玄都織家が滞在するのは、向日葵が壮大な香林殿と呼ばれる殿舎だった。元気な向日葵が、太陽へ向かってすっと背を伸ばしている。美しさだけでなく、たくましさを備えた花である向日葵は、玄都織家を象徴しているようだ。
玄都織楓夜。現在最年長の現人神である。
「おーおー、よく来たなぁ」
出迎えた玄都織楓夜は、中性的な雰囲気を漂わせる美しいひとだった。
ひとつに束ねられた黒橡色の髪はつややかで、まるで川の流れのように緩くウェーブがかっている。
歳は三十代半ばくらいだろうか。漆黒の衣に身を包んでいる。珍しい形の衣装だ。以前、睡蓮はよく似た衣装を町で見かけた。ドレスという衣装なのだと楪に教えてもらった。
黒の中にも、きらきらと光の加減によって煌めく布や宝石がちりばめられていて、品がありながらも美しい。
「やあ、いらっしゃい」
一方、楓夜のとなりで柔和な笑みをたたえているのは、楓夜の花婿、玄都織十明である。
こちらもまた、上品な物腰の男性だ。歳はおそらく楓夜とそう変わらなそうだが、その物腰のせいか年齢よりも落ち着いて見える。
「ご無沙汰しております、楓夜さま、十明さま」
楪が頭を下げる。睡蓮も続いて頭を下げた。
「うむ。まあ、中に入れ」
睡蓮は、十明が出してくれた紅茶を静かに飲みながら、楪と楓夜の会話を聞いていた。
「いやぁ、それにしても子供の成長とはあっという間だ。前に会ったときはこんな小さかったのになぁ。しかも、こんなきれいな花嫁をもらうとは。うむ! 母は嬉しいぞ」
「ありがとうございます……」
びっくりするほど幼かったり、美しい顔をして豪快に笑ったり……現人神は、案外見かけによらない、と、睡蓮は思った。薫はどうなのだろう。
酔っ払いのように楪に絡む楓夜を、睡蓮は紅茶を飲みつつ眺める。
楓夜はひとしきり楪にじゃれたあと、つと睡蓮を見た。目が合い、睡蓮は思わず姿勢を正した。楓夜は立ち上がり、テーブルの周りをぐるりと回って睡蓮の目の前までやってくる。
「さて」
片膝をつき、楓夜は睡蓮の顔をまじまじと見つめる。品定めするかのような眼差しに、睡蓮はごくりと息を呑んだ。
「あ……あの……?」
「うん! 可愛いな!」
楓夜は突然大きな声で言うと、睡蓮を軽々と抱き上げた。
突然浮遊した身体に、睡蓮はわっと声を漏らす。思わず楓夜の首に手を回すと、至近距離で目が合った。
楓夜が微笑む。
「くっ……玄都織さま!」
「楓夜でよいよい」
「楓……楓夜さま。私その、重いので……」
というか、美しいが過ぎる。麗しきその眼差しに、睡蓮は目眩がした。
「……そなた、なんともないのか?」
楓夜がまじまじと睡蓮を見る。
「え……?」
……なんだろう。
美しいひとに見つめられると落ち着かない。
「……いや」
楓夜はなにかを言いかけて、やめた。
「うん、可愛い花嫁だ! 母は気に入ったぞ、楪!」
やはりその美顔に似合わないからっとした声で、楓夜が言った。語尾が弾んでいる。相当嬉しいらしい。
「あ……あの、楓夜さま。そろそろ下ろしていただけると……私、本当に重いですから」
「どこが? ぜんぜん重くないぞ。むしろ軽過ぎて仔猫を抱いているようだよ」
「いっ……いやいや……」
さすがにそれはないだろう。
「楓夜さま、睡蓮は……」
さすがの楪も止めに入ろうとするが、楓夜は知らんぷりをして、睡蓮を抱いたままくるくると回っている。目が回る。
「よしよし。可愛らしいそなたには菓子をやろう。さて、どこにあったかな。私の部屋だったかな?」
楓夜はマイペースに座敷を出ていく。
「えっ!?」
――まさか、このまま!?
