シャンボール城内部、一番の見どころはやはりレオナルド・ダ・ヴィンチが設計に関わったと言われている二重螺旋階段である。この二重螺旋階段、相手に出逢うことなく、三階まで上り下りができるようになっているのだ。
それぞれツアー客達は二ヶ所に別れて二重螺旋階段を上る。
「すげえな。向こうに斉藤さんがいるのに全然すれ違わない」
誠一が興味深そうに呟く。
「そうだね」
美玲はそれに同意し、シャンボール城内部の設計などをじっくり見ながら歩いていた。
「あ、おーい、お姉ちゃん。全然すれ違わないね写真撮るよ」
「ええ、菫、別にいいよ」
「何言ってんの。せっかく来たんだからさ」
それぞれ別の階段を上っている神田姉妹が楽しそうにそんなやり取りをしていた。
「凛ちゃんの姿は見えるのに全然すれ違いすらせんな」
「ほんまやな」
晃樹と凛子もそれぞれ別の階段を上ってすれ違わないことを楽しんだりシャンボール城内部の造りやお互いの写真を撮っていた。
他のツアー参加者も、シャンボール城の二重螺旋階段を楽しんでいた。
二重螺旋階段を最後まで上った後は、シャンボール城の部屋を見学する。
「実はこのシャンボール城はですね、建築に二十年かかっています。そしてですね、このお城は狩猟の際の短期滞在を目的として建造されたので、フランソワ一世が滞在したのは何と通算七週間だったんですよ」
(こんなに広いお城に七週間だけしか滞在しなかったの!? とんでもない贅沢品じゃん!)
仁美の解説に、美玲は驚いていた。
その後、豪華な調度品が揃えられた部屋や、シャンボール城内の礼拝堂を見学した。
フランソワ一世の紋章は火トカゲらしく、シャンボール城内のあちこちに火トカゲの飾りやマークがあった。
(本当にすごい……)
荘厳で煌びやかなシャンボール城をじっくり見た美玲。フランス観光序盤にも関わらず、美玲の中には満足感が広がっていた。
「もう死んでもいいかも……」
ついポツリと呟いてしまい、ハッと口を塞ぐ。
(誰にも聞かれてないよね……?)
美玲はキョロキョロと周囲を見渡す。しかし、周囲のツアー参加者達は美玲の発言など聞こえていないようである。隣にいる誠一も、シャンボール城を眺めているだけである。
(よかった、誰にも聞こえてなかったみたい)
美玲はホッとした。
ツアー参加者達は仁美について行き、広いテラスまで出た。テラスからは広大な庭園を見ることができる。
天気が少し曇り始めているが、何とか雨は降っていない。
ここでも皆それぞれのスマートフォンでパシャパシャと写真を撮っていた。
「岸本さん、撮るぞ」
ここでも誠一が写真を撮ってくれた。
◇◇◇◇
その後、お土産売り場へ向かい、ツアー参加者はそれぞれ重い思いにお土産を選んでいる。
(あ、チーズだ)
美玲はスマートフォンの翻訳アプリを起動し、チーズの説明書きの日本語訳を読む。
誠一がポケットWi-Fiを使わせてくれているので、翻訳アプリを使うことができた美玲である。
(へえ、ロワール地方の名産品なんだ。せっかくだし、ホテルで食べてみようかな。もう欲しいものはどんどん買っちゃえ)
美玲は値段を見ずに気になったチーズをかごに入れるのであった。
更に、シャルトル大聖堂の時と同じように、気になったお菓子やアクセサリーを、バッグに入る範囲で片っ端からカゴに入れる。
「岸本さん本当大人買いだな。次のクレカの請求額とか怖くないの?」
誠一が苦笑した。
「いいのいいの。せっかくフランスまで来たんだし。気になったものを買わなくて後悔とかしたくないから」
美玲はクスッと笑った。
「まあ……確かにそうだけどな」
誠一はどこか意味ありげな表情であった。美玲はそれに気付いていない。
「うわあ! 外見てください! 雨です〜!」
「あらら、降ってきたんですね」
店の中で穂乃果と神田姉妹の姉・美桜の声が聞こえた。美玲と誠一は店の外に目を向ける。
いつの間にか、外は雨が降り出していた。
「わあ、結構降ってる」
美玲は驚く。
雲行きは少し怪しかったが、こんなに早く降るとは思っていなかったのだ。
「やっぱりフランスも天気変わりやすいんだな。調べたけどドイツとかイギリスもそうらしいぞ。晴れてると思ったら急に雲行きが怪しくなって雨が降ってきたりさ。ヨーロッパ全体がそうなのかもな」
誠一がそう考え込んでいた。
「そっか。念のために折りたたみ傘持ってきておいて正解だったね」
美玲はバッグから折りたたみ傘を取り出した。
「それにしてもさ、高校の地理とかで習ったよね。フランスとかヨーロッパは基本的に西岸海洋性気候だって。ほら、夏はそこまで暑くなくて、冬もそこまで寒くない気候」
美玲は高校時代の知識を思い出す。
「おお、そういやそんなこと習ったな。よく覚えてるな、岸本さん」
誠一は懐かしそうに笑う。
「うん。地理は結構好きな科目だったから。私さ、ずっとヨーロッパの気候が羨ましいなって思ってたんだよね。夏ものすごく暑くて冬は結構寒い日本とは大違いに見えてさ」
美玲は日本の気候を思い出しうんざりする。
「確かにな。日本の暑さは何とかなんねえかなっていつも思う。特に最近。絶対おかしいだろ。四月で暑くなってるんだぞ」
美玲に激しく同意する誠一。
「四季じゃなくて夏と冬の二季になるかもってニュースもあったしさ。もう日本に私達の春と秋を返せって感じだよね」
フッと笑う美玲。
「だよな」
誠一は深く頷く。
「何か、こうして岸本さんと喋ってると……高校時代に戻った感じするわ。あの時もたまにこんな風に他愛のない話してたよな」
誠一は左上に目線を向け、懐かしそうに目を細めた。
「確かにそうだね。もう十年も前のことなんだ」
美玲も懐かしむように微笑んだ。
「そういえば、中川くんと最後に話したの、卒業式の日だったね」
美玲はゆっくりと高校の卒業式の日のことを思い出した。
◇◇◇◇
十年前。
群馬県にある、とある高校にて。
卒業式が終わり、三年の教室では別れを惜しんだり思い出話に花を咲かせたりする生徒達で賑わっていた。
当時美玲も複数人の同性の友達とあれこれ話していた。
そして昇降口で一人になった時、クラスメイトの誠一から声をかけられた。
「岸本さんはさ、大学どうするんだっけ? 国立後期は受けんの?」
まだ国立大学の前期日程の結果は出ていないのだ。
「うーん……多分受けないかも。前期受けたのが合格してたら国立に行くけど、不合格なら後期受けずに私立に行く。チャレンジした東京の私大、一つだけ合格してるんだ」
美玲は嬉しそうに笑う。
「そっか。チャレンジ校受かったんだな。おめでとう」
誠一はまるで自分のことのように嬉しそうであった。
「ありがとう。中川くんは?」
「俺は前期駄目だったら後期まで粘る。やっぱり国立なんだよな。学費的にも。一応私立も受かってるけどさ」
ハハっと笑う誠一。
「そっか、頑張ってね」
美玲は穏やかに微笑む。
「おう」
誠一はニッと白い歯を見せて笑う。
そして次の瞬間真剣な表情になる。
「あのさ、岸本さん……」
そこで口ごもる誠一。
「何?」
美玲はきょとんと首を傾げる。
「いや、何でもない」
誠一は再びニッと笑った。
「そっか。じゃあまた会えたらいいね」
美玲は靴を履き替える。
「そうだな」
誠一はフッと少しだけ寂しげな笑みだった。
美玲はそのまま友人達の元へと向かったのである。
◇◇◇◇
(そういえばあの時、中川くんは何を言おうとしてたんだろう……?)
