そうして三〇年。房江が足繁く通ったそのミニシアターが今日、閉館する。
 
 通い慣れた道。可愛らしい赤い屋根に、不器用な看板の広告。少し黄ばんだ、館内の壁。
 
 お辞儀の状態から顔を上げるまでの短時間で、房江はこれまでのたくさんの思い出を脳裏に馳せた。
  
 ブランケットを積む広い背中。売店のカウンターの向こうからあんぱんを手渡す、骨張った大きな手。茶屋で時々見かけた紳士は、いつもアメリカンのブレンドを嗜む。
 
 その全ては、同じ人で。
 
 たった今その彼が、映写室の小窓の向こうで最後の仕事を終えた。
 
 小窓を見上げる房江。その視線が、彼と絡み合ったかどうかはわからない。それでも房江は微笑んだ。
 
 顔を下げ、ずっと手に握っていたそれを席に置くと、シアターを去る。
 
 カラカラと淋しげな音を奏で、もう二度と開けることのない引き戸を閉めたと同刻。
 
 
 男性は、房江が残したメモを見つけた。
 
 
 手に取り、その文字を見て浮かべた表情はどこか悲しく。男性はぐるりと一周シアタールームを見回してから、要所要所に目を止めた。
 
 その瞳にはたくさんの房江が映り、その房江の顔は、いつだって喜びに満ちている。
 
 男性は再びメモに視線を落とすと、フッと息を漏らして笑った。
 
「僕も。大好きでした」
 
 半分に折り畳まれたメモ。そのメモはこのミニシアターと同じく、この先開かれることはきっとないだろう。
 
 男性が去り、無人のシアターの照明が消される。
 
 並ぶ背もたれ。その真ん中の椅子の上で、畳まれたメモがじわりと開いた。
 
 
 “ありがとう。貴方の映すローマの休日が、大好きでした”