12月某日。年の瀬、忘年会が行われる季節。華やかなクリスマスのイルミネーションから、新年を祝うカウントダウンへと移り変わっていく街の午前0時過ぎ。夜の闇が優しく、地球の半分を抱きしめていた。
最終の電車が過ぎて、繁華街にはアルコールに酔った人たちで溢れていた。タクシー乗り場の長い列に神崎 志麻が寒そうに立っていた。手袋を忘れた両手を自らの呼気で温め、肌と肌をこすり合わせる。鼻の頭と耳の先を紅く染めて、黒いコートに身を包む。隣には、会社の後輩の女の子を連れていた。
後輩は自分のアルコール摂取の限界を超えて飲み、酔い潰れている。そこで、志麻が最後まで面倒を見ると申し出たのだ。
「ほら、ちゃんと歩いて。次のタクシーは私たちの番だから。」
志麻はため息を吐きつつも、後輩の身体を支えるようにして歩き出す。後輩の女の子は「す、みませんー…」と間延びした声で答えた。
タクシーに乗り込み、告げた先は志麻が一人暮らしするアパートの名前だった。やがてタクシーは二人を乗せて、ゆっくりと走り出す。
まるでネオンのパールだと思う。車のライトが道路に繋がって、列を成していた。志麻の肩には後輩の頭が預けられ、少し、いや、かなり酒臭かった。車の振動とヒーターがゆりかごの役割を果たし、後輩は寝入ったようだった。志麻はただ、流れゆく景色を眺めていた。

タクシーの扉が閉まる音が、控えめに住宅街に響く。
「ねえ。今日は私の家に泊まっていきなさい。いいよね?」
「…、」
後輩の肩を抱いて軽く揺さぶる。相手がわずかに頷いたのを確認して、志麻は気合いを入れて自身も巻き込まれて転ばないように後輩を支え直した。カツン、カツンと二人分のヒールの靴音がアパートの階段に響く。中間地点の踊り場でふと立ち止まり、漆黒の空を見上げた。自分が唯一見つけられる星座、オリオン座を見て季節の流れを知る。
「…よいしょ。」
再び志麻は後輩と供に階段を上がり、自分の部屋に辿り着いた。キーホルダーの付いた鍵を取り出して、扉の錠を落とす。ガチャリと音を立て扉を開き、室内へと後輩と二人入った。
リビングのこたつの脇に後輩を座らせて、志麻は水分を取るように促す。このままだと明日は、ひどい二日酔いだ。
「お水飲みなさい。じゃないと、後がつらいから。」
「はぁい…うん…、」
後輩はひくりと喉を引きつらせて、わずかに身体をくの字に曲げる。
「…吐きそう?」
「…。」
志麻の問いに、後輩は青ざめた顔でかすかに頷いた。

「っぅ…、く…っ。」
トイレに連れて行き、便座の前に座らせて背中をさすってやる。腹から胸にかけて波打つように、筋肉が強張っていく。何度か唾液を吐き、後輩はようやく胃酸と供に胃の中の物を吐瀉した。こほこほと酸に焼けた喉を痛がって咳き込み、涙目になりながらもまだ吐き気は収まらないようだった。
「…。」
志麻は目を細めて、その様子を見守っている。彼女には目的があった。
ー…なんて、可哀想で可愛い光景だろう。
人が胃の中の物を吐瀉する姿が、志麻は好きだった。

やがてすべてを吐き切ったのか、後輩は幾分かすっきりとした表情を見せて顔を上げた。その顎には、一筋の胃液が滴っている。
「すみません、先輩…。お見苦しいところを見せちゃって。」
「ううん、大丈夫。ベッド、貸してあげるからもう寝ちゃいな。」
ありがとうございます、と言う後輩の弱々しい声に、志麻は心の中でこちらこそと付け加える。醜態を見せてくれたお礼に後輩にベッドを譲り、志麻はこたつの隅の客用の布団を敷いて自らが横になった。
眠る後輩の顔を、豆電球の仄暗い灯りが照らす。志麻は子どもを見守るように見つめながら、先ほどの光景を思い出していた。

嘔吐くときの息づかいや、ひやりと下がった肌の体温。何度も波打つ肢体。唇の淵に唾液で張り付いた髪の毛。何よりも吐き出した物の酸味の拭くんだ臭気と、温かい胃の中にあったばかりのその熱が愛おしかった。