「楓夜さま、申し訳ありませんが……」
さすがに部屋を出ようとする楓夜を見て楪が腰を上げたが、
「すまないねぇ。うちのは可愛い子に目がなくって。少しの間だけ付き合ってやってくれ、睡蓮さん。――さて、楪くん。楪くんは僕と庭を散歩でもしようか」
十明ののんびりとした声に遮られてしまった。
楪は、睡蓮が消えた廊下に心配そうな眼差しを向けつつ、十明とともに外へ出た。
楓夜は外廊を進み、最奥の部屋に入ると、ようやく睡蓮を下ろした。
「さて、連れ出して悪かったな、睡蓮」
「いえ……」
睡蓮は着物を整え、その場に座り直した。その正面に楓夜も座ると、にこっとして言った。
「睡蓮。そなたは素晴らしい妖気を持っているな」
「えっ? 妖気……ですか?」
困惑する睡蓮に、楓夜はふっと微笑む。
「あぁ。神渡りの式ではな、実は私たち現人神には、花嫁や花婿の力を試す役割があるんだよ。資格のない者を伴侶にするわけにはかないからな」
そうだったのか。
まさか、ほかの現人神たちに試されているだなんて知らなかった。楪は知っていたのだろうか。
考えていると、楓夜が言った。
「さて、睡蓮。そなたは、楪をどう思っているのかな?」
「え……?」
パッと顔を上げる。
「楪さんですか?」
突然の問いに、睡蓮は困惑する。
「そなたらは契約結婚なのだろう?」
「えっ……」
睡蓮は楓夜をじっと見つめた。すると睡蓮の警戒心を悟ったのか、楓夜がふっと息を吐くように笑った。
「楪はひとを愛さない。付き合いが長い私には分かる。楪がいずれ現人神になる日が来たら、こうなるだろうと思っていたからな」
「えっと……それは」
たしかに、以前はそういう考えだった。だが、今は違うはずだ。だって楪は、睡蓮を愛していると言ったのだから。
しかし、睡蓮が否定する前に、楓夜は続ける。
「あやつは昔からひとを信用しないくせに、信用させるのだけは上手いからな」
「え……」
楓夜は、睡蓮を同情するような眼差しで見つめた。
「それ、は……」
たしかに始まりはそうだったけれど……。
――違う、はず……だよね。
睡蓮の中の不安が大きくなっていく。
ふと、疑問が浮かんだ。
そういえば、睡蓮はいつから、楪に愛されていると感じていたのだろう。
妖狐から救われたとき?
ふと、じぶんの魂の形を思い出す。
「幻の花……」
楪は本当に、睡蓮を愛しているだろうか?
ただ、花嫁を手放したいだけじゃなくて?
不安ばかりが広がっていく。
「現人神にとって、花嫁や花婿というのは、どんな存在ですか?」
楓夜は少し黙ってから、静かに言った。
「……特別だ。特別だからこそ、一線を置く。楪はそういう男だろう。あやつは根が真面目だから、とにかく土地を守ることしか考えていなかった。そのために女を利用することは多々あったが、決して特別な存在というのは作らなかった。特別な存在を作れば、守らねばならなくなる。守るというのは、そう容易いことではない」
楪は東の土地を守る現人神である。今さら思い出した。楪は物腰柔らかだが、ああ見えて合理主義者だ。楪はどんなときも現人神としての利益をまずいちばんに考えている。
そんなひとが、睡蓮を好き?
そんなことがあるだろうか。
「楪はおそらく、土地を守るためならそなたのことも切り捨てるだろう。そなたにその覚悟はあるか?」
ごく、と喉が鳴る。
――利用……。
楪は、睡蓮を利用している。
そもそも、楪が睡蓮に契約を持ちかけたのは、睡蓮が幻の花を持つ花嫁だからだ。
楪が睡蓮を妖狐から守ろうとしたのも、睡蓮を守るためではなく、花嫁を守るため。花嫁は珍しいから。楪にとって利益になるから。
楪が愛してると言ったのも、贈り物をくれるのも、口づけはふりでいいと言ったのも――愛しているからではなく、すべては睡蓮を逃がさないためであったとしたら……。
すべての辻褄があってしまった。
こんなじぶんが愛されるわけないのに。いつの間にか、ずいぶん傲慢になっていたらしい。
