彼は、小さく頷いた。

長めの前髪の先から、雫がぽろりと落ちていく。

ゆっくり近づいて、自分の折り畳み傘の中に入れてあげた。

特にこれといった理由はなかった。いつもだったらこんなことはしないはずだが、勝手に体が動いていた。

彼は、ゆっくり顔を向けて、何かを言った。その声は、震えていた。

残念ながら、雨音にかき消されて何を言っているのかまでは聞き取れなかった。

「家、くる?」

「⋯」

今までで、こんな非常識なことを言ったことはなかった。

もしかしたら彼は、家出の最中だったり、或いは一人の時間が欲しかったのかもしれない。

考えれば無限に出てくる可能性を一切無視した質問に、彼が返事をすることはなかった。

「名前、なに?」

測れば随分と長い沈黙を破ったのも、水無瀬の声だった。

彼は、音海と名乗った。今度は、雨の中でもはっきりと響いていた。

一緒に立ち上がると、傘に溜まった雫が一気に落ちてきて、咄嗟に自分の方に向ける。

そして、案の定ずぶ濡れになってしまった。音海は、何やってるの、とも、馬鹿じゃないの、とも言葉には出さなかったものの、

そう言っているように見えた。

「じゃあ、行こうか」

紛らわすためにそう言っても、なかなか音海が動かないので、二人はしばらく前に進めなかった。