心が、ぱきっと折れる音がした。

 ……いや、厳密にいえばそんな音が聞こえるはずはない。けれどたしかに体のどこかで、心が折れた、そんな実感があった。

 それは、高校の帰り道を歩いていた時のこと。

 雨上がりのじめっとした空の下を歩いていると、向こうからいかにも柄の悪い男が、歩道を占拠しながら我が物顔で歩いてきていた。
 嫌な予感は薄々感じていたものの、わざわざ道を譲るまでには至らなくてそのまますれ違おうとした時、大股で歩いている男の肩が俺の肩にぶつかった。

 背だけはでかい俺はよろけなかったものの、その拍子に持っていたスクールバックが道に放り飛ばされた。
 不運にもわずかに空いていた口から、数冊のノートが顔を出す。さらに最悪なことに、それが水たまりの上だったから、ノートが泥だらけの水に浸ってしまう。

「いってぇな! 前見て歩けよ、ガキが!」

 スクールバックを拾おうと腰を折った俺に向かって、畳みかけるように悪意の礫が降りかかってくる。
 その瞬間、心が、ぱきっと折れる音がした。

 見知らぬ男の罵詈に傷ついたからでも、ノートを落とし汚したことがショックだったからでも、鞄を拾うのが惨めだったからでもない。
 こんなのは、ただのきっかけに過ぎない。
 表面張力でなんとか保っていた水の入ったビーカーに最後の一滴が落ちて、溢れた。日々の中で積もりに積もったものが、限界点を超えてついに決壊してしまった。

 最後の背中を押すきっかけは、どんなに些細なことでも成り得たのだ、きっと。

「おい、なんとか言えや」

 黙ったままでいる俺に、男が食ってかかってくる。彼にとっては、かっこうのストレスの捌け口を見つけたくらいのことなのだろう。

 ……だるいな。

 今はそのすべてが煩わしくて、のっそり上体を起こして前髪の隙間から男を一瞥する。
 すると俺の顔を見た男は、それまでの威勢はどこにいったのか怯んだように視線をふいと逸らし、「わかったならいいんだよ」ともごもご口を動かしながらぎこちない動きで立ち去って行った。

 俺の心をぱきりと折るだけ折って男が去り、再び静寂が降り立つと、俺は顎を持ち上げて息を吐き出す。

 ……死にたい。
 もう、なにもかもがどうでもいい。
 罪悪感を抱えて生きるのはもう、疲れた。

 心に浮かんだ衝動を抱えたままふらふら歩いていると、長い橋に差し掛かった。
 橋の欄干から下を見れば、足元よりもずっと遥か遠くで、ごうごうと音をたてて茶色い水が流れている。昨夜からさっきまでずっと雨が降ったから、水かさが増し川の流れも速い。

 ここから飛び降りれば、あの世にいけるのだろうか。

 耳朶を打つのは水の音ばかり。それ以外はなにも聞こえない。

 俺はバックをその場に手放すと、のそりと足をあげ躊躇うことなく欄干に腰掛ける。

 もう俺は、気が滅入ってしまったんだ……。

 生ぬるい温風が、伸ばしっぱなしの髪を揺らしていく。

 7月の空は厚い雲に覆われ、白と黒を適当に混ぜたような綺麗とは言い難い色をしていた。
 せめて最後くらい綺麗な空が見たかった、なんて一瞬柄にもないことを考えて、ふと人知れず嘲笑が漏れる。
 お天道様にも嫌われているなんて、いかにも俺らしいじゃないか。
 
 友達はいない。恋人はもちろんいない。趣味はない。俺――深園刻(ふかぞの とき)にはなんにもない。
 
 清流とは程遠い景色を、ぼんやり見下ろす。
 濁った水が木や泥を巻き込んで勢いよく流れて、いつもうららかに流れている川とは別人のような顔をしている。

 苦しいだろうか。落ちてから、いったいどれだけ意識があるのだろう。
 でもそれさえ超えれば、なにもかもを捨てられる。そう思えば、これから襲われるであろう苦しみなんて安いものだ。

 さあ、あとは重力に任せて落ちていくだけ。
 さよなら、世界。

 俺は鼻からひとつ息を吸うと、まるでふかふかのベッドに飛び込むみたいに上体を倒した――。

 けれど直前。俺の体は、後ろから腰に抱きついてきたなにかの力によって、止められていた。

 はっと息を呑んで振り返れば、見たことない少女が俺の腰に抱きついていた。
 彼女は小さな体のどこにそんな力があるのかと思うくらい、ぐいぐいと俺を後ろに引っ張る。
 欄干に腰掛けていた俺は頼る支えもなく、少女もろとも背後のアスファルトに倒れ込んだ。

「痛……」

 尻餅をつき、現実世界へと引き戻された俺は、少女を見る。
 少女と思いきや、よく見れば彼女は高校生らしく同じ高校の制服を着ていた。色素の薄い長い髪は癖毛なのか、柔らかくふわふわと風に揺れている。
 自分も尻餅をつき痛みがあるだろうに、彼女は俺を心配するように腕を揺すってくる。まるで大丈夫なのかと問いたげに。

 出鼻をくじかれたとは、まさにこういうことを言うんだろう。
 だけど彼女への不快感が起こらなかったのはきっと、彼女があまりに真剣で泣きそうだったから。泣きそうな彼女の方が深刻な状態にあるみたいで、俺はさっきまでの自殺念慮を忘れていた。

 彼女は俺の腕にしがみついたまま、泣きながら何度も首を横に振った。
 まるで俺の行いを責めるように、何度も何度も。

 通りすがりで驚かせてしまっただろうか、軽いパニック状態になっている。
 俺はおどおどとしながら、そんな彼女をなぐさめざるを得なかった。

「悪い……」

 腕にしがみつかれているのはさておき、自分から女子に触れたことがなくて、恐る恐る彼女の背中をさする。
 すると鼻を啜った彼女が、制服のスカートのポケットからなにかを取り出した。それはスマホで、メモ帳アプリらしき画面に文字が並んでいた。

『もうこんなことしないでください』

 なぜスマホに文字を打ったのか、その意味を考えるまでにほんの少し時間がかかった。
 なにかまわりに声を聞かれてはいけない事情があるのだろうか。それとも──。
 その先を考えるのを遮るように、再び彼女がスマホを俺に突きつけてきた。

『お願いです』

 なぜだろう。声は聞こえないはずなのに、彼女が声を張って叱っているようなそんな錯覚に陥る。

「わ、かった。から、離して……」

 ぎゅうぎゅうと遠慮なく握りしめられる腕が痛かった。
 気圧されて躊躇いがちに頷くと、彼女はそれでもなお不満そうに下唇を噛み、立ち上がる。それから俺に手を伸ばしてきた。
 これは、立ち上がれ、という意味だろうか。
 拒めば彼女はまた怒るかもしれない。立ち上がりたいというよりも、彼女の機嫌を損ねたくないという意味で、俺はその手を取った。

 立ち上がれば、彼女が俺よりも15センチほど小さいことを知る。こんな小さな子に、俺は川の底に落ちそうだった命を掬われた(・・・・)のだ。

 彼女はそこで初めて、俺を見上げて笑った。
 それはまるで雪の中に咲く一輪の花のように鮮やかで、鮮烈に俺の瞳に焼きついた。