ポロポロと涙が止まらない美玲。
「岸本さん、大丈夫か?」
 そっと美玲の涙を拭う誠一。
「私……色々限界だったみたい……」
 美玲は俯く。
「そっか。無理にとは言わないけど、話したら少しスッキリするかもよ」
 誠一は頷き、美玲が話すのを待っている。
 ダムが決壊したかのように、美玲の涙は止まる気配がない。
「私さ……何のために生まれてきたんだろう……?」
 嗚咽を漏らしながら、ポツリと呟く美玲。
「うん、うん」
 誠一は黙って美玲が落ち着くのを待っている。
「仕事でさ、順調だったのに、異動になってからは色々と散々だったの」
 美玲はポツリポツリと今までのことを話し始めた。
「仕事自体は研究開発でガラッと変わることはないんだけどね、移動先での新しい上司……係長の冬田って奴がとんでもなくて……」
 苦笑してため息をつく美玲。
「冬田がミスしたのにさ、そのミスを私が被るように命じてきたんだよ。意味が分からな過ぎて拒否したら、次の日から嫌がらせが始まったの。仕事を回してもらえなかったり。周りも自分が被害に遭いたくないから見て見ぬ振りだよ」
 美玲は涙を拭う。
「それでさ、部長にもかけ合ってみたけど、部長は冬田の方を信じててさ。……だから、負けるものかって思って、私なりに頑張ってみたの。製品の改良とかさ。そしたらその手柄も冬田に取られた」
「うわあ……」
 誠一は気の毒そうな表情になる。
 美玲は話を続ける。
「流石に理不尽過ぎるから冬田に直接言いに行ったらさ、上司が部下の責任を取るのなら部下の手柄も上司のものにならないと理不尽だとか言われてさ」
「それはマジで意味不明だな、その係長」
 誠一は激しく同意していた。
「それでさ、冬田がその場を立ち去ろうとしたわけ。その時さ、私にぶつかってきたの。そのせいで私、よろけて転んじゃって机にぶつかったの。そしたら、共用パソコンが落ちて壊れた。それを私の責任にされた。本当にもう意味分かんない」
 悔しさが込み上げてきて、再び美玲の目からは涙がこぼれる。
「大変だったな」
「うん……。でもね、それだけじゃなかったの。色々重なってさ……」
 美玲はため息をつく。
「このことを彼氏に愚痴ろうとしたわけ」
「……岸本さん、彼氏いたんだ」
 誠一は少しショックを受けた表情になった。
「まあその時はね。もういないけどさ……」
 美玲は苦笑する。
 そして話を続ける。
「その時の彼氏からさ、別れようって言われたんだ。もう仕事の件もあったかショックだった。おまけにさ、そいつ、別の女と浮気してた。ホテル入って行く現場ガッツリ見たわけ」
 美玲はため息をつく。
「そっか……」
「それでさ……もう疲れちゃったの」
 美玲は暗い声になる。
「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって……」
 美玲は力なく自嘲した。
「それで……死のうかなって思った。でも、中川くんの従兄(いとこ)の晴斗さんと同じで、どうせ死ぬなら最後にフランスに行ってみたいなって思ったんだ」
 美玲は真っ直ぐリュクサンブール公園を歩いている人達を見ていた。
 午後六時になりかけているが、日は高く、美玲の顔を照らしている。
「そっか。色々大変だったんだな。そんな中、よく頑張ったな」
 誠一は優しく美玲を見つめていた。
「岸本さん、だったら逃げ出そうぜ。まずはそんなクソ野郎がいる会社なんかからさ」
 誠一はフッと優しく笑う。
 美玲は俯いて黙ってままである。
「日本に会社がいくつあるか知ってるか?」
「……ううん、知らない」
 美玲は首を横に振った。
