「だねえ」
二人が顔を見合わせて言う様には、嫉妬とか嫌悪とかそういう類のものは全くなかった。
「そうか……。お前らは雨都楓には恩義を感じてて、好意も持ってるってことだよな?」
蕾生の確認にも永は力強く頷いた。
「もちろん。彼女には随分助けてもらったよ。だからその子孫が困ってるなら助けたいんだ」
「俺達に、何ができるんだろうな」
「それも現地に行ってのお楽しみ、だね」
「そろそろ着きそうですね……」
車窓を眺めながら残念そうに呟く鈴心の肩を優しく叩いて、永は立ち上がった。ちょうど列車の走るスピードが落ち、ホームへと入る所だった。
「じゃあ、行こうか。楓サンの故郷。あの時の疑問を解消しにね」
「──?」
最後に付け足したその言葉の意味を、蕾生はまだ理解できなかった。
高紫市という駅に到着した三人が改札を出ると、ピンクブロンドの髪を無造作に括り、柄シャツ短パンという派手な格好の男が手を上げながら近づいてきた。雨都梢賢である。以前会った時はただの金髪だったが、さらに派手に染めてきた様子に、三人は面食らった。
「おおーい、こっちや!」
「おお……」
永と蕾生はこのチンピラの風体に引きながらも向かっていったが、鈴心は些かの嫌悪感を抱き、自然と歩みが遅くなった。
「いやー長旅お疲れさん!やっと来てくれて嬉しいわあ」
「はあ、どうも……」
馴れ馴れしく永の両手を握って歓待を示す姿は、親愛を表してくれているように見えなくもない。永は愛想笑いで一定の心の距離を保とうとした。
「ライオンくんもありがとなあ」
「ライオンじゃない、蕾生だ」
蕾生が少し憮然となって訂正すると、梢賢は一際明るい声で蕾生の背中を叩きながら笑った。
「あだ名やん!どうせ地元でもそう呼ばれとるんやろ?」
「──あだ名で呼ばれたことはない」
「えっ!ああ……ごめんな、寂しい子やったんやねえ、堪忍やで」
蕾生がさらに不機嫌になって答えると、梢賢は大袈裟に後ずさって、急にしんみりした態度になった。が、どう見てもおちょくっているようだった。
「永、こいつ殴りたい」
「ダメダメ、死んじゃうでしょ!」
「大人になりなさい、ライ」
常人ならざる怪力を持つ蕾生に殴られたら、おそらくこのチンピラはひとたまりもない。永も鈴心も焦って止めに入った。もちろん冗談ではあるけれど。
「なんか物騒な話してんね……。ま、まあええわ!ハル坊にライオンくん、それから──」
身の危険を感じた梢賢は慌てて話題を変えようと鈴心に向き直った。
「御堂鈴心です」
「おっ、ちいこいのに礼儀正しいお嬢ちゃんやね。よろしゅうな、鈴心ちゃん」
あきらかに男女で呼び名の差をつける様は、かえって清々しくもあるなと永は思った。
「坊、とか呼ぶけど、あんた幾つなんだ?」
だが蕾生の方は、永を子ども扱いされて面白くない。そんな感情を素直に態度に出すと、梢賢はまた大袈裟な手振りで言った。
「ええー?見た目によらず細かいこと気にするなあ、ライオンくんは。まあええ、オレは十九歳!大学一年生や!」
「──そっスか」
思っていたよりも年齢差があって、蕾生は意気消沈するしかなかった。
「おお?年上だって認めてくれたんやねえ!素直な子は好きやでえ!」
そんな蕾生の白旗を敏感に感じ取って子ども扱いに拍車をかける梢賢に、また殴りたい衝動に駆られる。
「ライくん、ステイ、ステーイ!」
永が宥めると、見かねた鈴心が話題を変えた。
「あの、何故関西弁を?ここは違いますよね?」
「いやや、鈴心ちゃんも鋭いねえ!オレのこの喋りはキャラ付けや!大学デビューってやつ!」
思っても見なかった答えに、永も蕾生も言葉を失う。
だが、鈴心はその聞き慣れない単語を反芻した。
「大学、デビュー、とは?」
「オレ、山奥のどど田舎出身やろ?でも大学は君らの学校の近くやねん。つまり都会や。都会モンにはなめられんようにせんとあかん!
元から芸人とかむっちゃ好きやねん、ほんでその喋り方をな、勉強してん。芸人はモテるからなあ、オレもきっとモテる!」
拳まで握って力説するが、内容は実にしょうもない。鈴心は理解に苦しんだ後、理解するのをやめ、愛想笑いで心の距離をとった。
「は、はあ……そうですか……」
「だからな、オレの関西弁はネイティブやないから、たまーに変な言葉遣いするかもしれん。けど、そこはご愛嬌やで!そういう隙がある方がモテるって書いてあったしな!」
「はあ……そういうものなんですね……」
何に書いてあったかなんて、鈴心にとってはどうでもいい話だった。だが流石に会って数分の相手にいつもの調子でバッサリいく訳にもいかず、愛想笑いを続けていると、梢賢はへにゃっと笑ってその手をとった。
「鈴心ちゃんはむっちゃええ子やなあ」
「え?」
「こんなオレの馬鹿な話を真面目に聞いてくれてありがとなあ。大学の女の子達は全然聞いてくれん、ケータイと爪ばっか見とる!」
──でしょうね、とはまだ流石に言えない鈴心は握られた手をそのままに、ひたすら苦笑を続けていた。
「あ、ちょっと」
我慢が出来なくなったのは永の方で、鈴心の手を握る梢賢の手をそっと解く。額に少し怒りの筋をつけて。
「ん?んん?──もしかして付き合ってんの?」
その微妙な様子を敏感に感じ取った梢賢は永と鈴心を見合わせて無遠慮に言った。
蕾生はそのデリカシーの無さにまた言葉を失う。
「えっ!?」
永は肩を震わせて年に一度あるかないかの動揺を見せたが、鈴心からは単なる事実が告げられた。
「いえ。私はハル様の部下です」
その言葉に無になってしまった永を見て、蕾生は何やってんだと言う代わりに大きく溜息を吐いた。
「そ、そんなことより!麓紫村まで案内してくれるんでしょ!?さっさと行きましょうよ!」
慌てて話題を変える永に、梢賢は右手を制止を表す様に立てて言う。
「あ──いや、せっかく高紫市まで出てきたんや、先に紹介したい人がおる」
「え?」
「その前に、茶ァしばかへん?」
高くなってきた日差しに汗を滲ませて梢賢はにっこりと笑った。
梢賢に連れて来られた駅前の喫茶店はレトロな造りの純喫茶で、永達のようについ最近まで中学生だった者達には敷居が高そうな場所だった。
