「明日迎えにきて、学校」
「は?」
牛舎の大きな窓から、生温い風と共に、鮮やかなオレンジ色の斜陽が差し込む。
確かな熱を持つその光は、時雫の横顔を鮮やかに照らしている。今日は一日中幸彦さんがトラクターで牧草を収穫するというので、俺たちは午後からただひたすら牛舎の掃除をしていた。
あの日以来、俺は「夏休みが終わるまで」、「家の手伝いをする」という条件で家に置いてもらえることになった。心配していた幸彦さんのことだが、本当に彼女が上手く説得してくれたらしい。そもそもが無口な人らしく、夏子さんについて言及されることはなかった。
西日でさえも暑いのか、時雫は汗で濡れた横髪を耳にかけながら「自転車で明日から私を学校まで送って、そんでもって迎えにも来てって言ってるの」と同じことを二回も言った。
「意味はわかる……なんで?」
「なんで、って今日自転車の乗り方教えてあげたじゃん」
ここらへんはなにかと自転車がないと困るから、と言って時雫は俺に自転車の乗り方を教えた。意外とすんなり乗ることは出来たが、漕ぐたびにキーキーと錆びた音がするし、シルバーのあの妙にダサい配色の乗り物に乗っている自分の姿を想像するとぶんぶんと首を横にふりたくなった。
「あんなヘンテコな乗り物に乗って街を蹂躙したくない」
「お、そんな日本語知ってるんだね」
「おい、いまバカにしただろ」
時雫は初対面の時以来、敬語を使わなくなった。そして俺を本当に従兄弟だと思っているのか、遠慮がなくなった。
「ジュンくんを拾った時に乗ってた赤い自転車、友達に貸しちゃったからさー、おじいちゃんのダサい自転車に乗って学校に行きたくないんだよね」
「キミもあの自転車に乗りたくないんじゃないか」
「あ、バレた」
あと、調子にも乗っている。時雫の長靴に、シャベルですくった土をかけて攻撃すると慣れているのか、いまさらそんなことされてもなんてことないように笑った。
「とにかくお願い、迎えに来て」
「雨の日のソワールでやってたのー、主人公を自転車に乗っけて帰るシーンを! ジュンくん私の彼氏になりたいんでしょ? お願い!」
私の、彼氏。その言葉を聞いて自分の目的のようなものを思い出す。俺がここに来たのはただここで平凡に暮らすためじゃない。あの後、毎晩のように任務達成の計画を立てたが俺が彼女の恋人作りを手伝うより、自分自身が彼女の恋人(もしくは恋人の役目を果たす)になる方がよっぽど早いのだ。少し当初の計画とは違うが、あながち最初の自分の発言は間違っていなかったのかもしれない。
「わかった、……やるよ」
「ほんと!? やったー!」
こんなことで、記憶に残るのだろうか。残ったとしてもそれが何か、彼女の今後の人生を変えることになるのだろうか。俺には、愛情というものを持ったところで人間は、変わらないと思っている。ましてやいい方向になんて、もってのほかだ。
「ジュンくんってさ少女漫画から飛び出してきたみたい」
「……どのへんが?」
「私のこと、キミっていうところとか。普通使わないでしょ、キミとか」
「日本語でyouは君って訳すんだろう……?和歌でもよく君って言うじゃないか」
和歌……?と一瞬時雫はぽかんとしたあと吹き出したように笑い出す。
「ふふっ、日本語の教材に和歌使ってたのっ……あはははっ、平安時代じゃあるまいし」
「あのなぁ、キミ。笑いすぎだ…………あ」
「あぁー、またキミって言ったぁ」
「このやろう」
「うわ! ジュンくん年下をいじめちゃいけないんだよ!」
時雫とこうやってふざけている時は、重苦しい自分の使命を忘れることができる。まばゆい陽の光が彼女の笑う顔を映し出すように照らす。
「私ね、ジュンくんがこうやって呆れながら笑ってくれるの好きだよ」
この時の俺は、こうした何気ないことを思い出だと、大切なものだと、まだ気づけていなかった。