睡蓮の心に暗い翳が落ちた。
「でも、私は……楪さんのことが好きです……」
これだけは、変えられない事実である。
今にも消え入りそうな声でぽつりと漏らす睡蓮を、楓夜がそっと抱き締める。
「それはもちろんかまわない。だが、たとえ愛されなくてもどうか楪を責めないでやってくれ。現人神の花嫁になるということは、そういうことだ」
睡蓮は顔を上げた。その顔には、あの頃得意にしていた長女の笑顔が浮かんでいる。
「……分かっています」
楪を責めるつもりなんてない。
ただひとつ、欲を言っていいのなら。
――今度こそ、愛されたかった……。
玄都織楓夜。現在最年長の現人神である。
「おーおー、よく来たなぁ」
出迎えた玄都織楓夜は、中性的な雰囲気を漂わせる美しいひとだった。
ひとつに束ねられた黒橡色の髪はつややかで、まるで川の流れのように緩くウェーブがかっている。
歳は三十代半ばくらいだろうか。漆黒の衣に身を包んでいる。珍しい形の衣装だ。以前、睡蓮はよく似た衣装を町で見かけた。ドレスという衣装なのだと楪に教えてもらった。
黒の中にも、きらきらと光の加減によって煌めく布や宝石がちりばめられていて、品がありながらも美しい。
「やあ、いらっしゃい」
一方、楓夜のとなりで柔和な笑みをたたえているのは、楓夜の花婿、玄都織十明である。
こちらもまた、上品な物腰の男性だ。歳はおそらく楓夜とそう変わらなそうだが、その物腰のせいか年齢よりも落ち着いて見える。
「ご無沙汰しております、楓夜さま、十明さま」
楪が頭を下げる。睡蓮も続いて頭を下げた。
「うむ。まあ、中に入れ」
睡蓮は、十明が出してくれた紅茶を静かに飲みながら、楪と楓夜の会話を聞いていた。
「いやぁ、それにしても子供の成長とはあっという間だ。前に会ったときはこんな小さかったのになぁ。しかも、こんなきれいな花嫁をもらうとは。うむ! 母は嬉しいぞ」
「ありがとうございます……」
びっくりするほど幼かったり、美しい顔をして豪快に笑ったり……現人神は、案外見かけによらない、と、睡蓮は思った。薫はどうなのだろう。
酔っ払いのように楪に絡む楓夜を、睡蓮は紅茶を飲みつつ眺める。
楓夜はひとしきり楪にじゃれたあと、つと睡蓮を見た。目が合い、睡蓮は思わず姿勢を正した。楓夜は立ち上がり、テーブルの周りをぐるりと回って睡蓮の目の前までやってくる。
「さて」
片膝をつき、楓夜は睡蓮の顔をまじまじと見つめる。品定めするかのような眼差しに、睡蓮はごくりと息を呑んだ。
「あ……あの……?」
「うん! 可愛いな!」
楓夜は突然大きな声で言うと、睡蓮を軽々と抱き上げた。
突然浮遊した身体に、睡蓮はわっと声を漏らす。思わず楓夜の首に手を回すと、至近距離で目が合った。
楓夜が微笑む。
「くっ……玄都織さま!」
「楓夜でよいよい」
「楓……楓夜さま。私その、重いので……」
というか、美しいが過ぎる。麗しきその眼差しに、睡蓮は目眩がした。
「……そなた、なんともないのか?」
楓夜がまじまじと睡蓮を見る。
「え……?」
……なんだろう。
美しいひとに見つめられると落ち着かない。
「……いや」
楓夜はなにかを言いかけて、やめた。
「うん、可愛い花嫁だ! 母は気に入ったぞ、楪!」
やはりその美顔に似合わないからっとした声で、楓夜が言った。語尾が弾んでいる。相当嬉しいらしい。
「あ……あの、楓夜さま。そろそろ下ろしていただけると……私、本当に重いですから」
「どこが? ぜんぜん重くないぞ。むしろ軽過ぎて仔猫を抱いているようだよ」
「いっ……いやいや……」
さすがにそれはないだろう。
「楓夜さま、睡蓮は……」
さすがの楪も止めに入ろうとするが、楓夜は知らんぷりをして、睡蓮を抱いたままくるくると回っている。目が回る。
「よしよし。可愛らしいそなたには菓子をやろう。さて、どこにあったかな。私の部屋だったかな?」
楓夜はマイペースに座敷を出ていく。
「えっ!?」
――まさか、このまま!?