チンピラが学生を三人も連れて店に入る様は他の客の目を引いており、三人は早くも居心地が悪くなっていた。
「なんでも好きなもの頼んでや。お兄さんが奢ったる!」
ふんぞり返って向いに座った梢賢の様子に、蕾生と鈴心は顔を見合わせた後メニューに目を光らせる。
臆する訳にはいかない。なめられたらこっちの負けだ、と言う呼吸で高額メニューのコンボを決めた。
「じゃあ、ナポリタンとカツカレー」
「この期間限定のレジェンドフルーツパフェお願いします」
デコボココンビの要求に敵は震える手で冷水を一口飲んだ後、努めて落ち着いて頷いた。
「遠慮のない子達やねえ……ハル坊は?」
「あ、アイスコーヒーで」
「助かったー」
思わず漏れた声は隣の永にはもちろん、蕾生と鈴心にも聞こえていた。
注文を終えた後、動揺を隠そうとして梢賢は蕾生が背から降ろして立てかけたものを指差す。
「ところでライオンくんは剣道部なん?」
「ん?」
「それ、竹刀やろ?」
「違う。木刀だ」
蕾生が短く答えると、梢賢は目を丸くして感心していた。
「へええ、本格的に習てんやねえ」
「ま、まあな」
蕾生が持っているのは白藍牙と言う、元は銀騎詮充郎が萱獅子刀のレプリカとして作ったものだ。それを孫の銀騎皓矢が高校生の蕾生が持っても不自然でないように木刀に作りかえた。
皓矢の目論見通りの設定を信じてもらえたので、蕾生はほっと胸を撫で下ろした。永と鈴心もつられて安堵の溜息を落とす。
そうしているうちに注文したナポリタンが運ばれた。蕾生はフォークを握ったが、それを制止するように梢賢が切り出した。
「さて、腹割って話そか!君らは今回はどこまで進んでんのん?」
「なんだ、知らねえのか」
「訳知り顔で出て来たのに掴んでないんですか?」
一旦おあずけをくらってしまった蕾生が不機嫌に返すと、つられて鈴心も本来のキツい口調で喋る。
「もう敬語やめられた!都会の子はキツいわあ」
つっこみのつもりなのか、梢賢は大袈裟に頭を抱えて見せた。
見かねた永がフォローを入れる。
「いや、気を使ってくれてるんですよね?ライくんのことで」
「あ、あー、まあ、そらなあ。こっちからネタバレする訳にいかんやん?」
梢賢がそのフォローを有り難く噛み締めていると、続いてカツカレーも運ばれてくる。
蕾生は視線をカツにロックオンしたまま短く返した。
「その事なら心配ない」
「はい。ライは既に私達の呪いの詳細まで知っています」
鈴心の付け足しに、梢賢はかなり驚いて見せた。
「へえ?それなのにその落ち着きなん?すごいなあ、ライオンくん」
「いや、鵺には一度なったから」
もう我慢できない蕾生はフォークをカツめがけて振り下ろした。
「うん?」
蕾生が食い気に負けておざなりになった返答を理解できずに梢賢が首を捻ると、隣で永が苦笑しながら説明した。
「まあ、銀騎と例によって揉めて──鵺化したんだけど、戻れたんです」
「えええええっ!!」
梢賢が意図せずに大袈裟にとったリアクションは、パフェを運んできた店員を怯ませた。
目の前に置かれた美しいパフェに鈴心も釘付けになる。向かいのデコボココンビはもう会話の役には立ちそうにない。
それで永が代表して説明するはめになった。
「ちょうど、貴方が銀騎に来た日です。僕らは一悶着終えて帰る所だった」
「──マジ?」
「マジ」
真っ直ぐそう言われたものの、梢賢はすぐには信じられなかった。
「え、あれって戻れるもんなの?」
「そうみたいです。僕らも理由はわからないんですけど」
永と梢賢が目を見合わせている向いで、喫茶メシの虜となった二人は夢中でそれを口に運んでいた。
「うまっ」
「パフェも美味しいです」
二人の欠食児童は置いておいて、永が銀騎研究所で起こったことを梢賢に説明する。
蕾生が鵺となったこと、しかし黒い鵺から金色の鵺になったことで自我が芽生えたこと、それから人間に戻れたことなどを聞いて、梢賢は口を開けたまま背もたれに寄りかかった。
「はー、なんやすごいことが起こってたんやねえ。金色の鵺なんてウチの文献にも載ってへんで」
「ああ、やっぱり一通りご存じなんですね」
雨都梢賢個人はどれくらいの知識を有しているのか、永がそれとなく尋ねると当の本人は軽く頷いて答える。
「ウチに残ってるやつはな。母ちゃんの目ェ盗んで読むの大変やってん」
「ハハ、楓さんもおんなじこと言ってた」
雨都の人達は基本鵺とは関わりたくないと永は理解している。楓や梢賢の方が少数派であり、鵺の情報を紐解くことはそれなりに難しい。
「なるほどなあ、君らが楓婆に会ってたのはほんまみたいやね」
「婆って。まあ、貴方から見たらそうですけど」
少女の頃の楓しか知らない永には、梢賢の言葉の中に出てくる楓の様子は新鮮だ。
婆、と呼ぶくらいだからきっと長く生きられたのだろうと、永はこの時まで疑っていなかった。
「言うてもオレも会ったことはないで。若い時の写真しか知らん。ウチに帰ってから数年で死んでもうたからな」
「──え?」
梢賢がけろっと言ってのけた言葉に、永は打ちのめされた。鈴心も突然青ざめてスプーンを置き、蕾生も手を止める。
「なんや、知らんかったんかいな」
三人の態度は梢賢からしてみたら意外ではあった。
「はい。僕らはその前に鵺に殺されてますから」
「そうか。……そやったな。五十年前の転生では、辛うじて楓婆だけ生き残ったっちゅう話やったな」
永達との認識の違いを重く受け止めた梢賢は、それまでの軽口をやめて真顔で言った。
永も俯きながら答える。
「それからまた雨都の人達とは連絡が取れなくなったので……」
「せやろな。檀ばあちゃんならそうするやろな」
「檀──確か楓のお姉さんですね」
鈴心がそう付け足すと、梢賢は真面目な顔のままで頷いた。
「そうや。檀がオレのばあちゃん。ばあちゃんも二年前にのうなったけどな」
「そうですか……。せめて会って謝りたかったけど……」
永が意気消沈したまま呟くので、梢賢は少し口調を明るくしたがその内容は辛辣だった。
「ああん、そんなんええって。てか、ばあちゃんが生きとっても君らには会わんよ」
