「アリシア! 君との婚約は破棄させてもらう。私はここにいるミランダと結婚する!」
「……はあ?」
よろしい、ならば戦争だ。
この国では、王子は十八歳になると結婚し、王位を継ぐことになっている。その前年となる十七歳の誕生日パーティーでは、城で盛大に婚約披露が行われる。
勿論、婚約者は幼少の頃から決まっている。あくまで、正式にお披露目するのがその時というだけで、通常一度決まった相手が変更されることはまずない。
だというのに。この国の王子、クリフォード殿下は。よりにもよって、その十七歳の誕生日パーティー当日に。本来の婚約者である公爵令嬢アリシアを差し置いて、伯爵令嬢のミランダと結婚する、などとのたまった。
「ありえないありえないありえない……!」
あまりの屈辱に、アリシアは爪を噛んだ。
「お嬢さま、はしたのうございますよ」
「だって!」
きぃっ! とアリシアはメイドに喚いた。
自室でくらい自由にさせてほしい。あの場では、公爵令嬢としての振る舞いを崩すわけにいかなかったのだから。
半ば呆然としながらも、なんとか平静を装ってその場を辞し、自分の屋敷に帰り、自室に戻ると、アリシアはそれはもう喚いた。メイドは慣れているので聞き流した。
「そのようなところが、不興を買ったのではございませんか? 殿下はミランダ様の可憐で慎ましく控えめなところに惹かれたとおっしゃっていたでしょう」
「わたしはずっとこうなのよ!? 今更じゃない!」
「たしかに、お嬢さまは昔からずっと苛烈でいらっしゃいますものね」
「あなたどっちの味方よ!?」
やれやれ、と言いたげなメイドにアリシアは噛みついた。
確かに、アリシアは可憐よりは苛烈といった言葉が似合う気質をしている。見た目も然り。
燃え上がるような赤い髪。吊り上がった目元。きりっとした口角。女にしては高い身長。
けれど。
「この髪が好きだって言ってくれたのは、殿下なのに……」
呟いて、アリシアは自分の髪をひと房つまみ上げた。そしてミランダを思い出す。
ふわふわしたブロンドの髪。目尻の垂れた穏やかな瞳。ぷっくりとした唇。小柄な体躯。
本当は、ああいった娘が、好みだったのだろうか。
アリシアが落ち込んでいるのは、王妃の座が奪われたからではない。
十年。十年、クリフォードとは婚約者として接してきた。
初めて出会った七つの頃から、ずっとアリシアにとってクリフォードは特別な人だった。
そして思い違いでなければ、クリフォードも、アリシアを想っていると。
そう、信じていたのに。
「わたし、やっぱり信じられないわ」
「お嬢さま」
「殿下と、ふたりでもう一度ちゃんと話をさせてもらうわ」
――ここで泣いて引き下がるなんて、わたしじゃない。
アリシアは苛烈な瞳で宣言した。
*~*~*
「忙しいんだ、手短にしてくれ」
そっけなくそう言ったクリフォードは、アリシアと目も合わせなかった。
そのことに、アリシアは唇を噛みしめた。
日を改めて、アリシアはクリフォードとふたりで話せるよう希望を出した。最初クリフォードは拒否したらしいのだが、さすがにそれは筋が通らないと陛下が口添えをした。
空気が悪くならないようにか、ふたりが面会するために用意された席は、陽の当たるテラス席だった。小さなテーブルを挟んで、アリシアのすぐ目の前にクリフォードがいる。馴染みのふたりなので、近くに護衛はいないが、少し離れた場所に使用人が待機している。
陽光に煌めくクリフォードの髪は、美しいプラチナブロンドだ。瞳は透きとおるようなエメラルドで、知的な光を宿している。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉だろう。誰もが溜息を吐くほどの美しさだった。
この人の隣に並ぶなら、ミランダの方がお似合いなのかもしれない。
婚約破棄を宣言されたあの日を思い出して、アリシアは僅かに目を伏せた。
そうだったとしても。
それは、諦める理由にはならない。
「殿下。殿下は以前、わたしのことを好きだとおっしゃいましたよね?」
「さあ。そんなこともあったかもしれないな」
「それが、今はミランダ様を愛していらっしゃると?」
「ああ」
「では、もうわたしに気持ちは一切残っていらっしゃらないのですか?」
