昼間だというのに雲がどんよりと空にかかっているせいで、外は暗かった。ガラスの向こうでは絶え間なく人々が動いていて、今日も世界は正常に動いている。
「なぁ、ルシアン。ここいいか?」
 耳から直接伝わる人間の声に少しびっくりした。首だけうごかして後ろを見ると、直属の上司であり、今ではうちの研究所の責任者でもあるエルド・バートナーさんがトレーを持って立っていた。
「……もちろん構いません」
 必要もないが、わざと自分の座っている椅子を少し横に寄せて空間を作る。たくさん空席はあるのに俺の横に座るなんて。エルドさんは「いやー、悪いな」と言いながら、隣の椅子にどかっと座って俺の方に距離を詰めた。この人はいつもそうだ。一介の研究者である俺を面白がっているのか知らないが、やたらと絡んでくる。
 エルドさんは目の前で器用に『箸』を使い、麺をすする。箸は中国で使われている食べ物を食べるときに使うものだが、ここのフードコートでは麺、それも『うどん』を注文したときにしかついてこないので殆どの人が使っているのを俺は見たことがない。
 やっぱり変態って食べるものも変わってるんだな、と思いながら自分の注文していたサンドイッチを小さくかじる。これが結局栄養も取れるし、時間を取らないのだ。
「ルシアン、最近どうだ」
「最近ってなんですか」
「最近は最近だよ、仕事もだが……プライベートは充実してるか?」
「プライベートは特になにも。仕事では、肉声で喋りかけてくる上司がいるので怖い思いをしています」
「それはもしかしなくても俺か? やっぱお前面白いな〜」
 そう言ってケラケラと笑うエルドさんだが、俺は気が気じゃなかった。リップル内では腐っても責任者であるエルドさんと、なんでもない俺が昼食を共にしているのだ。しかも、エルドさんが肉声で喋っているから余計目立つ。周りの視線が地味に刺さる。
「意外と声に出して喋るのも面白いぞ? それにここのフードコートは『研究分野に関わらず、様々な研究員が直接コミュニケーションを取る』ために作られたんだからな」
「……作られた張本人で、貴方が一番可愛がってたジュンさんは先月辞められましたがね」
 このビルには国際時空研究機関リップル以外にも様々な分野の研究機関があるが、ここ56階のフードコートはどこの研究員でも利用できる。しかしここが出来たのはたった数年前のことだ。従来の静かなフードコートとは違い、意図的に『音』をシャットダウンしない作りになっており、会話や雑音が聞こえる仕組みになっている。
 この場を作ろうと提案したのは先月まで我がリップルの所長だった、ジュンさんだった。ジュンさんの功績は数え切れないが、一番大きかったのはアインシュタインのブロックユニバース理論をもとに作られた時空体感装置の『many universes』を完成させたことだろう。あれが世に出てからというもの、研究機関の中でもリップルはかなり有名になったし、そのことがきっかけでジュンさんは一気に昇格して所長にまで上り詰めたという。まぁ、全て俺がここに配属される前の話で、実際にジュンさんと共に働いたのは半年しかない。それでも、数少ない尊敬できる人がやめてしまったのは、少し、悲しかった。
「そうなんだよなー、可愛がってた後輩が辞めるのは惜しかったが、アイツの人生はアイツのものだしなー。俺も黙って見送るしかなかったよ」
「……どうして辞められたのか、知ってるんですか?」
 聞いてみたかったのだろうか、気づけば俺はふつうは気を使って聞いてはいけないことを聞いてしまった。するとそんな俺を咎めることなくエルドさんは「そうだなぁ」とうどんを啜りながら話し始めた。
「数年前……『many universes』に関わるまでのジュンは今のお前みたいな感じだった。いつも難しい顔をしてて、仕事はできるのに、楽しそうじゃなかった」
いつもふざけているエルドさんが、遠くを見つめながら静かに語りだす。
「そんなアイツを心配して……いや、まぁ俺も上には逆らえなくて。当時はまだ数例しか成功されていなかったタイムリープの被験者にジュンを推薦した。ジュンの中で仕事に対する意識が変わるんじゃないかと思ったのもあるけどな」
 いつもテキパキと指示を通し、他の研究員ともコミュニケーションを絶えず取っていた彼が昔はそんなだったとは知らなかった。
「期待通り……ジュンは変わったよ。意識が回復して……いや、現代に還ってきてからジュンは前以上に仕事に打ち込んだし、以前では考えられないような提案も出すようになった。
研究にちゃんと向き合えるようになってな、俺は嬉しかったんだ」
 エルドさんはもうなくなってしまったうどんの汁を飲むことはなく、箸を置いて、手を組み始めた。
「タイムリープによる実験後、4年してあの体感装置が完成したわけだが……その時、あのジュンが泣き崩れたんだ。俺もびっくりしてな、理由を聞いてもなにも話さなくて……でもジュンが、自分のユニバースを見たんじゃなく、被験者である彼女のユニバースを見たんだと装置の履歴で知った時、気づいたんだ」
 そういえばジュンさんは時々、悲しい顔をする時があった。そのときは決まって雨の日だったと思う。このフードコートで何度かジュンさんと会って、会話をしたことがあるが内容についてはイマイチ思い出せない。
「ジュンははっきりと言わなかったけど、おそらく彼女と当初の予想以上に深い仲になったんだろうな。被験者のユニバースだけでなく、タイムリープを通してジュン自身まで変わったんだと、俺は思った」
 深い仲……被験者に対して愛情でも芽生えたのだろうか。だとしたら、相当つらいはずだ。自分がいなくなった後の彼女の姿を見るなんて。きっと、ジュンさんを忘れて生涯過ごしただろうし。それを見てどう思ったのだろうか。
「も、もしかして……時空を超えた報われない気持ちに耐えられなくなって……!?」
「あーいや、死にに行ったわけじゃないから落ち着け」
 最悪の想定が思い浮かんだ僕を横目に、エルドさんはのんきに、残り少ない水を飲み干す。そしてゆっくりと息を吐いた後、口を開いた。
「研究所にいると、どうしても彼女を思い出すからと……旅をしながら自分なりにしたいことを探すとも言っていた」
「……そうなんですね……よかった」
 なんだ、まあ、そんなことをする人じゃないか。あの人は研究者としてじゃなくても活躍できそうですしね、そう言おうとエルドさんを見た時、俺はエルドさんがニッコリとこちらを見ていることに気づいた。
「まぁ……新たな夢を見つけこの地を立ったヤツのことはさておき、ルシアン――」
 ああ、なんだろう。すごく嫌な予感がする。だいたいこの人がこういう笑みを浮かべる時は、面倒事に巻き込まれるんだ。あれ、なんかこれ、誰かとも話したような。

「次のプロジェクトの被験者にならないか?」

 その言葉を聞いた時、ジュンさんと話したことを思い出した。そうだ。あの雨の日、俺が聞いたジュンさんの言葉は――、



『もしエルドさんからなにか頼まれたとき__嫌な予感はすると思うが引き受けてみてほしい。もちろん無理にとは言わない……。確実に面倒なことだが、やってみると意外と面白かったりするからな』
 

END