美玲は卒業式後の誠一とのやり取りを思い出し、少しだけ疑問が湧く。
それと同時に、別の気持ちも湧き出していることに、美玲はまだ気付かなかった
シャンボール城を後にした美玲達ツアー参加者一行。
そのまま貸切バスに乗り、ロワール地方のホテルへと向かう。
この日もアメリカンスタイルの利便性に優れたホテルだった。
ちなみに、ガイドの仁美は一旦ここでお別れである。彼女はまた明後日のパリ観光とベルサイユ宮殿観光の時に来てくれるそうだ。
美玲は早速部屋で荷物の整理をし、ポケットWi-Fiを充電する。きちんと充電が始まったことを確認した後、日本から持ってきたコンビニのおにぎりを食べた。
(あ、やっぱり一晩冷蔵庫に入れたからちょっとパサパサする)
美玲は米粒がこぼれないよう気を付けて食べるのであった。
その後はシャルトル大聖堂やシャンボール城で買ったお菓子やチーズを食べる美玲。
(ああ、チーズもお菓子も美味しい。濃厚で最高!)
美玲はコクがあるチーズに、満足そうな表情になっていた。
その時、スマートフォンにメッセージが届く。
まずは誠一から。
今日の写真とメッセージが送られてきたのだ。
《今日はお疲れ様。写真送っとく。ゆっくり休めよ》
その後、誠一からシュールなスタンプが送られてきた。
(何これ)
美玲はクスッと笑い、メッセージを送る。
《ありがとう》
そして次は凛子からだ。
誠一と同じく写真とメッセージが届く。
《美玲ちゃん、これ今日の写真! 明日も楽しもう!》
更に凛子からは可愛らしいスタンプが送られてきた。
(あ、このスタンプ可愛い)
美玲はふふっと笑った。
そして凛子にもメッセージを返す。
《凛ちゃん、ありがとう。明日も楽しみ!》
そして再びチーズとお菓子を食べる美玲であった。
◇◇◇◇
翌日。
この日も初日のホテルと同じようなもので、バイキングスタイルの朝食である。
やはりクロワッサンを食べる美玲だった。
このホテルはもうチェックアウトするので、朝食後部屋に戻った美玲は荷物をまとめてロビーへ降りる。昨日とは違い、ポケットWi-Fiの充電もきちんとできていたので困ることはない。
「おはよう、岸本さん。昨日は眠れたか?」
いつの間にか美玲の隣には誠一がいた。
「中川くん、おはよう。うん。割と眠れたよ。体もすっかりフランス時間に慣れた」
「そっか」
誠一は安心したようである。
「あ、昨日はありがとう。今日は私のポケットWi-Fiきちんと作動してるから大丈夫だよ」
美玲は得意げに自身のポケットWi-Fiを見せた。そして美玲は申し訳なさそうに苦笑する。
「昨日はさ、一日中迷惑かけっぱなしでごめんね」
すると、誠一は若干悲しげな表情になる。
「別に迷惑だなんて思ってないぞ」
そして切り替えたようにフッと笑う。
「岸本さん、今日も楽しもうぜ。モン・サン=ミッシェル、写真しか見たことないから実物見んの俺、超楽しみ」
「そうだね」
美玲は明るい表情になった。
その後、明美から今日の行程と注意事項を聞き、美玲達はバスに乗り込んだ。
今日はモン・サン=ミッシェル現地でフランス人ガイドと合流するそうだ。
終始添乗員の明美がいる団体行動、そしてバスも貸切で安全である。
朱理が流暢なフランス語でフランス人運転手と前の方で話しているのを聞き、すごいなあと思いながら通り過ぎ、美玲は後ろの方の席に座った。もちろん、シートベルトはきちんと締めている。
「あ、美玲ちゃんや。おはよう」
美玲の前に凛子が座る。カチャッとシートベルトを締める音が聞こえた。
相変わらずサイドの部分がステンドグラスのようなデザインである紫色の眼鏡がお洒落だなと美玲は思った。この日もエッフェル塔のデザインのピアスをしていた凛子である。
おまけにこの日は柔らかな癖のある長めの髪を下ろしており、どこかゴージャスな印象である。聞いたところ、天然パーマだそうだ。
ちなみに凛子の彼氏である晃樹は凛子の前に座っている。
「凛ちゃん、おはよう」
美玲は肩の力が抜けた笑みである。
更に美玲達の近くには年配の松本夫妻もやって来る。
「「おはようございます」」
美玲と凛子は口を揃えて松本夫妻に挨拶をする。
「おはようございます。おお、これはこれは、若い子が多い席だ」
茂が嬉しそうに笑う。
「おはようございます。お近く、失礼しますね」
貴子がそう朗らかに笑う。
松本夫妻は通路を挟んだ反対側にそれぞれ一人ずつ席を取った。
「それにしてもあの子、朱理ちゃんやったっけ? すごいね。フランス人の運転手とフランス語で話してるで。私も晃ちゃんも観光やから簡単なフランス語と英語だけでええやろって思ってたわ」
あっけらかんと笑う凛子。
「それは私も同じ。大体の人がそうじゃないかな?」
美玲も前の方の席の朱理を見ながら笑う。
和気藹々とした雰囲気の中、バスが出発した。
「皆さん、改めておはようございます。えー、今日はこれからモン・サン=ミッシェルに向かいますが、その前に近くのレストランでお昼を食べます。皆さんに前菜として食べていただくふわふわのスフレオムレツ。このオムレツ、マダム・プラールという人が、モン・サン=ミッシェルに巡礼に訪れた貧しかったり精進料理しか食べることが出来ないキリスト教信者に少しでも栄養を摂ってもらおうとして生み出した料理なんです。マダム・プラールの巡礼者への敬意と優しさによって生まれた料理なんですよ」
明美は説明を続ける。
「当時キリスト教徒の巡礼は本当に命懸けでした。モン・サン=ミッシェルは海に囲まれた島ですからね。最も大きい潮が押し寄せるときは、多くの巡礼者が潮にのまれて、命を落としていたんです」
明美の説明に、美玲は少し考える。
(巡礼のために死んでしまう……。逆に、死ぬ覚悟を持って巡礼に行ってたってこと……? そこまでして……)
美玲はぼんやりと窓の外に目線を移す。
(人生終わらせるためにフランスに来たけど……死……か)
景色を見ながら考えを巡らせる美玲であった。
モン・サン=ミッシェルに近付いて来た。
「さあ皆さん、モン・サン=ミッシェルが見えてきましたよ」
明美がそう言うと、ツアー参加者は窓の外に目を向ける。
バスの車窓からは、テレビやガイドブックなどで見たことがある景色が見えた。
少し離れたところに見える、ポツリと浮かぶ小島にそびえ立つ修道院。
「今日天気予報は雨なのですが、運よくまだ雨は降っていません。別のツアーの時は完全に雨でモン・サン=ミッシェルの姿は雲に隠れていたんですよ。皆さん、本当に運がいいです。晴れ男や晴れ女の方がこの中にいるのでしょうね」
「俺、晴れ男かもしれへんな。だっていつも俺が旅行してる時は晴れるもん」
明美の言葉を聞き、凛子の前に座る晃樹が後ろに振り向きニッとドヤ顔をする。
「それやったら昨日も雨降らんかったはずやで。全部偶然や」
凛子が苦笑しながら答えていた。
ツアー参加者達は、明美の言葉を聞きながら車窓から見えるモン・サン=ミッシェルの写真を撮っていた。
(あ、羊だ。小さいからまだ子供かな)
美玲はふと、放牧されている子羊達を発見した。
「それから皆さん、右手に子羊の放牧の様子が見えます。可愛いですよね。ですがあの子羊達、食用なんですよ」