「……」
「お怒りは深いんですね……」
完全に落ち込んでしまった永と鈴心を見ると良心が痛むけれど、気休めの嘘を言っても仕方がない。
それでも少しでも話題を明るくしようと梢賢は自虐気味に続ける。
「まあなあ。情けない話やけど、ばあちゃんが死んだからオレも君らに会いに来れたんや」
「僕は、もしかしたら楓さんが生きた証が聞けるかもしれないって思ってた。淡い期待だったけど──」
「そりゃあ、期待に応えられずすまんな」
「いえ、どこかでそんなことあり得ないってわかってました。鵺の呪いを身に受けて無事でいられるはずがないから……」
言えば言うほど落ち込んでいく永の様子に、どうしたもんかと梢賢が考えあぐねていると、蕾生がこちらを睨んで凄む。
「あんたが陽気な登場の仕方だったから、永が期待しちまったんだ」
「ええ!?オレのせいなん!?」
「ライ、やめなさい。筋違いです」
おどけるチャンスを鈴心に潰されて、梢賢はますます八方塞がりだった。彼らに恨み言を言いたくて呼んだ訳ではない。本題はこれからなのだ。
「まあ、ちょっと湿っぽくなったから話題変えよか」
「はあ」
テンションの戻らない永の肩を叩きつつ、梢賢はまた少し声音を明るくした。
「オレが君らをここに呼んだ理由なんやけど」
「話題が変わるほどなんですか?」
梢賢が少し勿体ぶって言うと、永は目を丸くして聞いた。
「うーん、君らの運命に比べたら、サイドストーリーで外野が騒いでるみたいなもんやねん」
「と言うと?」
鈴心も少し身を乗り出して聞くので、梢賢は満を持して──といった体で語り始める。
「雨都の分家に雨辺っていうのがあんねんけど、知ってる?」
「雨辺?」
「初めて聞きました」
永も鈴心も顔を見合わせて首を傾げた。
「楓婆もそこまでは言ってなかったんやね。まあ、身内の恥みたいなもんやから」
「その雨辺がどうしたんだよ」
話の機微など関係ない蕾生が続きをせかす。
「うん、実は雨都と雨辺は犬猿の仲でなあ。雨辺にも関わるとばあちゃんにこっぴどくやられんねん。でも、今の雨辺にはちょっと放っておけない親子がおってな……」
「何故仲が悪いのか聞いても?」
永の質問は想定通りだった。梢賢は頷きながら丁寧に説明していく。
「そやな、そっから話さんとな。君らも知っての通り、ウチは昔に銀騎からの呪いを受けて雨都に改名した後、身を隠した」
「そこが麓紫村ですか?」
鈴心の問いにも頷いてさらに梢賢は続ける。
「そうや。麓紫村──内部のもんは里って言うてるんやけど、里の説明は追い追いするとして、ウチは里の長に匿ってもらう形で住み始めた。雨都って名前も里長がつけてくれたんや」
「うん、なんとなく楓サンの口ぶりからそんな感じかなとは思ってた」
「ほうか、ハル坊は賢いんやな。で、雨都はその時には既に鵺を忌み嫌うまでになってた。けど、そういう極端な感情っちゅうのは時に真逆の感情も生む」
梢賢の話に引き込まれながら蕾生は首を傾げた。
「真逆?」
「簡単に言うと、鵺こそ神だー!って言う奴が雨都の親族の中に現れた」
永はそれまで遠慮がちで聞き役に徹していたけれど、それを聞いて眉を顰めあからさまに嫌悪を表した。
「まま、ハル坊の気持ちはわかる。けどな、団体っていうのはそういう異端を生むもんなんや。ましてや里から一歩も出られず、自由を制限された団体ならな」
梢賢の言葉は少し抽象的だったけれど、鈴心には充分伝わっているらしく、残念そうに俯いた。
「つまり、雨都の中に現れた異端が雨辺?」
永の理解は早かった。
梢賢は満足げに頷く。
「そう言う事。結局雨辺は里を出て行った。鵺を信仰する目的でな」
「どこに行ったんです?」
「当時の隣村。今のここや──高紫市」
「ちかっ」
すぐ足元を指差すように表現した梢賢の言葉に、鈴心も蕾生も驚いていた。
「隣村なのには理由があんねん。どうも里の誰かが雨辺を支援してるらしい」
梢賢としてはこの話題の肝はここだった。三人とも続きを知りたがるに違いないと思っていたのだが、永と鈴心の反応はその上をいった。
「ははあ、なるほど。と言うことは麓紫村にも鵺を信仰する人達がいる──つまり麓紫村は一枚岩じゃないんだね」
「麓紫村は雨都の全面的な味方という訳ではなくなっているんですね?」
そういう展開になるには、梢賢の予定では三ラリーほど後のはずだったのに。
「え、ちょっと、なんでそこまでわかるのん?怖いっ、この子達怖いわ!」
「楓から以前に少し聞いていたので、それと今の話とを照らし合わせただけです」
鈴心が涼しい顔で答えたが、永は更に思案し始めていた。
「あの時楓サンが言ってたのはこの事なのかもしれないな」
「里に限界が来てるってやつか?」
蕾生の言葉を材料に、さらに永は考察する。
「そうなると麓紫村そのものも気になるな。いくら雨都が持ち込んだからとは言え、鵺の存在を信じるだなんて。もしかして元からそういう素地があるんじゃない?」
「ええー……、鋭すぎるわあ……。オレ今どん引きしてんねんけど」
一を聞いて十を知るとは正にこの事か。梢賢は薄ら寒さすら覚えていた。
「やはりそうなんですか?」
「結論からいくと頷くしかないわあ。ただ、その辺の説明は里に行って、実際に見てもらった方がわかりやすいかなあ。──あ、わかりやすいんちゃうかなあ」
動揺し過ぎた梢賢は関西弁を忘れるような始末で、その様子に永は思わず苦笑した。
「わかった。じゃあ、その放っておけない親子って話をどうぞ」
長過ぎた前置きからついに本題に入れることで、梢賢は再び元気を取り戻して話し始める。
「よくぞ聞いてくれはった!オレが気にかけてるのは雨辺菫さんっていう綺麗なシングルマザーでなあ。双子の子どもがおんねん。藍ちゃんと葵くん言うてな、十歳なんやけど、これまた可愛らしくてなあ」
形容がとまらない梢賢に、永はにこやかに釘を刺した。
「うん、個人的感情はいいから」
「んん──まあ、その菫さんがな、ちょーっと極端な人やねん。ちょーっとだけな」
「極端に鵺を信仰してる?」
「ちょーっとだけやねん」