体内に取り込まれるため、吸収しやすいようにぐちゃぐちゃに形を無くし、液体状に融合した物体は生の象徴だと思う。その生を無様に吐き出してしまう行為にどうしようもない背徳感と、手足の先が痺れそうなほどの高揚感を感じていた。
たくさんの生命を頂戴して摂取したものを無駄にする行為に、愚かな可愛さを見た。動物は吐瀉物を与えて求愛をする種族もいるというのに、人間はただただ吐き出すだけだ。そしてそれを汚いと言って嫌悪する。
人間は、なんて愛しく可哀想な生き物なのだろう。

「先輩、本当にすみませんでした!」
翌、就業日の朝。会社の女子更衣室で、後輩が志麻に盛大に頭を下げる。
「あの日、本当に私飲み過ぎちゃって…、同期の子から先輩に迷惑をかけたって聞いて。」
自らの失態を思い出したのだろう。後輩は頬を赤くして、すでに泣きそうだ。
「いいよ、いいよ。気にしないで。」
志麻は手を振って、からりと笑う。後輩はその対応に感動したようだった。
「先輩って、面倒見が良いですよね。一緒に飲みに行くとき、すっごく頼りになります。」
「えー?だからって飲み過ぎたら、だめだよ。」
白々しいと思いながら、志麻は嘘を吐く。
「気をつけまーす!」
志麻に、再度礼を言い、後輩は更衣室を出て行った。
「…。」
その開閉する扉に入れ違うように、新たな人物が現れた。それは他部署に務める、ある意味会社で有名な女性社員だった。今まで話したこともないけれど、噂話に疎い志麻でも彼女のことは知っていた。
彼女の名前は、百瀬 澪。
噂の元は澪の外見にあった。特別に美人なら誇らしいだろけど、そうでもない。一重の瞼の細い目。黒目がちなので、眠そうな印象を受ける目元だった。鼻は愛嬌があると言えば聞こえは良いが、丸く小さい。唇は薄かった。
ただ、澪は病的に体のラインが細い。否、病気なのだろうと誰もが一目でわかるほどだった。
「おはようございます。」
志麻の存在に気が付いた澪が小さく囁くように、挨拶の言葉を発する。そして自分のロッカーの前に立ち、会社の制服に着替え始めた。
シャツがするりと落ちる肩は細く、丸い肩関節が浮き出るようだった。キャミソール越しに窺える胸元は薄く、下着が浮いていた。きっと肋骨も浮き出ているのだろうことが、容易に想像できた。
「…あの、何か?」
澪の声に志麻ははっとする。無意識に彼女の着替えを目で追ってしまっていた。
「ごめんなさい、不躾に見つめてしまって。」
慌てて志麻も自分の着替えを終わらせることに専念しようとする。
「いえ…、大丈夫です。慣れてますから。」
意外にも話しやすそうな雰囲気だった。
「とはいえ、気分は悪いです。」
そうでもなかった。
「自分でもわかってます。みっともないですよね、この体。」
澪は、ふう、と生きるの疲れたとでも言うようにため息を吐いた。
「でもね、」
顔を上げて、澪は志麻を見る。
「見世物じゃねーんだよ。」
その瞳には強い敵意に満ちた光が宿っていた。その光に晒されて、志麻の背筋はぞっと粟立つ。この感覚は恍惚にも似ていた。
息を呑む志麻の視線から逃れるように、さっさと着替えを済ませると澪はその場を立ち去ろうとした。その刹那、澪の体が柳の枝のようにゆらりと揺れた。
「百瀬さん!?」
澪は膝から崩れ落ちていた。志麻が慌てて近寄り、彼女を支えるように抱く。意識がもうろうとしているようだった。
その後の展開は急転直下のようだった。救急車を呼ばれて社内が騒然となる中、澪は病院に運ばれていった。付添人には志麻が立候補をした。

処置を終えて、病室のベッドに眠る澪は何だか白く輝くようで、消えてしまいそうだった。
ぽっと点滴の雫が音を立て、ボトルの中で滴っている。内容物は栄養剤だと聞いた。澪は飢餓状態にあったという。
「…。」
