「美海、これ、薬」
旭は美海をホームのベンチに座らせて、彼女が持っていたリュックから薬と水を取り出した。美海に薬を渡すのももう二度目だから、とても慣れた手つきだ。
「あ、りがとう……」
震える手でそれらを受け取り、美海は薬を飲む。突然やってきた発作的な痛みは、薬のおかげかゆっくりと波が引いていくみたいになくなっていく。痛みが軽くなってきたころを見計らって、旭は心配そうに口を開いた。
「大丈夫か? 家まで送ろうか?」
美海は首を横に振る。確かに、両親と約束したけれど……どうしても夏葉の願いを叶えたい。今日というチャンスがなくなったら、もしかしたら自分はもう二度と海に行けなくなるかもしれない。残された時間を逆算する美海、夏葉のやりたいことだって『海に行く』だけじゃない。これからもっとたくさん、彼の願いを果たしていきたいのだ。旭は「わかった」と言って、彼も水を飲んだ。
「ていうか、どうして池光君がここにいるの?」
「旭って呼んでよ。前にも言ったじゃん」
美海は旭の横顔を睨む。茶化してしまった彼は少し申し訳なさそうに、口を開いた。なんだか言いづらそうだ。
「朝から駅で待ってたんだよ、美海のこと」
「はぁ! 私を待ち伏せしていたってこと? 引くんだけど……」
「ほら、絶対にドン引きされると思ったから言いたくなかったんだ!」
「なんで私が駅に行こうと、海に行こうとしているの知っている訳?」
「だって、書いてあるじゃん」
旭は美海のリュックを指さす。
「夏葉のやりたいことの一つ目、海に行く、だろ」
「なんで知ってるのよ」
「ちょっと前まで俺が持ってたんだぜ。中身なんて暗記してるよ」
「気持ちわる」
「自分が気持ち悪い男なのは分かってるよ。でも、美海に週末の予定聞くチャンスなかったし。連絡先だって知らないだろ? だから、朝から駅で待ち構えるしかないんだよ。すぐ来てくれて助かった」
旭は駅に現れた美海に声をかけようとしたけれど、急いで電車に乗る美海を追いかけるので精いっぱいだったらしい。見失わないように見張っていたら、急に美海が倒れ込んだ。とてもびっくりしたと話す旭、美海は嫌悪感に満ちた息を吐いた。
「もし私が今日海に行こうとしなかったら?」
「それなら、明日も駅に行って待ってたよ。明日じゃなかったら来週でも。でも、美海なら絶対に現れるって確信してたから」
旭は「美海は、夏葉のためならなんだってするだろう?」と付け加える。美海は小さく頷く。旭は美海の気持ちを見抜いていたのだ。
「薬も効いてきたし、私、次の電車で行くから」
「俺も行く。美海を一人にしたら危ないし」
「……ついてくるなら、勝手にして」
「わかった」
流れ込んできた電車に乗る。今度は空いていたから、二人は並んで席に座った。夏葉は正面の窓を、まるで宝物を見つけた子供みたいにキラキラとした目で見つめている。二人の眼前には海が広がっている。
「俺、初めてなんだ。海に行くの」
だからこんなにも嬉しそうなんだ、と美海は旭の横顔を見る。
「ずっと行ってみたかったんだ、海。俺の夢も叶ったよ、ありがとう、美海」
「どうして私にお礼なんか。別にそんなことを言われるようなことしているつもり、ないんだけど」
「いや……美海がいなかったら、多分、俺はここに来なかっただろうからさ」
まだ海水浴シーズンではないから、海に近い駅で降りる人はほとんどいなかった。降り立った瞬間、旭は胸いっぱいに息を吸い込んだ。潮の匂いが体に染みわたるような気がした、こんなに海が近いと空気も少ししょっぱい気がした。二人は潮風の匂いを頼りに海に近づいていく。パッと目の前に紺色の海が現れた瞬間、旭は一気に走り出した。
「ちょっと、危ないよ! 濡れちゃうって!」
スニーカーのまま海に入っていこうとする旭の背中に美海は声をかけた。旭は「そうだった!」と笑いながら、砂浜でスニーカーと靴下を脱ぎジーンズの裾をめくってから、今度こそ波打ち際に足を踏み入れた。
「冷たっ! 海ってこんなに冷たいの?」
「まだ春だもん。冷たいに決まってるじゃん」
「そっか!」
波打ち際に立っていると、波が押し寄せるたびに冷たい海水が足の甲をくすぐり、引くときは足もとの砂がさらさらと攫われていく。初めて味わう感覚、旭の気持ちはどんどん昂る。昂りすぎて胸が苦しくなっていくくらいだ。けれど、それすら楽しかった。