(食用……)
明美の言葉に美玲は脱力し、何とも言えない気持ちになる。
「何か可哀想だね」
「うん。確かに……。肉とか好きだけど、いざこうして言われるとな……」
前の方の席で、新婚夫婦の佳奈と悠人がそう話している。
小さな草原を無邪気に駆け回ったり、草を食べる子羊達。その目は無邪気でうるうるとしているように見える。
「実はモン・サン=ミッシェルの子羊の肉はブランド品なんですよ」
(あの子羊達は食べられるために……。でもそれを残酷だって言うのも何というか……人間のエゴかも。昨日だって、エスカルゴとか鯛とかを食べたんだし。いつもだって、豚肉とか普通に食べてるじゃん)
美玲は放牧されている子羊達を見ながら軽くため息をついた。
そうしているうちに、モン・サン=ミッシェル付近のレストランに到着した。
「岸本さん、隣いいか?」
「いいけど」
昨日は誠一にポケットWi-Fiを使わせてもらっていたから彼の隣に座った。しかし、この日はその必要はない。それにも関わらず、誠一は美玲の隣に座った。
そして、美玲の正面には朱理が座る。
晃樹と凛子カップルは、今岡親子を挟んだ位置にいた。美玲からは少し遠い。
早速前菜としてスフレオムレツが運ばれてきた。
「Bon appétit」
「Merci madame」
相変わらず朱理は流暢なフランス語でお礼を言った。すると店員の女性は上機嫌になる。
「瓜生さん、フランス語そんな風に話せるようになるまでどのくらいかかった?」
誠一が興味ありげな様子である。
「えっと……二年くらいですね。小さい頃からニースに行ってたので、その時に覚えました」
朱理は目線を左上に向け、少し思い出すような素振りをして答えた。
「二年か。何かすごいな」
誠一は楽しそうに笑う。
「そうですか? 大学とかで第二外国語を真面目に学べば二年くらいで習得可能ですよ」
おっとりとした雰囲気とは裏腹にハキハキしている朱理だ。
フォークとナイフを上手に使い、スフレオムレツを口にする。そのテーブルマナーが洗練されており、お嬢様感が滲み出ている。
「二年……僕、大学時代第二外国語はフランス語でしたけど、とても二年じゃ難しかったです」
朱理の隣に座っていた、一人参加の宗平が苦笑する。
「まあ個人差はありますよ」
朱理はふふっと笑った。
「俺、大学時代の第二外国語は中国語だったな。もうすっかり忘れてる。私は日本人ですって意味の、我是日本人しか言えないわ。岸本さんは?」
「え?」
誠一からいきなり話を振られて驚く美玲。
「大学ん時の第二外国語」
「えっと……韓国語」
「おお、韓国語か。マスターできたら韓国のドラマとか字幕なしで見ることできるよな。音楽番組でもK-POP増えてるし」
美玲の答えを聞いた誠一は楽しそうに笑う。
「韓国語もハングル文字に法則性があって面白いって友達が言ってました」
朱理は美玲を見てニコリと微笑む。
「確かにそうかも」
美玲は少しぎこちなく微笑んだ。朱理に対するコンプレックスが少しだけ刺激されてしまう。
「瓜生さんは大学時代の第二外国語何だった?」
誠一は朱理に目を向ける。
「私はドイツ語でした。ロシア語にするか少し迷っていたのですが、学部が化学系だったので、ドイツ語の方が馴染みあるかなと思いました。それに今はウクライナ侵攻のこともあってロシア語使う機会がなさそうですし」
最後の方、朱理は苦笑した。
「ああ、ウクライナ侵攻な……。俺、修士一年の時ロシア旅行したわ。ウクライナもコロナが世界的に流行り出す前の夏に行ったことある。今はどっちも行けねえもんな……」
誠一も苦笑する。
「そうですよね。私、エストニアなら行ったことありますよ。中世ヨーロッパの雰囲気の城塞都市が素敵でした」
朱理は空気を重くしないよう明るい話題に切り替えた。
「エストニアかあ。俺も社会人一年目の夏に行った。あの街の雰囲気いいよな」
誠一も楽しそうである。
朱理の隣で宗平は興味深そうに二人の話を聞いている。
美玲は楽しそうな誠一と朱理の様子を見て何だかモヤモヤしていた。胸がチクリと痛む。
(この気持ち……何だろう……? 朱理ちゃんは私にはないものをたくさん持ってる。うん。嫉妬してることは認めるよ。でも……)
美玲はチラリと誠一に目を向ける。
(何か……中川くんが朱理ちゃんと話してるのは……嫌だな)
美玲は誠一から目線を外し、少しだけうつむく。
そして、ふと高校時代を思い出した。
◇◇◇◇
高校三年の秋。
夏以降、一気に教室内の空気は大学受験モードに入っていた。
そんな日の放課後。
三年の教室は、放課後勉強する生徒達のために解放されていた。
この日、美玲は予備校の予定がなかったので、教室に残り入試の過去問を解いていた。
そして、完全下校時間の放送が流れた。
(もうこんな時間)
美玲は教室の時計を見て驚く。
思った以上に集中していたようだ。
美玲は筆記用具、ノート、過去問などを片付けて、帰る準備をする。
その時、美玲の水色の蛍光マーカーが机の上をコロコロと転がり、床に落ちる。マーカーはそのまま転がり続けた。
そのマーカーを、美玲の斜め後ろに座っていた誠一が拾う。
「岸本さん、はいこれ」
「ありがとう、中川くん」
美玲は誠一からマーカーを受け取った。
「おう。あ、そうだ。またコンビニに新作のやつ売ってた」
誠一はニッと笑い、リュックからお菓子を取り出した。
「一緒に帰るついでに食わねえ? あ、それとも他の友達と約束ある?」
悪戯っぽい表情の誠一。
「ううん。今日は友達と待ち合わせとかはないから。ていうか、それ気になってたやつだ!」
美玲は誠一のお菓子を見て目を輝かせた。
「よかった。じゃあ帰るか」
誠一はホッとしたように笑う。
「ん、美味しい。何か体に染み渡る。今日すごく集中してたからお腹すいてることに今気付いた」
幸せそうな表情の美玲。
高校の最寄り駅まで向かう途中、美玲は誠一と一緒にお菓子を食べていた。
「よかった。岸本さん、めっちゃ頑張ってたな」
誠一はフッと笑い、お菓子を食べる。
「家だとちょっとだらけちゃうからね。今日予備校もないし」
「予備校か」
「中川くんは予備校とか塾行ってないんだっけ?」
美玲はお菓子を食べながら首を傾げる。
「おう。自力で何とかやってる」
誠一はそう言いお菓子を食べる。
「すごいね」
ふふっと笑う美玲。
誠一はじっと美玲を見つめる。
「……中川くん? どうしたの?」
「いや、お菓子付いてるぞ」
誠一は美玲の口元を指差す。
「え! 嘘!?」
美玲は慌ててハンカチで口を拭く。
「これで取れた?」
「いや、まだ」
誠一はニヤリと笑う。
「ええ……」
美玲はゴシゴシとハンカチで口を擦る。
「嘘。全部取れたから」
誠一は悪戯っぽく笑った。
「もう!」
美玲は頬を赤く染めて、軽く誠一の肩を叩いた。
美玲の中で、確実に誠一への想いは生まれていた。しかし、この心地のいい関係を壊したくないと思った美玲は、気持ちを伝えずに卒業したのである。
その後、別々の進路になり、誠一に会わなくなったことで、彼への気持ちは薄れていった。
美玲はそれに対してホッとしたような、寂しいような気がしたのである。
