瞬きの回数が増える美海。旭はブレザーを掴まれて、少し困惑している様子だった。

「私、君のことなんて知らない! 夏葉からも聞いたことない!」
「それはそうだと思うよ。俺と夏葉が出会ったのは、夏葉がこの街を出た後、亡くなる少し前だから」

 旭は美海の手を取って、ゆっくり自分から引きはがしていく。彼女は話を聞いてくれるみたいだ、と旭はほっと胸を撫でおろした。まずは第一関門、自分が夏葉の友人だったということを理解してもらわなければならない。

「美海のことは夏葉からいつも聞いていたよ。写真も見せてもらったから、君に病院で会ったときすぐに美海だってわかった」

 昨日、旭と出会ったときのことを思い出す。あの時が初対面だったはずなのに美海の名前と顔を知っていたのは、そういう理由があったからか……でもいまいち信じられない。詐欺師が騙す相手を口説く時の手口みたい。

「俺は君に会うためにこの街に来たんだ。……それが俺の役割だから」
「どういうこと。池光君と夏葉、一体どうやって、どこで知り合ったの!?」

 夏葉と旭がどんな関係だったのか、美海はそればっかりが気になるけれど旭は教えてくれそうもない。旭は美海の話を逸らしながら、カバンから一冊のノートを取り出す。

「これを君に渡してほしいって、夏葉に頼まれた」
「なに、これ……?」

 どこにでも売っていそうな薄いブルーの表紙のノート。美海はそれを受け取り、そっと開く。

「それは夏葉が遺していった『死ぬまでにやりたいこと』のリストだよ」

 懐かしい夏葉の文字だった。1ページ目の1行目を読んでいると鼻の奥がツンと痛み、目からポロポロと涙が溢れる。美海はノートを汚さないように、ハンカチを出して目を拭う。

「なにこれ……美海と海に行きたいって……」

 彼が最初に綴った『死ぬまでにやりたいこと』がそれだった。もう美海に会うことはないだろうと言ってこの街を出ていったのに、どうしてこんな叶えるつもりもない願いを残していったのか。なんだか、無性に腹が立ってくる。
 ノートを汚さないようにページをめくっていく。けれど、彼が遺していった『死ぬまでにやりたいことリスト』は数ページで終わっていた。最後のページの文字は手が震えていたのか、体がいうことを聞かなくて文字が書けなくなってしまったのか分からないけれど、ガタガタとしていて読むことができない。彼がどんな風に死んでしまったのか、自分にどんな未来がやってくるのか……恐ろしくなって美海はノートを閉じてしまった。けれど、すぐにいつくしむみたいにノートをそっと抱きしめる。

「あの、ありがとう……これ」
「ううん。言っただろ、それが俺の役割だって」
「……変な人だって思ってごめんなさい。そこまで悪い人じゃなさそうだね、池光君」
「あれは仕方ないよ。知らない人から声かけられたら、誰だって逃げるのは当たり前だし。俺もちょっと反省してる」

 美海はリュックにそのノートを大切に仕舞う。

「それじゃあ、ね。また学校で……」

 そのまま美海が帰ろうとするので、旭は慌てて美海の腕を掴んで引き留める。美海は「今度は何?」と嫌そうなため息をつく。

「待って! 話はまだ終わってないから!」
「え?」
「託されたのはノートだけじゃないんだ! 俺の役目はそれだけじゃない、夏葉に美海のことを頼まれてるんだよ」
「は?」
「自分の代わりに美海のことを支えてほしいって! どうか美海と会ってほしい、そしてその時はどうか美海と一緒に過ごしてくれないかって」

 旭の言葉の意味が分からなくて、美海は彼を疑うように首を傾げる。

「夏葉は美海の話ばっかりしていたし、ずっと君のことを心配していたよ。自分がいなくなった後、今、どんな風に生きているのか。自分が死んだあと、生きることを諦めていないだろうかって」

 やっぱり夏葉には隠し事ができないみたいだ。夏葉に自分の心が見透かされていたみたい、それが嬉しいのか悲しいのかもわからなくて、美海は自分のつま先を見て小さく笑った。

「家族のために転院したって俺は聞いたけれど……もしかしたら本音では、最期の瞬間まで美海と一緒にいたかったんじゃないかって、俺は勝手にそう思った」

 美海の手首を掴む旭の力がさらに強くなる。

「君が夏葉のことを一番信頼していたのも、ちゃんとわかっているつもりだ。俺だって夏葉の代わりになるとも思っていない……でも、ちょっとでも俺のことを頼ったり、一緒に楽しい時間を過ごしてほしいんだ。それが夏葉の願いでもあるから」
「……ごめんなさい!」

