おいで、と手を差しのばすと、黒猫はニャーン……と可憐に鳴き、頭を擦り付けてくる。両手で抱きあげるとまた鳴いた。

 抱きしめると黒猫の柔らかさ、温もりが肌に伝わる。すぅ……と絶望感や悲しみが溶けていくような錯覚を覚えた。撫でるとごろごろと心地のいい音を醸し出す。

「可愛いね、どこから来たの?あなたも野良猫なの?」

 野良にしては毛並みが随分いいが、とりあえずは私のそばにいてくれるらしい。

「ありがとう。ここに来てくれて」

 涙はいつの間に止まっていた。その代わり、なぜか黒猫の目に涙が浮かんでいる。

「あなた、泣いているの?」

 黒猫の美しい目からとめどなく涙が溢れてくる。もう号泣のレベル。

 猫って泣くの? まるで私の代わりに泣いてくれているみたい。

 猫は自分が泣いているのに私を慰めるように、ぺろぺろと頬を舐めた。

 そして、ミャーンと再び鳴いた。

 瞼がだんだんと重くなってくる。少しだけ、少しだけ眠らせて。明日のことはまた考えるから……。

 黒猫がまたミャーンと鳴いたとき、もう私は眠りの中にいた。


 ◇◆◇


「カナ様、お風呂の支度が整いましたから起きてください」

 私の肩をゆさぶる手。カナ……様……?

 ゆっくりと瞼を開けると、そこには可愛らしい高校生くらいの女の子が微笑みながら立っていた。

 肩までかかる明るい亜麻色の髪に紫の瞳。頬がピンクでまた可愛らしい。メイドさんのような可愛い服を着ている。

 それにしてもカナ様ってなに? この子はメイドさんでいいのかな?

 もしかすると、松平佳奈は死んで、どこかの令嬢に転生してしまったのだろうか? 部屋にある化粧台に駆け寄って、鏡をあけるといつも通りの顔色と目つきの悪い松平佳奈が写っていた。

「デンカもそろそろ起きるお時間ですよ」

 メイドさんが声をかけたのは、昨晩の黒猫。黒猫は優雅に起き上がり、毛づくろいを始める。

 質素ながら質のいい客室のような部屋。ベッドはふかふかで、いつの間にか私は可愛らしいワンピース(ネグリジェ?)を着用している。あのし●むらの服はどこにいったのだろう。

「あの、メイドさん。私はなんでここに?」

 尋ねると、答えは別のところから返ってきた。

「君はキャッツランド王国のヒルリモール公爵家のご令嬢、つまり俺の妹、ということになったんだよ。俺の父もキャッツランドとカグヤのハーフなんだ。だから娘にカグヤの特徴が色濃く出てもおかしくないしね」

 にこやかに答えたのはあの、催眠術師の仲間である胡散臭い茶髪くんだった。

「あーーーっ!! あんた! あの失礼極まりないヤンキー風催眠術師の仲間!」

「……あの時は本当に悪かったです。ごめんね」

「ごめんじゃ済ませないからね! 私にはイケメン無罪なんてことは通用しないんだから!」

 この人名前なんだっけ? もう忘れたよ。茶髪くん(便宜上そう呼ぶ)は後頭部を掻きながらへらへらと苦笑いを浮かべる。

「キース様、カナ様の寝室に無断で入ってこないでください! 出て行っていただけませんか!?」

 なぜかメイドさんも茶髪くんに怒っている。そうだ、キースって名前だった。

「本当にごめんね。でもちょっと俺の話を」

「ふっざけんじゃないわよ! もしかして寝てる私を誘拐した!? したわね!? 人攫いと同じじゃないの! もしかして初めの人攫いとグルだったの!?」

「話は後です! キース様、聞こえないんですか!?」

 三者三様でかみ合わない怒鳴り合いをしていると、黒猫が寄ってきてニャーンと鳴いた。その時、急に怒りが消えた。

 黒猫は私の足元ですりすりと甘えると、そのまま高く跳躍し、キースの肩に乗った。

 キースの飼い猫ってこと?