話を進めない梢賢に、永はにこやかにイラついた。
「それで?」
「それで、ちょーっと子どもに辛く当たるというかぁ……、過保護が過ぎるというかぁ……」
よくぞ聞いてくれたと言った割に、梢賢の言葉は歯切れが悪い。どう言えば悪く思われずに済むかを懸命に考えているようだった。
埒があかない永は思い切って言葉を選ばずに言う。
「なるほど。親が変な宗教にハマって不安定になり、家庭崩壊しかけてるんだね?」
「いや、そんな大それた話では!──ないというかぁ……」
梢賢の歯切れの悪さはその親子に対する好意の表れだろう。良い状態ではないのはわかっているのに、そうであって欲しくないという希望を持っているからである。
そういう感情を読み取った永は少し表現を緩めて言ってやった。
「わかったわかった。行き過ぎた鵺信仰をなんとかしたいってことでしょ?」
「せやねん!でもオレはそこまで鵺に詳しい訳じゃないから、専門家に頼んだっちゅーわけやん」
「専門家がいるのか?」
「やだもう、とぼけちゃって!君らのことでしょうが!」
「ええー……?」
近所のおばさんの様な口調で蕾生に笑いかけた梢賢だったが、当の本人には物凄い勢いで引かれた。
「僕らは別に専門家じゃないですよ。むしろ知らないことが多すぎるから、九百年経っても他人の貴方達を巻き込んでも、解決できないんじゃないですか」
永がそう言えば、梢賢は困った顔で懇願する。
「そんないけず言わんといてや、君らしか相談できる相手が思いつかへんかったんよー」
「そんなこと言われても……」
確かにこの話はサイドストーリーだと永は思った。
自分達が関わるほどの物なのか、関わってもいいものなのか。鵺が関係しているにしても、見知らぬ他人の宗教に口出しするなんて死ぬほど面倒くさい。
「ただ、その雨辺という人が信仰している鵺については興味深いですね」
「あっ──」
上手く逃げようと思っていた矢先に、鈴心が真面目に受け止めたので永はしまったと思った。
「お、鈴心ちゃんは乗り気?」
「どんな風に雨辺には伝わっているのか、鵺をどう崇拝しているのか──もしかして呪いの解明のヒントになるかもしれません」
「ちょっと、リン!」
「?」
永が小声で訴えても鈴心には通じなかった。それで仕方なく永も腹をくくるしかなくなった。
「まあ、確かに一理ある。鵺のことが曲がって解釈されているとしても、そこの情報は貴重だよ」
すると蕾生が至極真っ当な意見を述べる。
「でもよ、その雨辺菫って人の問題は鵺とかじゃなくて、心の問題じゃねえの?子どもを虐待しかけてるんだろ?」
「虐待だなんてとんでもない!ただ、ちょーっと情熱が有り余ってしまっているというか……」
「その情熱が行き過ぎていつか虐待になっちまう前になんとかしたいんだろ?」
「う……、まあ……」
「そういうのは心理カウンセラーとかの仕事じゃねえの?」
永がかつて望んだ話の展開に戻るかと思いきや、梢賢は尚も食い下がった。
「──そんなことはわかっとる。ただの振興宗教にはまってるんならその方がええやろ。けど、雨辺の事情は違う。鵺が絡んどる」
結局、鵺が関係している以上は永達は無視することはできない。どんな小さな綻びが原因で深刻な事態になるかわからないからだ。
避けて通れないならせめて自分の預かり知らぬ所で何かが起きることは阻止しなければならない。
「確かに。僕らとしても、一般社会に鵺の情報が漏れるのは避けたいね」
蕾生が言う通りに、仮に雨辺菫をカウンセラーの元へやって鵺のことを口走られたらと思うと身震いする。永は溜息とともに今度こそ腹をくくった。
「だから、君らを頼るしかないんや……」
梢賢はすっかりしょげている。大恩ある雨都の子孫がここまで思い悩んでいるならやはり手を貸すしかない。
「けど、僕らもカウンセラーの真似事なんてできませんよ。僕らを使って何か具体的な考えがあるんですよね?」
「そんなもんはない!」
「ええー……」
胸を張って言う梢賢の態度に、永は早くもお手上げしたくなった。
「とにかく、菫さんに一回会ってくれへん?見た方が早い!そんで君らから見た彼女について意見を聞かせてくれ!」
確かに、梢賢の話はいまいち要領を得ない。雨辺菫という人物の片鱗もその好意に邪魔されて見えてこない。
「頼む!御礼にウチにある鵺の文献とか全部見せるから!ウチの情報とか全部教えるから!」
苦し紛れに提案されたものは、だいぶ魅力的ではある。
鵺を忌み嫌っている雨都家からどうやって情報を引き出そうか永はずっと考えていた。
梢賢の口約束だけでは頼りにならないが、もうここで承知しないと遠出してきた意味がない。
「わかりました。とにかく一度会ってみましょう。ここで話してても埒があかない」
「おおきに!ハル坊!!」
喜ぶ梢賢を他所に、永は二人に確認をとる。
「ライくんもリンもそれでいいかな?」
「まあ、ここまで来て手ぶらじゃ帰れねえしな」
「御意のままに」
話がまとまった所で、梢賢は元気よく立ち上がった。
「よーし!そうと決まったら行くで!」
その拳に高額レシートを握りしめてはいるが、表情は意気揚々としていた。
喫茶店を出た四人はそのまま駅前商店街をしばらく歩いた。アーケードの下を歩いてはいたが、正午をまわってしまったので日差しが厳しくなっている。
汗を滲ませながらもアーケードを通り過ぎて、少し奥の道に進んだところでマンションが何棟か立ち並んでいた。
その中でも少し古い見た目のマンションの前で止まった梢賢は三人をその場に置いて、少し離れてから電話をかける。
「いやー、すまんすまん」
三分ほど経って戻って来た梢賢の顔は少し緩んでいた。
「雨辺さん、いました?」
永が聞くと、梢賢はにこやかに頷いた。
「おう。子どもらもおるって」
「電話ならここですりゃいいのに」
「いやや、ライオンくんのエッチ!」
「……」
ライオン呼びが定着しそうになっていることも気に入らなかったし、何より恥じらうその様が気持ち悪くて、蕾生は軽く梢賢を睨む。
だが、電話後の梢賢はすこぶる機嫌が良くて効果がなかった。
「おおかた私達には聞かれたくない会話でもしたんでしょう」