 ふっと旭の手が緩んだ瞬間、美海は勢いよくその手を振りほどいた。

「このノートのこと、感謝してる。池光くんが夏葉と友達だったっていうことも信じる、でも……やっぱり、私は君を頼りにするようなことはないと思う」
「それが夏葉の願いだとしても」
「でも君は、夏葉じゃない」

 美海が想像していた以上に、自分の声はとても冷たかった。けれど旭は、そう言われることがあらかじめわかっていたみたいに小さく微笑む。

「夏葉が言ってた、美海は人見知りするからすぐに仲良くなるのは難しいかもって」
「そう……。私、今度こそ帰るからっ」
「バイバイ、美海。また明日……俺、美海と仲良くなるの諦めないから!」

 美海は駆け出す。旭はその後姿を見て、ふうっと長く息を吐きだした。夏葉と友達だったことを信じてもらえただけ、今日は良かったのかもしれない。少しずつ仲良くなれたらいいのだけど、その考えを振り切るように首を横に振る。いや、彼女にそんな時間はもう残されていない。夏葉がたどった運命、彼女も同じように進んでいくに違いない。それも全部夏葉から聞いていたから、よく知っている。旭は空を仰ぎ見る。春の日差しは柔らかく降り注ぎ、青空は無限に広がっているように見えた。けれど、永遠も無限も存在しないのだと旭が一番よく知っている。限りある時間をどう使っていくか。旭は空にいるであろう夏葉に向かって呟く。

「大丈夫だよ、夏葉。お前との約束は絶対に守る。夏葉との約束を果たすことが、俺の使命なんだから」

☆☆☆

 翌日、恐る恐る学校にやってきた美海。本当はサボってしまおうかって考えたけれど、仮病を使ったらお母さんが恐ろしいほどに心配するのが簡単に想像できた。これ以上心配や迷惑をかけたくないし、もしかしたら旭は考えを改めてくれたかもしれない。そんな期待を膨らませて教室に踏み込んだけれど、それはいとも簡単にしぼんでいった。

「おはよう、美海!」

 自分の席で女の子たちに囲まれていた旭が、美海を見た瞬間立ち上がって一気に距離を詰めてくる。彼は美海のパーソナルスペースも考えずにズカズカと踏み込んでくる、美海にはそれが鬱陶しかった。美海は小さく頭を下げて、自分の席にリュックを下ろす。美海は無視しようと思っているのに、旭は構わず話しかけてくる。

「美海、今日昼は?」
「え?」
「お弁当? 学食? それとも売店? 俺、学食って行ってみたいんだけど。行ったことないし」
「いや、あの……お弁当だから。いいです、私は一人で……」

 自分の席に座って、旭に背を向ける。旭は美海に嫌がられていることに気付いているのかいないのか、どんどん話しかけてくる。美海はそれに適当な相槌を打って、最後はほとんど無視する形になった。

「旭君、学食行きたいなら私たちと一緒に行こうよ。学校の中も案内してあげるし!」

 そう言ってクラスメイト・佐原 野乃花が旭を誘う。美海は心の中で、全然話したことのない野乃花を応援した。美海と違っていつもキラキラしている女子は少し苦手だけど、旭の気を逸らしてくれたら、相手は誰だっていい。

「大丈夫だよ、ありがとう。わかんないことあったら美海に聞くし」

 美海はその言葉を聞いて、首をブンブンと横に振った。拒否しているはずなのに、背後からは旭の笑い声が聞こえてくる。二人の様子を見て、女の子たちは不思議そうに首を傾げたり、顔を見合わせたり……その輪から、小さな舌打ちも聞こえてきた。

「なんか、青崎さん態度悪くない? ムカつくんだけど」

 野乃花の冷たい声が美海の心のテリトリーを鋭く切り込んでいく。他の子が「やめなよ」と諫めてくれたからそれ以上悪く言われることはなかった。美海は、旭に対する自分の態度を反省する。けれど、自分の心の中にズカズカと踏み込んでくる旭に気を許すことはできない。ストレスのせいか、少しだけ頭痛を感じる。薬を飲むほどではないけれど……。

 けれどその頭痛は、1時間目の途中からどんどん悪化していった。頭の真ん中からズキズキという痛みが広がっていく。