「答辞を書いてほしいんです」

目の前の彼女は穏やかな微笑みを崩さぬまま、僕に告げた。凍てつく寒さの二月初旬。突然職員室に呼び出され、何かしでかしてしまっただろうかと肝を冷やしていたのだが、それは杞憂に終わった。僕が一年生の頃から学年主任を務めていた彼女は、どうですか、と優しく問いかけた。僕の目を真っ直ぐ見つめて話すものだから、気恥ずかしくなって視線を下にずらす。断る選択肢は端から用意されていないみたいだった。この先生はいつも優しい物腰で語るのだが、時折、もはや答えは一択しか許されないのではないかという圧も感じるのだ。流石にここで、嫌ですと直球で返すのは憚られた。悩むような仕草を暫く見せてから、彼女に問うた。

「どうして、僕なんでしょうか」
こういうのは大抵、元生徒会長がやるものでしょう、そう言うと彼女は、勢いよく首を振った。
「生徒会長がするなんて、そんな決まりはありませんよ。先生たちの会議で、答辞に相応しいと思った方にお任せするのです」
でも、とつい反論してしまう。
「僕の他にも、いい人は沢山いたでしょう」
「私は――」
彼女は僕の言葉に優しく毛布を被せるように、言葉を乗せた。

「私は、あなたこそ相応しいと思ったのです」
彼女は椅子に座って、僕と目を合わせた。ふぅ、と吐息を洩らした後、彼女は語り始めた。
「あなたの読書感想文を読ませてもらったことがあるんです」
彼女は英語科だ。読書感想文は国語科の筈じゃ……。
「学年主任なので、同じ学年の生徒の作品は見させていただくんです。コンクールに出品するのを決めるのもお手伝いしましたよ」
彼女は続ける。
「あなたの書いたものを読んだ時、関心したんです。ここまで素直に、ありのままに、感情を書くことのできる子がいるんだって」
だから、あなたに任せたいと思ったんです――彼女は言った。お世辞ばかりで調子のいいことを言っているだけだ。それに読書感想文なんて他人の本を読んで私見をぐだぐだ述べてるだけのくだらないものだ。そんなので、僕の何が分かるって言うんだ。どうせ、あーだこーだ言って僕を丸め込みたいだけだろう。そう毒吐いてみたくもなった。でも、僕にはできなかった。僕は、僕が思っている以上に、単純だった。満更でもねぇや、と思ってしまった自分がいたのだ。へぇ、そうですか、と濁すように言ってまた視線を逸らすと、彼女は淀みない声で告げた。

「私は、あなたの書く文章が好きなんです」

その一度は聞いてみたかった文句に唆され――いや、しかし、などとこの期に及んで弁明しようとした僕の手には、既に式辞用紙が握らされていた。

 経緯はどうであれ、一度任されたものはやり遂げなければなるまい。自分で言うのも変な話だが、僕は学校ではそこそこ信用のある方なのだ。提出物はきっちり出しているし、成績もいい。おまけに変な格好もしていない。模範みたいな生徒。その像を今頃になって崩してしまうのは何だか勿体ない気がした。折角三年間積み上げてきたのだ。どうせなら最後まで、良い奴、真面目な奴としていたいものだ。そういう謎の意地が働いて、僕の中にも断るという選択肢は消えていた。兎に角、書いてやる。素晴らしいものを書いて、堂々と読み上げて、卒業してやる、と意気込んで書き始めた。

