翌日。
 美玲はゆっくりと瞼を開く。
 目に入ってきたのは見慣れない天井、見慣れない部屋。
(そうだ、今日はツアー二日目なんだ)
 ゆっくり体を起こす美玲。
 時差ボケでまだ少し体がおかしい感じはするが、そこまでしんどくはなかった。
 顔を洗い、髪を整える美玲。
(うわ、髪の毛キッシキシだ。流石は硬水。そういえば昨日もシャンプーあんまり泡立たなかったし。まあヘアオイル使ったから多少はマシだと思いたいけど)
 美玲は早速硬水の洗礼を受けたのである。
 フランスは日本と違って水道水にカルシウムやマグネシウムなどが多く含まれている。フランスの水道水を飲んでも体に害はないのだが、日本人にとっては体質に合わずお腹を下してしまう可能性もあったりする。おまけに硬水で髪を洗うと、髪がきしみやすかったり、髪や頭皮が乾燥したりもするらしいのだ。

 その後、朝食を食べに部屋を出る美玲。
 エレベーターに乗り込んで一階に向かう。
 その時、途中の回でエレベーターが止まった。
「Bonjour」
 恐らくフランス人であろう宿泊客男性が、美玲を見てそうニコリと笑う。
「……ボンジュール」
 美玲は戸惑いつつも、恐る恐るカタコトのフランス語で返した。
(……挨拶された。日本だとこういうのあんまりないよね。フランスだと普通なのかな?)
 そう考えているうちに、エレベーターは一階に到着した。
 一緒に乗っていたフランス人と思われる男性がエレベーターの開くボタンを押してくれている。美玲が出るのを待ってくれているようだ。
「えっと、メルシー」
 美玲は軽く頭を下げて先にエレベーターを出た。ここはフランスなので、頭を下げることには何の意味もなさないのだが、つい咄嗟に日本でよく馴染みのある仕草が出てしまう美玲であった。
(エレベーターでの挨拶、それから多分これがレディーファーストってやつだよね? フランス人男性ってアジア人観光客の私にもそういう扱いしてくれるんだ……。結構アジア人差別とかがあるって聞いてたからちょっとびっくり)
 美玲は戸惑いつつも、ほんの少しだけ嬉しくなるのであった。

 ホテルのカフェテリアのような場所まで来た美玲。
 すると、フロントの女性が「Bonjour」と声をかけてくれた。
 美玲もカタコトで「ボンジュール」と返し、カードキーの部屋番号を見せ、「シルヴプレ」とお願いすると、カフェテリアの席を自由に使うようにと言われた。
「あ、岸本さん、おはようございます」
 カフェテリア入り口付近の席にいた添乗員の明美に声をかけられた。
「おはようございます、斉藤さん」
 美玲は朝起きて初めて日本語が聞けたので、少しホッとして肩をなで下ろした。
「昨日はよく眠れました?」
「うーん……まあまあですかね」
 美玲は苦笑しながらそう答えた。
「時差ボケもありますよね。今日も楽しみましょう。あ、朝食の席は自由でいいみたいですよ。向こうにあるパンとかスクランブルエッグを自由に取るバイキング形式です」
「はい。ありがとうございます」
 何となくそうだろうなとカフェテリアの雰囲気を見て分かったが、改めて明美に日本語で説明された。自分の予想が合っていたことに美玲は安心した。
「それと、日本みたいに荷物を置いて席を取らないでください。絶対に置き引きされますから」
「はい、ありがとうございます」
 明美にそう忠告され、美玲は気を引き締めた。
(うん、そうだよね。ここはフランスだ。日本感覚だと危ない)
 美玲は先に朝食を取りに行くことにした。
 朝食バイキングはパン数種類、チーズ数種類、スクランブルエッグ、ソーセージ、フルーツなどが並んでいた。
 美玲は早速パンの場所へ行く。クロワッサンと、クロワッサン生地にチョコレートが詰められたパン・オ・ショコラなど、フランスではお馴染みのパンが並んでいる。
 美玲はせっかくフランスに来たのだからと、クロワッサンを取る。
 そしてチーズが並ぶ場所へ行く美玲。
(流石はチーズ大国フランス……。やっぱりカマンベールかな)
 美玲はカマンベールを取った。
 そしてスクランブルエッグとソーセージとを少し、飲み物は牛乳を選び空いている席に座った。
 早速クロワッサンにかぶりつく美玲。ポロポロと生地がこぼれ落ちるのを手で防ぐ。
(何と言うか、バター感がすごい。美味しい。これハマりそう。だけど絶対カロリー高そうだなあ……。いや、カロリーとかそんなの気にせず食べちゃえ!)
 美玲はサクサクとクロワッサンをたいらげた。
 他に取ったチーズなども完食し、更にパン・オ・ショコラとフルーツまで取りに行く美玲であった。
(それにしても、サラダとか野菜とかスープとかはバイキングにないんだ)
 美玲はそのことに少しだけ戸惑っていた。
 別に美玲は特段野菜が好きなわけではないが、ほとんどないとなると少しもの寂しいと思うのであった。