志麻は持ち歩いている文庫本を読みながら、澪の目覚めを待つことにした。それは小説家が書く食のエッセイで、パンケーキの描写が美味しそうだった。
「…パンケーキ…、」
小さな、小さな声が響いた。
「食べたい…。」
それは澪の声だった。
「百瀬さん。起きたんだね、良かった。」
ベッドの枕元にあるナースコールを押そうと手を伸ばすと、澪にその手を掴まれて阻まれる。体温の低い手だった。
「また、あなたですか。」
「どうも。お節介な質でして。」
困ったように笑いながら、志麻はパイプ椅子に座り直す。キイ、と軋む音が耳障りだった。
「大丈夫?気分は悪くない?」
「いつだって悪いですよ、こんな重さしかない体を引きずっていて。」
ふーん、と頷いていると澪が初めて笑った。
「興味なさそう。」
「うん、ないね。」
うっかり零れ出た志麻の本音に、澪は口角を上げる。
「ねえ。名前、教えてくれない?」
「神崎 志麻。」
「神崎さん。神崎さん、ね。」
覚え込むように何度も志麻に名字を口にしていた。
「私の名前は知ってるのよね?」
「ええ。有名だから。」
澪の前で猫を被るのを諦めて、志麻は言葉を紡ぐ。
「『拒食症』の百瀬さん。」
「あはは。」
正解、と言って澪は笑い転げる。その仕草だけで、もう体が折れてしまいそうだ。
ひとしきり笑い、澪は気持ちを落ち着けるように、ふう、と小さな息を吐く。そして目を伏せて、自分の腕に繋がれた点滴に気が付くと、その管をぶつりと鈍い音を立てながら肌から引き抜いてしまった。
「いいの?」
「うん。どうせ栄養剤か何かでしょ。」
自分の体のことはよくわかってる、と澪は言う。点滴から自由になると、ベッドから徐に起き出して帰り支度を始めた。
「ちょっとちょっと。どこに行くつもり?」
その行動に驚きながら志麻が問うと、澪の瞳に凶暴な犬のような光が宿る。
「逃げるの。病院にいると息が詰まるわ。あ、ナースコールを押したら、舌を噛むから。」
「めんどくせーな…。」
「あ?」
剣呑な雰囲気に、志麻は大きくため息を吐いた。
「じゃ、私も行こっかな。」
まるで気楽な風を装って志麻は言う。その気持ちの切り替えように、澪は面食らったようだった。
「何、着いてくる気?」
「残ってたら、私だけ怒られるじゃん。」
一緒に怒られてくれる、と会話を紡ぐと、澪は声を詰まらせた。
「…神崎さんって、性格悪い?」
「自分に正直なだけ。」
澪の病院着の上に、志麻は自分のダウンジャケットを着せる。
「こっちの方が、体型ごまかせるでしょ。」
正規に病院を出るわけではないのだから、澪が澪だとバレない方が良いだろう。その意味を汲んだ澪も、甘んじて志麻の施しを受ける。
そして二人はひっそりとした廊下を抜けて、ナースセンターの前を通り過ぎる。
「お世話様です。」
にこやかに頭を下げれば、存外、悪事を働いていることに気が付かれなかった。ナースが他の患者からのコールを受けている間に、澪もそっと志麻の影に隠れて突破する。
守衛さんにも同じ対応で乗り切り、ようやく病院前のロータリーに着く。停まっていたタクシーに乗り、早くこの場から離れたかったのでとりあえず駅に向かって走らせた。
敷地を出ると、緊張に強張っていた澪の体から力が抜けた。「これからどうする?」
「私、実家暮らしなんですけど、面倒なので帰りません。適当に宿を取ります。」
その割には家族が病院に駆けつけることがなかったな、と思いながらも、志麻は頷いた。
「実家ならそうだろうねー。」
「はい。そういうことなので、駅で解散にしましょう。」
タクシーは夜の道を走り、駅前の繁華街に辿り着く。適当な場所で降りて、志麻が先に運賃を支払った。
「あの…、お金は私が払います。」
そう言って財布を出す澪の申し出を、志麻は手を振って断る。
「そういうのいいからさー、ラブホテル行こうぜー。ラブホ!」
「いきなり柄が悪いんですけど!?」