「岸本さん? どうかしたか? さっきからボーッとしてるけど」
誠一が美玲の顔を心配そうに覗き込む。
美玲はハッとした。
「あ、いや、大丈夫」
ハハハと笑う美玲。
「美玲さん、ご無理はなさらないようにしてくださいね」
正面にいる朱理も少し心配そうだ。
「うん。ありがとう、朱理ちゃん」
美玲は苦笑した。
その後、昼食を終えた美玲達は、バスに乗り込みモン・サン=ミッシェルから少し離れた場所で降りた。そこからはシャトルバスでモン・サン=ミッシェルがある島の入口へ向かう。
「わあ! 悠人、見て! モン・サン=ミッシェルがどんどん近付いてくる!」
「早く写真撮りたいな。それに、中がどうなってんのか気になる」
相変わらずキラキラしたオーラの高橋悠人、佳奈の新婚夫婦だ。
「モン・サン=ミッシェル。あいつが一番行きたがっていた場所だ……」
「父さん、暗くなんなって。楽しむために来たんだろうが」
今岡親子である。亡き妻を思いしんみりする隆に対し、息子の圭太が元気を出すよう肩を叩いた。
「貴子、確かかなり前にもモン・サン=ミッシェルは来たことあったか?」
「茂さん、多分それ四十年前くらい前に新婚旅行で行ったイギリスのセント・マイケルズ・マウントと勘違いしてますよ。似てるって言われてますからね」
「おお、そうだった。そういやイギリスにも行ったな」
松本茂、貴子夫妻だ。
そして茂が近くにいた宗平に話しかける。
「君はモン・サン=ミッシェルは初めてか?」
「はい。フランス自体初めてですから。だから、とても楽しみです」
宗平は朗らかに笑った。
美桜と菫の神田姉妹、穂乃果、晃樹と凛子のカップル、朱理も楽しそうである。
「何かワクワクするな」
誠一はシャトルバスの車窓からモン・サン=ミッシェルを見ながら美玲にそう声をかけた。
「うん」
美玲はそう頷いた。
◇◇◇◇
シャトルバスから降り、橋を渡っている。
モン・サン=ミッシェルの島がどんどん近付いてきている。
美玲や他のツアー参加者は、歩きながら写真を撮っていた。
いざ島の入り口に到着すると、立派で厳かな修道院がそびえ立っている。
「さあ皆さん、この辺でどうぞご自由に写真をお撮りください」
明美にそう言われ、皆再び思い思いに写真を撮る。
「あの、すみません。写真お願いできますか?」
美玲にそう頼んだのは、今岡親子の息子・圭太である。
「はい、いいですよ。お二人でですね」
美玲は圭太から彼のスマートフォンを受け取る。
「ほら、父さんも笑顔。笑わないと母さん心配するだろ」
圭太はやれやれと言うような感じである。
「じゃあ撮りますよ」
美玲はモン・サン=ミッシェルを背景に、今岡親子の写真を数枚撮影した。
「ありがとうございます。うん。父さんもまあまあいい表情。妹も父さんのこと心配してたぞ」
圭太は写真を見て満足そうな表情である。
「岸本さん、写真撮らなくていい?」
そこへ、誠一がやって来た。
「うん、じゃあお願い」
美玲は誠一に自身のスマートフォンを手渡し、写真を撮ってもらった。
「中川くんは写真いいの?」
「ああ、俺はさっき瓜生さんに撮ってもらった」
ハハっと笑う誠一。
「朱理ちゃんか……」
美玲は少し複雑な気持ちになった。
朱理は今、神田姉妹の妹・菫に穂乃果とのツーショットを撮ってもらっている最中である。
(まあ同じ横浜から来た者同士だし、楽しそうに話してたもんね。うん、中川くんと朱理ちゃん、お似合いじゃん。私は帰国したら死ぬ予定だし、それでいいじゃん。別にモヤモヤする必要ない)
美玲は自嘲気味に口角を上げた。
「あ、美玲ちゃん、一緒に写真撮ろう」
そこへ、さっぱりと明るい笑みの凛子がやって来た。
「あ、うん」
美玲は誠一に凛子とのツーショットを撮ってもらう。また、美玲、誠一、晃樹、凛子の四人でモン・サン=ミッシェルを背景に写真を撮った。
美玲はチラリと長身の凛子の横顔を見上げる。
(凛ちゃん……せっかく知り合って仲よくなったけど、私が死ぬ選択をしたら、きっと悲しませることになるよね……)
ほんの少し、自分の決意に迷いが生じる美玲であった。
◇◇◇◇
「さて皆さん、今日のガイドのアルマさんです」
島の入り口にて、明美はツアー参加者にガイドのアルマを紹介した。フランス生まれ、フランス育ちだそうだ。
アルマを先頭に、美玲達ツアー参加者一行は島へ入る。
「それから皆さん、こちらはお手洗いなのですが、使用する時に一ユーロかかります。一応島の中にも無料のお手洗いはありますが、そちらは何と鍵がなくて危険です。有料だとしても、なるべくこちらを使った方が安全ですよ」
明美にそう言われ、美玲はギョッとする。
「鍵がないトイレって……」
「びっくりですよね」
美玲の隣にいた佳奈も引き気味の表情だった。
その後、進み出す一行。
フランス語が話せる朱理はガイドのアルマと何やら楽しそうに会話している。
そしてモン・サン=ミッシェル麓の小さな町を歩き始めた。
こぢんまりとした町だが、多くの観光客で賑わっている。
アルマ曰く、今この町に登録されている住民は四十人くらいしかおらず、全員が修道士か修道女らしい。
つまり、美玲達を含め、町にいる者達はほぼ観光客で間違いない。
「うわあ、すごいね。ガイドブックとかでよく見るやつだ。お姉ちゃん、写真撮っといたら?」
「うん。そうしとく」
楽しげに周囲を見渡す神田姉妹。
「きゃっ」
その時、穂乃果がつまずいてドタっと派手に転んでしまう。
「あらら、穂乃果ちゃん、大丈夫?」
妹の美桜がすぐに穂乃果に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 荷物とか落としてないですか?」
姉の菫も穂乃果を気遣いながら周囲に荷物が落ちていないか見渡した。
「大丈夫です。ありがとうございます」
穂乃果はへへッと笑いながら立ち上がった。
「坂口さん、怪我とかないですか?」
明美も穂乃果の元へ向かう。
「はい、全然」
穂乃果はへにゃりと笑う。大丈夫そうである。
美玲はそれを横目に町並みを眺めていた。
(うん、とりあえずフランスにいる時は何も考えない。今を楽しむことだけに集中しよう)
美玲はそう決めるのであった。
石造りの建物と木組みの建物が入り混じるモン・サン=ミッシェル麓の町。ガイドのアルマ曰く、石造りがフランス式の建物で、木組みがドイツ式の建物らしい。アルマの言葉を明美が日本語に翻訳してくれているのだ。
まるで絵本の世界に入り込んだかのような感覚である。
大体の建物がお土産屋やカフェやレストランである。
「わあ、何か美味しそう」
「菫、さっきお昼食べたでしょう」
レストランに気を取られる菫に対し、そう注意する美桜。
先程昼食だったにも関わらず、空腹を刺激してくるような香りが漂い、誘惑に負けかける者もいた。
そして階段が多い。
先頭を歩くアルマは何てことないかのように歩いている。そして最年少の朱理も若さ故か平気な様子だ。悠人と佳奈の夫婦も軽々と歩いている。
美玲はというと、普段あまり運動していないせいか少し息を切らせている。
(結構階段多い……)
まだまだ上り切るまで距離があり、美玲は若干絶望気味な表情だった。