「どうもそのシングルマザーに気があるみたいだからね」
蕾生とほぼ同じ理由で梢賢に引いている鈴心も、多少は寛容な態度でいる永も、梢賢の緩みっぱなしの顔を見て溜息をついた。
「さ、さ、じゃあ行こか!」
完全に分が悪い梢賢はさっさと先導を始める。
「単純な興味なんですが、雨辺の一族ってどれくらいいるんです?こんなマンションに母子で住んでるだけではないでしょ?」
「いや──、雨辺は今は菫さん母子の三人だけや」
「ええ?」
永にとってはその回答は不可解だった。分家、と言うからにはそれなりの人数がいると思っていたからだ。
だが梢賢の答えは永の想像よりもシビアなものだった。
「意外か?考えてもみい、雨都は元々里の居候なんやで。子どもばかすか産んで増やせるかいな、里の食い扶持が減ってまう」
「そ、そんな前時代的な……」
この現代において食い扶持なんて言葉が出るとは、永には衝撃だった。
「でも麓紫村を出た雨辺はもう関係ないのでは?」
鈴心の問いにも梢賢は首を振る。
「いや、雨辺を支援してる人間が里にいるって言ったやろ?多分やけど支援する方かて人数は少ない方がいいやろ」
「そうですか……」
雨都にも雨辺にも、永が想像もしていなかった事情があることは梢賢の言葉から読み取れる。
まだ見ぬ麓紫村とはいったいどんな村なのか、途端に背筋が寒くなった。
「さ、行こ行こ!菫さん待たしてるんやから!」
永や鈴心が感じている不気味な違和感も、梢賢にとっては常識なのかもしれない。だとすると梢賢とさえも理解の壁が高い可能性がある。
ましてやこれから会う雨辺菫とはどれくらいの隔たりがあるのだろう。
上がっていくエレベーター中で永は緊張を高めた。
「ちなみに、君らはオレのサークルの友達ってことになってるから」
「大学生のふりするんですか!?」
緊張度マックスの永に対して告げられた梢賢の無茶振りに、思わず素っ頓狂な声が出た。
「鈴心は無理過ぎないか?」
なんの気なしに言った蕾生の言葉に、身長百四十センチの鈴心はムッとして反論する。
「失礼な。精神的には貴方より大人ですけど?」
無言で牽制し合うデコボココンビを仲裁するように梢賢は折衷案を提案する。
「鈴心ちゃんは、ハル坊の妹っちゅうことで!ええか?大人っぽくしてや」
「ライくんはあまり喋らない方がいいかもね」
「──だな」
見た目だけなら蕾生が一番大学生に見える。が、喋ったらおそらく精神年齢が露呈する。
蕾生もそこは納得して、喋りは元々永の領分だしと思うことにした。
満を持してインターホンを梢賢が鳴らそうとした時、部屋の扉が開けられた。
「来たな、間男」
「わあ!」
扉の側で梢賢を睨む少女が一人。少しくせっ毛のショートヘアで気が強そうな眼差しだった。
インターホンも鳴らしていないのにどうして来客がわかったのか、永達は驚いて瞬間言葉を失った。
「性懲りも無く来やがって、図々しい」
「あ、藍ちゃーん、ビックリするやーん」
梢賢に藍と呼ばれたその少女は、恐ろしい形相で睨み続けていたが、後方の三人に興味を引き、子どもらしく目を丸くした。
「?」
「はじめまして……」
それでも相手が不機嫌なことを鑑みて、永は控えめに挨拶する。鈴心と蕾生にいたっては軽く会釈することしかできなかった。
「あ、こいつらオレのダチとその妹や。夏休みやから遊びに来てんねん」
梢賢がそう説明すると、藍は品定めするように永達を順番に眺めてから同じように睨んで言った。
「ふうん。あんた達、こいつの友達なら注意してくんない。人妻にモーションかけるなって」
「えっ、あ、あはは、そ、そうですねえ──?」
確か可愛らしい十歳ではなかったのか。
年齢に似合わない物言いと表情に、永もどうしたものか言葉を濁すだけで精一杯だった。
「人聞きの悪い言い方やめてや、菫さんは離婚してシングルでしょうが!」
「あたしはそんなの認めてないから」
梢賢がそう言うと藍は短く切り捨てて、プイと振り返って部屋の中に入ってしまった。
取り残された梢賢は肩を落としている。
「だいぶ複雑な家庭のようで……」
「せやねん……」
ますます不安になった永とがっくり沈んでいる梢賢めがけて綺麗な声が響いた。
「あら?まあまあ、梢ちゃん、だめよ勝手に入ったら」
「あ、しゅ、す、菫さん!すんません!」
菫と呼ばれたその女性は、二人も子どもがいるとは思えないほど細身で、上品なワンピースを着ている。深窓の御令嬢かと見紛うほどの美貌だった。
色白で桃色の唇だが化粧気がなく、肩まで伸びる黒い髪は先の方がウェーブしている。何よりも印象的なのは、大きな黒い瞳だ。
じっと見つめられれば吸い込まれそうなほど不思議な光を帯びていた。
「いえ、こちらのお嬢さんがドアを開けてくれたので──」
頬を染めて固まってしまった梢賢に変わって永がそう言うと、菫は一瞬だけその綺麗な顔を歪ませた。
「え!?──あ、ああそう、そうだったの。ええと?」
だがすぐにおっとりした笑顔を取り戻して、永を見ながら首を傾げる。
「あ、梢賢くんのサークルの友人で周防といいます、こっちは妹です」
永が手で指して言ったので、鈴心はぎこちなく一礼した。蕾生もその後に続く。
「はじめまして」
「唯、です、友達の……」
二人の挨拶を満足気に受け取った後、菫はにっこり笑って一同を迎え入れた。
「ええ、聞いてるわ。梢ちゃんたら大学でやっとお友達ができたのね、良かったわね」
「はい、まあ、良かったです、うへへ……」
「玄関で立話もなんだからどうぞ、散らかってますけど」
「お邪魔しまっす!!」
元気なお返事をして梢賢から先に上がる。
永達も続いて入ったが、中は普通の間取りだった。おそらく2LDKだろう。
十歳の子どもが二人いると感じさせるようなものがほとんどなく、リビングもダイニングキッチンも最小限の家具で綺麗に片付いていた。
端にある仏壇だけが少し異様な雰囲気を放っている以外は、いたって普通の部屋に見えた。
リビングに通された四人は、肩を寄せ合って座った。精神的な理由もあるが、物理的にも男が三人も上がり込めば小さな部屋は鮨詰め状態だった。
