雨の中びしょ濡れで自宅に帰って来た岸本(きしもと)美玲(みれい)は、玄関で力なく膝から崩れ落ちた。
(……もう嫌だ。どうして私がこんな目に……?)
 全てにおいて絶望したような表情だった。

◇◇◇◇

 美玲は高校卒業後、地元群馬を離れて東京にあるそこそこ名門の私立大学の理工学部化学科に入学した。卒業後はそのまま同じ大学の研究室に残り、大学院修士課程まで修了した美玲。
 彼女はその後、大手や大企業ではないが、東京に本社がある部品メーカーに入社した。知る人ぞ知る優良中小企業である。
 美玲は神奈川県川崎市にある研究開発部門に配属された。
 美玲のキャリアは順調だったのだが、半年前別の部署内の別の開発チームに異動になってから狂い始めた。

 新たに上司となった係長の冬田(ふゆた)がとんでもない奴だったのだ。

 美玲も何となく冬田の異常性には気付いていたが、初めは特に被害を被ることはなかった。
 しかし、ある日冬田が美玲に自分のミスを被るよう命じてきた。
 美玲はそれを断固拒否した。すると、その翌日から冬田による美玲への嫌がらせが始まったのだ。
 ネチネチとした嫌味は美玲にとってどうでもよかった。しかし仕事を回してもらえないことは相当応えた。
 周囲も見て見ぬ振りである。
 美玲は部長の曽我部(そがべ)に相談して見たものの、冬田が常に曽我部に媚を売っていて曽我部も冬田のことを信頼していた。よって曽我部からは「冬田がそんなことを? 何かの間違いではないか?」とあまり取り合ってもらえなかった。
 それでも美玲は負けまいと、自分自身で取引先への部品を改良して営業部などへ提案した。しかし、その手柄も全て冬田に奪われてしまった。

「納得出来ません。ここまできていきなり担当が冬田さんに変更だなんて。これは完全に手柄の横取りじゃないですか!」
「いや、だからさ、上司が部下の責任を取るのなら、部下の手柄は上司のものにならないと理不尽だろう?」
 冬田に直接手柄横取りの件の不満を伝えた美玲だが、冬田にはそう返されてしまう。
「いいえ、いくら何でもその考え方の方が理不」
「僕は忙しいんだ。手を煩わせないで欲しいな」
 冬田は美玲の言葉を遮りその場を立ち去る。その際、美玲にぶつかってきた。
 美玲はよろけて転び、机にぶつかってしまう。
 その時、ガシャンと大きな音が響いた。
 美玲がぶつかった机に乗っていた共用のパソコンが落ちたのだ。
 しかも無惨なまでに壊れている。
「あーあ、岸本さんが壊したんだよ。これどうするの?」
 冬田がそう騒ぎ立てる。一瞬美玲は同じチームの同期である小島(こじま)祥子(しょうこ)と目が合った。
 しかし祥子は気まずそうに、すぐに目を逸らしてしまう。
 見て見ぬ振りである。
 面倒事に巻き込まれたくないせいか、誰も助けてはくれない。
 美玲がいくら弁明しても、誰にも聞いてもらえなかった。

 この日の美玲の不幸はこれだけではなかった。

《今日は仕事で散々だった。愚痴聞いて欲しい》
 美玲は仕事終わり、一人暮らしをしている自宅マンションまで帰る途中、彼氏である郁人(いくと)に連絡した。
 しかし、郁人からはまさかの返事が来る。
《ごめん。別れよう。今までありがとう》
「え……?」
 美玲は頭の中が真っ白になった。

 郁人とは、大学の同期である。大学四年の時同じ研究室になり、二人共そのまま大学院に進学してまた同じ研究室で研究をしていた。
 お互いに気が合い、大学院修士課程一年の時に付き合い始めた。
 お互い職場も住んでいるマンションもそこまで遠くないので、定期的に会っていた。
 最近はよく美玲の仕事に関する愚痴を聞いてもらっていたのだ。
 郁人の存在は、最近の美玲にとって心の支えでもあった。
 しかし、今あっさりとメッセージアプリで別れを告げられてしまう。
(郁人……何で?)
 その時、美玲にとって聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ああ、今日も疲れた」
「お仕事お疲れ様、郁人くん。研究職とかめちゃくちゃ頭使って凄そうだね」
 何と先程美玲に別れを告げてきた郁人が、他の女の腰に手を回し歩いていた。
 小柄で庇護欲をそそりそうな、可愛らしい女である。
 美玲とは真逆のタイプだ。
 しかも二人が向かっている先はホテルである。

