「わーっ、わわーっ!!」
「千世子。やめなさい」
浴室に響く自分の声に、千世子は満足げにケタケタ笑う。
「ほら、目つぶって。泡が目に入るよ」
泡立つ藍色の髪をもしゃもしゃ洗って、お湯をかける。千世子は我が家の風呂を大層気に入った様子で、隙あらば髪を洗えと俺にせがんだ。
相変わらず彼女は迷いなく裸になるが、無論俺は着衣したまま。腕をまくり裾をまくり、湯気の立つ風呂場で額に汗を滲ませながら、懸命にクソ長い髪と格闘する。
「千世子、髪切らない?」
「切るの?」
「嫌ならこのままでも良いんだけど。どうにも長くて毎回大変なんだ、洗うの」
「ひみかんじが切る?」
「いや。俺は上手くないから。ちゃんとしたお店で、別の人に切ってもらおうよ」
「やだ」
「そう」
「ひみかんじが切る、ならよい」
千世子がやってきてから約三週間。俺は自分が知る限りの娯楽を千世子に提供したが、千世子にはどれもハマらなかった。
服に興味はないし、映画は暗い場所が苦手な様で途中で断念。テレビゲームはコツが掴めずに飽きて放り出し、スポーツや読書も難しかった。
「明日はどこへ行こうか。行きたい場所、ある?」
水気を切った髪にトリートメントを馴染ませながら俺が訊けば、千世子は黙る。どうかしたのか、と背後から顔を覗こうとするも、理性がそれを止めた。
人生で初めて買ったトリートメント。一度の入浴で何プッシュも必要とする千世子の髪に、俺は妥当な量かもわからないまま毎度ベタベタに塗りたくる。浸透させるように揉み込むのが良いとのインターネットの情報を鵜呑みにし、髪を挟んだ両手を丁寧に擦り合わせた。
トリートメント以外にも、女性に必要な生活用品は実に多い。弱酸性のボディーソープに化粧水や保湿クリーム、なにより普段着や下着を選ぶことには随分、苦労した。
なぜなら千世子にどれが良いのか尋ねても、首を傾げるばかり。事情が事情なだけに、千世子を連れた状況で店員に声をかけることも憚られたからだ。
「どうした千世子。泡が目に入ったか」
「ううん」
「出かけるの、いやか?」
「ううん」
行きたい場所がないのか、それとも行きたい場所など思いつかないのか。
「髪を流すから、目をつぶって」
「……千世子はわるいこだから」
「え?」
洗面器で頭上からお湯をかぶせたと同時、千世子の呟きは床に打ち付けられた水音にかき消される。
「ひみかんじは、いい人? わるい人?」
千世子はいきなり立ち上がると、俺に振り返ってそう言った。
その行動に驚いた俺は、首を後ろに引っ込めて距離を取る。顔を逸らした視界の隅には、なよやかな曲線が紛れもなく濡れていた。
「お、おい」
「ひみかんじは、いい人?」
「いいから。あっち向いて座って。身体は自分で洗えるな?」
「それとも、わるい人?」
「それは」
俺はできるだけ優しく肩を掴むと、千世子の身体の向きを変えて再び座らせる。
そうして。湯気で曇ったガラスにぼんやりと映る千世子に向かって、言った。
「それは、千世子が決めてくれていい。俺が悪いと思えば出て行っていいし、ここに居たいのなら好きなだけ居てもらって構わない。自分の気持ちに素直に、思うままを言ってくれたら、俺はそれを出来る限りで叶えるよ」
「なぜ?」
——何故。
そう訊かれて、言葉に詰まった。
「千世子。やめなさい」
浴室に響く自分の声に、千世子は満足げにケタケタ笑う。
「ほら、目つぶって。泡が目に入るよ」
泡立つ藍色の髪をもしゃもしゃ洗って、お湯をかける。千世子は我が家の風呂を大層気に入った様子で、隙あらば髪を洗えと俺にせがんだ。
相変わらず彼女は迷いなく裸になるが、無論俺は着衣したまま。腕をまくり裾をまくり、湯気の立つ風呂場で額に汗を滲ませながら、懸命にクソ長い髪と格闘する。
「千世子、髪切らない?」
「切るの?」
「嫌ならこのままでも良いんだけど。どうにも長くて毎回大変なんだ、洗うの」
「ひみかんじが切る?」
「いや。俺は上手くないから。ちゃんとしたお店で、別の人に切ってもらおうよ」
「やだ」
「そう」
「ひみかんじが切る、ならよい」
千世子がやってきてから約三週間。俺は自分が知る限りの娯楽を千世子に提供したが、千世子にはどれもハマらなかった。
服に興味はないし、映画は暗い場所が苦手な様で途中で断念。テレビゲームはコツが掴めずに飽きて放り出し、スポーツや読書も難しかった。
「明日はどこへ行こうか。行きたい場所、ある?」
水気を切った髪にトリートメントを馴染ませながら俺が訊けば、千世子は黙る。どうかしたのか、と背後から顔を覗こうとするも、理性がそれを止めた。
人生で初めて買ったトリートメント。一度の入浴で何プッシュも必要とする千世子の髪に、俺は妥当な量かもわからないまま毎度ベタベタに塗りたくる。浸透させるように揉み込むのが良いとのインターネットの情報を鵜呑みにし、髪を挟んだ両手を丁寧に擦り合わせた。
トリートメント以外にも、女性に必要な生活用品は実に多い。弱酸性のボディーソープに化粧水や保湿クリーム、なにより普段着や下着を選ぶことには随分、苦労した。
なぜなら千世子にどれが良いのか尋ねても、首を傾げるばかり。事情が事情なだけに、千世子を連れた状況で店員に声をかけることも憚られたからだ。
「どうした千世子。泡が目に入ったか」
「ううん」
「出かけるの、いやか?」
「ううん」
行きたい場所がないのか、それとも行きたい場所など思いつかないのか。
「髪を流すから、目をつぶって」
「……千世子はわるいこだから」
「え?」
洗面器で頭上からお湯をかぶせたと同時、千世子の呟きは床に打ち付けられた水音にかき消される。
「ひみかんじは、いい人? わるい人?」
千世子はいきなり立ち上がると、俺に振り返ってそう言った。
その行動に驚いた俺は、首を後ろに引っ込めて距離を取る。顔を逸らした視界の隅には、なよやかな曲線が紛れもなく濡れていた。
「お、おい」
「ひみかんじは、いい人?」
「いいから。あっち向いて座って。身体は自分で洗えるな?」
「それとも、わるい人?」
「それは」
俺はできるだけ優しく肩を掴むと、千世子の身体の向きを変えて再び座らせる。
そうして。湯気で曇ったガラスにぼんやりと映る千世子に向かって、言った。
「それは、千世子が決めてくれていい。俺が悪いと思えば出て行っていいし、ここに居たいのなら好きなだけ居てもらって構わない。自分の気持ちに素直に、思うままを言ってくれたら、俺はそれを出来る限りで叶えるよ」
「なぜ?」
——何故。
そう訊かれて、言葉に詰まった。