「岸本さん、大丈夫か?」
美玲の隣にやって来た誠一。心配そうに苦笑している。誠一は余裕そうである。
「まさかこんなに階段多いとは思ってなかった」
息を切らせながらそう答える美玲。
「俺も。こうなってるとは思ってなかった」
誠一はハハっと笑う。
「それにしては全然余裕そうじゃん」
美玲は恨めしげに誠一を見る。
「まあ普段週二、週三くらいの頻度でジムとか行ってるからな。運動不足解消のために」
ニッと笑う誠一だった。
(普段の運動不足のツケがここで出てくるとは……)
美玲は軽くため息をついた。
そしてモン・サン=ミッシェルへ向かう階段を上り切った美玲はふと後ろを振り返り見下ろす。
そこには潮が引いていることにより、広大な砂浜が広がっていた。そして、おそらくガイドであろう人物を先頭に、砂浜を裸足で歩く団体が見えた。
(わあ、人があんなに小さい。ここ、結構高さあるんだ……)
美玲は階段を上り切った達成感に包まれていた。
簡単な手荷物検査を受け、美玲達はモン・サン=ミッシェル中に入る。
ちなみに、モン・サン=ミッシェルが何故このような孤立した島に建てられたのには理由がある。当時の聖オベール司教が大天使ミカエルより、「岩山の上に聖堂を建てなさい」というお告げを受けたからであるのだ。
ちなみにこの話はバスの中で明美がしてくれた。
修道院の中はひんやりとした空気に満ちていた。メインとなる修道院附属教会は、天井が高く美しいステンドグラスが使用されている。そのステンドグラスの窓から差し込む光が、荘厳な雰囲気をさらに引き立てている。外が曇っていてもここまでの美しさなのだから、きっとこの日が晴れていたら更なる美しさで人々を圧倒していたのだろうと美玲は感じた。
(キリスト教とか、宗教的なことは全く分からない。でも、本当にこの場所で祈りを捧げていた人達がいるんだなあ……)
身が引き締まるような気持ちになる美玲だった。
そのままアルマに連れられて向かった先は、西のテラス。モン・サン=ミッシェル周囲を見渡せる展望エリアとして観光客に人気の場所である。
「あ! カモメだ〜!」
手すりのような場所に止まっているカモメを見つけた穂乃果が嬉しそうに写真を撮る。
人間が至近距離に来ても全く逃げる気配はない。人慣れしているようだ。
晃樹も冗談っぽく「ボンジュール」とカタコトのフランス語でカモメに挨拶している。その様子を笑いながら写真に撮る凛子。
美玲はゆっくりとテラスから見える景色を眺める。
「すごいな」
隣にいた誠一がそう呟く。
「そうだね」
美玲はクスッと笑い、頷く。
冷たい潮風を浴び、目を閉じて深呼吸をした。
広大な砂浜も、階段を上り切った時とは違った見え方である。そして、砂浜を超えた先に見えるのどかな平地。
美玲はそれらに表情を綻ばせた。
(日本では見られない光景だ)
その表情は、何かが吹っ切れたようである。
誠一がそんな美玲の横顔を、意味ありげに見つめていたことに、美玲は気付かなかった。
その後、中庭を囲む回廊を歩く美玲達。
この場所は神の空間ともみなされ、修道士たちは瞑想しながらここを歩いていたそうだ。
二本の柱で一組の列柱となっていて、その柱が少しずれて建てられている。こうすることで、回廊が永遠に続くかのような錯覚をもたらすらしい。
柱の上には意匠が凝らされた花のような彫刻などが彫られていた。
(確かに、ここをゆっくり歩いたら落ち着くだろうなあ)
美玲はそう思いながら写真を撮った。
食事室や迎賓の間や騎士の間など、モン・サン=ミッシェルを一通り見た美玲達は、最後にアルマと記念撮影をしてから自由行動になった。
各自で集合場所へ向かうようになっている。
◇◇◇◇
行きは進むのに必死でゆっくりと見ることが出来なかったモン・サン=ミッシェル麓の町。
しかし、生憎美玲達がモン・サン=ミッシェル見学を終えた時から激しい雨が降り出したので、のんびりと町を歩くのは難しかった。
そこで、美玲は町にあるお土産屋でお菓子を買い漁ることにした。
「結構買うな。もう見慣れてるけど」
誠一がフッと笑う。
結局何だかんだで美玲は誠一と行動していた。
「いいじゃん。せっかく来たんだし」
明るく笑う美玲。
「……そっか」
誠一はフッと笑った。
「そういや岸本さん、そのネックレス、シャルトルで買ったやつだよな? で、そっちのはシャンボール城か?」
誠一は美玲が身につけていたアクセサリーに気付いた。
「うん。もうせっかくだしじゃんじゃん使ってこうと思ってさ」
美玲はネックレスに触れ、楽しそうに笑う。
「日本に帰ってからつけるんじゃないんだな」
「まあね。今つけたかったからさ。今を楽しむことに集中しなきゃ」
苦笑する誠一に対し、美玲はあははと笑った。
「まあ……そうだな」
誠一はまたもや意味ありげな表情で美玲を見ていた。
その後、美玲は誠一と一緒に集合場所へ向かい、この日の観光を終えた。
そのままパリのホテルへと向かう一行であった。
モン・サン=ミッシェルからパリへは高速道路を使っても三時間半から四時間くらいはかかる。
時刻は午後七時。
日本だともう完全に暗くなる時間なので、初日はこの明るさに驚いていた。しかし、もう三日目なので慣れてくるのであった。
美玲はモン・サン=ミッシェルの麓の町で買ったお菓子や、途中のトイレ休憩の際に寄ったパーキングエリアのような場所で買ったパンを夕食代わりにしていた。
いよいよパリを囲む環状道路に入った。
美玲達が泊まるホテルはパリ郊外にあるホテル。
利便性が高いホテルはどうしてもパリ郊外になりがちなのだ。
(いよいよパリ……!)
美玲は車窓から見える景色にワクワクと心躍らせた。
◇◇◇◇
ホテルにチェックインし、部屋に入った美玲。
シャワーのお湯が出るかやベッドにトコジラミがいないかなどを軽くチェックした後、美玲はベッドにダイブし、ゴロリと転がる。
(ああ、まだ途中だけど、このツアー参加して本当によかったって思える。まさか中川くんと再会するとは思わなかった。それに、朱理ちゃんに嫉妬しちゃうこともあったけど、まあいっかって思えてきた)
美玲は満足げな表情で天井を見つめていた。
(パリ観光、美術館見学、ベルサイユ宮殿……まだまだ楽しみはたくさんある)
美玲は起き上がり、シャワーを浴びて翌日に備えるのであった。
相変わらずの硬水でシャンプーが泡立ちにくいが、それにも慣れる美玲であった。
◇◇◇◇
翌日。
よく晴れた日だった。眩しい日差しに青々とした空である。
恐らくフランスに来てから初めて晴れたのではないかと思われる。
しかし、高緯度にある国なので、やはり気温は日本よりも低めである。
朝食を終えた美玲は集合場所であるホテルのロビーにいた。
この日は二日目のガイドだった仁美も一緒だ。
明美から軽くこの日の行程の説明があり、美玲達は貸切バスに乗り込んだ。
フランス四日目にして、ようやく首都のパリである。
建物は石造りのような漆喰のような感じであり、パリの街は全体的に白やベージュで統一されているようである。
(すごい……ここがパリ……! 日本にも横浜とかお洒落な街はあるけど、日本とは違ったお洒落さがある……! 流石は花の都!)
