まだ髪が黒々艶めく歳の頃から。社会の喧騒にまみれ、心も身体も靴底もすり減らし疲弊していた時代を経て。今こうして曲がってしまった腰を、彼の前だけでは一生懸命伸ばした。
 
 映画と同じくらい、房江は彼に焦がれていたのだ。
 
『いつものあんぱんでいいですか?』
 
 特段優しくもぶっきらぼうでもない、普通の声色で。初めてそう声をかけられた時は、頷くことしかできなかった。
 
 初めてその手に触れたのは、花柄のブランケットを手渡された時。その角張った大きな手の感触に、房江は全身の熱を上昇させ頬を染めた。
 
『好きなんですね、映画』
『はい』
 
 これが最初の会話だった。はい、と答えたことは嘘ではなかったが、正直その頃はそこまで映画が好きなわけではなかった。彼に会う口実に過ぎなかった。
 
 彼に好かれたい一心で、房江は自宅に帰ってからノートにメモを綴り始めた。
 
 映画の構成や役者のセリフ、訪れる場所から服のデザインまで、その全てを書き留めたメモだ。
 
『想いを伝えられない場面で、いつも泣いてしまいます』
『ええ、僕もです』
 
 照れ笑いを浮かべる房江。その房江の顔を覗き込むようにして、更に微笑む彼。
 
 幸せだった。
 
 ミニシアターから帰宅した時は決まって、急いで靴を放ってソファーに顔を埋めた。
 
『あれ。今日はあんぱん、買わないんですか?』
 
 頷く房江。そのまま売店を通り過ぎ、スクリーンのある部屋に駆け込んだ時は動悸が止まらなかった。
 
 後にも先にも、房江があんぱんを買わなかったのはその日一日だけだった。
 
 その日は茶屋にも寄らず、帰路の途中でゴミ箱に手紙を捨てたのを覚えている。
 
 房江は想いを伝えなかった。なぜなら彼の左手には、いつのまにか指輪が光っていたから。
 
 遠くから眺めているうちに、彼は誰かのものになっていて。声を掛けるきっかけも、お礼を言う勇気すら持てぬまま。
 
 ボロボロに使い古されたノートだけが、房江の心の穴を埋めた。
 
 それからはなるべく笑うように努めた。気持ちを気づかれないように。そして房江自身も、その気持ちに気づかないように。
 
『少しお話ししませんか?』
 
 そう声をかけられたこともあった。だが房江は、そっと首を振った。
 
 もし、そこに一抹の希望を見出してしまったら。引き返せない感情があふれ出して、止められなくなってしまったら。
 
 房江はこのミニシアターと、通い続けた自分の人生を、ここで映画を観ることさえも失ってしまうことになる。
 
『私はこのシアターで映画を観ることが、生き甲斐なんです』