午前中まで雨が降っていたのに、日中天気が良かったからか、すっかり地面は乾いている。ほのかな雨の匂いがした。
ブレーキの効きが悪いから、坂道は足をのばしてかなりゆっくり進まなければならない。今日もゆるやかな坂道を慎重にくだり、下った先にある大きな木の下に自転車を停める。
ここから少し歩いた先に時雫の高校はあるが、この自転車という乗り物は二人乗りが禁止なのだそうで、この場所でいつも時雫をおろし、学校が終わった時雫をここで乗せて帰っている。
「……あつ」
今日はいつにもまして、暑い。思わず独り言を呟く程度には暑い。延々に鳴き続けるアブラゼミの声が、木の下にいるせいか、自転車を漕いでいるときより、ずっと大きく聞こえる気がする。
時雫の帰りはいつも早い。委員会や用がある時は遅めの時間を言うし、予想外の事態で遅れようもんなら、汗をかきながら申し訳無さそうに走ってくる。と言ってもあまり反省はしてないようで「待たせてごめんね、暑かったでしょ」と言いながらこの前はおしるこを渡された。
いつも彼女はお土産といって変なものを持ってくる。家庭菜園部からもらったと言って、きゅうりをもらったり、鶏舎からパチってきたと言って卵を持ってきたり。時雫が持ってきたものは、その日のうちに夕食の材料になった。
あまりの暑さに、首に汗が伝うのを感じる。セミの音だけでなく、太陽が照りつける身を焦がす音でもしそうだと思う。
でも、俺は時雫を待っているこの時間が、嫌いではなかった。
照りつける太陽の光が、木々の葉を縫って、地面にキラキラと落ちていく。風に吹かれて葉が揺れるたびに、ころころと地面に落ちるその光を見たり、風が吹くたびに香る、シロツメクサの甘い匂いを吸い込んでみたり、時雫は今日何を持ってくるんだろう、と考えたり。 そんな時間がいつの間にか好きになっていた。
それにしたっていつもより遅い。
じっとしているのも嫌になり、時雫がいつも学校に向かうときに使う道の方に足を進めてみる。「ジュンくんは他の人より目立つんだからあんまりうろちょろしないでね!」と言っていたが、待たせるほうが悪いんだ。なんなら高校まで乗り込んでやる。
そう思い、時雫がいつも出てくる角の方を曲がって足を進める。
風に揺れるたび、弾かれたように乾いた音が空間に溶けていく。じっとそれを見ていると奥の方にいたおばあさんが「いらっしゃい」と声をかけてくる。
「あんた汗びっしょりじゃないかい……なんか冷たいもんでも買っていきな」
そのおばあさんをみて何となく時雫を思い出す。写真で若い時の彼女を見ただけで、実際の現代の彼女は見たことがなかった。彼女もこんなふうに、顔にたくさんのシワを浮かべて、口角も下がって、誰が見ても年を取っているという顔をしていたのだろうか。
「ねー、おばちゃんこれちょうだい!」
「おれくじも引くー!」
いつの間にか後ろに出来ていた子供の群れが、一斉ににわちゃわちゃと騒ぎ始める。「はいはい」と忙しそうにするおばあさんは、口角は上がらないものの、目をとても優しそうに細めて、心の底から子どもたちが店に来るのを楽しみにしているようだった。
「あんたたち、このお兄ちゃんにオススメでも教えてあげな。さっきからぼーっとして……まさか熱中症じゃないだろうね?」
「お兄ちゃん大丈夫ー?」
「これ美味しいよー、スイカ好き?」
「じゃあ、……それにしようかな」
小さな少年が持つスイカを模したアイスを手に取り、おばあさんのところへ持っていく。
雑多なレジ周りにはレトロなお菓子だけでなく、最近のスーパーにも売られているであろうお菓子も並べられていた。恐竜の模型が入ったチョコエッグ、ガム付きのトレーディングカード……その一個に思わず、目が留まる。
「このスイカのアイスと、これもください」
これならあの、おしるこの仕返しになると思った俺は彼女へのお土産と自分へのアイスが入った袋を持って店を出た。
スイカの見た目そっくりな三角形のアイスを、小さくかじる。赤い果実の部分はたしかに、ほんのりとスイカの風味がする。じっとしていると汗みたいに氷が溶け出す。それをぺろりと舐めると、ただの砂糖水なのに、なんだか特別な感じがした。
うまい、小さくつぶやくと遠くの方から「あー!!」と時雫の声がする。
「あ、それ美味しいやつ!」
「あげない」