◇◇◇◇

 このホテルはこの日にチェックアウトなので、美玲はスーツケースに荷物をまとめて集合場所であるホテルのロビーにいた。
「はい、みなさん全員いらっしゃるということで、改めておはようございます。今日はまずバスでシャルトル大聖堂へ行きます。シャルトル大聖堂見学後はこのホテルには戻らずロワール地方に向かいますので、忘れ物だけないようにしてくださいね」
 明美から今日の今後の行程と注意事項が伝えられた。
「そして、今日は現地ガイドの仁美(ひとみ)・デュパルクさんが来てくれています」
「皆さん、おはようございます。仁美・デュパルクです。出身は日本ですけどもう大学卒業して以来こっちに住んでいます。今日はよろしくお願いします」
 明美から紹介された今日のガイド仁美は、見た目こそアジア系だが長いことフランスに住んでいるので雰囲気は完全にフランス人っぽかった。
「皆さん、恐らく名前でお気付きだと思いますがこちらの仁美さん、何とフランス人男性と国際結婚しているんですよ」
 明美の言葉に、同じツアーに参加しているやたらとキラキラしたオーラの若い新婚かカップル二人組が「ええ! 国際結婚とかすごい!」とテンションが上がっていた。
 その後、美玲達はバスへ向かった。
 空港に迎えにきてくれたバスと同じで貸切である。また初日と同じで皆それぞれ一人数席分陣取って広々とくつろいでいる。

 そしてシャルトル大聖堂に到着した時に、美玲はあることに気付く。
(あれ……? スマホが圏外じゃん。ポケットWi-Fiに繋げてるはずなのに)
 美玲は慌ててスマートフォンをWi-Fiに繋げようとするが、ポケットWi-Fiのネットワーク名が出ない。
(嘘……!? 何で……!?)
 美玲はウエストポーチに入れてあるポケットWi-Fiを確認した。
 何とポケットWi-Fiの充電が切れていたのだ。
(ええ……!? 昨日充電したはずなのに!?)
 青ざめる美玲。
「美玲さん、どうかしたのですか?」
 朱理が心配そうに見つめてくる。
 朱理の長い髪は、美玲とは違い硬水の洗礼を受けていなさそうに見える程艶々していた。
「ああ、朱理ちゃん。実はポケットWi-Fiの充電ができてなかったみたいで……」
 肩を落とす美玲。
「それってもしかして今スマホが通じない状態ですか?」
「うん。圏外」
「……大変ですね。すみません。私もポケットWi-Fi持っていたら、美玲さんにお貸ししたり繋ぐことが出来たのですが、生憎(あいにく)海外SIMなので、できそうにないですね」
 少し申し訳なさそうな朱理。
「朱理ちゃん、気にしないで。今日は多分ずっと団体行動だから、はぐれない限りは何とかなるはず」
 美玲は自分自身にそう言い聞かせている面もあった。
 そこへ穂乃果がやって来る。
「おはようございま〜す。何かあったんですか〜?」
 眠そうな目をこすり、きょとんとした表情の穂乃果。
「おはようございます、穂乃果さん。美玲さんのポケットWi-Fiの充電がないみたいです。穂乃果さんはポケットWi-Fiとかお持ちですか? もしあるのなら、美玲さんに繋げていただけたらと思いまして」
「朱理ちゃん、大丈夫だから」
 美玲はやんわりと朱理を止めた。
「ポケットWi-Fi? 私、何か親がスマホの契約会社に海外で使えるよう手続きしてくれてたみたいで。だから持ってないかな〜。何か困ってるのにごめんなさい、美玲さん」
 色々とよく分かっていなさそうな表情の穂乃果である。
「うん。穂乃果ちゃんも、気にしないで」
 美玲は苦笑した。
 その後、朱理と穂乃果は先に進んでガイドの仁美の所へ行った。
(まあ旅行とかには色々とトラブルが付きものだよね。国内旅行でも予期せぬトラブルはあるんだから。これはもう仕方ない。ただ、完全に日本語が通じない土地だから不安だなあ……)
 美玲は一人軽くため息をついた。
「岸本さん、どうしたの? 何か浮かない顔だな」
 いつの間にか美玲の側に誠一がいた。
「中川くん、先に行ってるのかと思った」
 美玲は軽く驚いた。
「いや、さっきから岸本さんが困ってそうだったから気になってさ」
 ポリポリと頭を掻く仕草の誠一。
「まあ、大したことはないんだけどさ、ポケットWi-Fi充電できてなくて」
 美玲は苦笑し、充電切れのポケットWi-Fiを見せる。
「うわ、大変だな」
「まあでも、今日は終始集団行動だし、ガイドの仁美さんや添乗員の斉藤さんと一緒にいたら何とかなるかなって思ってる」
 美玲はハハっと笑う。
「まあ海外旅行は多かれ少なかれ予想外のトラブルに見舞われるけど、また何が起こるか分かんないからさ、俺のポケットWi-Fiに繋げば?」
 誠一からの提案に美玲は驚く。
「……いいの? ありがたいけど、容量とか大丈夫?」
 美玲は恐る恐る聞いた。
「容量的にも二人分くらいなら多分問題ないと思う。ほら、これ」
 誠一はネットワーク名とパスワードを美玲に見せる。
「ありがとう、中川くん」
 美玲はホッと安心したような表情になる。
 目の前の誠一が、まるで救世主のように見えた。
「おう。ただ、離れたらWi-Fi繋がんないからさ……今日は俺の近くにいた方がいいぞ」
 誠一は少し美玲から目をそらして悪戯っぽく笑う。若干瞬きの回数が多いように感じた。
 それに美玲はほんの少しドキリとする。
「あ、まあ岸本さんが嫌じゃなければだけど」
 誠一は直後、ハハっと誤魔化すように笑った。
「あ……嫌……ではないと思う。それに、私、中川くんのポケットWi-Fi使わせてもらう立場だし、迷惑かけてごめん」
 美玲は少し俯いた。
「全然迷惑なんかじゃないから。行こう、岸本さん」
 誠一にそう言われ、顔を上げる美玲。
 誠一は爽やかな笑みで美玲を見ていた。
 その目は本心であることを示している。
 高校時代と変わらないが、大人っぽくなった誠一。
 美玲はそんな誠一に、少しだけ胸がトクンと高鳴った。