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流星群がやってくる日の真夜中。旭は真っ黒な服を着て病棟に忍び込んでいた。夜が来るまでは、トイレやリネン室で身をひそめる。夜に病院に潜り込むより、昼のうちから病院にいた方が潜入するときに目立たないだろうと思ったのだ。一番の難関は、美海が入院している病棟のナースステーション。ドアの向こうから、看護師がいなくなるチャンスを窺う。
(……まだかな)
早くしないと、流星群までに美海を高台に連れていくことができなくなる。けれど、焦りは禁物だ。ナースステーションから騒がしい警告音が聞こえてくる。旭は一瞬、美海の病室からかもしれないと思って耳を澄ました。
「高田さんの病室からです」
「早く行きましょう!」
複数の足音が聞こえてきた。旭は少しだけドアを開けて、中の様子を見る。ナースステーションは無人だ! 足音を立てないように急いで美海の病室に向かう。音を立てないようにゆっくりと引き戸を開けた時、中から小さな叫び声が聞こえてきた。
「……きゃあ!」
まずい! と旭はドアを閉めた。そしてふと首を傾げる。今の声、美海の母の物ではない気がする。旭は今度は勢いよくドアを開けた。
「……美海?」
信じられないと旭は大きく目を見開く。ずっと眠ってばかりだったはずの美海が立ち上がっている。
「ねえ、今、着替えているんだけど」
「ご、ごめん!」
両目を手で覆い隠する。美海は旭が驚いている様子を見て小さく笑った。久しぶりに旭の顔を見て、彼女もホッとしていた。病衣を脱ぎ、私服に着替える。
「どうして急に起きて……」
「わからないの? 旭が約束してくれたからだよ。一緒に流星群を見に行こうって……だから、目を覚ますことができたんだと思う」
あの約束が、美海をこの世界につないでくれたのだ。なんだか旭の体から力が抜けて行ってしまう。ふにゃふにゃとただ笑うだけの旭を見て、美海も笑った。
「連れて行ってくれるんだよね?」
「もちろん。一緒に行こう、美海」
旭が手を差し出す。美海は自分の手を重ねて、二人は強く握り合った。
「美海が起きてくれて良かったよ。背負って連れていくところだった」
「しー! 静かにしないと出て行こうとしているのバレる!」
二人は看護師や守衛が見回っていないことを確認して病室を出て行く。旭は美海の手を引いて先導した。
「こっち、非常口がある」
旭が考えたルートに添って、二人は静かに病棟を抜け出していく。非常階段を下りていくと、病院の裏手側に出た。
「美海、大丈夫?」
長い階段を下っている内に、美海は少し疲れてしまったみたいだった。無理もない、ずっと寝たきりで満足な栄養も取れていなかっただろうし、足もすっかり細くなってしまっている。美海はうずくまり、すぐに立ち上がった。
「大丈夫、大丈夫だから……」
その声は弱弱しい。けれど、旭はそれに気づかない振りをする。美海の手を強く握って、旭は力強く歩き出した。
「急ごう、美海」
病院にとどまり続けると、守衛にバレる危険性がある。一刻も早く病院を離れて高台に向かうべきだ。美海も旭の手を握り返す。高台に向かって、二人は走り出す。
高台に続く登り坂を昇っているとき、こんなに急な道だったっけ? と美海は思った。最後に登ったのはいつだったかももう記憶に残っていない。隣にいる旭を見ると、彼も時折胸を押さえて苦しそうに呼吸をしていた。けれど、二人とも足を止めようとはしない。一心不乱に高台を目指す。
「もう少しだ、頑張ろう、美海」
旭はときどき、そう言って美海を励ました。美海は頷く、もう少しで……夏葉との約束が果たされる。
高台についた瞬間、旭は空を見上げて息を飲んでいた。目の前に広がるのは、ビーズをバラまいたみたいに広がる無数の星々。息を吸い込んだら口に飛び込んでくるんじゃないかと思うくらい、星や空が近く感じる。まるで体中が包まれているみたいだ。
「すごいな、これ……」
けれど、肝心の流れ星は見当たらなかった。旭は時間を確認する、少し早めに着いたのか、流星群が降り始めるまでもう少し間があった。旭はまたうずくまっている美海を抱きかかえて、ベンチに座らせる。
「美海、大丈夫か?」
返事はない。旭は慌てて顔を見ると、瞳は黒く濁り始めていた。まるで星が見えない夜空みたいに真っ黒な瞳。体にも力が入らないのか姿勢を保てない。旭は後ろから抱きかかえるように美海を支えた。
「美海、頑張れ。もう少しだから」
空を見上げて、早く星が流れることを祈る旭。腕の中にいる美海は、徐々に力を失っていく。息を吐きだす時はとても長く、静まり返ったと思ったら「ひゅっ」と短く吸い込む音が聞こえてきた。美海のタイムリミットが近いことが旭にも分かった。旭は美海を強く抱きしめる。
「美海、大丈夫。約束はちゃんと俺が叶えるから」
旭の目から涙がボロボロと流れていく。旭はぬぐうこともせず、彼の涙は美海の頭に染みこんでいく。
体に力が入らない、瞼はどんどん重たくなっていく。今まで感じたことのない強い眠気、旭の体は温かくて心地いい。胸に耳を当てると、小刻みな心臓の音が聞こえてくる。これが夏葉と旭の音なんだ、と美海は思った。夏葉の心臓の音なんて聞いたことなかったけれど、最後にこんなに近くに感じられるなんて……。
「美海! 寝るな、起きろ、ほら! 空見ろよ!」
眠気を堪えて目を開き、美海は背後から抱きしめられたまま空を見上げた。満天の星空から、ひとつ、ふたつと星が流れ始める。
「きれいね」
「……うん、本当にキレイだ」
「でも、ごめんね……もう本当に眠たくって」
きっとこのまま目を閉じたら二度と起きないだろう、そんな予感が美海にはあった。頭の中は霞がかったようにぼんやりとしていて、体だって自分が思うように動かせない。最期に流れ星くらい見せてくれたっていいのに、神様はなんて意地悪なんだろう? 容赦なく美海の願いも希望もむしり取っていく。
旭は強く美海を抱きしめた。もう彼女が限界を迎えていることは彼にもとっくに伝わっていた。
「ごめんな、美海。頑張らせて。これで最後だから」
旭は持っていたショルダーバッグの中から二つの箱を取り出す。少し角のあたりが汚れた白い箱と、真新しい紺色の箱。
「夏葉の手紙に書いてあった、アイツが美海に伝えたかったこと……夏葉はずっと美海のことが好きだったって」
美海はハッと顔を上げて、旭を見た。彼は丁寧に夏葉の想いを美海に伝える。
「勇気が出なくて言えずじまいだったことを、ずっと後悔していたんだよ、夏葉。だから俺に手紙と『これ』を託していったんだ」
旭は白い箱を開ける。
「……これって……」