ガスコンロの前にある窓から、小さな一番星がこちらを覗き込むようにして、光っている。
 ことん、ことん、ことん。ぐつぐつぐつ。
まな板の上でキュウリが雑に切られていく音や、鍋からほんのり香る味噌の匂いが、部屋中に広がる。俺が来るよりずっと前から、朝食は幸彦さんが、夕食は時雫が作るシステムが確立しているようで、当然のように俺もこのくらいの時間帯は夕食作りを時雫と一緒にするようになっていた。時雫は大量にあるきゅうりを、いつもの調子で雑に切っていく。浅漬だからぶつ切りでいいとは言っていたが、あまりにもデカすぎやしないだろうか。
 顔を覗き込むと明らかにビクッと肩が跳ねる。
「どうした?」
「え、どうしたって、なにが? 」
「あんまりいつもより喋らないから……調子でも悪いのかと思ったんだ」
「さ、最近遅くまで勉強してるからかな〜、こういう時間に眠くなるんだよね」
「そんなに学業が忙しいのか?」
「う〜ん、忙しいっていうか、ね」
 いつもより、歯切れの悪い返しに、なにかあったのかと考えがよぎる。いつもうるさいくらいよく喋るのだから、こうも調子が悪いとこっちが心配になる。
「なんだ、言えよ」
「……テストがあるの、今度」
「へぇ、そんなにヤバいのか?」
「い、いや〜そういうわけじゃなっくってさ」
「じゃあ、なんなんだ」
「友達が自転車まだ借りたい、って言っててさ」
「取り返したいのか?」
「いやえっと、そのテスト、平均点以上じゃないと夏休み学校に補習行かなきゃ行けなくて」
「それは嫌だな、せっかくの休暇なのに。でも、そういうもんだ。成績が平均より下のやつは、みんなが休んでいる間に補講して、休み明けからの学習に追いつけるようにしないとな」
「……最近女子の間で『ダサい自転車に乗ったハーフイケメンが学校の近くを徘徊してる』って噂になってて……」
「ここらへんでダサい自転車に乗ったハーフイケメンって俺だよな。で? それがキミがどうしても補習を回避したい理由になるのか?」
「…………」
「冗談だよ、過大評価しすぎた……なにか言ってくれないと、恥ずかしいだろ」
 いつも冗談を言うと、五倍にして言い返すのに。無言でまた野菜を切り始める時雫をみて、やっぱりおかしいなと思った。その直後、ぼーっとしていたのか時雫の手が火にかかっている鍋にあたりそうになる。咄嗟に彼女の手をつかみ、それを、寸のところで止める。
「本当に、危なっかしいな……後は俺が一人でやるか――」
 彼女の顔を見て、時が止まったように感じた。
 今までにないくらい、顔を赤くして、耳まで赤かった。見つめ返す瞳は、泣いているんじゃないのかと錯覚するくらい、濡れていて、今、この瞬間、彼女の胸に広がる熱のようなものが自分にも伝染した気がして。彼女の手を、そっと離した。
「……そんなに寝てないなら、作り終わるまで寝てればいい。どうせ俺のほうが上手く作れる」
 時雫はいつものからかいにも応じることはなく、そうだね、とだけ言い、台所を後にした。
 彼女がいなくなったのを確認して、台所に向き直る。
 自転車を返してもらえない、ということは時雫が学校に補習に行くことになった場合、俺がまた送り迎えをすることになるということだ。送り迎えを今後も続ければ、周囲の噂は確信的なものになるだろう。彼女はそれを嫌がっている、ということは__、
 そこまで考えて、沸騰した鍋の火を急いで止める。考えすぎていたみたいだ。けど、火を止めて包丁を握ってみてもまた浮かぶのは、彼女の顔だった。
「…………」
 気味が悪すぎる。あんな、たった一瞬の表情を覚えているなんて。
 その後、作った料理を並べて幸彦さんと時雫でいつものように食卓を囲んだ。食事中もよく喋る時雫が全く話をしないからか、幸彦さんが珍しく「……ジュンは飯を作るのがうめぇな」と俺を褒めた。ありがとうございます、と言って時雫を見ると、時雫は俺の顔を見ずに黙々と料理を食べていた。

 紙と、埃と、太陽のにおいが、混ざり合って鼻をかすめる。
いつの日か時雫と自分の好きなもの、という題材の話をした日に、彼女は「暇なとき、使っていいよ」と言い、一つの部屋の鍵を俺に明け渡した。
 その鍵は屋根裏部屋の鍵で、彼女が幸彦さんの家に身を寄せる前から、つまり幼い彼女の『隠し部屋』とされている場所でたくさんの『少女漫画』が保管されている場所だった。
 身をかがめないと入れないほどの小さな部屋には、幸彦さんが作ったであろう簡素な本棚にぎっしり漫画が詰め込まれており、ところどころに可愛らしい雑貨やどこから拾ってきたのか道端で拾ってきたようなガラクタが飾られていた。
 普段彼女が使っている部屋とは違い、まだ彼女の両親が生きている頃から与えられていたという部屋だからか、少女漫画以外の物はどこか子供っぽさがあった。
 その日以来、彼女が学校に行っている日中、作業が終われば度々ここに来て、少女漫画を読んだ。いつもはデータ化された活字を読み、紙なんてものをめくることがないから、最初はその感覚にワクワクした。
 少女漫画なんて、バカバカしい。でも、そこにあるなら読んでってもいいかな、まぁ彼女が好きなものと言うくらいだし、読んで感想でも言えば話の種くらいにはなるだろう。
 そこから、みるみるうちにハマっていくのが自分でもわかった。異性が主人公の作品がほとんどだから、感情移入こそ出来なかったが、多種多様な世界観やキャラクター、何より、登場人物たちが紡ぎ出す言葉に心が惹かれた。
 雨が降る日や、寝付けない日はここに来て彼女と漫画を読んだ。それは彼女が学校に行って一人でここを使う時間よりも、ずっと好きな時間だった。
 そして自分の予想通り、わからない言葉や設定を聞いたり、その日読んだ漫画の感想を述べると必ず時雫は喜んで、その日の会話の種になった。
 いいと言っているのに、彼女は思わず朗読したくなる、と言って声に出して漫画を読んだ。彼女の大根役者っぷりに俺は笑った。
 回想をするほどに、彼女と過ごす日々は、ここでの日常は、確実に積み重なっている。
 昨晩の彼女の、あの一瞬の表情が脳内に浮かび上がる。
 朝になると時雫は「友達と勉強してくる」と言って家を出た。送ろうか、と言いかけたが時雫があれだけ乗りたくないと言っていたシルバーの自転車に鍵をかけたのを見て、無言で見送った。
 ザラザラとした紙を一枚、一枚、めくる。
 ラブストーリーには必ず、障害がある。それは作品によって、すぐに超えられるような小さな出来事であったり、はたまた国や運命をも揺るがす大きな事件であったり。
でもそれらを、主人公らは超えて、やがて結ばれる。どんなに距離が離れていようと、どんな悪女やライバルが現れても、二人は必ず、最終的にはずっと一緒にこれからを生きるようになる。
 俺は、彼女とずっと一緒に生きることはできない。彼女の思いに応えたとして、彼女への気持ちに名前をつけたとして、それでハッピーエンドになるとは、とても思えなかった。