「そうだ」
会話の最中、クリフォードは一度もアリシアと目を合わせない。
おかしい、とアリシアは眉を寄せた。
顔も見たくない、ということだろうか。それほどまでに嫌われることを、自分はしたのだろうか。
けれど。嫌っている、というとげとげしさを、感じないのだ。
これは、むしろ。
「殿下。なら、わたしの目を見て、言ってくださいませ」
「必要ない。君とはもう終わった」
「終わったのなら言えるでしょう。わたしなど、嫌いだと。二度と顔も見たくないと、目を見てはっきりおっしゃってください。でないとわたしは前に進めません」
「……今、君が、言ったとおりだ。私の意志は変わらない」
目を逸らし続けるクリフォードにしびれを切らして、アリシアは立ち上がってクリフォードの顔を両手で掴んだ。
「目を見て話しなさい、クリフォード!」
無理やりアリシアの方を向かせた瞳が、大きく見開かれる。その瞳の奥に揺れる感情を読み取って、アリシアは息を呑んだ。
クリフォードがアリシアの手を払って、そのまま立ち上がる。
「何を言われようと、これはもう決まったことだ。君との婚約は破棄された。もう関わることもない。せいぜい良い家に貰われるんだな」
吐き捨てるようにそう言って、クリフォードは去っていった。
その場にひとり残されたアリシアの元へ、メイドが駆け寄る。
「お嬢さま。大丈夫ですか?」
「……嘘なんだわ」
「え?」
「殿下は、本当はまだわたしのことが好きなのよ」
「まあ、お嬢さま……。お可哀そうに、ついに妄想を」
「黙りなさい」
アリシアはメイドを睨みつけた。
十年。十年、側にいたのだ。クリフォードの嘘は見抜ける。
クリフォードは、アリシアを嫌っていない。それどころか、おそらくまだ好意がある。
だとしたら、なぜ。
「調べる必要がありそうね」
アリシアの瞳が、きらりと光った。
*~*~*
言っても、公爵令嬢である。自分の足を使って調べるようなことはしない。
密偵を使って調べさせたところ、驚くべき事実が判明した。
「なんてことなの……」
アリシアは、深く溜息を吐いた。これならば、婚約破棄は納得だ。
しかし、こんな理由でアリシアを止められると思っているのなら。
「甘いわね。クリフォード」
――だてに十年、愛してないのよ。
*~*~*
一日の執務を終えたクリフォードは、使用人を下がらせ、ひとりで自室にいた。
深くソファに腰かけ、着ているものを寛げ、目元を押さえる。
その表情からは、疲れと苦悩が読み取れた。
しんとした空間。目を閉じて、愛しい人を思い浮かべる。
その人物の名を呼ぼうとして、薄く唇が開く。
瞬間。
「クリフォード!」
「!?」
ばあん、と大きな音を立てて開かれた扉に驚き、クリフォードは呼ぼうとした名を呑み込んだ。
「な……な……!?」
「邪魔するわよ」
堂々とした立ち姿に、クリフォードは呆気に取られたように口を開閉させた。
「アリシア!? どうやってここに!?」
「馴染みの衛兵さんがこっそり入れてくれたのよ」
「仕事しろ……!」
「あら、ちゃんとしてるじゃない。殿下の婚約者の夜這いを手伝っているのだもの」
ぐ、とクリフォードが言葉に詰まった。
「……嫁入り前の娘が、夜這いなどと言うんじゃない」
そう言ったクリフォードの目元は、僅かに朱が差していた。
その表情に、アリシアは自分の予想が外れていなかったと確信し、にんまりと唇を吊り上げた。
アリシアはクリフォードの真正面に立つと、ソファに片膝をついて彼の服に手をかけた。
「待て、何をしている!?」
「何って、決まっているでしょう。夜這いに来たのよ」
「させるか! 君はもう婚約者じゃないんだ、こんなこと大問題になるぞ!」
「いいじゃない。既成事実ができてしまえば、側室として娶ってもらえるんじゃないかしら」
「そんなわけあるか! だいたい私、は――」
クリフォードが言葉を詰まらせる。それを見て、アリシアは表情を厳しくした。
「どうしたの?」
「……っ」
「言ってごらんなさいよ。何が問題なの?」
「それ、は」
「当ててあげましょうか。あなた、子どもができないんでしょう」
クリフォードが、大きく息を呑んだ。
「どうして、それを」
「うちの密偵に調べさせたのよ」
