斉藤藍徒。
 彼女の親族や、彼女自身の17歳現在までのプロフィールはデータで、ある程度閲覧することができる。しかし、彼のことは全く書かれていなかった。
それもそのはず。聞くと彼は、時雫の母親の友人の息子だそうで、彼女と血縁関係があるわけではなく、幼馴染という間柄だった。
 目の前にある豆腐ハンバーグを、未だ慣れない箸で小さく割る。どんなに指先に神経を向けても、ぼろぼろとハンバーグは崩れて、薄くかけられたポン酢に、崩れた欠片は浸されていく。一方目の前の藍徒は骨っぽい大きめな手を器用に動かして、きれいにハンバーグを食べる。
「学校はどうなんだ、藍徒」
「普通、今年から生徒会に入ったんだ。だからあまり部活に入ってないけど」
「ほうか、お前は頭いいからな」
「時雫がよくないってこと?」
「うるさいな、そんなわけないでしょ」
「……時雫は手伝いばぁしとるからな」
 幸彦さんはいつものなんてことない表情をしていたが、心から会話を楽しんでいるように思えた。
 俺よりもずっと、そしてこれからも、ここに存在し続けるであろう人物。向かいの席で目を合わせながら、楽しそうに話す二人を見て藍徒のほうがよっぽど、彼女の人生に深く刻まれるだろうと思った。

 もんもんとした湯気が浴槽内に充満している。
藍徒に出会ってから次の日、仕組まれたように家のお風呂が壊れた。藍徒の実家は銭湯をやっているのでそこに行こうとなり、行ったらいったでもう、閉まる時間だった。
 時雫のことを藍徒のお母さんは知っていたので、閉店間際の貸切状態で入れてくれたのだが、何故か俺は、藍徒と入る羽目になっていた。

「俺と入るの嫌だろ、お前」
「いや……ただ、他人と入ったことはないから」
「ふーん、まぁ最近そういうヤツ多いよな」
 体を洗い、ゆっくりと湯船に浸かる。少し離れたところに藍徒も座る。
 まぁなんとなく藍徒と入る気まずさもあるが……。現代にもこういった他人と風呂に入る店はあるが、ポピュラーじゃないし、俺は入ったことがない。あながちウソはついてない。
「まぁ、俺は時雫と入ったことあるけどな」
「……は?」
「……冗談だよ、幼馴染でもさすがにそれはないから! そんな目で見るな!」
 そんなに怖かったのだろうか、俺も冗談のつもりだったんだけどな。その言葉の後から急に会話が続かなくなり、蛇口からお湯がポトポトと落ちる音だけが聞こえる。俺が悪いような気がしてきて、話したいわけでもないのに気づけば口を開いていた。
「……好きなのか?」
「…………え、っと……うん。時雫のことだよな?」
「ああ」
「ふ、なんでそう思ったんだ? 俺ってそんなにわかりやすいのか」
 誰かを好きになることは、きっと嬉しいことで、誇らしいものなのだろう。漫画でも、いつもそうだ。毎日ワクワクして、ドキドキして、好きだってことを本人にも、まわりにも言いたくなる。顔を若干赤くさせながら、ぽちゃぽちゃとお湯の上で指を滑らせて遊ぶ藍徒を見て、そう確信した。
 ……だから、こんなものは間違いだ。あの時の彼女の顔も、その後の気持ちの高揚も、藍徒が来てからの胸のざわめきも____。これは藍徒と同じ、恋情なんかじゃない。
「お前も好きだから、見てて疑ったんじゃないか? 俺のこと」
「……そういうんじゃない」
「……へぇ?」
「違うっていってるだろ」
「わーかったよ! ……まぁ、そうならいいんだ」
「やっぱり……ライバルは少ないほうが嬉しいのか?」
「あはは、そんなんじゃないって。……お前もアイツのこと好きだったら、俺が牽制したみたいで恥ずかしいだろ? だから良かったって話だ」
 ああ、なるほど、プライドのようなものか。
「まぁアイツは結構お前のこと気に入ってるみたいだけどな」
「……そうか」
「否定しないんだな」
「断言したわけじゃないんだろう。それに俺は、近いうちに国に帰る」
俺のそんな弁明も聞いているのだろうか、藍徒はんー、と曖昧な返事をする。のぼせたのか、隣にある若干小さめに設計された水風呂にざばーっと入った。そんな藍徒にさらに質問してみる。
「気持ちを伝えたのか?」
「そんなこと、するわけない。……出来ない」
「なんでだ、藍徒がここに住んでないからか?」
「違う……ふつうに考えて、嫌だろ。今の関係が壊れたら」
 藍徒は今のままでいられなくなるのが、怖いのだ。じゃあ、俺は?一体何がこんなに不安なんだろう、一体何が怖いんだろう。
 自分と彼女の関係は壊れることが前提の、作られた出会いだった。
 あの日から、ずっとこうだ。なにかに触発されるたび、時雫のことを考えて、得体のしれない不安が、大波のように襲ってくる。
 「たまに考える。もっと、なにかが違ってたら、って。環境とか場所とか。女々しいよな」
 人は恋をすると、判断力や思考能力が低下するらしい。そして自分と、相手との客観的な分析もできなくなるらしい。その情報は、本当だ。藍徒は彼女を想う感情ばかりにとらわれて、己がどれだけ恵まれているかを、理解していない。