「楓夜さま、申し訳ありませんが……」
さすがに部屋を出ようとする楓夜を見て楪が腰を上げたが、
「すまないねぇ。うちのは可愛い子に目がなくって。少しの間だけ付き合ってやってくれ、睡蓮さん。――さて、楪くん。楪くんは僕と庭を散歩でもしようか」
十明ののんびりとした声に遮られてしまった。
楪は、睡蓮が消えた廊下に心配そうな眼差しを向けつつ、十明とともに外へ出た。
楓夜は外廊を進み、最奥の部屋に入ると、ようやく睡蓮を下ろした。
「さて、連れ出して悪かったな、睡蓮」
「いえ……」
睡蓮は着物を整え、その場に座り直した。その正面に楓夜も座ると、にこっとして言った。
「睡蓮。そなたは素晴らしい妖気を持っているな」
「えっ? 妖気……ですか?」
困惑する睡蓮に、楓夜はふっと微笑む。
「あぁ。神渡りの式ではな、実は私たち現人神には、花嫁や花婿の力を試す役割があるんだよ。資格のない者を伴侶にするわけにはかないからな」
そうだったのか。
まさか、ほかの現人神たちに試されているだなんて知らなかった。楪は知っていたのだろうか。
考えていると、楓夜が言った。
「さて、睡蓮。そなたは、楪をどう思っているのかな?」
「え……?」
パッと顔を上げる。
「楪さんですか?」
突然の問いに、睡蓮は困惑する。
「そなたらは契約結婚なのだろう?」
「えっ……」
睡蓮は楓夜をじっと見つめた。すると睡蓮の警戒心を悟ったのか、楓夜がふっと息を吐くように笑った。
「楪はひとを愛さない。付き合いが長い私には分かる。楪がいずれ現人神になる日が来たら、こうなるだろうと思っていたからな」
「えっと……それは」
たしかに、以前はそういう考えだった。だが、今は違うはずだ。だって楪は、睡蓮を愛していると言ったのだから。
しかし、睡蓮が否定する前に、楓夜は続ける。
「あやつは昔からひとを信用しないくせに、信用させるのだけは上手いからな」
「え……」
楓夜は、睡蓮を同情するような眼差しで見つめた。
「それ、は……」
たしかに始まりはそうだったけれど……。
――違う、はず……だよね。
睡蓮の中の不安が大きくなっていく。
ふと、疑問が浮かんだ。
そういえば、睡蓮はいつから、楪に愛されていると感じていたのだろう。
妖狐から救われたとき?
ふと、じぶんの魂の形を思い出す。
「幻の花……」
楪は本当に、睡蓮を愛しているだろうか?
ただ、花嫁を手放したいだけじゃなくて?
不安ばかりが広がっていく。
「現人神にとって、花嫁や花婿というのは、どんな存在ですか?」
楓夜は少し黙ってから、静かに言った。
「……特別だ。特別だからこそ、一線を置く。楪はそういう男だろう。あやつは根が真面目だから、とにかく土地を守ることしか考えていなかった。そのために女を利用することは多々あったが、決して特別な存在というのは作らなかった。特別な存在を作れば、守らねばならなくなる。守るというのは、そう容易いことではない」
楪は東の土地を守る現人神である。今さら思い出した。楪は物腰柔らかだが、ああ見えて合理主義者だ。楪はどんなときも現人神としての利益をまずいちばんに考えている。
そんなひとが、睡蓮を好き?
そんなことがあるだろうか。
「楪はおそらく、土地を守るためならそなたのことも切り捨てるだろう。そなたにその覚悟はあるか?」
ごく、と喉が鳴る。
――利用……。
楪は、睡蓮を利用している。
そもそも、楪が睡蓮に契約を持ちかけたのは、睡蓮が幻の花を持つ花嫁だからだ。
楪が睡蓮を妖狐から守ろうとしたのも、睡蓮を守るためではなく、花嫁を守るため。花嫁は珍しいから。楪にとって利益になるから。
楪が愛してると言ったのも、贈り物をくれるのも、口づけはふりでいいと言ったのも――愛しているからではなく、すべては睡蓮を逃がさないためであったとしたら……。
すべての辻褄があってしまった。
こんなじぶんが愛されるわけないのに。いつの間にか、ずいぶん傲慢になっていたらしい。
睡蓮の心に暗い翳が落ちた。
「でも、私は……楪さんのことが好きです……」
これだけは、変えられない事実である。
今にも消え入りそうな声でぽつりと漏らす睡蓮を、楓夜がそっと抱き締める。
「それはもちろんかまわない。だが、たとえ愛されなくてもどうか楪を責めないでやってくれ。現人神の花嫁になるということは、そういうことだ」
睡蓮は顔を上げた。その顔には、あの頃得意にしていた長女の笑顔が浮かんでいる。
「……分かっています」
楪を責めるつもりなんてない。
ただひとつ、欲を言っていいのなら。
――今度こそ、愛されたかった……。