「俺も詳しい数は知らないけど、確か三百万社以上はあるんだぞ。今の会社にクソ野郎がいるんだったら、辞めてもいいんじゃね? 数だけで言えば岸本さんを受け入れてくれそうな会社がたくさんあるんだしさ。だから……死ぬなんて言うなよ」
 最後、誠一はまっすぐ懇願するかのようだった。
 その言葉に、美玲の目からはまた涙がこぼれる。
「中川くん……私……」
 嗚咽で言葉が詰まる美玲。
「頼む、生きる選択をしてくれ」
 誠一のまっすぐな言葉が胸にスッと入ってくる。
「この先さ、生きてて楽しいって思えること……あるかな?」
 弱気の美玲である。
 そのくらい、色々なことが重なっていたのだ。
「ああ、きっとある。今の場所が(つら)ければ、逃げたらいい。岸本さん、知ってるか? 命とパスポートと金さえあれば俺達どこにでも行けるんだぜ。日本のパスポートって最強なの知ってるか? ロシアとかウクライナとか、紛争地は別として、今どこの国でも入国できるんだぞ。例えば北朝鮮もかも。まあ北朝鮮には行く気はないけどな」
 ハハっと笑う誠一。
 そして話を続ける。
「だから、岸本さんが楽しと思える場所、ずっとここにいたいって思える場所もきっとあるはずだ」
 誠一の言葉は心強かった。
 美玲は今回の旅をゆっくりと思い出す。

 ライトアップされたシャルトル大聖堂、そしてシャルトル大聖堂の美しいステンドグラス。そして荘厳で煌びやかなシャンボール城、歴史あるモン・サン=ミッシェル。更に、憧れていたパリの街並み。

「そう……だね」
 美玲はほんの少しだけ、前向きになれた。
「それにさ……」
 誠一はふいに美玲から目をそらす。
「その、男なんてさ、世界的に考えたら星の数程いるぞ。岸本さんのこと、ちゃんと考えてくれる奴だって、絶対にいるはずだ。例えば……俺……とかさ」
 誠一の頬は、少し赤く染まっていた。
「え……」
 美玲は誠一の言葉に驚き、目を見開く。
「それは……何かの冗談?」
 少しだけ困ったように笑う美玲。
 鼓動は速くなっていた。
「冗談でこんなこと言うかよ」
 誠一は苦笑した。
「俺さ、高校時代、岸本さんのこと好きだったんだ。卒業式の日、告白しなかったこと少し後悔してた」
 誠一の目は、どこまでもまっすぐだった。
 再び美玲の心臓が跳ねる。
「……いつから?」
 美玲は冷静さを装いながら、そう聞いた。
「高二の時。物理とかの授業で話すようになって、ちょっと気になるなって思ってた。物理のテストで俺、消しゴム忘れて焦ってた時あっただろ? あれが決定打だった」
 誠一は、はにかみながら懐かしむ。
「そっか……。何か懐かしいね。私も、その時のこと覚えてる。中川くんがお礼にお菓子くれたことも」
 美玲は少しドキドキしながら微笑んだ。
「そっか。いや、あの時少しでも岸本さんの気を引きたくて必死だった」
 若干恥ずかしそうに微笑む誠一である。
「再会してさ、やっぱり俺、まだ岸本さんのことが好きだなって思ったんだよ」
 誠一の目は、真剣そのものだ。
 美玲はその目に飲み込まれそうになる。
「私は……」
 思うように言葉が出ない美玲。
「別に、返事が欲しいわけじゃない。ただ……岸本さんを想ってる人がいるってことで、岸本さんが死ぬのを思いとどまってくれたらって思ってさ……」
 誠一はまっすぐ、優しく微笑んでいる。
 いきなりのことで驚きはしたが、美玲の胸の中にはじんわりと温かいものが広がった。
「うん……」
 ポロリと美玲の目からは涙がこぼれる。
 美玲はハンカチで涙を拭う。
「ありがとう、中川くん」
 美玲は憑き物が落ちたような、スッキリと明るい表情であった。