手荷物受け取り場では添乗員の明美を含め、ツアー参加者全員ロストバゲージせず、それぞれ預けた荷物を無事に受け取ることができた。
 その後、空港まで迎えに来てくれたフランス住みの男性日本人ガイドである峯岸(みねぎし)と共に、旅行会社側が手配したシャルトル行きのバスに乗り込む一同。
 四十五人乗りのバスを添乗員の明美と現地ガイド峯岸を含めて十七人で使う。よってペアで来ている人達も広々と一人ずつ席に着いた。
「えー、皆さん、ちゃんとシートベルトを締めてくださいね。フランスではシートベルトの着用か義務付けられています。たまに警察にバスとか自動車を止められてシートベルトを締めているかの確認が入るんですよ。それでもしシートベルトを締めていなかった場合その人が罰金になります。その額何と百三十五ユーロ! 今円安ですから日本円にして恐ろしい額になりますよ! ですから、シートベルトは絶対に締めてくださいね」
 峯岸からそう忠告があった。忠告は更に続く。
「それとやっぱりね、フランスにはスリが多いんですよ。観光地ですからね、各国から人が集まります。フランス人だけじゃなく、スリ目的でこの国に来る外国人もいるんですよ。ですから皆さん、貴重品は服の中に隠す、リュックは前に持ってくるなど、対策は必要です」
 その後も峯岸がフランスでの注意点や現地に住んでいるからこそできるアドバイスをしてくれた。
(そっか。もうここは日本じゃない。フランスなんだ。いつまでも日本感覚じゃ危ないかも)
 美玲は気を引き締め、しっかりシートベルトを締めるのであった。
 車窓から見える、日本とは少し違うフランスの街並み。馴染みのない言語で書かれた看板。
(そうだ。私、フランスに来たんだ。憧れのフランスに)
 車窓から見える景色に美玲はワクワクと心躍らせた。

 しばらくして美玲はスマートフォンの機内モードをオフにした。そして日本で借りたポケットWi-Fiの電源を入れる。美玲のスマートフォンは無事にポケットWi-Fiに繋がり、使えるようになった。
 その時、スマートフォンの表示時間が日本時間からフランス時間に切り替わった。
 日本時間で日付が変わり、午前零時半過ぎだったが、今の美玲のスマートフォンは午後五時半過ぎと表示されているのだ。最近のスマートフォンは優秀である。
 日本ではもう寝る時間。しかし、フランスはまだ夕方である。美玲の体内時計とフランス時間のズレ、長期間フライトの疲れ、それにより、美玲は急激な眠気に襲われた。まるで強制的に眠りにつかせてくるような技を使う敵がいるかのようである。
 せっかくだから車窓を楽しみたいし、峯岸の話も聞かなくてはと思っていた。しかし、美玲は睡魔に抗えず、そのまま意識を手放すのであった。

「あー、皆さん、長時間フライトと時差ボケで眠いですよね。大丈夫ですよ。他の日程のツアーに参加した方々もそうでしたから。フランスでの重要事項は添乗員の斉藤さんの方からも注意があります。だから僕の話を聞かなくても何とかなるようにはなってますよ。安心してシャルトルまで眠ってくださいね」
 どうやら睡魔に勝てなかったのは美玲だけではないようだ。
 峯岸の低く優しく穏やかな声は、ツアー参加者にとって心地のいい子守唄になるのであった。

◇◇◇◇

 空港から出発して大体一時間半が経過した。
 美玲達は目的地のシャルトルの街にあるホテルに到着したのだ。
 バスの中で眠ったお陰で少しだけ疲れが取れる美玲である。
 明美がチェックインの手続きを済ませてくれている間、朱理以外のツアーに一人参加している女性と話す美玲。
「じゃあ美玲さんもフランス初めてなんですね〜」
「まあね。"も"ってことは、穂乃果(ほのか)ちゃんも?」
「はい、そうなんですよ〜」
 美玲が話しているのは坂口(さかぐち)穂乃果という、美玲より一つ年下の二十七歳の女性。
 埼玉から来たらしい。
「何となく休みを取ってみたけどやることなくて、親からせっかく長い休みが取れたんだから海外でも行ってきたらと言われたんです。それで、旅行代理店の人に勧められたこのツアーに参加したんです」
 へにゃりと脱力感ある笑みの穂乃果。
「そっか。まあ……私も似たようなものかな」
 楽しみに来ている人が多い中、人生を終わらせるためという極めて後ろ向きな理由でフランスに来たとは言えない美玲である。
「やっぱり休み長いとみんな海外なんですね〜。せっかくフランスに来たし、私、自由行動の時はベルリンの壁に行ってみたいなって思ってるんです」
 脱力感がありどこかふわふわした穂乃果。だが美玲は今の穂乃果の言葉に耳を疑う。
「あのさ、ベルリンの壁ってドイツだけど……」
 恐る恐るといった様子の美玲。
「はい。フランスの隣ですよね? 隣だから近いかなって思って」
 あはっと笑う穂乃果。
「うん、確かに隣の国だけど……空港からシャルトルまで一時間半くらいかかったよ。それに、パンフレットでは三日目のモン・サン=ミッシェルからパリまで大体四時間かかるって書いてあったし、多分フランスからドイツのベルリンの壁まではかなり遠いと思う」
「ええ!? そうなんですか!? じゃあ自由行動どうしよう!?」
 美玲の言葉に大きく驚く穂乃果。しかし、ハッと何かを思い付いたような表情になる。
「あ、だったらあれです。ロンドン塔に行けばいいんですよね! ロンドンならきっと近いはずですよね〜!」
 まるで最高のアイディアを思い付いたとでも言うかのような表情の穂乃果。
 美玲はそれに対して脱力する。
「あの……ロンドンはイギリスで、海挟んでるからそっちも遠いよ……?」
「ええ!? ロンドンも遠い!? じゃあ自由時間どこ行けばいいんでしょうね〜?」
 穂乃果は朱理とは違い一緒にいると劣等感を掻き立てられるようなタイプではないのだが、この子は本当に大丈夫なのかとどこか不安になってしまう美玲である。今までよく生きてこられたなと思う程である。