志麻の言葉に思い切り引いた様子で、澪はうわあと後退る。
「だって今の時期の普通のホテルなんて、割高だよ?二人ならラブホに入れるし、料金折半できるじゃん。」
「…解散って言いましたよね。私に関わる理由、神崎さんにないじゃないですか。」
「それがあるのよね。」
「?」
含みのある志麻の言葉の真意に気づけずに、澪は首を傾げる。志麻は微笑むと、戸惑う澪の手を引いて歩き出した。
「さ、行こう。」
「何なんですか、もう…。」
雑踏の中、澪と肩を並べて歩く。冷静になった澪は物静かで、口数が少なかった。
「コンビニ寄ってこ。」
志麻が毎日の通勤路で見慣れたチェーン店のコンビニに澪を誘う。澪は黙って頷いて、後を影のようについてくる。
「ラブホって歯ブラシ置いてあるのかな。百瀬さん、知ってる?」
「知るわけないでしょ。」
澪は雑誌のコーナーをつまらなそうに物色していた。志麻は「そっか、だよねー」と適当に頷き、菓子やパンなどをコンビニのかごに入れて、レジに向かった。
コンビニを出ると、寒く冷たい風の吹く日和に相まって店内との温度差にため息を吐いた。寒気が肌に触れて、痛いほどだった。駅前の繁華街を抜けてラブホテルが連なるエリアに着き、二人は相談しつつ入るホテルを吟味して歩いた。なんだかんだ、澪は志麻と宿泊することを了承してくれたようだった。
古そうだから嫌だ。ここは料金設定が高い。清潔そうなところが良い、など言い合う時間はいたずらを計画しているようで楽しい。いつの間にか澪の雰囲気も和らいでいて、笑みを口元に浮かべることが多くなった。
散々冷やかすようにして悩んだラブホテルの名前は『サンクチュアリ』だった。
サンクチュアリ。ー…何者の外敵からも守られる、そこは聖域。または禁猟区という意味だ。恋人たちが羽を休めるにはぴったりすぎる店名だと思った。
休憩ではなく宿泊を利用することにして、前払いで支払いを済ませて部屋を選ぶ。
「シンプルな部屋がいい。」
澪の要望を汲んで、志麻はビジネスホテル風の部屋をチョイスしてみた。自販機のような機械からカードキーを受け取って、志麻と澪は連れだってエレベーターに乗った。上昇に伴って感じる耳奥の違和感を感じつつ、目的階までの到着を待っていると志麻の隣でふっと笑う気配がした。
「どうしたの?百瀬さん。」
「え、ああ。うん…、ごめん。」
澪はクスクスと笑い続け、そしてため息を吐くように呼吸を落ち着けた。
「死のうって思ったのに、こんなところにいるなんて…滑稽だと思って。」
「あ、やっぱり。」
「やっぱりって…、わかってたの?」
澪は首を傾げる。
「何となく、死にそうだなって思った。」
「だから、誘ってくれたの?その、ラブホに。」
「さあね?」
やがて小気味良い音を立て階に到着して、ゆっくりとエレベーターの扉が開く。廊下に足を踏み入れると、ふかっと足裏の感触が毛足の長い絨毯の物に変わった。
「何号室だっけ。」
「ん、503。」
澪は機嫌が良いのか鼻歌を口ずさみながら、志麻の手を引いて先を行く。
やがて目的の部屋の前に立つと、急かすように志麻にカードキーを使わせて扉を開けた。
「意外と広いね。」
澪は鞄を下ろして、ベッドの上に腰掛けてそのまま倒れ込んだ。スプリングの効いたマットレスを使用しているのだろう、勢いよく倒れても全く痛みを感じていないようだった。
「!」
澪が天井を仰いで、目を丸くする。
「?」
それに釣られて、志麻も天井を見上げるとそこは鏡張りで室内を映すと供に自らと目が合った。
「何で天井が?」
「あー…、多分…。」
本気で首を傾げる澪に志麻は鏡張りの意図を伝える。すると、澪は呆れたように息を吐いた。
「自分たちの行為をわざわざ見るため?ヤらしすぎるでしょ。」
「いやらしいことするとこだからねー。」