「普通さぁ、学校お疲れ様ー、君もなんか食べるー? ってねぎらうのが理想の恋人じゃない?」
「……ほら」
「ん?」
「アイスは溶けると思って買わなかったんだ」
可愛らしいピンクの小さな箱を時雫に差し出す。この『セボンスター』にはランダムでネックレスが入っているそうで、おまけで小さなチョコレートがついているらしい。ネックレスと言っても、もちろん子供用なのでプラスチックやメッキで作られたものだし、デザインもとても高校生がつけるものではないが。ちょっとした嫌がらせの気持ちと、可愛らしいものなら例え女児向けのものであっても、彼女なら喜びそうだという期待を持って買ったのだ。
「え、だからってセボンスター? これ中身チョコだよ? 夏にチョコ?」
ジュンくんセンス悪いねー、と文句を言いながらもどこか嬉しそうに箱を開ける彼女にやっぱりな、と思う。
「今のセボンスターは花がモチーフなんだ〜。ノーマル二十種、レア五種、ウルトラレア一種なんだって……ってうわぁぁぁぁ!」
「ど、どうした!? ウルトラレアでも出たか」
「う、うん……そのまさか」
そう言ってネックレスが入ったナイロンを雑に開けて、手に取り出す。『レインボーローズ』をモチーフに作られているのか赤、青、黄色とカラフルな宝石が花びらのひとひらを再現している。ずっとそれを眺める時雫の手から入っていた箱を取り、振ってみるとおまけのチョコレートと、紙が出てきた。紙にかいている文字が分からず、時雫に聞くとモチーフになっている花は『レインボーローズ』であることと、花言葉は『無限大の可能性』だということが分かった。
無限大の可能性、なんだか今の彼女のようだと納得した。
「……冗談で買ったんだけど」
「もう、ジュンくんって素直じゃない……!」
ぶつくさ文句を言いながらも、やはり嬉しそうな彼女を横目に、今度こそ自転車のスタンドを蹴った。
さっき下った坂道を、片手にアイスを持ちながら自転車を押してのぼっていく。時雫も自転車の後ろの部分を押す。
「ジュンくんっていつもこうやって美味しいもの食べてたの?」
「いや、今日はじめて買った」
「ごめんね、今日いつもより遅かったからでしょ」
「別に。好きだからいい」
「え?」
「……待ってる時間が」
「ふ〜ん……じゃあさ、ジュンくんの好きなものってなあに?」
坂を登りきって、俺が自転車に跨ると彼女も同じように、後ろに座って、そう聞いた。いつもは彼女の学校であった話や彼女自身のことを聞くことが多いが、今日は俺の好きなものに関心が湧いたらしい。
「好きなもの……そうだな、さっきのスイカのアイス、美味しかった」
「ジュンくんの国にはアイスないの? 」
「いや、あるけど……あまり食べたことないし。糖質が制限されたものばっかり売ってる」
「他には?」
「ちりんちりん鳴るやつ、アイスを買った店に飾ってあった」
「風鈴かー、夏って感じがしていいよね」
「太陽の光が地面に落ちてるのを見たり」
「待って、それはどういうこと?」
ちょうど木陰があったので指を指して教える。
「ああ、木漏れ日ね。わたしもすき」
「こもれび? どんな漢字で書くんだ?」
「ふふ、あとで教えてあげる」
彼女の声が、笑い声が、背中の後ろから聞こえる。それだけで何故か、すこしだけ安心する。夏の爽やかな風が体全身を通り抜けていく。限りない空には入道雲が出ている。
風も、空も、声も__ここに来てから、悪くないものが増えた気がする。
「風鈴が好きなら、今度作ってきてあげよっか」
「作れるのか?」
「うちの高校、伝統工芸科もあってね、たぶんそこの技術室使えば作れるか――」
「いや、いい」
「えぇ〜どうして?」
持って帰れないから、と言いかけてやめた。持って帰れない、そんな言葉を言って持ち帰れない嘘の理由を考えることよりも、受け取れないと言った時の彼女の顔が曇るのが、なんとなく嫌だった。
「キミは不器用だから、変なものを作りそうだ」
「はぁ!? ちょっと、私以外と工作うまいんだからね!? 」
ジュンくんってほんとしんじらんない!そう言って後ろで俺の髪を引っ張る彼女に落とすぞ、と脅しをかける。すると直ぐに大人しくなった時雫に思わず、吹き出した。
その日は少しだけ、遠回りをした。時雫も遠回りをしたことに何も言わなかった。この時間が少しでも長く、続けばいいと思った。
