日が暮れて月が出始めた頃に信様は帰ってきた。
私は急いで玄関の方に向かう。私が来たことに気付いた信様はニコッと私に微笑んでくれた。

「お帰りなさいませ。信様」
「ただいま、陽子。ごめん。遅くなってしまって」

少し疲れた様子の信様は嬉しそうに私を抱きしめた。また顔が熱くなり真っ赤になっていると感じる。

(はぁ〜癒される…)
「あ、あの、先にお風呂にしますか?お食事にしますか?」
「先にご飯にしようかな。お腹すいちゃったし」
「はい。もう用意はできてますから」

信様は名残惜しそうに私から離れ「ありがとう」と呟いた。
少しでも元気をつけてもらいたいからと作った厚焼き卵が彼の口に会うか不安になる。
でも、和正の様に嫌なことは言わない気がした。
茶の間には既に夕食が準備してある。妖の子達は嬉しそうに「陽子様と一緒に作ったんですよ♪」と信様に話しかけていた。
つららちゃんが私が作った厚焼き卵のことを信様に教えてくれた。

「陽子が作ってくれたのか?」
「そうですよぉ!お忙しいご主人様の為に丹精込めて作ったんですから!!」
(嬉しすぎる…)

目を輝かせながら厚焼き卵を見る信様。食べるのが勿体無いと訴えていたが紅葉くんが「ご主人様の好みの味付けにしてくれましたから、早くお食べになってご感想を」と諭す。
信様は私を抱きしめてくれた時の様に名残惜しそうに箸をとりそっと厚焼き卵を掴む。

「それじゃいただきます」
「はい…」

緊張する。ドキドキと心臓の鼓動がいつも以上に聞こえてくる。ゆっくりと噛み締めるように食べる姿を見て私は更に緊張してしまう。
つららちゃん達も緊張した表情で信様を見ていたけど、紅葉くんはあの人なら大丈夫だという冷静な表情だった。
私は恐る恐る味の感想を信様に聞こうとした時だった。信様はとても感激した顔でもう一つの厚焼き卵を頬張った。

「美味しい!すごく美味しいよ!」
「あ…ありがとうございます…!!」

私は彼の美味しそうに食べる姿を見て泣きそうになってしまう。つららちゃん達も「やったー!!」ととても喜んでくれた。

「もし、陽子様が一生懸命作ったものを不味いって言って投げつけたら僕が殴ってたところでした」
「紅葉…」

作ってくれたものを喜んで笑ってくれる姿なんて初めて見た。いつも不味いと言われて殴られるか、作っていない人の物として出されて存在を消されるかだった。
料理をして虚しいとしか思わなかった気持ちがここに来て全てが変わった。
彼が私を助けてくれたから変われたのだ。
全てを奪われて何も無い私に幸せな時間を与えてくれた信様に感謝しても仕切れない。
今日みたいに何を作ったり、彼の無事を願うことしかできない。でも、私が作ったものを食べて嬉しそうに笑う彼を見てから、何もなくても傍にいさせてほしいという願いが強まった。





食事を終え、紅葉くんやつららちゃん達と談笑を楽しんでいた信様が私を見て少し申し訳なさそうな表情を浮かべたのだ。

(信様?)

あまり見たことのない表情に不安になった私に信様は話しかけてきた。

「本当にありがとう。この卵焼きとても美味しかった。すごく感謝してる」
「ありがとうございます…安心しました」

心の底から感謝しているのが伝わる。嘘ではない。
でも、まだ、表情が曇っている。どうしてなのか書こうとした時だった。

「陽子。大事な話がある。ちょっと来てくれる?」
「え?はい」

居間から出て、自室で二人きりなった。変に静かで不安が募る。
大事な話とはなんだろう。胸騒ぎがしてならない。
さっきまでの明るく暖かな雰囲気はどこかへ行ってしまった。
嫌な予感がする。あの和正から離縁を言い渡された時と同じ。
何かに恐る私を見て信様はゆっくりと重い口を開いた。