志麻は苦笑する。そしてコンビニの袋をテーブルにのせて、荷物を下ろした。ベッドでごろごろと転がる澪を見ながら、志麻もベッドサイドに腰掛けた。安っぽいベッドが二人分の重みに耐えきれず、ギシ、と軋む。
「何か、食べる?」
志麻はカサカサと乾いた音を立てながら、コンビニの袋の中身を探った。
「食べても吐くよ。私。」
「いいよ。」
「いいんだ。」
んー、と澪は考えて、そして「アイスクリーム」と呟くのだった。
「はい、どうぞ。」
志麻が澪に与えたのはチョコレートバーのアイスだった。
「ありがと。」
澪は恐る恐ると言う風にアイスクリームを口に運ぶ。聞こえるのは、ちゅ、とキスをするような溶け始めた部分を啜る音だ。甘く、芳醇なチョコレートの香りがふわりと周囲に広がった。
「…。」
口元を手で押さえて、澪は体をくの字に曲げる。
「吐きそう?」
こくりと頷く澪を、志麻はお手洗いに連れて行った。そして澪は咳き込みながら、食べたばかりのアイスクリームを吐く。
「…、ねえ。何故、笑ってるの?」
「え?」
志麻は自分でも気付かないうちに、笑みを浮かべていたようだ。
「ごめんね。気にしないで?」
「いや、するでしょ…。」
胃の中の物を吐ききった澪は、ふう、とため息を吐いて髪の毛をかきあげる。
「そんなに滑稽?人が吐く姿は。」
「ううん。可愛いよ。」
志麻は、自らの性癖を熱く語った。誰にも打ち明けたことのない自分の本質に、熱がこみ上げるようだった。
「…なんだ、壊れてるのって私だけじゃないのね。」
話に一区切りがつくと、澪は心底可笑しそうに笑った。
「引いた?」
「うん、しっかり。…神崎さんが時々、狂気めいた目色を滲ませる意味がわかった。」
「え、そんな目、してた?」
「してたよ。」
自覚なしかー、と言って、澪は呆れたようだった。
「まあ、いっか。それで?私が吐く姿はどうだったの?」
「最高だった。」
「ふーん。」
澪は癖なのか、度々利き手の指にできた吐きダコを反対の手でなぞる。彼女の白く、細い骨のような指に生々しい肉色のタコが盛り上がっている。
「…初めて吐いたのは中学一年生のとき。13歳の頃ね。」
「そうなんだ。興味ないな。」
二人は連れ立って、ベッドへと移動する。
「まあ聞けって。私、発育が良かった方でさ。でも、心は成長速度に追いつけなくて。『女』になっていく体が気持ち悪かったのよ。」
「ふーん。」
「本当に興味ねえな…。私の養父が、私を性的な目で見てるのがわかっちゃったんだよね。」
だから、食べ物を吐いたという。吐いて、女性らしいふっくらとした体を脱却したかったのだ。
「生理も止まるし、胸も痩せてくし。当時の私には良いことづくめだった。」
「でもさ、吐くって体力いるじゃん?苦しかったんじゃない?」
志麻は終わらない話を合わせるように、質問をする。
「うん。生きてるからね。」
当たり前のことを、澪は教えてくれた。生きているから苦しくて、そして自らを守ってくれるこのタコが愛おしかったと言う。
澪は戯れにシーツを頭から被って、しばらくベッドの上を転がっていた。澪のその視線は天井の鏡に注がれていた。
角が少し剥げかけている鏡は一体、何組の愛の行為を見守ってきたのだろう。
部屋の窓ガラスにこつんと何かが当たる。志麻と澪がふっと見上げるように窓の外を見ると、どうやら小粒の雨が降っているらしいことに気が付いた。澪が四つ足になって窓に近づいて、カラカラカラ、とサッシを開ける。
「寒いね。」
冬の雨は凍えるような気温を孕んでいた。澪は一身にその棘を受けるように、目蓋を閉じて空を仰いだ。
「澪の心に雨が降るとき、」
「え?」
「…傘を持っていくから。」
言葉が気持ちよりも先に口から滑り出た。甘やかで、慈しみと愛情がこもった言葉だった。
家族愛でも、友愛でも、恋愛でもなく。ただその感情の名前は愛だった。それが邪な愛情だったとしても、志麻は澪と一緒にいたいと思った。
「二人で、一つの傘に入ろう?」