 そうしているうちに、明美から部屋の鍵が配られた。
 この日美玲達が泊まるホテルは、伝統的なヨーロピアンスタイルではなく利便性に優れたアメリカンタイプのホテル。
 伝統的なヨーロピアンスタイルのホテルは日本人にとって不便に感じることがあるそうだ。

(広い部屋……)
 美玲は部屋に入り、ゆっくりとリュックを下ろした。そして明日の着替えを取り出したり、もう使わなさそうなものをスーツケースにしまうなど、荷物の整理をする。パスポートとクレジットカードがきちんとあることもチェックした。
 もちろん、シャワーのお湯が出るかなども確認している。
(変換プラグ持ってきたけど、充電用USB差し込み口がかなりあるんだ)
 美玲は部屋を見渡し、意外と多いUSB差し込み口に驚いた。変換プラグの出番は意外と少なそうである。

 美玲の部屋は特に問題もなく、無事に荷物整理も終えたので、夜のシャルトル散策開始時間まで少し部屋で出国前に日本で買っておいたおにぎりを食べるなどして、のんびりと過ごした。

◇◇◇◇

 時刻は夜七時。
 四月の日本は夜七時だととっくに暗くなっている。しかしフランスは日本よりも高緯度にあるので、夜七時でもまだ明るい。まるでまだ日本時間の午後五時から六時くらいの明るさだ。
 そしてフランスの気温は日本よりも肌寒い。
 美玲はダウンジャケットを着ておいたらよかったと少し後悔していた。
 シャルトル大聖堂はライトアップされ、空に向かって壮大な姿を誇示している。高い尖塔からは柔らかな光が放たれ、大聖堂の美しい彫刻や窓が煌めく。
(わあ……綺麗……)
 美玲はライトアップされたシャルトル大聖堂に圧倒されていた。
 まだ周囲が明るいので、きっともっと暗くなってから見たらより美しく感じるのだろう。
 また、のどかで可愛らしいシャルトルの街並みは、まるで絵本の世界に入り込んだかのような感覚になる。
 ガイドの峯岸の、シャルトルの街に関する説明を聞きながら、美玲は改めてフランスにいることを実感した。

 写真を撮ったりしてライトアップされたシャルトル大聖堂や、シャルトルの街並みを楽しんだ後は再びホテルへ戻る。
 峯岸が先頭、そして明美が最後尾らへんで、ツアー参加者達はゾロゾロとホテルへ歩いていた。
 その時、美玲はツアー参加者の男性に話しかけられた。
「あの、もしかして岸本美玲さん……ですか?」
 恐る恐る確認するかのような男性。身長はそこそこ高く、爽やかな容貌だ。美玲とは同い年くらいである。
「はい、そうですけど……どうして私の名前を……?」
 美玲は少し警戒して後ずさりする。
「やっぱり岸本さんだった。俺、中川(なかがわ)。中川誠一(せいいち)。ほら、高二、高三の時同じクラスだった。覚えてない?」
 その男性ーー誠一はホッとしたような表情になった後、懐かしむような表情になった。
「中川……誠一……」
 美玲は少し訝しむように高校時代を思い出してみる。

 高校時代、二年の時に同じクラスになった男子生徒。クラスの中心人物ではなかったが、クラスメイト達からそこそこ頼りにされていた存在。化学や物理の授業の時は席が隣になり、それがきっかけで時々話したことがある。
 三年になっても同じクラスで化学と物理、更に地理の授業でも席が隣同士だった。
 それが美玲にとっての中川誠一という存在だった。

「あの中川くん!?」
 美玲は目の前の人物に対して驚きを露わにした。
「うん、あの中川です。久し振り。高校卒業以来だから……もう十年振りだな」
 少し思い出す素振りをし、ニッと歯を見せて笑う誠一。
 まさか高校時代のクラスメイトが同じツアーに参加しているとは予想だにしていなかった美玲であった。