「外は暑かったでしょ?良かったらどうぞ、お口汚しですけど」
菫は冷たい麦茶と、素朴な見た目のクッキーを出してくれた。おそらく手作りだろう。
「ありがとうございます」
辛うじて永がそう答えられただけで、蕾生と鈴心は居心地悪そうに黙って座っていた。
「えーっと、葵くんは?お勉強中ですか?」
梢賢が少し足を崩して聞くと、菫はにっこり笑って答える。
「ええ。でもせっかく梢ちゃんが来てくれたから休憩にするわ。呼んでくるわね」
そう言って立ち上がると、菫は玄関の方向へと向かっていった。リビングに来る途中で部屋らしきものがあったのを永は思い出す。
その扉を開けて菫が一言二言声をかけると中から大人しそうな、藍そっくりの少年が出てきた。
少年は恐る恐ると言った体でリビングを覗き込み、少し緊張を孕んだ表情で入ってきた。
「お、葵くん、ごくろーさん!」
「こ、こんにちは」
顔も声も藍そっくりで、違うのは髪の質が葵の方がストレートだと言うくらいだ。ただ、性格は正反対のようだ。
「よーしよしよし、オレの隣に座んなさいな!」
「は、はい……」
梢賢が隣をバンバン叩いて促すと、葵は遠慮がちにそこに座った。
「はい、葵。こぼさないようにね」
菫が持って来たマグカップからは細い湯気が出ていた。その香りから温めの麦茶だと想像がついた。
「お母さん、僕も、冷たいのがいい」
梢賢達のグラスを見て葵は小さな声で言う。だが菫は微笑みながら首を振った。
「だめよ、お腹壊したらどうするの。ちょうどいい具合に冷めてるから飲みなさい」
「はい……」
その様子に永達三人は少し面食らった。十歳にもなれば多少冷たくても大丈夫ではないだろうか。
だがこういう意識の高い母親はわりといる。何より他所の家の方針に口を挟む気も義理もないので、三人は黙っていた。
「あの……女の子の方の、藍ちゃんは?」
最初に会ってから全く姿を見せなくなった藍に対して、鈴心は我慢できずに聞いてしまった。
すると菫はまた一瞬だけ顔を歪ませる。
「ああ──。いいのよ、あの子は。好きにやってるから」
その瞳は恐ろしく冷たくて、鈴心も永も蕾生でさえも、驚きで固まってしまう。
「それよりも、貴方達、うつろ神様に興味があるんですって?」
「え!?」
突然の菫からの本質を孕んだ質問に永は一瞬頭が真っ白になった。慌てて梢賢を見ると、こっそりウィンクをして見せる。話を合わせろ、と言うのだろう。
「ええ、まあ、はい。僕ら民俗学専攻でして──そういうのを調べてまして、ハイ!」
咄嗟に永は大学生らしい単語を並べてみた。あまり自信はなかったが、菫はすんなり受け入れて少し困った表情を見せた。
「あらあ、困ったわあ。うつろ神様はうちだけの神様だから、論文とかに書かれると困るのだけど」
「えっ!?ええと、そうじゃなくて、そういうのを調べてたら個人的に興味がわきまして!もちろん論文にはしませんよ!」
もっと梢賢と打ち合わせをするべきだった、と永は悔やんだ。例え嘘でも自分の発言をすぐに撤回するはめになるとは、些かプライドが傷つく。
「そう?それならいいわ」
だが菫は特に怪しんではいないようだった。そのにこやかな様子を見て、永は胸を撫で下ろした。
「菫さん、こいつらにちょっと教えてやってくださいよ。うつろ神さんのこと」
梢賢がそう促すと、菫は少し姿勢を正して語り始める。
「いいわよ、少しだけね。うつろ神様は聖なる獣でね、お顔は狒々、手足が猛虎、体は野猪、尾が大蛇というお姿でね、いつか世の中が終わりを迎える時に天から降りてきて私達をお救いくださるの」
「はあ……なるほど」
初めて聞く単語だった「うつろ神」とはつまり鵺のことを指している。鵺信仰の話だと思いながら永は続きを聞くことにした。
「うつろ神様が救ってくださるのは徳を積んだ存在だけなのよ。だから普段から善い行いをしていかなければならないの」
「限られた人だけを救うのですか?」
鈴心は思わず首を捻りながら聞いてしまった。そんな限定的な神はおろか仏も聞いたことがないからだ。だが、菫は当然のように頷いた。
「そうよ。何もできない凡庸な存在はうつろ神様にとっては必要ないの。だから、うつろ神様に相応しい存在にならなくてはならないの」
「はあ……」
一般的な神仏と決定的に違う教えに鈴心は生返事で首を捻り続けている。
「だから私達親子は毎日努力して善行をつみ、うつろ神様のお側にいけるように日々修行してるのよ」
そもそも神仏に対して人間が行う修行というものは、人間側が神仏に近づくために自ら精進するものである。
この国では自然に対してそういう信心が生まれることが多いのだから、神そのものが人に対して存在を定義し押しつけるような教えは聞いたことがない。
そこまで聞いて蕾生も白けてしまった。これでは典型的な詐欺前提の新興宗教だ。神秘の存在として教祖を設定し、教祖のみを尊ぶような教えは危険性を多分に孕んでいる。
蕾生が呆れるように溜息をついたので、鈴心はそれを注意する意味で誰にも見えないようにその背中をつねった。
そんな二人のやり取りを横目に、永は冷静に情報を引き出そうとする。
「修行と言うと、どんなことを?」
「それは言えないわ。雨辺家の秘技だから。ごめんなさいね」
「そうなんですか……」
殊勝な態度とは裏腹に、永は心の中で舌打ちをした。
続いて菫は梢賢に向き直り、とんでもないことを話し始める。
「梢ちゃん、雨都の人達はどうなの?貴方みたいにうつろ神様を信仰してくれるといいんだけど」
梢賢がうつろ神を信仰しているなんて話は聞いていないので、永達三人はギョッとして梢賢を見た。
「え!?いやあ、なかなかすぐにはねえ。オレも機会を伺ってるんですけどねえ?」
三人からの視線を浴びてしどろもどろになった梢賢は愛想笑いで誤魔化そうとしていた。
すると菫は今日一番の饒舌になって言う。
「そうねえ、随分長いことすれ違ってきてしまったものねえ。でも梢ちゃんの代になったら変わるわよね?そうしたら葵を里に迎えてくれるんでしょう?」
「そうですねえ、もちろん菫さん達が里に住んでくれるのは歓迎なんですけどー……」
