夏葉はそれ以来、ぼんやりとしたり眠っていることが増えてきた。旭が遊びに行っても眠っていて、夏葉の母によると一日中そう過ごしている日もあるらしい。たまに目を覚ました時に会いに行っても、夏葉は旭を見て不思議そうに「誰?」と尋ねてくる。背後からは夏葉の家族が嗚咽を漏らす声が聞こえてくる。旭は夏葉を驚かせたりしないよう、できるだけ静かな声で答える。
「俺、旭っていうんだ。夏葉の友達だよ」
夏葉は首を傾げる。きっと『夏葉』という言葉も自分の名前として認識できていないんじゃないか、と旭は思う。自分のことも分からなくなってきた夏葉、当然のように家族のことも分からなくなっていく。病棟の廊下の椅子で悲しみに暮れる夏葉の親族が目に付く日が増えてきた。長年病院で過ごすうちに身についた旭の勘のようなものも働くようになっていく。
夏葉の面会が親族だけと制限されるようになった。夏葉の両親は親しくしていた旭に謝ってくれるけれど、家族との時間を邪魔するわけにいかないと理解する。看護師や医者の噂話が漏れ聞こえることも増えてきた。
「あの先生は、これからどう治療していくつもりなんだ?」
「治す方法はないんでしょう?」
「ご家族にどのように説明したら……」
周りの人々が徐々に外堀を埋めていくみたいに、夏葉の命を諦めていく。旭だって諦めたくはなかったけれど、現実が『それはもう無理だ』と知らしめてくる。
夏葉と一緒に過ごす時間が突然終わり、旭は以前の生活に戻っていった。ベッドの上でまるで植物みたいに動かず過ごしてみたり、談話室に行って本を読んだり。でも、夏葉がいた日々が心地よくて、そのことばかり考えてしまう。わずかな期間だったけれど、夏葉と友達になれたことはきっと彼の人生にとって大きな糧になり、一生分の大事な思い出になるに違いない。夏葉を見送ったら、きっと次は自分の番だ。
病室に戻った旭。棚を開けようとしたとき、一枚の紙切れがはらりと落ちてきた。
「これ……俺のやりたいことリスト……」
外に出たい、とだけ記された一ページ分のノート。旭はペンを取り出して、続きを書き始めようとした。
病気を治したい。
美海に会ってみたい。
あと、それと……考え始めた時、両親と医者が慌てた様子で病室に流れ込んでくる。
「旭!」
旭の母が彼に飛びついた。ぎゅっと強く抱きしめられる。何が起きたのか理解できなくて、旭は周りに助けを求める。
「待って、何があったんだよ!」
「手術、受けられるよ!」
「……え?」
思わず担当医を見る。彼も頷いていた。
「ドナーからの心臓の提供だ、もちろん君とも適合する。もし君が『手術を受ける』と言うなら、今から始めよう」
旭は『病気を治したい』と書いたノートを見る。願いが叶った、奇跡が起きたんだ! 力強く頷くと、担当医は病室を出て行ってしまった。きっと手術の準備を始めるのだろう。
「良かった、待っていた甲斐があった」
「手術のことは心配しなくていいからな。お父さんもお母さんも、終わるまでずっと待っているから」
「わかった。ありがとう、二人とも」
手術は瞬く間に始まって、旭が眠っている間にすべてが終わった。彼は少し眠っただけと思っていたけれど、実際の手術は半日ほど時間を要したらしい。手術を終え集中治療室に向かった旭、目の前には仰々しい防護服を着て涙ぐんでいる両親の姿があった。口から管が通されていて声を出すことができず、身動きもうまく取れない。それでも懸命に「自分は大丈夫だったよ」と伝えたくて、視線を二人に送り続けた。
「手術自体は無事に終わりました。これからここで術後の状態を診ていきます。少し時間はかかりますが、これでももう外に出たり、学校に行けるようになるよ。旭君」