「海、冷たくて気持ちいい。俺、生きてるって感じがするよ」
「何それ」
「……死んでたら、冷たいのも暖かいのもわからないだろ?」
「そうだけど……」
美海は砂浜に座った。持ってきた日傘を差し、ちゃぷちゃぷと足首まで海に浸かって一人はしゃいでいる旭を見た。あんなに楽しめていいな、と美海は初めて海に来た時のことを思い出した。
海水浴シーズンの終わりごろだったけれど、海に入るのは禁止されていた。レクレーションに参加しているのは全員病院に入院している子どもたち。もし海に入って事故が起きたら一大事だ。つま先に入るのもダメ、と強く言われたとき、隣に居た夏葉は肩をすくめた。
「それなら、海に来なきゃいいのに」
その呟きに美海は頷き、二人は顔を見合わせて笑った。夏葉の足元はサンダルで、一応水着も買ったって話していたから、今日が楽しみで仕方がなかったはず。それなのにダメって言われて、美海の目には夏葉が可哀そうに映った。でも、気持ちを切り替えたのか夏葉はパッと顔を上げる。
「仕方ない。貝でも拾おうよ、美海」
「うん! それなら、私、シーグラスも見つけたい」
シーグラスを知らなかった夏葉に美海は説明する。波に揉まれて砂に削られていくうちに、角が丸み帯びた曇りガラス。本で見た時から自分の目でも見てみたいと思っていた。
「美海はキレイな物好きだからね、星とか」
「うん」
「いいよ、一緒に探そう」
「うん!」
海には近づかず、二人で黙々と貝やシーグラスを探す。粉々に砕けたガラスの破片や真っ白な貝殻ならいくらでも見つかってけれど、肝心のシーグラスは見つからない。そのうち、一緒に来ていた子の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「もうヤダ! 暑い! 帰りたい!」
美海も旭も、おでこから幾筋も汗が流れるくらいの暑さ。付き添いできていたボランティアの人はその子を宥めようとするけれど、癇癪はどんどんひどくなって甲高い叫び声を上げ始めていた。ボランティアはもう諦めて、手のひらを叩いてみんなを呼び寄せる。
「今日のレクレーションはもうおしまい! みんな、病院に帰りましょう」
夏葉は時計を見た。
「でも、まだ病院に戻る時間じゃない……」
「これ以上いたら、みんな熱中症になってしまうかもしれないでしょう?」
「まだ美海のシーグラス、見つけてない」
「また今度海に来ましょう、ね? 退院した時でもいいんだし。その時に探せばいいのよ」
美海は「適当なことばっかり」と頬を膨らませる。がっくりと肩を落としている夏葉が可哀そうだった。
「夏葉、大丈夫?」
「うん。ごめんね、美海が欲しがってたシーグラス、見つけることができなくて」
「ううん、いいよ」
「そうだ!」
夏葉が両手をパチンッと合わせる。何かいいことを思いついたのか、パァアッと表情が明るくなっていく。
「いつか、二人でまた来ようよ、海」
「二人きりで?」
「うん。その時、僕がちゃんと見つけてあげるから」
そんな約束もしていたこと、海に来るまですっかり忘れていた。そんな思い出なんて最初からなかったみたいに、きれいさっぱり。頭の奥で夏葉の声が響く。些細な約束事でも、自分にとっては大切な宝物だったはずなのに。
「やだな……」
症状が進行したら、忘れっぽくなったり記憶がなくなったりすると、主治医の藤森先生が言っていた。もしかしたら自分にも病気の症状が、徐々に表れているのかもしれない。やだな、と美海は繰り返す。もし、夏葉のことも忘れてしまったら……考えただけで恐ろしい。膝を抱えて頭を下げて、美海は小さくなる。
「美海! おーい!」
美海が怯えていることに気付いていない旭が、大きな声で美海の名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げると、旭は美海に向かって大きく手を振っている。
「こっち来てよ、美海!」
美海、美海! と何度も呼ばれているうちに、周りから変な目で見られているような気がしてきた美海。仕方なく立ち上がり、波打ち際ぎりぎりまで近づいた。
「何?」
「手、出して」
旭は手を背中に隠し、ニヤニヤと笑っている。まるでいたずらを企てている子どもみたいだ。美海は恐る恐る、旭に向かって手を差し出した。
「これ、美海にプレゼント」
