【2123年 現代】
ささやかな雨の音が響く。今日は厨房機器の工事のため、フードコートは定休日だ。誰もいない開けた空間は電気も消されており、外は雨が降っていることもあって、うっすらとした窓からの明かりだけが頼りだ。
窓にそっと手をおいてみる。窓越しなので雨の感触はもちろんないが、窓に雨が当たるかすかな音は聞こえる。
この音を聞いてると彼女とのことを思い出す。薄暗い部屋で、漫画をひたすら読んで、言葉を交わして、笑いあった日を。
「……つめたい」
遠いあの日を何度思い出しても、忘れるものはあった。死んだ人の声を最初に忘れるというが、あれは本当らしい。正確には死んだのではなく、別れたのだけれども。それでも、俺と出会っていない老婆の彼女は、俺が意識を取り戻す前に老衰で亡くなった。
あの日から、何度も泣いた気がする。まず意識を取り戻して現代に還った時は無意識にずっと涙を流していたし、彼女が老衰でもう死んでいるという事実を聞いたときも泣いた。『many universes』の体感装置が完成され、はじめて彼女のその後にアクセスした時も意味がわからないくらい泣いた。その時は実験直後と違って、普通に意識があるときに俺が泣いたものだから、エルドさんが慌てていたことが懐かしい。
その後も研究者を続けたが、そんな日々も今日で終わりだ。
「辞めるなら辞表を出せー!」と冗談で止めようとしたエルドさんに今日、本当に辞表を出してきた。すると頭をポリポリとかいた後、「まぁ、お前が決めたことなら」と退職を受け入れてくれた。
代わりが見つかるまでは、まだ所長の椅子に座ることになるがエルドさんのことだ、こういうことはすぐにでも決めるだろう。そう思いさっそく所長室に置いていた私物をまとめて来た。
この場を後にしようと、冷たい手をポケットの中にしまう。するとカラン、とポケットに入れていたおもちゃのネックレスが冷たい地面の下に落ちる。
落ちたそれを手に取って、暗がりのなか眺めてみる。何回見ても、高校生の女の子に渡すものじゃないよな、と思う。絶対に彼女自身が持っていたものではないとわかっていても、たまたま立ち寄った骨董店でこれを見つけたとき、研究者をやめようと思った。
彼女のその後――俺と出会った時雫は、幸せな生涯を送り、沢山の人に看取られ死んでいった。そして、数ある人生の中で俺のことを時折思い出し、ずっとおもちゃのネックレスとちんけなイヤリングを持っていてくれた。約束通り、幸せに生き、忘れないでいてくれた。
そんな約束を守った彼女を見て、俺も約束をしっかり果たさなければならないと思った。
研究者という仕事は割と合っていたと思うけど、やっぱり何度も彼女を思い出すし、きっと目を向けてないだけで、探せばやりたいことなんて他にいくらでもある。
再びネックレスを大事にしまって、今度こそここを去ろうと出口を見る。すると、一人の人間が出口の方に立っているのが見える。あれは確か、エルドさんが最近気にかけている子だ。
「お疲れさまです、ジュンさん。……自分は作業をしに来たんですが」
「ああ、今日は定休日だ。下の会議室があるからそこを使うといい……作業ってもしかしてエルドさんの仕事か?」
「そうなんです! いっつも俺にあの人は……」
ぶつくさエルドさんの文句を言う彼を見てなんとなく、次はこいつだろうな、と思った。エルドさんはこういう、俺みたいなやつを気にかけて、うざ絡みをするのだ。だからきっと、空いた所長席に座り、さらにとんでもない面倒事を押し付けられるであろう彼に助言をしてやることにした。
「えっと……それでジュンさんはなんで、そんなに荷物を持ってるんですか?」
「これは大したことじゃないんだ……まぁ、それより聞いてくれ。もし――」
エルドさんの悪い笑みには気をつけたほうがいい。たぶんなにも変わらないと思っていた日常が、大きく変わるから。