美海が高台で倒れてから、数週間経っていた。眠っている時間が多くなっていて、たまにしか目を覚まさないらしい。旭が会いに行っても美海はずっと眠っている。まるでおとぎ話の眠り姫みたいだ、と旭は思う。あれはどんなきっかけで目を覚ましたのだっけ? 旭は美海の頬を撫でる、ぴくりとも動かない。いつもなら「くすぐったいんだけど!」と怒るはずなのに。

「……美海、少しでいいからさ、ちょっと俺の目を見て話を聞いてほしいんだけど」

 力なく話す旭。その言葉にも美海は反応しない。まるで植物に話しかけているみたいだ、生きているのに動いたり喋ったりすることもない。きっと枯れていく植物のように美海もこのまま死んでしまうのだろうか?

「もっと早く言えば良かった。もったいぶっていないで」

 心のどこかで甘えていた。美海はまだ大丈夫に違いないと思い込んでいた。夏葉が望んでいたシチュエーションが訪れるまでは、なんて。後悔ばかりが次から次へとやってくる。
 美海の母が、最近の様子を教えてくれる。たまに目を覚ますことがあるけれど、その時の記憶も保持できなくなっているらしい。一度眠りについたら、前回起きた時のことも忘れてしまう。自分が誰なのか、目の前にいる人が母親だとわからないことが増えてきた。きっと夏葉のことも旭のことも忘れてしまったに違いない。旭は目を赤く腫らしている美海の母を見ているのが辛くて、下を向いてその話を聞いていた。

「もし君が辛くならないなら、これからも美海に会いに来てほしいの。無理にとは言わないけれど」
「大丈夫です、俺。また来ます」

 病室を出て廊下を進むと、美海の父が誰かに電話をしている様子が目に飛び込んできた。相手は親族みたいだ。きっと、美海の残された時間の短さを伝えて、これからのことを相談しているに違いない。

 美海が意識を失っている間に、野乃花が発案した千羽鶴はそろそろ完成しそうになっていた。美海のクラスだけじゃなくて、学年全体が協力してくれたらしい。折り紙の鶴を一羽ずつ糸で通して、枝垂れ桜みたいになった千羽鶴を野乃花がまとめていく。

「旭君。これ、完成したら青崎さんに渡してほしいんだけど……」
「佐原さんも一緒に行かない?」
「えぇ!? 私も? 青崎さん、私が来たら絶対嫌だと思うよ」
「……いや、今の美海なら怒ったりしないよ。それに、佐原さんは一度今の美海の様子を見てもらいたいんだ」

 旭の声は日に日に小さくなっていく。千羽鶴と作りながら奇跡を起こることをクラス中が祈っていたけれど、次第に元気を失っていく旭を見て、クラスメイト達はそんなものは起きなかったのだと気づき始めていた。けれど手を止めたら現実に押しつぶされそうな気がして、黙々と鶴を折り続けていた。旭も教室に置かれていた折り紙を手に取る。

「旭君、今日はお見舞いに行かなくていいの?」
「……うん、俺もちょっとくらい協力しないと。佐原さんに押し付けすぎてるっていうか」
「そんなこと気にしなくていいのに」

 旭は折り紙を数枚持って自分の席に戻る。その様子を野乃花がじっと見つめていた。

「何? 視線、痒いんだけど」
「旭君はさ、青崎さんに伝えたいこと、ちゃんと言えたの?」
「え?」
「このまま後悔したりしない? 青崎さんに自分の気持ちをちゃんと伝えたの?」

 旭はきょとんと首を傾げて野乃花を見た。

「何のこと?」
「だって、旭君って青崎さんのことが好きなんでしょ?」
「……え?」
「好きだからずっと一緒にいたんじゃないの?」
「いや……それはないよ。美海は、俺の親友の好きな人だ。それだけは絶対にない」
「友達の好きな人だから、自分の気持ちは押し殺しちゃうの? ……こんなこと言いたくはないけれど、青崎さんは、もう……」

 野乃花ははっきりとは言わない。

「佐原さんは自分の役割を考えたことある?」
「ううん、ない」
「俺の役割は、親友――夏葉の代わりに美海に寄り添うこと。夏葉が大事にし過ぎて言えなかった想いを美海に伝えること、それだけだよ」
「旭君、自分が損していることに気付いてる?」

 損? 旭はまた首を傾げる。

「友達のためとか青崎さんのためとかって言って自分を犠牲にして、それじゃ旭君の本心がすり減っていくだけじゃない?」
「……犠牲になっているつもりはないけど」

 少しむっとする旭を見て、野乃花は小さくため息をついた。

「こんなの説教みたいなこと、私が言うのも変な話なんだけど。旭君はもっと自分の気持ちに正直になって、わがままになっていいと思うの! このまま自分の気持ちを押し殺して友達のことを優先し続けていたら、絶対に後悔するから!」

 旭は野乃花の言葉を聞き流そうとする。でも、その言葉はなぜか頭に残った。自分の本当の気持ちって、果たして何だろう? と。
 夏葉の願いを叶えてあげたい、美海の役に立ちたい。それだってまぎれもない、旭の本心だ。なのに、野乃花に指摘されてから、それ以外の自分の気持ちについて考えるようになった。それが自分のどこにあるのかもわからなくて、さらにもやもやしてしまう。

 旭は放課後、美海のお見舞いをした後、電車に乗っていつか二人で訪れたショッピングモールへ行っていた。家にまっすぐ帰っても自分の中で芽生えつつある「もやもや」のことをずっと考えていそうだ。それなら、賑やかなところで気分を紛らわせた方がずっといい。美海と一緒に行った場所を振り返るみたいに、旭はショッピングモールの中を歩く。二人ではしゃいだゲームセンター、ドリンクスタンド。そして……旭はドリンクスタンドの近くにあるブライダル専門店で足を止めていた。美海がじっと見つめていた指輪はまだショーケースの中で陳列されている。旭は夏葉から託されていた『もう一つの箱』のことを思い出していた。大切な夏葉の気持ちがあの中に込められている。でも、とふと思った。

「自分の気持ち、ね」

 もう自分の物となった心臓の上に手を重ね、目をつぶる。瞼の裏で蘇るのは、美海の表情だった。初めて旭に会ったときの怯えた顔、旭に向かって怒る表情、ぎこちなかった笑顔。そして、気を許した旭に見せるようになった柔らかな笑み。写真で初めて見た美しい海と、それと一緒に写って笑みを見せる美海。

「嫌だな……」

それらがもうじき失われるのだと思ったら、旭の体はピタリと動かなくなった。痛くなるくらい拳を強く握る。

「自分の気持ち、か……」

 旭はまたショーケースの中の指輪を食い入るように見つめた。どんな形なのか覚えて、違う店に向かって走り出していた。