美玲は定期的に水分を摂取し、トイレに行った際に軽くストレッチをするなどして、エコノミークラス症候群など、体がおかしくならないように対策していた。そして日本時間で夜になると、飛行機内でウトウトと船を漕いでいた。ネックピローが上手い具合に美玲の首を守ってくれている。
その時、飛行機が降下し始めた。
滑走路に向かってゆっくりと進む飛行機。機体が地面に近づくにつれて、揺れを感じる。
美玲はその感覚でふと目を覚ます。
(今何時……?)
美玲はぼんやりしながら座席の液晶画面を見る。
東京が午後十時、パリが午後三時である。
(もうすぐフランスに着くんだ)
ずっと行ってみたいと思っていた国フランス。
到着まで後少しということで、美玲はほんの少し心を弾ませた。
◇◇◇◇
着陸後、美玲達が乗っていた飛行機はしばらく飛行場内を徐行し、ようやく降りることが出来た。
広い空港故に、他の便との兼ね合いもあり到着場所の指示を待っていたりするから完全に飛行機が止まるまで時間がかかったりする。
添乗員の明美からは、「空港の長い通路を渡った所で待っていてください」と指示があった。
美玲は大きめのリュックを背負い、長い通路にある水平型エスカレーターに乗り、集合場所へ向かう。
長い通路の壁には、フランスの観光名所などの景色が描かれていた。
今回のツアーの参加者は美玲を含めて十五人。無事全員集まったことを添乗員の明美が確認すると、そのまま入国審査へ向かう。
美玲は審査がスムーズに済むよう、パスポートと念の為日本の空港で明美から渡されたeチケットの控えを取り出しておいた。eチケットの控えの提示も求められることがあったりするのだ。
ちなみにeチケットとは電子化された航空券である。これがあればもし紛失したとしても航空券の再発行が可能で安心なのだ。
空港内は多国籍な雰囲気で満ちており、フランス語、英語など、様々な言語が耳に飛び込んでくる。
「皆さん、ここはもうフランスです。入国審査でもお店に入る時でもフランスではまずBonjourと挨拶をするのがマナーです。それから、パスポートを渡したり、何かをお願いするときはS'il vous plaîtと言いましょう。これさえ守れば最低限何とかなりますよ」
明美からフランスでの対応方法を教えてもらい、美玲より前に並んでいる、やたらとキラキラしたオーラを放つイケイケな若いカップルか夫婦らしきツアー客が「ボンジュール」と明るいがカタコトで審査官に挨拶をしていた。
そして美玲の番がやってきた。
「ボンジュール」
美玲は緊張でしどろもどろになりながらそう挨拶すると、審査官の女性が「Bonjour madam」とにこやかに挨拶を返してくれた。
美玲はパスポートとeチケットの控えを「シルヴプレ」とカタコトで言いながら差し出した。
すると審査官の女性がそれを確認し、美玲のパスポートにスタンプを押す。
その時、美玲の隣のゲートからは流暢なフランス語が聞こえた。
「Bonjour monsieur」
美玲と同じツアーに参加している女性だ。
小柄でサラサラとした長い髪。パッと目を引くような顔立ち。それでいてどこか庇護欲をそそるようである。おまけに明らかにすっぴんなのに肌が綺麗だ。
年齢は恐らく美玲より年下に見える。
一方美玲はショートヘアで日本人女性の平均身長に近い。気が強そうな顔立ちとは言われるが、パッと目を引くような華やかさはない。
美玲は一方的に別れを告げられた元恋人・郁人の浮気相手の女を思い出してしまう。
(ダメダメ、せっかくフランスに来てるのに、あんな浮気野郎とその相手の女のことなんか思い出したくない)
美玲は必死に忘れようとした。
隣のゲートの審査官男性の声が聞こえる。
「Ou est-ce que vous allez sejourner?」
するとツアー客の女性がまた流暢なフランス語を話す。
「Je vais visiter Paris, Chartres, Loire, et Manche」
おっとりした声だがどこか堂々としていた。
(うわ、すごい。フランス語めっちゃ流暢だし何か慣れてる感ある。あの浮気野郎の相手の女とは全然違うかも)