 ポツポツと雨が降り始めた。その雨は、次第に勢いが強まっていく。

(郁人……そういうことなんだ……。多分これ絶対前から浮気してたパターンだよね……)
 雨の中茫然とする美玲。
 郁人は二股をかけていて、美玲は捨てられたのだと悟る。

 そこから美玲は記憶がなく、気付いたら自宅の玄関で膝から崩れ落ちていた。
 ポタポタと美玲の髪や服からは雫が落ち、玄関を濡らす。
(……もう嫌だ。どうして私がこんな目に……?)
 仕事も恋も散々な美玲。
 全てにおいて絶望したような表情だった。

◇◇◇◇

 失意の中、美玲は何とかシャワーを浴びた。
 ぼんやりしながらテレビをつけると、ちょうど過労自殺のニュースが報道されていた。
(自殺……か)
 美玲は再び今日の仕事が冬田のせいで散々だったこと、郁人から一方的に別れを告げられて更に浮気現場を目撃してしまったことを思い出す。
(最近の私、色々振り回されっぱなし。私、何のために生きてるんだろう……? もう疲れた)
 美玲は大きなため息をつく。
(私も死のうかな……)
 虚な目で美玲はスマートフォンの検索画面に『自殺 方法』や『楽に死ねる方法』と打ち込む。そのうち職場にある薬品で死ねるかなども調べていた。
 気持ちはどんどん死へと近付いていた。

 しばらくすると、テレビから新しい番組が流れ始めた。
 美玲はふとスマートフォンからテレビに目を移す。
 テレビでから流れるフランス特集番組。
 フランスの観光名所やパリの街並みの映像が美玲の目に飛び込んでくる。
(フランス……そういえば、行ってみたいなとは思ってたなあ……)
 美玲はぼんやりとテレビを眺めていた。
 そしてまた過去のことを思い出してしまう。

 それは郁人と恋人同士だった時のこと。
 一緒に卒業旅行で海外に行こうと計画していたのだ。
 美玲はフランスに行きたいと思っていたが、郁人の強い希望でスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランドの北欧四ヶ国ツアーになってしまった。
 当時はそれでもまあいいかと思っていた美玲。しかし、丁度美玲達が大学院修士課程を修了する二〇二〇年二月、世界的に新型コロナウイルスが流行し始めた。
 それにより、美玲と郁人の卒業旅行は中止を余儀なくされた。
 それ以降、パスポートは棚の中で眠ったままである。

(あの時無理やりでもフランス行きを押し通していたらよかったかも。まあどのみちコロナで中止になってたか。今考えてみると郁人、自分の意見ゴリ押しするだけで私の意見とか全く聞かない男だったじゃん。愚痴は聞いてくれたけどさ。というか、浮気しておいて『今までありがとう』とか、ふざけるのにも程がある! ……やめたやめた、あんな浮気野郎のことを考えるだけで反吐が出る)
 美玲はため息をついた。
 テレビには、フランスの映像が流れている。
 モン・サン=ミッシェル、ロワールの古城、ベルサイユ宮殿、エッフェル塔、エトワール凱旋門、その他パリの街並みなど、日本では見られない景色。それらは美玲にとって心惹かれるものがあった。まるで美玲に「今すぐおいでよ」と誘惑しているかのようである。
(もう仕事とかクソ冬田のことなんかどうでもいいや。あんなゴミクズ野郎が係長だなんてどうかしてる。もうこの際せっかくだし、死ぬ前にフランスに行こう)

 二〇二四年二月。
 岸本美玲、二十八歳。人生を終わらせる為にフランスに行くことにした。