「……これって……」
旭は美海をホームのベンチに座らせて、彼女が持っていたリュックから薬と水を取り出した。美海に薬を渡すのももう二度目だから、とても慣れた手つきだ。
「あ、りがとう……」
震える手でそれらを受け取り、美海は薬を飲む。突然やってきた発作的な痛みは、薬のおかげかゆっくりと波が引いていくみたいになくなっていく。痛みが軽くなってきたころを見計らって、旭は心配そうに口を開いた。
「大丈夫か? 家まで送ろうか?」
美海は首を横に振る。確かに、両親と約束したけれど……どうしても夏葉の願いを叶えたい。今日というチャンスがなくなったら、もしかしたら自分はもう二度と海に行けなくなるかもしれない。残された時間を逆算する美海、夏葉のやりたいことだって『海に行く』だけじゃない。これからもっとたくさん、彼の願いを果たしていきたいのだ。旭は「わかった」と言って、彼も水を飲んだ。
「ていうか、どうして池光君がここにいるの?」
「旭って呼んでよ。前にも言ったじゃん」
美海は旭の横顔を睨む。茶化してしまった彼は少し申し訳なさそうに、口を開いた。なんだか言いづらそうだ。
「朝から駅で待ってたんだよ、美海のこと」
「はぁ! 私を待ち伏せしていたってこと? 引くんだけど……」
「ほら、絶対にドン引きされると思ったから言いたくなかったんだ!」
「なんで私が駅に行こうと、海に行こうとしているの知っている訳?」
「だって、書いてあるじゃん」
旭は美海のリュックを指さす。
「夏葉のやりたいことの一つ目、海に行く、だろ」
「なんで知ってるのよ」
「ちょっと前まで俺が持ってたんだぜ。中身なんて暗記してるよ」
「気持ちわる」
「自分が気持ち悪い男なのは分かってるよ。でも、美海に週末の予定聞くチャンスなかったし。連絡先だって知らないだろ? だから、朝から駅で待ち構えるしかないんだよ。すぐ来てくれて助かった」
旭は駅に現れた美海に声をかけようとしたけれど、急いで電車に乗る美海を追いかけるので精いっぱいだったらしい。見失わないように見張っていたら、急に美海が倒れ込んだ。とてもびっくりしたと話す旭、美海は嫌悪感に満ちた息を吐いた。
「もし私が今日海に行こうとしなかったら?」
「それなら、明日も駅に行って待ってたよ。明日じゃなかったら来週でも。でも、美海なら絶対に現れるって確信してたから」
旭は「美海は、夏葉のためならなんだってするだろう?」と付け加える。美海は小さく頷く。旭は美海の気持ちを見抜いていたのだ。
「薬も効いてきたし、私、次の電車で行くから」
「俺も行く。美海を一人にしたら危ないし」
「……ついてくるなら、勝手にして」
「わかった」
流れ込んできた電車に乗る。今度は空いていたから、二人は並んで席に座った。夏葉は正面の窓を、まるで宝物を見つけた子供みたいにキラキラとした目で見つめている。二人の眼前には海が広がっている。
「俺、初めてなんだ。海に行くの」
だからこんなにも嬉しそうなんだ、と美海は旭の横顔を見る。
「ずっと行ってみたかったんだ、海。俺の夢も叶ったよ、ありがとう、美海」
「どうして私にお礼なんか。別にそんなことを言われるようなことしているつもり、ないんだけど」
「いや……美海がいなかったら、多分、俺はここに来なかっただろうからさ」
まだ海水浴シーズンではないから、海に近い駅で降りる人はほとんどいなかった。降り立った瞬間、旭は胸いっぱいに息を吸い込んだ。潮の匂いが体に染みわたるような気がした、こんなに海が近いと空気も少ししょっぱい気がした。二人は潮風の匂いを頼りに海に近づいていく。パッと目の前に紺色の海が現れた瞬間、旭は一気に走り出した。
「ちょっと、危ないよ! 濡れちゃうって!」
スニーカーのまま海に入っていこうとする旭の背中に美海は声をかけた。旭は「そうだった!」と笑いながら、砂浜でスニーカーと靴下を脱ぎジーンズの裾をめくってから、今度こそ波打ち際に足を踏み入れた。
「冷たっ! 海ってこんなに冷たいの?」
「まだ春だもん。冷たいに決まってるじゃん」
「そっか!」
波打ち際に立っていると、波が押し寄せるたびに冷たい海水が足の甲をくすぐり、引くときは足もとの砂がさらさらと攫われていく。初めて味わう感覚、旭の気持ちはどんどん昂る。昂りすぎて胸が苦しくなっていくくらいだ。けれど、それすら楽しかった。