一瞬で郁人の浮気相手とは全く違うと思った美玲だ。
隣に気を取られているうちに、美玲の入国審査は終わっていた。
「Have a nice trip」
審査官の女性は英語でそう言ってくれた。
「サンキュー」
美玲はカタコトの英語でぎこちない笑みだった。
すると、隣の女性も入国審査を終えたらしい。
美玲はその女性とバッチリ目が合ってしまう。
(あ……)
美玲はどうしようか迷っていると、その女性から声をかけられた。
「もしかして、お一人で参加されてます?」
「えっと、そうですね」
美玲はぎこちなく返事をした。
割と人見知りをするタイプの美玲なのだ。
すると女性はホッとしたような表情になる。
「よかったー。私も一人参加なので少し安心しました。私、瓜生朱理《あかり》と言います。お名前を教えていただいてもいいですか?」
小首を傾げる朱理。その動作はどこか品があった。
「岸本美玲……です」
美玲はまだぎこちない。
「では、美玲さんとお呼びしてもいいですか?」
おっとりとしているが、溌剌とした雰囲気もある朱理。
美玲はたじろぎながらも頷いた。
「私は今二十五歳なので、もし美玲さんの方が年上であれば、気軽に朱理と呼んでいただけたら嬉しいです。敬語とかも使う必要はありませんよ」
朱理は美玲より三つ年下だった。
「じゃあ……朱理ちゃんで」
「はい。よろしくお願いします、美玲さん」
朱理は嬉しそうであった。
美玲は朱理と共に、手荷物受け取り場へ向かう。
「入国審査の時、隣で聞いてたけど、朱理ちゃんはフランス語めちゃくちゃ流暢だね」
「そうですか? ありがとうございます。でも、私はまだまだですよ。発音とかもネイティブとは程遠いです」
美玲の言葉に謙遜する朱理。
「そうだとしても、私から見たらかなり喋れる方だと思う。フランスは何回か来たことあるの?」
美玲は朱理に疑問をぶつける。すると朱理は頷いた。
「はい。コロナが世界的に流行する前は、夏に家族でフランス南部のニースに毎年行っていました。今回のパリとか観光名所として有名な場所、例えばエッフェル塔とかエトワール凱旋門とか、後ベルサイユ宮殿は小学校低学年の時に一度しか訪れたことがないので、このツアーはすごく楽しみなんです。改めて見ることができるので」
どこかワクワクした様子の朱理。そんな姿も全然子供っぽくはなく、どこか品があるように見えた。
朱理はページュの長いスプリングコートの下に、ゆったりとしたトレーナーとダボっとしたパンツスタイルだ。更に足を締め付けないもこもこの靴下に、スリッパタイプのサンダル。
国際線の長時間フライト慣れした人の姿であった。
おまけに朱理が身につけている服や持ち物は派手なハイブランドではないが、質のいいものであると感じた美玲。
(この子、多分お嬢様だ)
何となくそう感じた美玲は朱理に質問を投げかける。
「朱理ちゃんは、仕事何してるの?」
「製薬会社の研究職です」
(あ、ちゃんと働いてるんだ……)
美玲にとって予想外の答えが返ってきたので驚いてしまう。
聞いたところによると、朱理は東京にある恐らく日本一偏差値が高い国立大学に現役合格し、大学卒業後は大学院修士課程に進み、そのまま卒業研究の時と同じ研究室で学び、修士課程を修了していた。その後、業界最大手の製薬会社に就職し、横浜にある研究所に配属されたそうだ。
朱理は現在横浜に住んでいるらしい。
(せっかくフランスまで来たのにこんな気持ちになるなんて……)
美玲は少し暗い気持ちになり、焦りを感じてしまう。
流暢なフランス語、海外慣れしたお嬢様、高学歴、大手の研究職でキャリアも若手ながら順風満帆、大多数がオシャレだと感じる都市に住んでいる。
そんな朱理を見て、ないものねだりの嫉妬だとは思いつつ、美玲の胸はチクリと痛むのであった。
※Manche(マンシュ)はモン・サン=ミシェルがある地域です。
その時、飛行機が降下し始めた。
滑走路に向かってゆっくりと進む飛行機。機体が地面に近づくにつれて、揺れを感じる。
美玲はその感覚でふと目を覚ます。
(今何時……?)