「実は今日、龍神の巫女から便りが届いた」
「…っ!!」
「俺と顔を合わせる場を設けたいと。君の妹の要求らしい」
「れい…な…の…」

私から全てを奪い殺そうとした妹の名前。
記憶の中に残る玲奈の笑顔と笑い声。その笑顔は私を見下す時にしか見せない。
何処かで聞いた信様の噂を聞いて会いたいという様になったと信様は言っていた。
すると、此処にはいない筈のあの子の声が私の耳にそっと囁いてくる。


「ダメよ、お姉様。貴女は幸せになっちゃいけない女なのよ。お姉様の幸せは私のモノ。お姉様の大事なモノも全部私のもの。苦しみながら死んでちょうだいな」


玲奈の魔の手が少しずつ私に伸びてゆくそんな気がしてならなかった。
信様の存在を彼女はまだ知らない。村の伝説の中の龍神しか知らない筈だ。
だが、今の玲奈は龍神の巫女。信様に会いたがっても何らおかしくない。彼女の我儘を叶えるならなんでもするお継母様とお父様ならどんな手を尽くしてでも信様に会わせようとするだろう。
和正の様になってしまうのではないか。またあの冷たい目を私に向けられるのではないか。
彼女に会ってほしくない。もう和正の時な様にはなりたくなかった。

お願い。行かないで、傍に居て。

喉から出かかっているその言葉が引っかかったまま出てこない。これ以上信様を困らせたくないという気持ちがそうさせてしまっている。

「……」
「あくまで巫女と接触するのは儀式としてだ。用が済んだらすぐに戻る」
「そう、ですか」
「大丈夫。俺は惑わされたりしないよ。必ず陽子の元に帰ってくるから」

怯える私に信様は優しく諭してくれる。必ず私の元に戻ると言ってくれた。

「どうして…承諾したのですか?」
「……実は確かめたい事が一つある。今は詳しく言えないけど、とても大事なことなんだ。俺にとっても、陽子にとっても」
「私も?それってどうゆう…」
「帰って来たら全て話す。だから俺を信じてくれ、陽子」

力強い言葉と真剣な眼差し。そこに偽りも迷いは全くない。
今は彼を信じるしかないと私は首を縦に振った。
奪われてしまうという恐怖は拭いきれていない。彼女の元に行く目的も知りたい。
私にできることはこの屋敷と妖の子達を守る事。そして、彼の無事を祈る事だ。

「信様」
「ん?」

私は彼の胸に飛び込んだ。少し驚いた顔をしたが、すぐに愛おしそうな表情を私に向けてくれた。大事なモノを触れる様にそっと私を抱き締めた。

「必ず戻ってきてください。もう何も失いたくない。貴方も、この幸せな時間も…!!」
「約束する。必ず陽子の元に戻ってくる。それにまだ簪の約束も果たしてないしね」

また妹の声が私に囁く。

「そんな約束無駄無駄♪あの簪はもう私のモノなのよ?お姉様のその幸せも、異能(ちから)も、何もかも私のモノになるのよ。強がっても無駄。抗ってもぜーんぶ無駄。早く諦めて?お姉様?」

私に纏わりつく脅威は恐怖を煽る。失う怖さが私を震えさせる。

この人だけは奪わないで。お願いだから。

すると、信様が私の頰にそっと手を添えた。暖かいその手に私は触れる。
お互い目を瞑りゆっくりを顔を近づけ唇を重ね合わせた。
これは誓いだ。誰にも心を奪われないと、心はあなただけのものだという誓い。
彼との初めて口付けを交わした忘れられない夜となった。
そっと唇を離し、見つめ合い再び抱きしめ合った。
愛する人にこんなに大事にされたことなんてなかった。和正と結婚していた時も必ず邪魔されていた。
私のしあわせを望まない玲奈が見たらなんて言うだろうか?

「そんなの無駄だって言ってるでしょ?龍神様もすぐ私に見惚れるに決まってるわ。こんな粗末な口付け、龍神様の記憶から忘れさせてやるから」

記憶の中の玲奈は私を罵倒する。
信様の心臓の音が怯えている私を安心させる。私は彼に身を任せる様に胸の中でもう一度目を瞑った。