「楽しみだわ、明日からいっそう修行に精を出さなくちゃ!」
「あ、まあ、ほどほどに……適度な感じで……ね?」
一人で盛り上がる菫に、たじろぎながら曖昧な返事を繰り返す梢賢を、三人は冷ややかな視線で刺した。
雨辺菫のマンションを後にした四人は、梢賢を筆頭に駅とは逆の方向を歩いていた。
歩くにつれて店などは少なくなり、閑静な住宅街とささやかな農地の景色が続く。
その背中に三人の冷ややかな視線を受け続けて、辛抱できなくなった梢賢は大袈裟に肩で息を吐いて見せた。
「あーしんど」
だが、誰も同情などはしなかった。
鈴心は得意の猛禽類睨みをずっときかせており、永でさえも不審の眼差しで見ている。
「とんだコウモリ野郎だな」
「ちょ、それオレのこと?」
「お前以外に誰がいんだよ」
無言で圧をかけるのが性に合わない蕾生ははっきりと文句を言ってやった。それでやっと梢賢は後ろを振り返ることができた。
「がっかりです」
鈴心の鋭い視線はその肺に穴を空けそうな勢いだった。
「僕はてっきり鵺信仰はやめるように言ってるのかと思ってた……」
永も落胆を隠さずに続けると、梢賢は大袈裟な身振りで答える。
「仕方ないやん!菫さんの目見て、そんなこと言える!?君らも会ってわかったでしょ?」
「まあ、確かに、聞く耳持たない感じの雰囲気ではあった……」
永は雨辺菫の所作などを思い出しながら大きく溜息をつく。
「典型的な盲目でしたね」
「女の趣味、最悪だな」
鈴心と蕾生が口々に言えば、梢賢は泣きそうな顔で訴えた。
「ちゃうねん!昔はあんな感じじゃなかったんだって!」
「梢ちゃんなんて呼ばれて鼻の下伸ばして──」
「ご機嫌の取り方が最悪です」
デコボココンビが珍しく息を合わせて責め立てると、梢賢はますます泣きそうになる。
「ちゃうねんって!!穏便に取り入るためにはああするしかなかってん!」
「それよりも気になることがあるんだけど」
「おお、なんや、ハル坊?」
「あの菫って人、息子は随分大事にしてたけど、娘のことは──気にしてないっていうか……」
時折見せた菫の恐ろしくも激しい形相が、永には強烈に印象に残っている。梢賢は今度は苦悩に顔を歪めて答えた。
「ああ、せやねん。それが一番頭が痛い問題やねん」
「藍ちゃんのことを聞いた時、すごく怖い顔になってました」
続いた鈴心の感想に、梢賢はさらに落ち込んでいる。
「菫さんは、何故か藍ちゃんのことは無視すんねん。藍ちゃんもそれが慣れっこになってもうてて、いっつも一人でおる」
「それって、育児放棄ってやつ?」
永がズバリ言うと、梢賢は慌てて否定した。だがそれはおそらく希望が入っている。
「そんな大げさなもんやないよ!ちゃんとご飯もあげてるし!ただ、藍ちゃんには無関心なだけなんよ」
「その分、葵くんには過保護ですね。愛が重そうです」
「だから最初に言ったやろ?子どもに辛くあたったり、過保護になったりって!」
鈴心と梢賢のやり取りを聞きながら、永と蕾生も感想を述べる。
「一人ずつにそう、って意味だったのね」
「ほんと、タチ悪ぃな。親失格だろ。飯与えりゃいいってもんじゃねえぞ」
それを聞いて梢賢もがっくり肩を落としていた。
「それはほんまにそうなんやけど……」
「──実際会ってみて、確かになんとかしないと先がなさそうです」
「せやろ!?」
鈴心の言葉に希望を持った梢賢はにわかに明るくなって同意を求めた。
だが永はこの問題は一筋縄ではいかないことを察している。
「雨都の人達はこの事は知ってるの?梢賢くんがいい顔して丸め込んでるのも含めてさ」
「そんなこと言える訳ないやろ!おれ以外の家族はみんな雨辺には否定的なんやから」
「やっぱり……」
永は予想通りの答えにまた溜息をついた。梢賢は楓同様、独断専行の権化なのだろう。
「はっきり言いますけど、これは貴方一人で抱えられる問題ではないですよ」
鈴心は否定的な意味で言ったのだが、肝心の梢賢はそれを逆手にとって言う。
「そう!だから君らに助けを求めてん!わかってくれた?」
「俺達だってどうしようもないだろ」
「そうだねえ……これはかなり根が深そうだ」
梢賢一人ではお手上げになってしまったから永達は呼ばれたのだと宣言されたはいいが、そんな尻拭いのようなことを期待されても正直困る。
初日から頭の痛い問題を提示されて、三人はどっと疲れた。
「今日はなんかもう疲れちゃった。とりあえず落ち着きたいな」
暑い日差しの中、不毛な会話をしながら歩けば疲労は倍以上に感じている。永は珍しく弱音を吐いていた。
「そうだな。梢賢のうちに泊めてもらえんだろ?」
蕾生が当然のように確認すると、梢賢は胸を叩いて頷いた。
「ああ、そりゃあもう!ウチは寺やから、部屋だけは余ってるから──と、電話や」
タイミングよく電話が鳴り、一同は一旦歩みを止める。
「もしもし、姉ちゃん?うん、そう。今から帰ろうと──ええ!?」
驚きと困惑が混じった梢賢の大声は住宅街の中にこだまするんじゃないかと思うほどだった。
「ちょっと待ってよ、話が違うじゃん!──そんなこと言われてもさあ!ええ!?待ってよ、ちょっと!」
「どしたの?」
電話の相手にはまったくなまらず関西弁すら忘れて慌てる梢賢に、永は嫌な予感とともに尋ねた。
「あのー……非常に言いにくいんやけど……」
「なんだよ」
すっかり青ざめてもごもごと口籠る梢賢に、蕾生も少し苛立った。
梢賢は三人を順番に見つめた後、努めて可愛く背中を丸めて言った。
「ウチには帰ってくるなって言われちゃった……」
「ええ!?」
語尾にハートをつけて絶望的なことを言ってのけた梢賢に、三人は怒っていいのかも判断できず、ただ驚くしかなかった。
「あー、やっと休めるー」
永は目の前のベッド目がけてダイブする。
声音はふざけているが、ぐったりしている様子を見て蕾生はこの場にいないお調子者に毒づいた。
「ったく、あいつノープランにも程があんだろ」
「……おかげでお兄様に散財させてしまいました」
鈴心の方は予想だにしていなかったトラブルで銀騎皓矢に早くも助けを求めるはめになったことに気落ちしていた。