 *
「なぁにが相応しいだ、くそ」
くそ、と同時にエンターキーを強く押した。小気味よい音が鳴る。

「僕みたいなすっからかんの人間に頼むことじゃないんだなぁ」
くそ、と吐いてまたエンターキー。何気に気に入っている。

 自室にて。

 パソコンには日中から同じ画面が開きっぱなしだ。答辞原稿。先にこちらで下書きをして、来週には清書をする予定だ。しかし、いまだに僕は壁にぶち当たっている。書くことがない。ずっと、少し書いては消して、少し書いてはまた消してを繰り返している。何やってんだ、くそ。学年主任の先生への苛立ち、それ以上に、相応しくない自分自身に、無性に腹が立つ。本当に、とんだ人選ミスじゃないか。こういうのをやるのはクラスを牛耳っている陽キャぐらいが丁度いいんだよ。あいつら、思い出エピソードに溢れてそうじゃないか。ほら、ぴったしじゃないか。あいつらなら面白おかしく語ったり、そんでもってしんみり、仲間を想って号泣したりできるポテンシャルがあるぞ。僕なんかよりよっぽど適任じゃないかよ。
 自分が惨めで仕方なかった。あゝどうして僕はこんなふうなのだろう。僕は今、凄く泣きたい。別れて悲しい奴なんかいない。別れて悲しい奴がいないことが、悲しい。悔しい。泣きたい。くそが。唇を噛んだら、薄皮が剥がれて血が滲み出した。そこがびりりと痺れて、あまりの痛さに少し泣いた。

 *
 二月中旬のある日、僕は廊下で突然、担任に引き止められた。丁度数学の講座が終わって家に帰ろうとしたときだった。背中をぽんと叩かれたかと思うと後ろに彼がいた。僕よりずっと背が高いから、何かしなくとも威圧的に感じてしまう。なんすか、と面倒くさそうに言ってやると
「答辞、やるらしいじゃないか」
と彼はハツラツとした声で言った。

「えぇ、まぁ」
と素っ気ない態度を心がける。

 僕は彼が苦手だった。何と言うかこの持ち前の明るさというか、馴れ馴れしさというか。陽キャというものに対して劣等感を燻ぶらせてきた、その結果だろうか。この手の兄貴分気取りで、笑顔が眩しくて直視できない人間に対して嫌悪感をも拗らせるようになっていた。総て僕の捻くれた性格のせいだ。

「今、どれくらい進んでるわけ」
「まだ、最初の方をちょろっと書き始めたぐらいです」
ふぅん、と彼は自分から聞いてきたくせに興味なさそうな相槌をして、俺にできることがあれば何でも言えよ、とお決まりのテンプレートへと繋げた。おまえにできることなんざ何もねぇよ。おまえは僕のことを何も知らない。思い出がないんです、とか言ったら笑って、そんなわけないだろ、って言うに決まってる。歩み寄ろうともせずに小馬鹿にするタイプのやつだ。そうに決まってる。

「ところでさ」
と彼が言った。
「君がどうして答辞に選ばれたか、分かる?」
突然、そんなことを言うもんで、僕は面食らって一時停止した。僕に向かって彼は言った。
「学年主任がね、会議で君を猛プッシュしたんだよ。君がいいって。主任の鶴の一声で決まったってわけ」
彼は笑いながら言う。それから慌てて
「でも、満場一致だったよ。君以外に候補が出てこなかったから」
と付け加えた。僕は、あははは、と取り敢えず笑った。


何だよ、それ。総てあの人の一存ってことなのか。そんなことまでして僕を卒業生代表に押し通したというのか。僕なんかを。顔がぶわっと熱くなった。僕は、馬鹿だ。大阿呆だ。あの人は、あの人だけは、本気で僕のことを思ってくれていたのだ。胸が痛くなった。彼女の演技だと思ってしまった己を恥じた。僕は、僕は、あゝ……。その夜、僕は随分縮こまって反省した。

 *
 意地悪なことに、僕は彼女を泣かせたいと思ってしまった。どうせ答辞を読むなら感動的なものにしたい。それが精一杯、僕にやれる恩返しだと思ったのだ。

 なぜこんなに僕が彼女に恩を感じているかというと、彼女の言葉に大いに励まされたからである。

「私は、あなたの書く文章が好きなんです」

あの言葉は本当だったのだ。それが嬉しくて、有り難くてたまらなかったのだ。

 僕は今、小説を書いている。誰にも打ち明けていない、僕だけの密かな趣味だ。だからと言って手を抜いているわけじゃない。真面目に取り組んでいる。いつか賞を獲りたいとさえ企んでいる。そんな僕にとって、彼女がくれた言葉は、いくら礼をしても足りないくらいに嬉しかったのだ。僕は単純だ。分かってる。単純だから、単純な思考なりに喜ぶことができた。あゝ自分はそこそこの文才があるのだ、と僅かながら自信をつけられた。彼女には感謝してもしきれない。そんな彼女に、今できる精一杯の感謝を伝えたい、そう思ったのだ。