「馬鹿な……。そのことは、城内でもごく限られた人間しか知らないんだぞ」
「なめてもらっちゃ困るわ。わたしが無能な人材を雇うとお思い?」
ふふん、と鼻で笑ったアリシアに、クリフォードは呆気にとられた後、大きく溜息を吐いた。
「そうだな、君は、そういう人だった」
「あら、わたしのそんなところが好きなのでしょう?」
からかうように笑ってみせたアリシアに、しかしクリフォードは笑みを返さなかった。
「賢い君のことだ。わかるだろう。王子が子をなせないということが、どういうことか」
アリシアの顔から、すっと笑みが消えた。
「私が王位を継ぐことは、既に決定している。しかし、王家が、種無しの王の存在など認めるものか。いつまでも子ができなければ、責められるのは王妃の方だ。側室も、無理やり娶らされることだろう」
辛そうに顔を歪めるクリフォードを、アリシアはじっと見ていた。
「直系の子が生まれなければ、次の王位継承は確実にもめる。何より、私は女性にとって最大の幸福を与えてやれない。そんな男に、好いた女性と結婚する資格などない」
「ミランダ様は?」
「彼女も、子どもができないんだ。どうせどこに嫁いでも責められるなら、同じ境遇の私の力になりたいと、芝居に付き合ってくれた」
なるほど、とアリシアは納得した。ミランダの方も、人の男を奪い取るような嫌な感じを受けなかった。だからこそ、本当にクリフォードが心変わりしてしまったのではと、一度は本気で心配になったものだが。彼女は、協力者だったのだ。
「つまりクリフォードは、わたしが嫌いになったわけじゃないのね」
「……嫌いになど、なるものか。君のことは、ずっと好きだったんだ。十年かけて、やっと手に入ると思っていたのに。今更、こんな」
悔いるように目を閉じたクリフォードは、アリシアの時間を無駄にしたと思っているのだろう。無理もない。
彼の不妊の原因は、昨年罹った病にある。その後の検査で判明したのだ。だからこんなタイミングになった。
「申し訳ないとは思っている。しかし、君の身分なら、今からでも良家との縁談が望めるだろう。婚約破棄の件は話題になっているはずだ。王子のわがままで放り出された、憐れな令嬢だと」
つまり、あの大げさな婚約破棄もパフォーマンスだったのだ。アリシアが皆の同情を引き、心変わりしたクリフォードの方が悪いと印象付けるための。
「……馬鹿な人ね」
アリシアは、そっとクリフォードの頬に手を添えた。
「アリシア……?」
ゆっくりとその顔が近づき、動揺するクリフォード。
その額に、直前で勢いをつけて、アリシアは頭突きをした。
「いっ!?」
額を押さえて蹲るクリフォードを見下ろして、アリシアは仁王立ちした。
「ほんっとうに馬鹿ね! なぜそういうことを勝手にひとりで決めてしまうの!?」
「そ、それは、君に話したら私を見捨てられないだろう。君は心根は優しいから」
「ええそうね! 見捨てたりなんてするものですか。でもそれは、わたしが優しいからではなく、あなたを愛しているからよ!」
クリフォードの顔が、赤く染まった。
「十年好きだったのはこっちの方よ! 今更そんな理由ごときで手放してなんかやるものですか! 子どもがいなくても、わたしはあなたといられればそれだけで十分よ。周りなんてわたしが黙らせてみせるわ。それでもどうしても子どもが欲しくなったら、養子でもなんでも迎えればいいじゃない! なんなら孤児院丸ごと引き受ければいいわ。良かったわね、教会からも感謝されるわ!」
ぜえはあと肩で息をして、アリシアはクリフォードを睨んだ。
「どう? まだ何か言い足りない? わたしは一晩中だって付き合ってあげるわよ。絶対に逃がさないんだから」
執念にも似たそれに冷や汗をかきながらも、アリシアの形相にクリフォードは一度吹き出すと、そのまま声を上げて笑った。
「っはは、そうだ、そうだったな。君は、そういう人だった」
笑い転げるクリフォードに、アリシアは拗ねたように頬を赤らめてそっぽを向いた。
ひとしきり笑うと、クリフォードは憑き物が取れたような顔で穏やかに微笑んで、両手を顔の横に上げた。
「君を見くびっていた、許して欲しい。降参だ」
その答えに、アリシアは満面の笑みを浮かべた。
「ざまあみなさい!」