「とにかく、カナ様はシャワーに入っていただきます!綺麗にお洋服を整えて、朝食を召し上がってからお話ください!デンカもそれでよろしいですね!?」

 キースの答えを待たず、メイドさんは私を強引に部屋から連れ出す。品のいい調度品が飾られた部屋を抜け、大きなバスルームへと私を誘う。

「驚かせてしまって申し訳ございません。キース様は悪い方ではないのですが……」

「いや、悪いヤツでしょう!」

 そう断言して、メイドさんへ振り返る。

「あの…お風呂入らせてくれるんですよね?」

 メイドさんはきょとんとした顔でうなずく。

「もちろんです!」

「あの……」

 メイドさんはなぜか有無を言わさずにバスルームへ侵入する。

「わたくしが洗って差し上げます!」

 なんでこんな可愛い子が私の身体洗うのよ!

「い…いらないです!自分でやりますから!」

「いえ、高貴な方はご自分では」

「私は高貴な方なんかじゃないんです! 日本の庶民なんですっ!」

 初対面の女の子に身体洗われるのとかむりー!

 渋々メイドさんが引き下がるとようやく安心して服を脱ぎ、バスルームへ入る。

 豊富な湯量で、お湯の噴き出し口からお湯がどばどばと音を立てている。よく見ると噴き出し口は猫の顔になっていて、猫の口からお湯が流れている。

 ドアの向こうからメイドさんが説明を始めた。

「キャッツランド王国は、月と猫を信仰しているのです。だから調度品のあらゆるものに幸運が宿るように、猫を象っているのですよ」

 へ、へぇ。そうなんだ。

「あの黒猫ちゃんは、この家……キースって人の家の猫なんですか?」

 少し困ったような間が空き、メイドさんが答えた。

「キース様の猫、というわけではないですが、広い意味ではそうなるかもしれません。ちなみにここはキース様の個人宅ではなく、キャッツランド王国の公邸ですよ」

 個人宅ではなく公邸?

「公邸ってなんですか?」

「本国を代表して、ナルメキアとの交渉や情報収集などを行うところですよ。ナルメキアに住むキャッツランド人が不利益を被らないように計らったりもします」

 なるほど。大使館みたいなものか。

 しかし正式な国の大使館に、人攫いが攫った人を連れてくるんだろうか?

「あ、カナ様。ピンクの瓶が、ソープで、ブルーがシャンプー、グリーンがコンディショナーです。デンカ拘りの品ですから、ご安心ください」

「あ、どうも……」

 良かった。この世界の衛生観念は日本とそう変わらないみたい。

 それにしてもデンカってあの黒猫の名前よね。人間のシャンプー使うとか贅沢な猫ね。だからあんなに毛並みがつやつやだったのね。

 たっぷりと湯船にも浸からせてもらい、バスルームを出ると、メイドさんが私に向かいふわっと風を吹かせる。あっという間に身体の水分が飛んだ。

「すごい! 今のは魔法?」

「ちょっとした易しい風の魔法です」

 メイドさんが照れたように笑った。可愛い。この世界に来て、初めていい人に出会った気がする。

「カナ様のお召し物はこちらです」

 これまた品のいい淡い色合いのワンピース。そんな女性らしい服を着たことがない私は戸惑ってしまう。

「御令嬢という設定ですからもっといいドレスとか着ていただきたいのですが、ちょっと事情がありまして」

 その設定も意味がわからないのだけど。

 メイドさんはまた部屋へ私を誘う。ベッドルームに隣接する部屋に私を入れ、温かいスープを持ってきてくれた。

「キース様にはお食事の後にこちらから伺うと伝えておきました」

 野菜がくたくたに煮込まれたコンソメのようなスープは優しく、私の胃を満たしてくれる。

 でも、このメイドさんは、キースの仲間なんだよね? こんなに可愛らしくて優しそうな子が誘拐犯の仲間…? ていうか国家ぐるみの犯罪? そもそも私は誘拐されたのだろうか?

「あの、メイドさん?」

「わたくしのことはレイナ、とお呼びください、カナ様」

 ご令嬢設定だから様付けてるのかな? 様ってキャラじゃないんだけどな。

「では、レイナさん」

「呼び捨てでよいですよ」

「あ、うーん……じゃあ、レイナ」

 まぁいいか。少し抵抗があるけど年下っぽいし、呼び捨てでも。

「あのキースってヤツは誘拐犯なの? 私は攫われたの? これから私はどうなるの?」

 レイナは何がおかしいのかくすくすと笑った。

「お眠りのところをお連れしてしまった、という意味では誘拐かもしれません。なので、キース様は誘拐犯の一味ということになりますね」

 笑いごとじゃないって! 可愛い顔して…この子ってば。

「でも、いろいろな事情が絡んでのことなのです。これからご説明いただきますから。では参りましょう」

 レイナに連れられて、私はキースが待つ部屋へと向かった。