 それからあっという間に書き上げて、現国の先生に添削してもらった。私情を入れ過ぎかとひやひやしたが、これくらい語っても大丈夫だ、と認めてくれたのでほっとした。

 出来上がった下書きを、一字一字、丁寧に書き記す。先生には、コピーしたものを貼り付けてもいいと言われたが、僕は手で書きたかった。自分の思いが詰まった一筆一筆で、綴りたかった。

 *
 *
 *
 ――いつの間にか、春が訪れていた。セーターを着るとうっすら汗ばむほどだ。来てくれるなと願ったはずの春だった。もう次の春なんていらないと言った筈なのに、あゝようやく巡ってきたのだと思ってしまった。春に焦がれていたのだ、僕は。この春を待ち望んでいたのだ、僕は。

 静寂の中、たとう紙を開く音が、マイクを通して響く。僕は今、この壇上に独り、立っている。僕の前には二百人弱の卒業生がいて、その両脇に先生たちと、見ず知らずの来賓のおじさんおばさんがいて、後ろには多くの保護者がいる。僕一人対数百人という構図が何だか面白くって、吹き出してしまいそうになるのを頑張って堪える。本番は地方のテレビ局も来ているため、ヘマはできない。気を引き締めて、前を見る。それから、蛇腹折りの紙を、一枚、めくった。

「答辞」


 *
 答辞も気づけば佳境に差し掛かり、思い出パートから感謝の言葉へと移っていた。あまりにもあっという間で、読むスピードが速いんじゃないかと心配になったが、今更変えても不自然だと思ったので、そのまま続行する。先生の方に身体を向けた。息を大きく吐いて、吸う。
「お世話になった先生方」
僕の瞳は、確かにあの人を捉えていた。着物姿の彼女と目が合う。

ありがとう、先生。僕を認めてくれて。僕を選んでくれて。あなたが僕を認めてくれたから。おかげで僕はこうして、新しい春に生きている。

ありがとう、先生。
あなたは僕の恩師だ。

面と向かっては気恥ずかしくて言えない。だけど今なら、貴女に届けられる。

ありがとう、先生。

ただそれだけの思いを込めて。

 *
 最後のホームルームを終えてさっさと帰ったので、彼女とは会わずに終わった。せめて何か、感謝の一つでも直接言えばよかったのに、僕にはそれができなかった。
 帰宅後に学校のパソコンを開いてみると、彼女からメールが届いていた。

『今日の答辞、まっすぐ届きました。周りの先生方も、みなさん感動されていましたよ。私も泣きました。感動の涙です。心に響く答辞をありがとう。そして卒業おめでとう。Bon voyage!』

よかったと思った。僕は、あなたに、届けたかったのだから。あなたのために、文章を綴ったのだから。思いがまっすぐに届いてよかった。あなたの心を震わせることができて、よかった。

Bon voyage!――よい旅を!

彼女の言葉に、優しく背中を押された気がした。くそみたいな青春だったことに変わりはない。でも、案外悪かねぇな、と思った。その言葉だけで、僕にとっては、十分だった。

ありがとう、先生。
ずっと見守っていてくれて。

ごめんなさい、先生。
こんな不出来な教え子で。

ごめんなさい。

結局僕は逃げた。彼女に直接想いを伝えることから逃げたのだ。綺麗なことを言わなくちゃならない答辞の中では伝え切れない想いもあった。不器用で捻くれ野郎の僕だからこその想いだってあった。だけど、それもこれも伝えられずじまいだ。

きっと僕は、あなたに言えなかった想いを、この先ずっと抱えてゆくのだろう。この後悔が僕を成長させるのだと、今はただ、そう信じたい。

またいつか、この道の先で会えるなら――

言えなかった想いを今度こそまっすぐ、あなたに、あなただけに、届けよう。

そう誓った。


【了】