そしてクリフォードの膝に飛び乗って、彼の唇を奪うのだった。
「……はあ?」
よろしい、ならば戦争だ。
この国では、王子は十八歳になると結婚し、王位を継ぐことになっている。その前年となる十七歳の誕生日パーティーでは、城で盛大に婚約披露が行われる。
勿論、婚約者は幼少の頃から決まっている。あくまで、正式にお披露目するのがその時というだけで、通常一度決まった相手が変更されることはまずない。
だというのに。この国の王子、クリフォード殿下は。よりにもよって、その十七歳の誕生日パーティー当日に。本来の婚約者である公爵令嬢アリシアを差し置いて、伯爵令嬢のミランダと結婚する、などとのたまった。
「ありえないありえないありえない……!」
あまりの屈辱に、アリシアは爪を噛んだ。
「お嬢さま、はしたのうございますよ」
「だって!」
きぃっ! とアリシアはメイドに喚いた。
自室でくらい自由にさせてほしい。あの場では、公爵令嬢としての振る舞いを崩すわけにいかなかったのだから。
半ば呆然としながらも、なんとか平静を装ってその場を辞し、自分の屋敷に帰り、自室に戻ると、アリシアはそれはもう喚いた。メイドは慣れているので聞き流した。
「そのようなところが、不興を買ったのではございませんか? 殿下はミランダ様の可憐で慎ましく控えめなところに惹かれたとおっしゃっていたでしょう」
「わたしはずっとこうなのよ!? 今更じゃない!」
「たしかに、お嬢さまは昔からずっと苛烈でいらっしゃいますものね」
「あなたどっちの味方よ!?」
やれやれ、と言いたげなメイドにアリシアは噛みついた。
確かに、アリシアは可憐よりは苛烈といった言葉が似合う気質をしている。見た目も然り。
燃え上がるような赤い髪。吊り上がった目元。きりっとした口角。女にしては高い身長。
けれど。
「この髪が好きだって言ってくれたのは、殿下なのに……」
呟いて、アリシアは自分の髪をひと房つまみ上げた。そしてミランダを思い出す。
ふわふわしたブロンドの髪。目尻の垂れた穏やかな瞳。ぷっくりとした唇。小柄な体躯。
本当は、ああいった娘が、好みだったのだろうか。
アリシアが落ち込んでいるのは、王妃の座が奪われたからではない。
十年。十年、クリフォードとは婚約者として接してきた。
初めて出会った七つの頃から、ずっとアリシアにとってクリフォードは特別な人だった。
そして思い違いでなければ、クリフォードも、アリシアを想っていると。
そう、信じていたのに。
「わたし、やっぱり信じられないわ」
「お嬢さま」
「殿下と、ふたりでもう一度ちゃんと話をさせてもらうわ」
――ここで泣いて引き下がるなんて、わたしじゃない。
アリシアは苛烈な瞳で宣言した。
*~*~*
「忙しいんだ、手短にしてくれ」
そっけなくそう言ったクリフォードは、アリシアと目も合わせなかった。
そのことに、アリシアは唇を噛みしめた。
日を改めて、アリシアはクリフォードとふたりで話せるよう希望を出した。最初クリフォードは拒否したらしいのだが、さすがにそれは筋が通らないと陛下が口添えをした。
空気が悪くならないようにか、ふたりが面会するために用意された席は、陽の当たるテラス席だった。小さなテーブルを挟んで、アリシアのすぐ目の前にクリフォードがいる。馴染みのふたりなので、近くに護衛はいないが、少し離れた場所に使用人が待機している。
陽光に煌めくクリフォードの髪は、美しいプラチナブロンドだ。瞳は透きとおるようなエメラルドで、知的な光を宿している。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉だろう。誰もが溜息を吐くほどの美しさだった。
この人の隣に並ぶなら、ミランダの方がお似合いなのかもしれない。
婚約破棄を宣言されたあの日を思い出して、アリシアは僅かに目を伏せた。
そうだったとしても。
それは、諦める理由にはならない。
「殿下。殿下は以前、わたしのことを好きだとおっしゃいましたよね?」
「さあ。そんなこともあったかもしれないな」
「それが、今はミランダ様を愛していらっしゃると?」
「ああ」
「では、もうわたしに気持ちは一切残っていらっしゃらないのですか?」
「そうだ」