主治医の言葉に、両親は歓喜の声を上げた。旭も一緒に喜びたかったけれど、管が入った喉が苦しいし、何より口が渇いていたのがしんどかった。一口水を含むのも許されず、しばらく苦痛の時間が続く。旭は仕方なく目を閉じた。耳を澄ますと、心地よいリズムを刻む心臓の音がかすかに聞こえてくる。いつもの自分の音とは違う、元気な脈動。けれど、どこか懐かしい気にもなる。心の中でその心臓に呼びかけた、どこのどなたかは知らないけれどこれからどうぞよろしく、と。管は苦痛だったけれど、それだって生きている証だ。自分は今、生きている。誰かに生かされている、有難いという気持ちを抱きながらじっと待ち続けた。
苦しかった管から解放されて、ようやっと水を少し飲んでもいいと解禁されたとき、旭は手術が終わったとき以上の安堵の息を漏らした。集中治療室にいる間、両親は面会のたびに防護服に身を包んでいた。旭にウイルスや細菌を感染させないための措置らしい。
「あの……俺のドナーになってくれたのはどんな人なんですか?」
気になっていた事を主治医に尋ねる。けれど、教えてくれなかった。
「ドナーに関する情報を詳しく教えることはできないんだ。同じ県内で暮す10代の男性からの提供だと言うのは公表されているから、教えてあげられるのはこれだけ」
「わかりました」
心臓のドナーになってくれた人以上に、気になっていたことがあった。夏葉のことだ。旭は両親に聞こうとするけれど、二人ははぐらかす。
「まずは体を回復させることだけ考えなさい。余計な事は考えないで」
余計な事じゃない、と言い返したかった。でも、体を上手く動かすこともできない。看護師に聞こうとしても、彼らも教えてはくれない。旭だってうすうす感じ取る、きっと旭の体の負担になるような悪い話しかないのだろう。旭も徐々に、夏葉の命を諦め始める。最後に一言、感謝の言葉を伝えたかったけれど……きっとそんな時間もないに違いない。
旭が夏葉について知ったのは、彼が集中治療室から出てリハビリを始めた頃だった。終術からもう数か月以上経っていた。
「夏葉君の事なんだけどね」
母が重たそうな口を開く。旭はその声音を聞いて、お腹に力を入れるみたいに覚悟を決める。
「なんとなく分かってる。あいつ、死んだんだろう?」
「うん……」
「いつ亡くなったの?」
「旭が手術を受けた日よ」
それを聞いて、旭は言葉を失った。もう一度聞き返す、でも母は一言一句違わず同じことを言った。
「脳死状態になって数日後に……って夏葉君のお母さんが教えてくれたの」
「脳死って……まさか……」
夏葉の母が言っていたことを思い出す。脳の病気で、他の内臓は健康そのものだということ。やがて生命維持に関わる機能も働かなくなって……旭はハッと顔を上げた。夏葉は何と言っていったっけ? それを思い出そうとする。
『将来僕が死ぬことで誰かの役に立つことができれば……僕は本望だ』
旭は自分の胸に手を当てる。主治医は同じ県で暮す10代の少年からの提供だと言っていた。すべての点が一気につながったとき、彼のモノになった心臓の鼓動が答えを告げるように強く脈打つ。
「なんだよ、じゃあ、これって……」
指先から一気に冷たくなっていく。うそだろ、まさか、そんなことあるわけ……。
「これは、夏葉の心臓なのか……?」
新たな心臓以外、返事はしなかった。旭は唇を噛み、今まで自分が繰り返していた『祈り』を後悔する。毎日、心の底から誰かが死んでくれるのを願っていた。だって自分が生き残る手段はそれしかなかったから。
「俺が馬鹿な事考えていたから……!」
幾筋もの涙が頬を伝う。悔しくて、拳をテーブルに強く叩きつけた。自分がずっと馬鹿みたいな祈りを繰り返していたら、大切な友人の命を引き換えにそれが叶ってしまった。