現れたのは夏葉の両親だった。
「えっと、夏葉のお母さんでしたっけ?」
「旭君ね。いつも夏葉と仲良くしてくれて、本当にありがとう。転んでしまったみたいだけど、大丈夫?」
指摘されて初めてお尻のあたりが痛くなった。初めてこんなところが痛くなったかもしれない。旭は「大丈夫です」と力強く頷き、夏葉の母に椅子を差し出す。
「夏葉のこと、ごめんなさいね。急な事でびっくりしたでしょう?」
「まあ、はい……確かに」
「あれが、夏葉の病気なの」
旭は顔を上げて、じっと夏葉の母を見た。目元が赤くなっている、きっとさっきまで泣いていたんだと旭はすぐに気づいた。
「脳が少しずつ縮んでいく、原因も治療法もわからない病気なの。内臓は健康なんだけど、脳が少しずつ機能を失ってしまって……そのせいでさっきも美海ちゃんのことを忘れてしまったんだと思う」
「夏葉は、これからどうなるんですか?」
恐る恐る旭は尋ねる。彼の母にそれを聞くのは酷な事だとわかっているけれど、気になって仕方がなかった。だって、彼は旭にとって唯一の友達だから。
「記憶が保てなくなって、生命維持にかかわる脳の機能もなくなって……」
「そのまま、死んでしまうって……そういうこと?」
「そうね。そうなる前に治療法が見つからない限り」
旭は言葉を失う。そして、ハッと気づいた。
「それじゃあ、美海って女の子も……?」
夏葉の母は小さく頷いた。
「美海ちゃんの事まで話しているなんて、いつの間にかすっかり打ち解けていたのね。旭君、お願いがあるの。もし旭君が許してくれるなら、いつまでもあの子の友達でいて欲しい……お願いします」
「……大丈夫です。俺だってずっと、夏葉と友達でいたい」
夏葉の母は安心したように息を吐きだし、一筋の涙をこぼした。震える声で旭に礼を言って、病室を後にする。旭はベッドに横たわり、写真でしか見たことのない美海のことを思い浮かべた。あの子も、先ほどの夏葉みたいになってしまうのか。あの子も……自分みたいに治療法もないまま、死んでしまうのか。
「クソみたいな運命だな、俺ら」
ここにいない夏葉と美海、それぞれにそう呼びかける。汚い言葉は使いたくはなかったけれど、そう表現するしかない。無性に腹立たしくて、何度も強く自分の太腿を殴りつける。そんな風に痛めつけたからって、旭が、夏葉が、美海が助かるわけがない。わかっているのに、彼の怒りは止まらなかった。
数日後、夏葉の面会禁止措置が解かれたと聞いた旭は彼の病室に向かっていた。ノックしようとしていた手が震える。またあんなぼんやりとした状態だったらどうしよう? 自分のことを忘れてしまっていたら……不安ばかりが渦巻いて、体が上手に動かない。やっぱり、今日はやめておこうと引き返そうとした瞬間、勢いよくドアが開く。
「旭! ちょうど良かった、今行こうと思っていたんだよ!」
パッと明るい笑顔を見える夏葉。旭は驚き、すぐに顔をしわくちゃに歪めた。目からはボロボロと大粒の涙がこぼれる。良かった、夏葉はちゃんと自分のことを『わかって』くれている。ホッと安心して、体の力が抜けて、涙が溢れ出してしまった。服の袖でそれを拭おうとしたとき、夏葉は病室からティッシュを持ってきた。
「ごめん、びっくりさせちゃったよね」
「いや、俺の方こそごめん。泣くつもりはなかったんだけど」
「今日は僕のところに来なよ。少し旭と話がしたいし」
手を引かれて旭は夏葉の病室に入る。二人で並んでベッドに腰掛けて、夏葉は旭が泣き止むのを待ってから話を切り出した。
「母さんが、旭に僕の話をしたって聞いた」
「あぁ。お前が変になった日、わざわざ俺のところに来て教えてくれたよ。治療法もないって」
「そう。多分、この前みたいなことがこれから頻発して起こると思うんだ。記憶がなくなって、自分が何者だったのかもわからなくなるんじゃないかな? 父さんや母さん、美海の事、旭の事も分からなくなるかも。そうなったときのために、先に謝っておきたくて」
「なあ、もしかして……美海って子も同じ状態になるのか?」
「間違いなく。美海は僕より発症したのが遅かったけれど、いずれ今の僕みたいになると思う」
「そうなんだ……」
二人は黙り込む。旭は自分の心臓に手を置いた。
「奇跡が起きないか、いつも祈ってるんだ、俺。俺は心臓の病気で、治す手段は心臓移植しかないって言われてて……どうにかして治らないかって、奇跡が起きることを祈っている」
いつも誰かの死を望んでいる、なんてことは言えなかった。これからそう遠くないうちに死んでしまうであろう彼には。
「奇跡か。僕も祈るよ、旭と美海に奇跡が起きますようにって」
「お前自身はいいのかよ」
「僕にはやることがあるから」
「やること?」
「うん。……そのために、僕は死ななきゃいけない」
「はぁ! お前、何言ってんだよ!」
旭は思わず声を荒げてしまう。わずかな興奮でも彼の心臓は悲鳴を上げる。胸を押さえて少しうずくまると、夏葉は旭の背中をさすってくれた。
「そうすぐ怒らないでよ。先生にもお願いしているんだ、これからの医学の発展のために、どうか僕の体を役立てて欲しいって。死んだ後、どうなってもいいから僕の体から少しでも多くの情報を集めて、いつか治療に役立てて欲しい。もしかしたら僕が死ぬことで、美海を治す方法が見つかるかもしれない! ……すぐに役に立たないのは分かっているけどさ」
旭を撫でる夏葉の手は温かい。これが失われるなんて信じられなくて、旭はまた涙をこぼす。
「今じゃなくてもいい、将来僕が死ぬことで誰かの役に立つことができれば……僕は本望だ」
「なんだよ、それ」
「僕の夢なんだ」
自分の夢、なんて病気を治すこと以外で考えたことがなかった。それに、誰かの役に立ちたいなんてことも。旭は自分の事しか考えていなかったことが恥ずかしくなる。
「夏葉は立派だな」
「ううん、きっとこれも虚勢だよ。見栄張っているんだ、誰にも心配されないように」
「誰かの役に立つ、か」
死ぬまでの間、自分は誰かの役に立つことはあるのだろうか? 旭はぼんやりとそんなことを考えるようになっていった。
☆☆☆
「夏葉も、今の私みたいな状態だったんだね」
夕日が沈んでいく。冷たい空気が美海と旭の体をかすっていく。旭は美海を少しでも温めようと肩を抱いて自分の方に引き寄せた。体温を分け合うように。じんわりとしたぬくもりが触れ合った場所から美海の体に伝わってくる。
「うん。夏葉はそれから急速に悪化した。たぶん、転院してから一か月も経っていないと思う」
「そんなに早く……」
美海は自分の手をぎゅっと握る。これ以上話を聞くのは怖い、でも、聞かないと絶対に後悔する。夏葉が旭と共に生きた思い出を、自分の体にも刻み付けたい。手の力は自然と強くなっていく。
☆☆☆