美玲はぼんやりしながら座席の液晶画面を見る。
東京が午後十時、パリが午後三時である。
(もうすぐフランスに着くんだ)
ずっと行ってみたいと思っていた国フランス。
到着まで後少しということで、美玲はほんの少し心を弾ませた。
◇◇◇◇
着陸後、美玲達が乗っていた飛行機はしばらく飛行場内を徐行し、ようやく降りることが出来た。
広い空港故に、他の便との兼ね合いもあり到着場所の指示を待っていたりするから完全に飛行機が止まるまで時間がかかったりする。
添乗員の明美からは、「空港の長い通路を渡った所で待っていてください」と指示があった。
美玲は大きめのリュックを背負い、長い通路にある水平型エスカレーターに乗り、集合場所へ向かう。
長い通路の壁には、フランスの観光名所などの景色が描かれていた。
今回のツアーの参加者は美玲を含めて十五人。無事全員集まったことを添乗員の明美が確認すると、そのまま入国審査へ向かう。
美玲は審査がスムーズに済むよう、パスポートと念の為日本の空港で明美から渡されたeチケットの控えを取り出しておいた。eチケットの控えの提示も求められることがあったりするのだ。
ちなみにeチケットとは電子化された航空券である。これがあればもし紛失したとしても航空券の再発行が可能で安心なのだ。
空港内は多国籍な雰囲気で満ちており、フランス語、英語など、様々な言語が耳に飛び込んでくる。
「皆さん、ここはもうフランスです。入国審査でもお店に入る時でもフランスではまずBonjourと挨拶をするのがマナーです。それから、パスポートを渡したり、何かをお願いするときはS'il vous plaîtと言いましょう。これさえ守れば最低限何とかなりますよ」
明美からフランスでの対応方法を教えてもらい、美玲より前に並んでいる、やたらとキラキラしたオーラを放つイケイケな若いカップルか夫婦らしきツアー客が「ボンジュール」と明るいがカタコトで審査官に挨拶をしていた。
そして美玲の番がやってきた。
「ボンジュール」
美玲は緊張でしどろもどろになりながらそう挨拶すると、審査官の女性が「Bonjour madam」とにこやかに挨拶を返してくれた。
美玲はパスポートとeチケットの控えを「シルヴプレ」とカタコトで言いながら差し出した。
すると審査官の女性がそれを確認し、美玲のパスポートにスタンプを押す。
その時、美玲の隣のゲートからは流暢なフランス語が聞こえた。
「Bonjour monsieur」
美玲と同じツアーに参加している女性だ。
小柄でサラサラとした長い髪。パッと目を引くような顔立ち。それでいてどこか庇護欲をそそるようである。おまけに明らかにすっぴんなのに肌が綺麗だ。
年齢は恐らく美玲より年下に見える。
一方美玲はショートヘアで日本人女性の平均身長に近い。気が強そうな顔立ちとは言われるが、パッと目を引くような華やかさはない。
美玲は一方的に別れを告げられた元恋人・郁人の浮気相手の女を思い出してしまう。
(ダメダメ、せっかくフランスに来てるのに、あんな浮気野郎とその相手の女のことなんか思い出したくない)
美玲は必死に忘れようとした。
隣のゲートの審査官男性の声が聞こえる。
「Ou est-ce que vous allez sejourner?」
するとツアー客の女性がまた流暢なフランス語を話す。
「Je vais visiter Paris, Chartres, Loire, et Manche」
おっとりした声だがどこか堂々としていた。
(うわ、すごい。フランス語めっちゃ流暢だし何か慣れてる感ある。あの浮気野郎の相手の女とは全然違うかも)
一瞬で郁人の浮気相手とは全く違うと思った美玲だ。
隣に気を取られているうちに、美玲の入国審査は終わっていた。