「海、冷たくて気持ちいい。俺、生きてるって感じがするよ」
「何それ」
「……死んでたら、冷たいのも暖かいのもわからないだろ?」
「そうだけど……」
美海は砂浜に座った。持ってきた日傘を差し、ちゃぷちゃぷと足首まで海に浸かって一人はしゃいでいる旭を見た。あんなに楽しめていいな、と美海は初めて海に来た時のことを思い出した。
海水浴シーズンの終わりごろだったけれど、海に入るのは禁止されていた。レクレーションに参加しているのは全員病院に入院している子どもたち。もし海に入って事故が起きたら一大事だ。つま先に入るのもダメ、と強く言われたとき、隣に居た夏葉は肩をすくめた。
「それなら、海に来なきゃいいのに」
その呟きに美海は頷き、二人は顔を見合わせて笑った。夏葉の足元はサンダルで、一応水着も買ったって話していたから、今日が楽しみで仕方がなかったはず。それなのにダメって言われて、美海の目には夏葉が可哀そうに映った。でも、気持ちを切り替えたのか夏葉はパッと顔を上げる。
「仕方ない。貝でも拾おうよ、美海」
「うん! それなら、私、シーグラスも見つけたい」
シーグラスを知らなかった夏葉に美海は説明する。波に揉まれて砂に削られていくうちに、角が丸み帯びた曇りガラス。本で見た時から自分の目でも見てみたいと思っていた。
「美海はキレイな物好きだからね、星とか」
「うん」
「いいよ、一緒に探そう」
「うん!」
海には近づかず、二人で黙々と貝やシーグラスを探す。粉々に砕けたガラスの破片や真っ白な貝殻ならいくらでも見つかってけれど、肝心のシーグラスは見つからない。そのうち、一緒に来ていた子の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「もうヤダ! 暑い! 帰りたい!」
美海も旭も、おでこから幾筋も汗が流れるくらいの暑さ。付き添いできていたボランティアの人はその子を宥めようとするけれど、癇癪はどんどんひどくなって甲高い叫び声を上げ始めていた。ボランティアはもう諦めて、手のひらを叩いてみんなを呼び寄せる。
「今日のレクレーションはもうおしまい! みんな、病院に帰りましょう」
夏葉は時計を見た。
「でも、まだ病院に戻る時間じゃない……」
「これ以上いたら、みんな熱中症になってしまうかもしれないでしょう?」
「まだ美海のシーグラス、見つけてない」
「また今度海に来ましょう、ね? 退院した時でもいいんだし。その時に探せばいいのよ」
美海は「適当なことばっかり」と頬を膨らませる。がっくりと肩を落としている夏葉が可哀そうだった。
「夏葉、大丈夫?」
「うん。ごめんね、美海が欲しがってたシーグラス、見つけることができなくて」
「ううん、いいよ」
「そうだ!」
夏葉が両手をパチンッと合わせる。何かいいことを思いついたのか、パァアッと表情が明るくなっていく。
「いつか、二人でまた来ようよ、海」
「二人きりで?」
「うん。その時、僕がちゃんと見つけてあげるから」
そんな約束もしていたこと、海に来るまですっかり忘れていた。そんな思い出なんて最初からなかったみたいに、きれいさっぱり。頭の奥で夏葉の声が響く。些細な約束事でも、自分にとっては大切な宝物だったはずなのに。
「やだな……」
症状が進行したら、忘れっぽくなったり記憶がなくなったりすると、主治医の藤森先生が言っていた。もしかしたら自分にも病気の症状が、徐々に表れているのかもしれない。やだな、と美海は繰り返す。もし、夏葉のことも忘れてしまったら……考えただけで恐ろしい。膝を抱えて頭を下げて、美海は小さくなる。
「美海! おーい!」
美海が怯えていることに気付いていない旭が、大きな声で美海の名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げると、旭は美海に向かって大きく手を振っている。
「こっち来てよ、美海!」
美海、美海! と何度も呼ばれているうちに、周りから変な目で見られているような気がしてきた美海。仕方なく立ち上がり、波打ち際ぎりぎりまで近づいた。
「何?」
「手、出して」
旭は手を背中に隠し、ニヤニヤと笑っている。まるでいたずらを企てている子どもみたいだ。美海は恐る恐る、旭に向かって手を差し出した。
「これ、美海にプレゼント」
「……これって……」