美玲は車窓から見えるパリの街並みに目を輝かせた。窓に齧り付くかのようである。
美玲にとって見るもの全てがキラキラと輝いているように見えた。
そうしているうちに、初めの目的地であるエッフェル塔が見えてきた。
「エッフェル塔はですね、ギュスターヴ・エッフェルという人がパリ万博のために建てました。当時は産業革命による工業力の増加、富の増大により各国で相次いで高層建築が建設されて、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていたんですよ」
仁美がそう説明する。
なるほどと思いながら、美玲は近付いてくるエッフェル塔に釘付けになっていた。
バスから降り、セーヌ川沿いを歩いてエッフェル塔近くまでやって来た美玲達。
今はエッフェル塔には登らずに写真を撮るだけである。もし上りたい場合は自由時間に個人で登ることになる。
(これがエッフェル塔……)
美玲は目の前のエッフェル塔をまじまじと見つめる。まるで空に向かってそびえ立つ鋼のレースのようだ。
テレビや写真などでは見たことがあったが、実物を見るのは初めてで圧倒されていた。
塔の四隅にそびえる巨大な柱。その上部へと伸びる優雅な曲線。鉄骨が交差する部分はまるで繊細なレースの編み目のように見え、強さと美しさが見事に調和していた。
青々とした清々しい空に、パリのシンボルであるエッフェル塔。写真映えすることは間違いなしである。
「凛ちゃん、そのピアスもっと強調して写真撮ってみる?」
「あ。それええな」
晃樹が凛子の写真を撮る。
エッフェル塔を背景に凛子は横を向き、耳のエッフェル塔ピアスが目立つようにした。
横を向いたことで、紫色の眼鏡のサイドのステンドグラスのようなデザインも見えてよりお洒落であった。
美玲も夢中で写真を撮っていた。
「初めて見たけど、やっぱすげえな。エッフェル塔」
いつの間にか美玲の隣にいた誠一が、エッフェル塔を見上げてそう呟く。
「うん。何か……パリに来たって感じ」
美玲は満足そうに笑った。
「そうだな」
誠一はフッと笑った。
◇◇◇◇
石造りのような、漆喰のような、白やベージュを基調としている洗練された建物。それら全てに高級感があるように見える。
広い道には現地の人や観光客などで賑わっているが、街全体の雰囲気のせいか騒がしいとは思わず、どことなく品がある。
美玲達はシャンゼリゼ通りを歩いていた。
エッフェル塔から再びバスに乗り、美玲達はエトワール凱旋門に向かっていたのだ。
現在はバスを降り、エトワール凱旋門へ向かっている。
「すごい。日本でも見るブランドがこんなに。銀座とかと似てるけどやっぱり違う雰囲気だね」
キラキラオーラを放つ佳奈が目をキラキラと輝かせていた。
「佳奈、最終日の自由行動の時に寄ってみる?」
佳奈の夫である悠人がそう提案する。相変わらず彼もキラキラしたオーラだ。
「うん、行く。あ、じゃあ免税手続きとか改めて調べないと。えっと、確か添乗員の斉藤さんはクレジットカード振込にしたらいいとか言ってたっけ?」
ブランド品を買う気満々な佳奈は明美から免税に関して言われたことを思い出していた。
「朱理ちゃんはブランドのバッグとか買って帰るの〜?」
穂乃果が隣にいる朱理に聞くと、朱理は首を横に振る。
「母から譲り受けたバッグがあるので、ここでは買いませんね。祖母の代から使われているものでして」
朱理はおっとりと微笑んだ。流石はお嬢様である。
「父さん、妹の出産祝いに何かブランドでも買ってくか? 調べたらベビー用品も売ってるっぽいし。もしくは妹に何かバッグとかさ」
圭太が父の隆にそう提案する。
もうすぐ出産予定日の妹へのお土産だそうだ。
「……そうだな」
亡き妻を思ってばかりだった隆は、ほんの少しだけ明るい表情になっていた。
(ブランド……あんま興味ないけど、知ってる名前がたくさんあるなあ)
美玲はシャンゼリゼ通りにある高級ブランド店を見てそう思った。
「何かやっぱりキラキラしとるな」
凛子は周囲を見渡し楽しそうに笑う。彼女の紫色のステンドグラスのような眼鏡も、どことなくキラキラと輝いていた。
ちなみに凛子の彼氏である晃樹は、誠一と宗平の三人で話し込んでいる様子だ。男性同士何やら盛り上がっている。
「うん。何か、目に焼き付けておかないともったいないよね」
美玲はじっくりと周囲を見渡し、写真を撮った。
美玲達ツアー参加者一行は、いよいよエトワール凱旋門まで近付いて来た。
シャルル・ド・ゴール広場までやって来た美玲達。そこでフランスの車の運転の荒さを目の当たりにする。更に、フランス人は明らかに歩行者信号が赤で車が来ているのにも関わらず、当たり前のように渡っている。自転車の運転もかなり荒い。パトカーのサイレン音も、特に何かが起こっているわけではないが鳴り響いて騒々しかった。
「この光景、フランスではよくあることです。日本だとこんなに運転荒くないし、歩行者も信号無視したとしても車が来ていないことを確認しますよね。私も初めてフランスに来た時はびっくりしましたよ。何でもフランス人曰く、道は歩行者が優先。交通ルールは守らなければいけないものではなく、あくまで参考程度だそうです」
仁美が苦笑しながらフランス事情を説明してくれた。
「郷に入れば郷に従えとは言いますが、皆さんはきちんと信号を守ってくださいね。事故に遭ったら大変ですから」
明美が困ったように笑いそう言った。
「それから、堂々とシャルル・ド・ゴール広場を通って凱旋門まで行こうとしている人が見えますよね? あれ、実はやってはいけません。皆さんは今日、ここで写真を撮るだけですが、明後日の自由行動で改めて間近で見たい場合はちゃんと地下道を通って行きましょうね」
仁美がそう教えてくれる。
その後、美玲達はエトワール凱旋門の写真を撮るのであった。
どっしりと威厳ある姿のエトワール凱旋門。かの有名なナポレオン・ボナパルトが一八〇五年のアウステルリッツの戦いでの勝利を記念して建設を命じたものである。
戦勝記念碑ということで、どこか堂々とした雰囲気が感じられた。
(エッフェル塔も凱旋門も、やっぱり実物はすごい……。こうして見るだけでも十分だ)
ずっと行ってみたいと思っていた街にようやく来ることが出来たのだ。
美玲の心は今のパリの空と同じように晴れ渡っていた。
「ああ、これ美味しい。牛肉が柔らかい」
美玲は目の前に出された牛肉のプロヴァンス風蒸し煮に舌鼓を打っていた。
牛肉の旨味、トマトの酸味、ハーブの香りが絶妙に混ざり合い、美玲は満足そうに頬を緩める。
「確かに、美味いな」
美玲の隣にいた誠一も料理に夢中であった。バゲットにソースを付けて食べている。
南フランスのプロヴァンス地方から、太陽の恵みをたっぷり受けた食材を取り寄せてふんだんに使用した料理を提供するこのビストロ。観光客にも人気の店である。
現在美玲達ツアー参加者はビストロで昼食中である。
「何か二日目はエスカルゴとか鯛のポワレとかクレームブリュレで、これぞテレビとかで写真でよく見るフランス料理みたいな感じだったけど、今日のはまたちょっと違った感じがするね」
美玲はロワール地方で食べた昼食と比べていた。
「南フランスとか、プロヴァンス地方ってイタリア料理とか北アフリカ料理から結構影響受けてるみたいやからね」
メインの牛肉の蒸し煮を食べた凛子は、炭酸水を飲みながらそう笑う。
「ニースで食べていた料理もこんな感じでした」
朱理はそう言いながら、品よくナイフで牛肉を切って食べている。慣れた仕草が本当にお嬢様だ。
「フランス料理っていっぱいあるんですね〜。どれも美味しいです。量は結構多いですけど。あ、そういえば、バームクーヘンってフランスのお菓子でしたっけ?」
穂乃果が牛肉を頬張りながらへにゃりと笑った。
「バームクーヘンはドイツですよ。フランスのお隣です」
美桜が苦笑する。
「確かに量は多めだよね。私、昨日のお昼ちょっとだけ残しちゃった」
菫が困ったように笑っていた。
「ああ、日本の感覚だと残すのは申し訳ないと思ってしまいますけど、フランスでは多ければ残しても大丈夫ですよ。自分の胃を守るためのことですからね」
明美が菫の罪悪感を消すかのように、やんわりと微笑んだ。