「Have a nice trip」
審査官の女性は英語でそう言ってくれた。
「サンキュー」
美玲はカタコトの英語でぎこちない笑みだった。
すると、隣の女性も入国審査を終えたらしい。
美玲はその女性とバッチリ目が合ってしまう。
(あ……)
美玲はどうしようか迷っていると、その女性から声をかけられた。
「もしかして、お一人で参加されてます?」
「えっと、そうですね」
美玲はぎこちなく返事をした。
割と人見知りをするタイプの美玲なのだ。
すると女性はホッとしたような表情になる。
「よかったー。私も一人参加なので少し安心しました。私、瓜生朱理《あかり》と言います。お名前を教えていただいてもいいですか?」
小首を傾げる朱理。その動作はどこか品があった。
「岸本美玲……です」
美玲はまだぎこちない。
「では、美玲さんとお呼びしてもいいですか?」
おっとりとしているが、溌剌とした雰囲気もある朱理。
美玲はたじろぎながらも頷いた。
「私は今二十五歳なので、もし美玲さんの方が年上であれば、気軽に朱理と呼んでいただけたら嬉しいです。敬語とかも使う必要はありませんよ」
朱理は美玲より三つ年下だった。
「じゃあ……朱理ちゃんで」
「はい。よろしくお願いします、美玲さん」
朱理は嬉しそうであった。
美玲は朱理と共に、手荷物受け取り場へ向かう。
「入国審査の時、隣で聞いてたけど、朱理ちゃんはフランス語めちゃくちゃ流暢だね」
「そうですか? ありがとうございます。でも、私はまだまだですよ。発音とかもネイティブとは程遠いです」
美玲の言葉に謙遜する朱理。
「そうだとしても、私から見たらかなり喋れる方だと思う。フランスは何回か来たことあるの?」
美玲は朱理に疑問をぶつける。すると朱理は頷いた。
「はい。コロナが世界的に流行する前は、夏に家族でフランス南部のニースに毎年行っていました。今回のパリとか観光名所として有名な場所、例えばエッフェル塔とかエトワール凱旋門とか、後ベルサイユ宮殿は小学校低学年の時に一度しか訪れたことがないので、このツアーはすごく楽しみなんです。改めて見ることができるので」
どこかワクワクした様子の朱理。そんな姿も全然子供っぽくはなく、どこか品があるように見えた。
朱理はページュの長いスプリングコートの下に、ゆったりとしたトレーナーとダボっとしたパンツスタイルだ。更に足を締め付けないもこもこの靴下に、スリッパタイプのサンダル。
国際線の長時間フライト慣れした人の姿であった。
おまけに朱理が身につけている服や持ち物は派手なハイブランドではないが、質のいいものであると感じた美玲。
(この子、多分お嬢様だ)
何となくそう感じた美玲は朱理に質問を投げかける。
「朱理ちゃんは、仕事何してるの?」
「製薬会社の研究職です」
(あ、ちゃんと働いてるんだ……)
美玲にとって予想外の答えが返ってきたので驚いてしまう。
聞いたところによると、朱理は東京にある恐らく日本一偏差値が高い国立大学に現役合格し、大学卒業後は大学院修士課程に進み、そのまま卒業研究の時と同じ研究室で学び、修士課程を修了していた。その後、業界最大手の製薬会社に就職し、横浜にある研究所に配属されたそうだ。
朱理は現在横浜に住んでいるらしい。
(せっかくフランスまで来たのにこんな気持ちになるなんて……)
美玲は少し暗い気持ちになり、焦りを感じてしまう。
流暢なフランス語、海外慣れしたお嬢様、高学歴、大手の研究職でキャリアも若手ながら順風満帆、大多数がオシャレだと感じる都市に住んでいる。
そんな朱理を見て、ないものねだりの嫉妬だとは思いつつ、美玲の胸はチクリと痛むのであった。
※Manche(マンシュ)はモン・サン=ミシェルがある地域です。