三人は梢賢の実家に泊まれる算段をしていたので、交通費と食費しか持っていなかった。
急に泊められなくなったと言われて困ってしまった三人が頼れるのは一人しかいない。鈴心が皓矢に電話をして事情を話すと、皓矢はすぐに高紫市駅前のビジネスホテルをとってくれた。
「持つべきものは金持ちの協力者だよねー。未成年だけじゃホテルなんて泊まれないと思ったけど、良かったあ」
そんな鈴心の後ろめたさを他所に、永は満足気にベッドの上をゴロゴロ転がった。
「皓矢が袖の下でも払ったのか?」
「失礼な。ちゃんとお兄様が身元を証明してくださったから泊まれるんです」
蕾生の銀騎に対する感覚はまだ悪代官レベルのようだ。
それに鈴心は憮然となって訂正する。
「むっふふ、前払いでポーンと一週間分払ってくれたんだから、感謝だよねー」
「もっと長引くようなら好きなだけ泊まっていいとおっしゃってくれてます、ホテルにかかる経費は全部持つと」
鈴心の報告を聞いて俄然元気が出た永は弾んだ声を上げた。
「やったあ、ライくん、ルームサービスとろう!」
「ビジネスホテルにそんなもんねえだろ」
「えー」
残念がる永に鈴心は思わず声を荒げてしまう。
「節度は守ってください!」
「はあーい」
仕方なく永は引き下がったが、鈴心は落ち込んだままのテンションでこの先の不安を述べた。
「けれど、こんな調子では本当に麓紫村に行けるのか……」
「まあ、話がうますぎるなあとは思ってたんだよねえ」
「そうですね。楓の時のように梢賢も単独で来た可能性を考えるべきでした」
今の所、梢賢から聞いていた計画通りのことは何一つ達成していない。
「でも、あいつのさっきの電話の感じだと、一応行けることにはなってたぽくないか?」
「そうだね、話が違うじゃん、って言ってたもんね。梢賢くん、あれが素なんだろうね。──へへっ」
先程の慌てふためいて関西弁を忘れていた梢賢を思い出して、永は薄く笑った。
「なんとかしてくるって言ったので、信じるしかないですよね……」
「ま、明日の朝まで待ちましょ」
当の梢賢は三人が無事にホテルに泊まれることになったのを見届けた後、脱兎の勢いで一人実家に帰って行った。「明日の朝までには絶対なんとかするから!」と言う捨て台詞を残して。
「腹減った。メシにしようぜ」
今晩はこれ以上心配しても仕方ない。蕾生は切り替えて二人に言った。
「そうですね、そうしましょう」
「わびしいコンビニ飯だけどね」
万が一、明日以降も梢賢の実家に行けないとなると無駄使いはできなかった。
「節約しないと。どれだけの滞在になるかわかりませんから」
旅費の財布を握っている鈴心が言うと、永は溜息混じりにふざけた。
「はいはい、大蔵大臣」
「ハル様、大蔵省はもうありません」
「情緒あるギャグでしょうが!」
そんな冗談よりも目の前の弁当だ。蕾生はとっくに弁当の蓋を開けて食べ進めていた。
「で、どうすんだ?あの菫って人は」
とりあえず空腹が満たされた蕾生は永に今後の方針を問う。
「うーん、困ったなあ。雨都のピンチなら絶対協力しなくちゃって思って来てみれば、なんだかなあって感じだよねえ」
今の所、これは梢賢個人の問題に見える。永は小規模の割にカロリーの高い難問を突きつけられており、その面倒くささから肩を落とした。
「分家とのいざこざ──どこも似たようなものですね」
鈴心の言葉はどこか含みがある。自分が生まれた御堂の家も銀騎の分家だからだ。
そういえば前回の転生で御堂とも揉めたと永が言っていたことを蕾生は思い出した。そのうちその詳細も聞かなければならないが、今は雨辺の問題の方が先だ。
「そうだね、肝心の梢賢くんに何も対策がないからね。丸投げされてもなあ」
「俺達の目的は、梢賢に協力することと、雨都が持つ鵺の情報の収集だよな?」
蕾生が当初の目的を確認すると、永は頷きつつも眉を顰める。
「うん。今の所どっちも暗礁に乗り上げてるけどね」
雨辺の問題はどう手をつけていいかわからない。雨都の家には行けない。これではせっかく遠出したのに何も出来ないかもしれない。永はそれを危惧して深く溜息をついた。
「あと慧心弓のことも探らないと」
鈴心の付け足しに永はますます気が重くなった。
鵺を退治した弓──慧心弓はかつて雨都楓が扱った時に燃えてしまっている。
だが、決定的な末路を見た訳ではない。ここに来れば慧心弓の手がかりもあるかもしれないと思って来たのに。
「てことは、やっぱ麓紫村に行かないと始まらねえな」
蕾生も永につられて溜息をついた。
「そうだね。できれば梢賢くん以外の雨都の人にも会っていろいろ聞きたいな。そこから突破口が見つかるかもしれないし」
「会ってくれるでしょうか……、おばあさん──檀さんは私達のことはお許しになっていない様でしたから」
鈴心は梢賢にされた話を思い出して意気消沈している。
「おばあさんにとっては妹のことだったからねえ。でも梢賢くんの親世代だと叔母さんのことだから少しは緩和されてるかもしれないし」
そんな彼女を元気づけようと、永は一縷の望みを大きな希望のように掲げてわざと明るく言ってやった。
「やっぱり、あいつ次第だよな」
「そうだね。明日の様子に期待しよう」
考えても埒があかないと見た蕾生は永に真顔で聞いた。
「ダメだったら殴ってもいいか?」
「死なない程度なら」
永も真顔で答える。
「──よし」
「冗談ですよね?」
しかし鈴心はやや青ざめていた。蕾生の力で殴ったら梢賢は確実に再起不能になる。
「もちろん」
「なんだ、そうなのか」
笑っている永に対して、蕾生はつまらなさそうに舌打ちした。鈴心の不安はますます大きくなる。
「それも冗談ですよね?」
「まあな」
やっと蕾生も笑ってそう言うと、鈴心は脱力して急に眠くなった。
「──わかりました。もう休みましょう。疲れましたね」
暑い中散々歩いて、振り回されて、鈴心の体力ももう限界だった。
「そうしよう。リン、しっかり施錠するんだよ」
「はい、お休みなさい」
そうして鈴心は永と蕾生が泊まるツインルームを後にして、隣のシングルルームへ入っていった。