パリのビストロで昼食を取った後、美玲達はバスで美術館に向かった。
◇◇◇◇
「はい皆さん、ここがよくテレビやガイドブックなどで見る景色ですね」
美術館に向かう一行だが、先頭の仁美が一旦立ち止まった。
美玲達がいるのはナポレオン広場。
広場中央付近に、かの有名な大きなガラスピラミッドがある。
「うわあ、本物だ」
「テレビとかで見るのと同じやつだ」
新婚夫婦の佳奈と悠人が足を止める。
「まずは美術館に入りますので、写真は自由行動の時にじっくりとお撮りいただけますよ」
最後尾から明美がツアー参加者達にそう呼びかけた。
◇◇◇◇
簡単な手荷物検査を受けて、美術館に入った美玲達。
仁美の話によると、実はこの美術館、元は宮殿だったそうだ。美術館の地下に宮殿として使われていた跡が残っていた。厳かな雰囲気が広がっている。
いよいよ本格的な美術館見学スタートである。
中学校の美術の教科書で見たことがあるような彫刻が展示してある部屋を一旦通り過ぎ、フランスの王族が使っていたとされる王冠やティアラが展示してある場所へ向かった。
そこは、何とも煌びやかな空間だった。
中央のガラスケースに豪華な王冠やティアラやアクセサリーなどが展示してある。
それだけでなく、壁や天井には厳かな絵が描かれていたり、意匠が凝らされた模様が彫られたりしていた。
ガラスケースの前には大勢の観光客が群がって写真を撮っていた。
皆、豪華な品に夢中になっていた。
「お姉ちゃん、すごいね。フランスの王族達、こんな豪華なものを着けてたんだ」
「うん、そうだね。細部まで凝ってる」
神田姉妹の菫と美桜が美玲の隣でそう話していた。妹の菫は目をキラキラと輝かせている様子だ。
(うわあ、結構宝石とか使われてるなあ。めちゃくちゃ豪華じゃん。でも、何か重たそう……)
美玲はガラスケースの中に展示されている王冠を自身のスマートフォンで撮影しながらそう感じた。
説明文はフランス語と英語でしか書いていないので読めなかった。
その後仁美の後に続き、様々な宗教画や様々な絵画が飾られた部屋に移動するツアー参加者一行。
仁美から宗教画の条件など聞くのだが、宗教的なことはさっぱりの美玲である。
朱理は熱心に仁美の解説に頷いたりしていた。
「宗教……キリスト教とかは日本人にはあんまり馴染みないからよう分からんよなあ」
美玲の隣で凛子が呟く。
「うん。そうだよね。私も全然分かんない」
美玲はあまり分かっていないのが自分だけではないと気付き、少しだけホッとしていた。
美玲達はゆっくりと進み、絶対に中学校の美術の教科書に載っているような有名な絵画が展示してある部屋までやって来た。
世界的にも有名な絵画なので、観光客でごった返している。特に、中国人の団体観光客達が我こそはとグイグイ前に行こうとするので、絵画前は色々とカオスな状況である。
フランス・パリ在住の仁美と、添乗員としてフランスに慣れている明美曰く、「スリの温床だからくれぐれも気を付けるようにしてくださいね」とのことだ。
(うん……。教科書とかに載ってる有名なやつだ……)
人混みの中、自身の荷物を盗まれないように守るなどして、色々とそれどころではない美玲。そんな感想しか出てこなかったのである。せっかくなので記念に一枚だけ写真に撮るのであった。
大きなキャンバスに描かれた厳かな絵画などの解説を聞きながら、ゆっくりと歩く美玲。
そして最初の彫刻が展示してある部屋まで戻って来た。
世界的に有名な、紀元前二世紀頃に古代ギリシャで作られたと言われる彫刻。両腕がないことには今でも色々な説がある。
次に、ギリシャ神話に登場する勝利の女神の彫刻の前で立ち止まる。美しい翼を持つ彫刻なのだが、頭と腕がないのが印象的だ。仁美曰く、某世界的有名なスポーツブランドの会社名はこの勝利の女神の名前にちなんで付けたそうだ。
「おお! 俺が今履いてる靴のやつやな」
晃樹が彫刻と自分の靴を交互に見ていた。
「その話、何かのクイズ番組で見たことがあったかも……」
晃樹の隣で宗平がポツリと呟いた。
美玲はただ黙って彫刻を見ていた。
◇◇◇◇
美術館から出た美玲達はミュージアムショップでお土産を選んでいた。
絵画がプリントされたTシャツやトートバッグ、そしてエッフェル塔のキーホルダーなどが販売している。
(まあせっかくだし、せめて記念に買おうかな)
美玲はTシャツ、トートバッグ、そしてエッフェル塔のキーホルダーを購入することにするのであった。
美術館見学を終え、お土産も無事に買えた美玲達ツアー参加者一行。
いよいよ自由行動である。
ここからは確実中にパリの街を観光し、各自でホテルまで戻るのだ。
(そういや自由行動どうするかほとんどノープランだったなあ)
美玲は夕食などによさげな場所があるかスマートフォンの地図アプリを開いて調べる。
「晩ご飯全然考えてなかった〜。どうしよう?」
その近くで穂乃果がオロオロしている。
「……じゃあ穂乃果さん、一緒に行きます? 私、日本出国前にレストランを一人で予約していたのですが」
朱理が穂乃果にそう提案した。
「え? いいの? ありがとう!」
穂乃果は嬉しそうである。
「少し待ってくださいね。今予約人数変更の電話しますから」
朱理は自身のスマートフォンを取り出し、予約をしていたレストランに電話をする。
流暢なフランス語で堂々と対応する朱理であった。
「穂乃果さん、予約変更できましたよ。二人でも行けるようになりました」
「ありがとう朱理ちゃん。やっぱりすごいね〜」
穂乃果はへにゃりと笑っていた。
「美玲ちゃんは自由行動どこ行くん?」
凛子がそう聞いてきた。
「うーん……特に考えてない。実はほぼノープランなんだ。夕食もどこで食べようか迷ってる。パンでも買ってホテルで食べてもいいかもって思ってきた」
美玲はアハハと笑う。
「それ大丈夫なん? もしよければ私らと一緒する? 晃ちゃんもええよって言ってくれるやろうし。ほら、日本と違って午後九時とかでも明るいけどさ、パリは治安は悪いって言うやん。今から日は暮れる一方やしさ」
心配そうな凛子である。
ちなみに晃樹はトイレに行っているそうだ。
「いや、凛ちゃん、それは流石に何か申し訳なさ過ぎるよ。二人の邪魔するわけにはいかないしさ」
美玲は慌てて首を振る。
「だったら俺と一緒はどう?」
そこへやってきたのは誠一だ。
「中川くん……」
美玲は驚いていた。
「ああ、中川さんがおるんやったら安心やね」
凛子はホッとしたような表情だ。
「おう。岸本さんさえよければ、俺と行動しないか?」
誠一はニッと笑う。
「……分かった。じゃあお言葉に甘えて」
美玲は少し考えた末に、そう答えた。
「よかった」
誠一は少しホッとしたような表情だった。
こうして、美玲は誠一と行動することになった。
◇◇◇◇
「じゃあ岸本さん、撮るぞー」
誠一は美玲のスマートフォンで写真を撮る。
有名なガラスピラミッドを背景に、美玲は誠一に写真を撮ってもらっているのだ。
「ありがとう。じゃあ中川くんのも撮るね」
美玲は自身のスマートフォンを返してもらい、今度は誠一のスマートフォンを受け取った。
「じゃあ撮るよー」
美玲は数枚、大きなガラスピラミッドを背景に誠一が写る写真を撮った。
「おお、よく撮れてんじゃん。ありがとう、岸本さん」
ニッと白い歯を見せて笑う誠一。
「……うん」
美玲はほんの少しドキッとしてしまい、誠一から目をそらした。
(どうして……)
美玲は高鳴る心臓を必死に抑えていた。
「そうそう、俺さ、リュクサンブール公園に行ってみようと思ってさ。岸本さんもどう?」
誠一がそう提案した。
「リュクサンブール公園?」
「おう。結構有名な場所。ここから歩いて二十分くらいの所にある」
誠一はフッと笑う。
「うん、分かった。行ってみる。ほぼノープランだから何があるか正直あんま分かってなくてさ」
アハハ、と美玲は笑った。
「じゃ、行くか」
こうして、美玲と誠一はリュクサンブール公園まで歩き始めた。
◇◇◇◇
相変わらずパリの車の運転の荒さや何もないのにしょっちゅう鳴り響くパトカーのサイレン音、際どい運転の自転車、そして当たり前のように信号無視するフランス人歩行者に驚いた美玲と誠一だが、とりあえずリュクサンブール公園までたどり着いた。
「結構大きいんだね。何か宮殿っぽい建物もあるし」
