「何……で……?」
 美玲は少しだけ呼吸が浅くなり、何も言えなくなる。その声は震えていた。
(どうしよう。否定しないと……)
 言葉を考えれば考える程、言葉が思い浮かばず、何も言えなくなる。
「……やっぱり図星か」
 誠一は悲しげにため息をついた。
 二人の間に、何とも形容し難い沈黙が走る。
 リュクサンブール公園を散歩する者達の声がやけに大きく響く。
「……何で……分かったの?」
 暗い声の美玲。
 否定の言葉が出てこず、認めることにした。誠一の方を見ることができなかった。

 仕事で係長の冬田から嫌がらせなどを受けていること、手柄を取られたこと、冬田が美玲にぶつかったせいで共用パソコンが壊れたのにそれを全て美玲のせいにされたこと、郁人に浮気された上に振られたこと、郁人の浮気相手が自分とは正反対のタイプだったことなど、美玲は旅行前に日本であったことを色々と思い出していたのだ。

「……俺の身近に、似たような人がいたから」
 誠一は悲しげに笑った。
「似たような人……?」
 美玲がそう聞き返すと、誠一は「ああ」と頷く。
「俺の従兄(いとこ)。七つ年上だけど、結構仲はよかった。晴斗(はると)って名前だから、ハル(にい)って呼んでた。家が近くでさ、俺がまだ小さい頃から、ハル兄は色々と俺の面倒を見てくれたんだよ。俺の父さんと母さんが仕事とかで家にいない時は、よく遊んでもらってた」
 誠一は道行く人々を見ながら話す。その目はどこか懐かしそうであった。
「そう……なんだ……」
 美玲は暗い声で相槌を打つ。
 誠一はそのまま話を続ける。
「大学一年が終わった春休み……て言ってもまだ二月だったから冬なんだけどさ、ハル兄とエジプトに旅行したんだ。ハル兄がずっと行ってみたかった場所でさ。俺の分の旅費も出すから一緒に来ないかって誘われて」
 誠一は当時を思い出し、フッと笑う。
 しかし、その表情は悲しげであった。
 美玲は黙って聞いている。
 誠一は話を続けた。
「そのエジプト旅行が俺にとって初めての海外旅行だったわけ。これぞエジプトって言った感じの、クフ王、カフラー王、メンカウラー王が建てたって言われてるギザの三大ピラミッドとか、スフィンクスとか、それから、イシス神殿とかも見てさ。ラクダに乗ったりもした。もうめっちゃくちゃ楽しかったんだよ。ちょっとぼったくられたこともあったけどな。でも、当時の歴史とかも感じられたしさ、初めての海外旅行て色々と感慨深いものがあったんだ。それと同時に、他の国にも行ってみたいって思うようになったんだよ」
 誠一は懐かしむような表情である。
「でもさ……」
 誠一は再び表情が暗くなる。
「ハル兄は、日本に帰国してすぐ……自殺したんだ」
 悲しげな表情で美玲を見る誠一。
「え……」
 美玲は息を飲む。
 誠一はそのまま話を続ける。
「ハル兄、帰国した翌日に、会社のビルから飛び降り自殺したんだ。……ハル兄は元々死ぬつもりだったんだよ。それで、せめて死ぬ前にずっと行きたいって思ってたエジプトに行こうって決めてたらしい」
「あ……」
 美玲はハッとする。
 自分がフランスに来た理由と全く同じなのだ。
「ハル兄さ、日本に帰国した時、今まで見たことがないくらいものすごくスッキリした表情だったんだよ。今思えば、もうこの世に思い残すことはないみたいな表情でさ」
 誠一はため息をつく。
「俺はハル兄のお陰で海外旅行の楽しさを知ったからさ……何か悲しいのと悔しいのとで、当時感情がぐちゃぐちゃになってさ……」
 誠一の目は、当時を思い出したようで、悲しさを帯びていた。
 美玲は何も言えなかった。
「ハル兄、かなり会社で追い詰められてたみたいでさ。食品メーカーの営業職だったんだけどさ、ノルマとかパワハラとか、色々と……。ハル兄、真面目だから色々背負い混みすぎて……限界がきてたんだろうな。いっそのことそんなにキツいんだったらそんな会社なんかから逃げ出してもっとホワイトな職場を探せばいいと思うんだけどさ、やっぱりハル兄は真面目で今の仕事から逃げ出す選択肢がなかったんだと思う。それで、死のうとしたけど、どうせなら行きたい所に行ってからって……。金もさ、俺の分の旅費とか食費とか……お土産代とかその他にも色々……全部ハル兄が出してくれたのも、貯めた金を使い切るためだったらしい」
 誠一の目からは一筋の涙がこぼれる。
「中川くん、これ……」
 美玲はスッと自身のハンカチを差し出した。
「ごめん、ありがとう」
 誠一は美玲からハンカチを受け取り、涙を拭った。
「何でハル兄が苦しんでたのを気付かなかったんだろう、とか、そんなに仕事がキツかったら辞めて別の場所を探せばよかったのに、とか、もう色々とごちゃごちゃしててさ……」
 誠一はため息をつく。
「もし俺が何かハル兄のことに気付けてたら、ハル兄は自殺を選ばなかったかなとか、色々な……。今でも色々と、あの時どうしたらよかったんだろうとか、考える時があるんだよ」
 自嘲気味に笑う誠一。
「それは……中川くんのせいじゃないよ」
 美玲はそっと誠一の背中をさする。
「……ありがとう、岸本さん」
 誠一は悲しげに笑う。
「当時はめちゃくちゃショックだった。でも、その後しばらくしたら、だったら天寿を(まっと)うするまでにたくさんの国を旅行して、死んだ後ハル兄に自慢してやるって思えるようになったけどさ。ただ、もう一度エジプトに行く勇気はまだないけど……」
 誠一はフッと笑った。
「そっか……」
 美玲はほんの少しだけ安心した。
「中川くんにそんなことがあったなんて、全然思わなかったよ」
 美玲は少しだけ俯いた。
「まあ、普通は想像もつかないよな」
 誠一はまたフッと笑った。
 そして言葉を続ける。
「それでさ、岸本さんはハル兄と同じ表情だったんだよ。死を決意したような、そんな感じの。今までのお土産屋での大人買いも、全財産使ってから死のうとしたハル兄とほぼ全く同じでさ」
 誠一の目が、美玲の目を射抜いている。
「……そっか」
 美玲は自嘲気味に誠一から目をそらす。
「岸本さんは?」
「え?」
 いきなり疑問形でこられたので、美玲はきょとんとしてしまう。
「何で死のうとしてんだよ? シャンボール城の時も、『もう死んでもいいかも』とか言ってたの聞こえた」
 誠一がため息をつく。
「あ……」
 美玲はシャンボール城見学の時、思わずポツリと呟いてしまったことを思い出した。
「聞こえてたんだ……」
 俯いて苦笑する美玲。
「ああ。それでこのツアー、岸本さんのこと放って置けなくなった」
 苦笑する誠一。
「何か……ごめん」
 美玲は俯いたままである。
「いや、謝らなくてもいいけど……。岸本さん、何で死のうとしてるんだよ?」
 死ぬなと懇願するかのような表情の誠一。
「それは……」
 言葉に詰まる美玲。
 改めて、仕事のことや恋愛のことを思い出す。
 思った以上に限界だったようで、美玲の目からはポロポロと涙がこぼれ出した。