山道を登って、下って、どれくらい立っただろうか。時雫の家は結局見つからなかった。
それらしい集落を何回か見たが、「白河さんの家はドコですか」と聞くとあからさまに不審な顔をされた。カタコトだからよそ者だと思われたんだろう。
「まぁ最悪の場合は、学校の前に張るか……」
また不審者扱いされるだろうけど。いや、てゆうか俺、なんでこんなとこ来たんだろう。
「疲れた……もう無理……」
思わず道端に座り込む。できればこのまま寝転がって寝てしまいたい。ホッカイドウなんだからきっと道もそこまで汚くないはずだ。俺はよくわからない北海道への幻想を持ったまま座った勢いでうつ伏せになる。どれだけ歩いたかなんて、わからない。燃えるような鮮やかな陽の光が広大な大地を照らしている。ここは文献で見た「牧場」だろうか。動物は見当たらないが、広大な敷地のどこかから鳴き声のようなものが聞こえる。……少し、馬糞くさい。
「ねぇお兄さん……大丈夫?」
大丈夫、とはいろんな意味があるがおそらく今適用される意味は『心配』だ。頭上から声が降ってくる。さっそく親切な人から心配されたみたいだ。ありがたいけどもう正直起き上がる気力がない。
「……あたま」
日本語の感触に慣れていなくても、今の言葉の意味はわかる。完全に侮辱だ。確かに今の俺の状況は完全に頭がオカシイやつだ。でも、はるばる80年後の未来から無理難題の仕事を押し付けられた人間にその言葉はないんじゃないか?
「……大丈夫です、ご心配ありが……え?」
言葉を失った。
目の前の女性はデータで見た『白河時雫』だったからだ。けれど、データとはすべてが違っていた。彼女の前髪が風にふかれて、ふわりと音を立てずになびく。夕日が照らす頬はやわらかく、真っ白だったが、ほんのり色づいていることから、そこには血が通っているのだとわかる。涼やかな声は草原を駆け抜ける風のようで、土で汚れた指先には生命が宿っていた。人工的に作られていない顔のパーツたちは、なによりも貴重だ。一日かけて探し回った、普通に生きていたら会うことのない過去の人間。さまざまな感情が押し寄せ、彼女の顔をぼんやりと見てしまう。
「え、っと……頭の心配とかしちゃってすみません……。怪我とかじゃないなら私行きま……」
「待て」
乗ってきた自転車のスタンドを蹴ろうとする彼女を、思わず大きな声で呼びかける。
「なんですか? もしかして……なんか困ってますか? 道に迷った、とか」
「えっ……と、あー、困ってる、っていうか、あのー……」
俺に与えられたミッションは『時雫に恋人を与えること』。なんとしてでも、彼女と何らかのコンタクトを取らなければならない。
はっきりとした言葉で彼女を呼び止めたのに、いざ会話をしようとすると上手く言葉を紡ぐことができない。日本語が出てこないというよりも、彼女と自分をつなぎとめる言葉が出てこなかった。さすがに、君を探しに未来から来た、とは言えない。未来から来たことについて、言ってはいけないという規定はないが、この状況でそんなことを言っても信頼関係がない今、信じてもらえる可能性は限りなくない。下手すれば、変な外国人として警察に通報される。
「今キミに一目惚れした、交際を前提に付き合いたい」
「……は?」
しまった、完全に失敗した。
疲労と、焦りとで、完全に言葉を間違えた。というか、そんな気はまったくなかったのに、なんてことを口走ったんだ、俺。ああ、科学の道ひとすじで生きてきた俺が、来たかったわけでもない80年前の日本で、なぜこんなことに。だめだ、落ち着け、俺。まだ引き返せる。円周率を五千桁まで暗算すればきっと!
しかし、彼女は素早く自転車にまたがり、走り出そうとしていた。
「と、言うのは冗談で……」
「冗談が下手なんですね、それじゃあ」
走り出した自転車が俺から遠ざかるように、ゆっくりと加速していく。
ここで彼女を逃してしまったら、また一からこの広い土地で、彼女を探さねばならない。探して見つけたとしても、ストーカーの容疑をかけられて警察に突き出されるかもしれない。前科がついて牢獄に入れられるのは構わないが、このままではミッション失敗になる。
それはすなわち……現代に戻った後に待ち受けるのは、永遠の死。
「被験者ファイル⑱を引き続き、表示します。」
突然、腕時計の無機質な音声が俺の思考をぞんざいに切る。すると、彼女の資料が目の前に浮かび上がる。なんでこんな時に、と思ったが思わず目が止まる。出てきたのは彼女の家系図の一部だった。
父親の妹【白河夏子】。
白河夏子は交際していた外国人男性との駆け落ちにより、被験者の祖父【白河幸彦】と絶縁状態。その後の消息は不明、と記載されていた。これしかない。俺が彼女に信頼される、おそらくは、唯一の方法。
「白河時雫っ!!」
大きな声で名前を呼ぶと、彼女はキキーっと急ブレーキをかけて自転車を止める。振り向いた彼女は驚いた顔をしている。
「なんで私の名前知ってるのー!」
自転車を止めた彼女に俺は、一歩づつ近づく。信頼関係。彼女と俺をつなぐ方法。この時代で、この土地で、自分の存在を証明出来るものは何も無い。だけど、それを逆手にとって彼女との関係を新しく作ることならできる。
「俺の母親……白河夏子って知ってるだろ。は、母の生まれ故郷に興味があって来たんだ……」
彼女はその場にその場に自転車を止め、一歩一歩、俺に近づく。
「夏子さんの息子……ってことは、あなたは私の従兄弟ってこと?」
近づいてくる彼女に、俺も彼女に向かって足を進める。
「そうだ、君のお父さんの幸宏さんは俺の叔父になる。だから君と俺は従兄弟だ……あ、っ」
「危ない…!」
足の極度の痛みにつまづきそうになるも、彼女が咄嗟に俺を支える。
「右足、怪我してる……すみません、私、怪我してることにも、夏子さんの息子さんだってことも気づかなくて……」
「いや、怪我って言っても擦りむいてるだけだし、ここに来るまでにかなり歩いて……少し疲れているだけだ」
「改めまして……わたし、白河時雫です。名前を聞いてもいいですか?」
人生で名前なんて、名乗ったことがあっただろうか。現代では相手を見ただけで、言葉を交わさずとも、名前も、年齢も、知ることができるのだから。
「ジュン……、白河ジュンだ」
慣れない口の動きに、思わず声が震える。そんな俺に彼女はそっと、微笑むのだった。