「あら。今日に限って、誰もいないの」
 
 メモを握りしめた房江(ふさえ)は左右に首を動かして辺りを見回した。椅子の背もたればかりがずらりと房江を出迎える中、そこから飛び出すような後頭部はひとつもない。
 
「そう。まさか、子供は来ないかしらね」
 
 そんな独り言を呟きながら。細い足で支えるには少々ふっくらした上半身をよたよた揺らして、子供のような期待の眼差しでスクリーンのそばまで行くと、房江は振り返る。
 
 だがやはり、大人の姿も子供の姿もそこにはなかった。
 
 落胆の息が鼻から漏れる。だがすぐにその口元は弧を描いた。
 
「こんな日に貸切だなんて、ラッキラッキー」
 
 房江は気持ちを切り替えると、席番号を確認することなくその部屋に並ぶど真ん中の椅子に腰をおろす。それから左腕に被せ持っていたブランケットを膝に掛けた。
 
 何度かお尻の位置を直し、背もたれに背中をつけ直しては顔を上げる。後頭部の違和感を払うように髪を撫で、リラックスの態勢をとるために肩を小刻みに揺らした。
 
「今日だけは、万全の体勢で臨まなくちゃ」
 
 そうして納得のいく形になれば、ふと背後が気になる。眼球だけを右に寄せたつもりが、つい頭までつられて振り返りそうになるのを房江はすんでで止めた。
 
(いけないいけない、お仕事の邪魔をしては)
 
 そうして再びスクリーンに向き直せば、少しして部屋の照明は絞られ始めた。
 
 温かい電球色の照明が、じんわりとその気配を消して。数秒も経たぬうちに部屋は真っ暗に。
 
 “よろしくお願いします”
 
 動いた唇から声は出ないものの、房江は同時に小さく頭を下げた。
 
 背後から、カラカラとフィルムの回る微音がする。同時に光線のように鋭い光が放たれ、室内の埃をちらちらと浮き彫りにした。
 
 モノクロの世界。靡くワンピースに、紳士のスーツ。ムッとした女性が次の瞬間には(こぼ)れるほどの笑顔を見せれば、物語は終盤に近づくに連れてムードを纏う。
 
 スクリーンの彼女が笑えば房江も笑い、彼女が眉間に皺を寄せれば房江の眉は下がり。
 
 映像は終始、房江の瞳を魅了し続け離さない。
 
 約二時間後。
 
 一瞬暗転した室内がぼうっと照明を灯し始めた。だんだんと瞳が部屋の明るさに慣れてくると、房江はすぐに腰をあげ立ち、そして振り返る。
 
 そして深々とゆっくり、頭を下げた。