会話の最中、クリフォードは一度もアリシアと目を合わせない。
おかしい、とアリシアは眉を寄せた。
顔も見たくない、ということだろうか。それほどまでに嫌われることを、自分はしたのだろうか。
けれど。嫌っている、というとげとげしさを、感じないのだ。
これは、むしろ。
「殿下。なら、わたしの目を見て、言ってくださいませ」
「必要ない。君とはもう終わった」
「終わったのなら言えるでしょう。わたしなど、嫌いだと。二度と顔も見たくないと、目を見てはっきりおっしゃってください。でないとわたしは前に進めません」
「……今、君が、言ったとおりだ。私の意志は変わらない」
目を逸らし続けるクリフォードにしびれを切らして、アリシアは立ち上がってクリフォードの顔を両手で掴んだ。
「目を見て話しなさい、クリフォード!」
無理やりアリシアの方を向かせた瞳が、大きく見開かれる。その瞳の奥に揺れる感情を読み取って、アリシアは息を呑んだ。
クリフォードがアリシアの手を払って、そのまま立ち上がる。
「何を言われようと、これはもう決まったことだ。君との婚約は破棄された。もう関わることもない。せいぜい良い家に貰われるんだな」
吐き捨てるようにそう言って、クリフォードは去っていった。
その場にひとり残されたアリシアの元へ、メイドが駆け寄る。
「お嬢さま。大丈夫ですか?」
「……嘘なんだわ」
「え?」
「殿下は、本当はまだわたしのことが好きなのよ」
「まあ、お嬢さま……。お可哀そうに、ついに妄想を」
「黙りなさい」
アリシアはメイドを睨みつけた。
十年。十年、側にいたのだ。クリフォードの嘘は見抜ける。
クリフォードは、アリシアを嫌っていない。それどころか、おそらくまだ好意がある。
だとしたら、なぜ。
「調べる必要がありそうね」
アリシアの瞳が、きらりと光った。
*~*~*
言っても、公爵令嬢である。自分の足を使って調べるようなことはしない。
密偵を使って調べさせたところ、驚くべき事実が判明した。
「なんてことなの……」
アリシアは、深く溜息を吐いた。これならば、婚約破棄は納得だ。
しかし、こんな理由でアリシアを止められると思っているのなら。
「甘いわね。クリフォード」
――だてに十年、愛してないのよ。
*~*~*
一日の執務を終えたクリフォードは、使用人を下がらせ、ひとりで自室にいた。
深くソファに腰かけ、着ているものを寛げ、目元を押さえる。
その表情からは、疲れと苦悩が読み取れた。
しんとした空間。目を閉じて、愛しい人を思い浮かべる。
その人物の名を呼ぼうとして、薄く唇が開く。
瞬間。
「クリフォード!」
「!?」
ばあん、と大きな音を立てて開かれた扉に驚き、クリフォードは呼ぼうとした名を呑み込んだ。
「な……な……!?」
「邪魔するわよ」
堂々とした立ち姿に、クリフォードは呆気に取られたように口を開閉させた。
「アリシア!? どうやってここに!?」
「馴染みの衛兵さんがこっそり入れてくれたのよ」
「仕事しろ……!」
「あら、ちゃんとしてるじゃない。殿下の婚約者の夜這いを手伝っているのだもの」
ぐ、とクリフォードが言葉に詰まった。
「……嫁入り前の娘が、夜這いなどと言うんじゃない」
そう言ったクリフォードの目元は、僅かに朱が差していた。
その表情に、アリシアは自分の予想が外れていなかったと確信し、にんまりと唇を吊り上げた。
アリシアはクリフォードの真正面に立つと、ソファに片膝をついて彼の服に手をかけた。
「待て、何をしている!?」
「何って、決まっているでしょう。夜這いに来たのよ」
「させるか! 君はもう婚約者じゃないんだ、こんなこと大問題になるぞ!」
「いいじゃない。既成事実ができてしまえば、側室として娶ってもらえるんじゃないかしら」
「そんなわけあるか! だいたい私、は――」
クリフォードが言葉を詰まらせる。それを見て、アリシアは表情を厳しくした。
「どうしたの?」
「……っ」
「言ってごらんなさいよ。何が問題なの?」
「それ、は」
「当ててあげましょうか。あなた、子どもができないんでしょう」
クリフォードが、大きく息を呑んだ。
「どうして、それを」
「うちの密偵に調べさせたのよ」
「馬鹿な……。そのことは、城内でもごく限られた人間しか知らないんだぞ」