美玲は周囲を見渡して驚いていた。
「おう。あの建物、何か政治の議事堂として使われてるらしい」
誠一はスマートフォンで調べながらそう言った。
「へえ、そうなんだ」
美玲は宮殿のような建物を見て呟いた。
時刻は午後五時。
リュクサンブール公園は、まだ多くの人々で賑わっている。
美玲と誠一はのんびりとプラタナスの並木道を歩き、ベンチに座った。
「今日結構歩いたよな」
誠一がふう、と一息ついた。
「確かにね。貸切バスに乗ってた時間、意外と短かった気がする」
美玲は今日の行程をゆっくりと思い出していた。
「だよな」
誠一はハハっと笑った。
「それにしてもさ、岸本さん、お土産大人買いしてるよな。全部自分用?」
誠一は今までの美玲の行動を思い出していた。
「うん。まあね」
美玲はリュクサンブール公園を歩く人々を見ながら答えた。
「親とか友達には?」
「ああ……考えてなかった」
少し誤魔化すように笑う美玲。
「何で?」
誠一は少し訝しげな表情になっていた。
「それは……」
美玲は黙り込む。
帰国後のことは考えないようにしていたのだ。どうせもう死ぬつもりだったから。
「岸本さん、今から俺変なこと聞くかもしれない。もし違ったら否定してくれ」
誠一は真剣な表情になった。
「もしかしてさ、岸本さんは日本に戻ったら死ぬつもりなんじゃないのか?」
誠一の目は、美玲を射抜くようだった。
美玲は驚愕し、目を大きく見開いた。
「何……で……?」
美玲は少しだけ呼吸が浅くなり、何も言えなくなる。その声は震えていた。
(どうしよう。否定しないと……)
言葉を考えれば考える程、言葉が思い浮かばず、何も言えなくなる。
「……やっぱり図星か」
誠一は悲しげにため息をついた。
二人の間に、何とも形容し難い沈黙が走る。
リュクサンブール公園を散歩する者達の声がやけに大きく響く。
「……何で……分かったの?」
暗い声の美玲。
否定の言葉が出てこず、認めることにした。誠一の方を見ることができなかった。
仕事で係長の冬田から嫌がらせなどを受けていること、手柄を取られたこと、冬田が美玲にぶつかったせいで共用パソコンが壊れたのにそれを全て美玲のせいにされたこと、郁人に浮気された上に振られたこと、郁人の浮気相手が自分とは正反対のタイプだったことなど、美玲は旅行前に日本であったことを色々と思い出していたのだ。
「……俺の身近に、似たような人がいたから」
誠一は悲しげに笑った。
「似たような人……?」
美玲がそう聞き返すと、誠一は「ああ」と頷く。
「俺の従兄。七つ年上だけど、結構仲はよかった。晴斗って名前だから、ハル兄って呼んでた。家が近くでさ、俺がまだ小さい頃から、ハル兄は色々と俺の面倒を見てくれたんだよ。俺の父さんと母さんが仕事とかで家にいない時は、よく遊んでもらってた」
誠一は道行く人々を見ながら話す。その目はどこか懐かしそうであった。
「そう……なんだ……」
美玲は暗い声で相槌を打つ。
誠一はそのまま話を続ける。
「大学一年が終わった春休み……て言ってもまだ二月だったから冬なんだけどさ、ハル兄とエジプトに旅行したんだ。ハル兄がずっと行ってみたかった場所でさ。俺の分の旅費も出すから一緒に来ないかって誘われて」
誠一は当時を思い出し、フッと笑う。
しかし、その表情は悲しげであった。
美玲は黙って聞いている。
誠一は話を続けた。
「そのエジプト旅行が俺にとって初めての海外旅行だったわけ。これぞエジプトって言った感じの、クフ王、カフラー王、メンカウラー王が建てたって言われてるギザの三大ピラミッドとか、スフィンクスとか、それから、イシス神殿とかも見てさ。ラクダに乗ったりもした。もうめっちゃくちゃ楽しかったんだよ。ちょっとぼったくられたこともあったけどな。でも、当時の歴史とかも感じられたしさ、初めての海外旅行て色々と感慨深いものがあったんだ。それと同時に、他の国にも行ってみたいって思うようになったんだよ」
誠一は懐かしむような表情である。
「でもさ……」
誠一は再び表情が暗くなる。
「ハル兄は、日本に帰国してすぐ……自殺したんだ」
悲しげな表情で美玲を見る誠一。
「え……」
美玲は息を飲む。
誠一はそのまま話を続ける。
「ハル兄、帰国した翌日に、会社のビルから飛び降り自殺したんだ。……ハル兄は元々死ぬつもりだったんだよ。それで、せめて死ぬ前にずっと行きたいって思ってたエジプトに行こうって決めてたらしい」
「あ……」
美玲はハッとする。
自分がフランスに来た理由と全く同じなのだ。
「ハル兄さ、日本に帰国した時、今まで見たことがないくらいものすごくスッキリした表情だったんだよ。今思えば、もうこの世に思い残すことはないみたいな表情でさ」
誠一はため息をつく。
「俺はハル兄のお陰で海外旅行の楽しさを知ったからさ……何か悲しいのと悔しいのとで、当時感情がぐちゃぐちゃになってさ……」
誠一の目は、当時を思い出したようで、悲しさを帯びていた。
美玲は何も言えなかった。
「ハル兄、かなり会社で追い詰められてたみたいでさ。食品メーカーの営業職だったんだけどさ、ノルマとかパワハラとか、色々と……。ハル兄、真面目だから色々背負い混みすぎて……限界がきてたんだろうな。いっそのことそんなにキツいんだったらそんな会社なんかから逃げ出してもっとホワイトな職場を探せばいいと思うんだけどさ、やっぱりハル兄は真面目で今の仕事から逃げ出す選択肢がなかったんだと思う。それで、死のうとしたけど、どうせなら行きたい所に行ってからって……。金もさ、俺の分の旅費とか食費とか……お土産代とかその他にも色々……全部ハル兄が出してくれたのも、貯めた金を使い切るためだったらしい」
誠一の目からは一筋の涙がこぼれる。
「中川くん、これ……」
美玲はスッと自身のハンカチを差し出した。
「ごめん、ありがとう」
誠一は美玲からハンカチを受け取り、涙を拭った。
「何でハル兄が苦しんでたのを気付かなかったんだろう、とか、そんなに仕事がキツかったら辞めて別の場所を探せばよかったのに、とか、もう色々とごちゃごちゃしててさ……」
誠一はため息をつく。
「もし俺が何かハル兄のことに気付けてたら、ハル兄は自殺を選ばなかったかなとか、色々な……。今でも色々と、あの時どうしたらよかったんだろうとか、考える時があるんだよ」
自嘲気味に笑う誠一。
「それは……中川くんのせいじゃないよ」
美玲はそっと誠一の背中をさする。
「……ありがとう、岸本さん」
誠一は悲しげに笑う。
「当時はめちゃくちゃショックだった。でも、その後しばらくしたら、だったら天寿を全うするまでにたくさんの国を旅行して、死んだ後ハル兄に自慢してやるって思えるようになったけどさ。ただ、もう一度エジプトに行く勇気はまだないけど……」
誠一はフッと笑った。
「そっか……」
美玲はほんの少しだけ安心した。
「中川くんにそんなことがあったなんて、全然思わなかったよ」
美玲は少しだけ俯いた。
「まあ、普通は想像もつかないよな」
誠一はまたフッと笑った。
そして言葉を続ける。
「それでさ、岸本さんはハル兄と同じ表情だったんだよ。死を決意したような、そんな感じの。今までのお土産屋での大人買いも、全財産使ってから死のうとしたハル兄とほぼ全く同じでさ」
誠一の目が、美玲の目を射抜いている。
「……そっか」
美玲は自嘲気味に誠一から目をそらす。
「岸本さんは?」
「え?」
いきなり疑問形でこられたので、美玲はきょとんとしてしまう。
「何で死のうとしてんだよ? シャンボール城の時も、『もう死んでもいいかも』とか言ってたの聞こえた」
誠一がため息をつく。
「あ……」
美玲はシャンボール城見学の時、思わずポツリと呟いてしまったことを思い出した。
「聞こえてたんだ……」
俯いて苦笑する美玲。
「ああ。それでこのツアー、岸本さんのこと放って置けなくなった」
苦笑する誠一。
「何か……ごめん」
美玲は俯いたままである。
「いや、謝らなくてもいいけど……。岸本さん、何で死のうとしてるんだよ?」
死ぬなと懇願するかのような表情の誠一。
「それは……」
言葉に詰まる美玲。
改めて、仕事のことや恋愛のことを思い出す。
思った以上に限界だったようで、美玲の目からはポロポロと涙がこぼれ出した。