「なめてもらっちゃ困るわ。わたしが無能な人材を雇うとお思い?」
ふふん、と鼻で笑ったアリシアに、クリフォードは呆気にとられた後、大きく溜息を吐いた。
「そうだな、君は、そういう人だった」
「あら、わたしのそんなところが好きなのでしょう?」
からかうように笑ってみせたアリシアに、しかしクリフォードは笑みを返さなかった。
「賢い君のことだ。わかるだろう。王子が子をなせないということが、どういうことか」
アリシアの顔から、すっと笑みが消えた。
「私が王位を継ぐことは、既に決定している。しかし、王家が、種無しの王の存在など認めるものか。いつまでも子ができなければ、責められるのは王妃の方だ。側室も、無理やり娶らされることだろう」
辛そうに顔を歪めるクリフォードを、アリシアはじっと見ていた。
「直系の子が生まれなければ、次の王位継承は確実にもめる。何より、私は女性にとって最大の幸福を与えてやれない。そんな男に、好いた女性と結婚する資格などない」
「ミランダ様は?」
「彼女も、子どもができないんだ。どうせどこに嫁いでも責められるなら、同じ境遇の私の力になりたいと、芝居に付き合ってくれた」
なるほど、とアリシアは納得した。ミランダの方も、人の男を奪い取るような嫌な感じを受けなかった。だからこそ、本当にクリフォードが心変わりしてしまったのではと、一度は本気で心配になったものだが。彼女は、協力者だったのだ。
「つまりクリフォードは、わたしが嫌いになったわけじゃないのね」
「……嫌いになど、なるものか。君のことは、ずっと好きだったんだ。十年かけて、やっと手に入ると思っていたのに。今更、こんな」
悔いるように目を閉じたクリフォードは、アリシアの時間を無駄にしたと思っているのだろう。無理もない。
彼の不妊の原因は、昨年罹った病にある。その後の検査で判明したのだ。だからこんなタイミングになった。
「申し訳ないとは思っている。しかし、君の身分なら、今からでも良家との縁談が望めるだろう。婚約破棄の件は話題になっているはずだ。王子のわがままで放り出された、憐れな令嬢だと」
つまり、あの大げさな婚約破棄もパフォーマンスだったのだ。アリシアが皆の同情を引き、心変わりしたクリフォードの方が悪いと印象付けるための。
「……馬鹿な人ね」
アリシアは、そっとクリフォードの頬に手を添えた。
「アリシア……?」
ゆっくりとその顔が近づき、動揺するクリフォード。
その額に、直前で勢いをつけて、アリシアは頭突きをした。
「いっ!?」
額を押さえて蹲るクリフォードを見下ろして、アリシアは仁王立ちした。
「ほんっとうに馬鹿ね! なぜそういうことを勝手にひとりで決めてしまうの!?」
「そ、それは、君に話したら私を見捨てられないだろう。君は心根は優しいから」
「ええそうね! 見捨てたりなんてするものですか。でもそれは、わたしが優しいからではなく、あなたを愛しているからよ!」
クリフォードの顔が、赤く染まった。
「十年好きだったのはこっちの方よ! 今更そんな理由ごときで手放してなんかやるものですか! 子どもがいなくても、わたしはあなたといられればそれだけで十分よ。周りなんてわたしが黙らせてみせるわ。それでもどうしても子どもが欲しくなったら、養子でもなんでも迎えればいいじゃない! なんなら孤児院丸ごと引き受ければいいわ。良かったわね、教会からも感謝されるわ!」
ぜえはあと肩で息をして、アリシアはクリフォードを睨んだ。
「どう? まだ何か言い足りない? わたしは一晩中だって付き合ってあげるわよ。絶対に逃がさないんだから」
執念にも似たそれに冷や汗をかきながらも、アリシアの形相にクリフォードは一度吹き出すと、そのまま声を上げて笑った。
「っはは、そうだ、そうだったな。君は、そういう人だった」
笑い転げるクリフォードに、アリシアは拗ねたように頬を赤らめてそっぽを向いた。
ひとしきり笑うと、クリフォードは憑き物が取れたような顔で穏やかに微笑んで、両手を顔の横に上げた。
「君を見くびっていた、許して欲しい。降参だ」
その答えに、アリシアは満面の笑みを浮かべた。
「ざまあみなさい!」
そしてクリフォードの膝に飛び乗って、彼の唇を奪うのだった。