美海の話は旭が夏葉から聞き出した。
「これさ、一行目に書いている『美海』って人、誰? 女の子? あ、もしかして夏葉の彼女とか?」
からかう旭。夏葉は話すかどうか一瞬迷ってから、小さく首を横に振った。
「違うよ。……そうだったらいいなとはずっと思っていたけれど」
「振られたのか?」
「ううん。僕に勇気がなかっただけ」
夏葉は美海について旭に教えてくれた。以前入院していた病院にいた、夏葉と同じ病気の女の子。不思議な縁で結ばれていたのか、夏葉はずっと美海と一緒にいたこと。
「どうして告白しなかったんだよ」
夏葉は言いよどんだ。
「迷惑だろ? 僕みたいな奴が告白してきたら。もうすぐ死んでしまうかもしれない、転院だってする、美海のそばにいることができない。そんな想いを残していっても、美海の負担になるだけだ」
旭も『遺された者たち』の心の痛みを想像する。きっと、夏葉は美海にそんな強烈な痛みを負ってほしくないのだと旭は思った。
「どんな子だったの?」
「写真、見る?」
「見る!」
「待ってて、病室にあるんだ。持ってくるよ」
戻ってきた夏葉が持っていたのは小さいアルバムだった。
「前の病院ってお楽しみ会みたいなことが多くて、そこで撮った写真だよ」
夏葉は外に出ることができたんだ、旭は少しだけ妬ましくなる。アルバムには、まだ幼さの残る夏葉と女の子が並んでいる写真から始まっていた。
「へー、可愛いじゃん」
ペラペラとアルバムをめくっていく旭。小児科で催された遠足、クリスマス会、ビンゴ大会……楽しそうな夏葉の隣にいる、控えめな笑顔の女の子。これが美海か、と旭は食い入るように見つめていた。アルバムをめくると、海をバックに並んでピースサインをする二人の姿があった。海だ、旭は大きく息を吐く。本物の海なんて見たことがない彼にとって、それは憧れて止まない物だった。海面が太陽の光を反射して、星空みたいに海は輝いている。その光を浴びた女の子は、まるで流れ星みたいな一瞬の輝きに似ていた。彼女も過酷な運命を背負いながら、懸命に生きているのだろう。だから、こんなにも美しく輝いているんだ。夏葉が好きになる気持ちが少しわかる気がする。
「ミウって、美しい海って書くんだろう? ぴったりな名前だな」
アルバムを返すと、夏葉は少し照れていた。
「なんで夏葉が照れるんだよ」
夏葉はアルバムを開く、さっきの写真を撫でながら口を開いた。
「小児科のみんなで海に行ったんだ。でも、危ないから海に入っちゃダメって怒られて。美海は『シーグラスを探してい』って言っていたから一緒に探したんだけど」
「見つからなかったんだ」
「うん」
シーグラスなんて旭もテレビでしか見たいことがないけれど、女の子が欲しがる気持ちは少しわかる。
「その時は『また今度探しに行こう』なんて約束したんだけど、結局守ることができなかったな。僕、後悔ばっかりしている」
「ふーん」
「一緒に流星群を見に行こうって約束もしたっけ」
「へえ、いいじゃん。ロマンチック」
「一度だけ、病院のレクで行ったんだ。本当にキレイだった、星空も、美海も」
「なんだ、夏葉、美海って子が好きなんだ。後悔って、もしかしてその子に告白しようと思ったけど、できなかったことなんだろ?」
夏葉は押し黙る。しばらく沈黙が続いていく、旭は夏葉の心に深入りしてしまったことを詫びたくなってきたけれど、この沈黙を打ち破れるほどの勇気はなかった。間を置いてから夏葉は顔を上げる。
「旭には何でもお見通しか」
「ごめん、変な事言った」
「こっちこそ。……旭の言う通りだよ、言えば良かったってたまに思う。ずっとずっと、美海は僕の中じゃ大切な女の子だったんだ」
夏葉は自らを奮い立たせるように自分の頬を叩いた。
「ほら、旭は何かやりたいことはないの? これに書きなよ、ペンも貸してあげる」
夏葉はノートの最後のページを破って、旭に渡す。ペンを持った二人は、唸りながら考え始める。
「『外に出たい』って何? 旭」
「俺、あんまり外に出たことないから」
「じゃあ、今度病院抜け出してみる?」
「怒られるぞ、夏葉」
「大丈夫大丈夫。今度、約束な」
その約束すら夏葉は果たせなかった。
二人は談話室やどちらかの病室で過ごす時間が増えていく。やりたいことリストを作ることよりも、旭は夏葉が今まで行ったことのある場所の話を聞くのが好きだった。海だけじゃない、病院の高台で流星群を見たことや博物館やショッピングモールに行ったこと。テレビの中だけだった景色は夏葉の言葉によって彩られて、まるで自分も一緒に行ったみたいな気持ちになれる。
「全部、美海と一緒に行ったの?」
夏葉の病室で、旭は座り心地の悪い丸椅子に座って夏葉に尋ねる。
「全部じゃないよ。家族と出かけることもあるし、でも、流星群は美海と一緒に見た」
「いいな、ロマンチックじゃん」
「その時も約束したんだ……」
どんな約束だろう? 旭は夏葉の言葉を待つ。彼は口を閉ざし、次第に目がうつろになっていった。
「夏葉?」
旭の呼びかけにも返事をしない。夏葉の瞳が濁っていき、その手は力なくうなだれた。
「夏葉!? おい、夏葉!」
何度も強く名前を呼びかけると、遠くから騒々しい足音が聞こえてくる。夏葉の母と看護師が病室に飛び込んできた。
「夏葉がなんか変で、さっきまで普通に話していたのに!」
夏葉の母親が彼の名前を呼んだ時、ハッと彼は正気を取り戻したみたいに顔を上げた。
「あれ? 僕、誰と約束をしたんだっけ……?」
「何? 何のこと、夏葉」
焦った声で夏葉に呼びかける彼の母。旭は今まで夏葉とどんな話をしていたのか、たどたどしく説明する。確か、流星群を美海と一緒に見たって言っていた。
「それで、約束したって……お前、まさか……」
「夏葉、美海ちゃんの事分からなくなっちゃったの……?」
夏葉は小さく首を傾げる。
「美海って、誰?」
「夏葉! お前!」
旭は看護師や彼の母親を押しのけて夏葉につかみかかる。怒りの感情は旭の心臓に悪い影響を与えて、強く軋む。その苦しさもお構いなしに、旭は夏葉に向かって怒りをむき出しにする。
「なんでそんなこと言うんだよ! お前、美海の事が大切だって話していたじゃんか!」
「旭君、落ち着いて!」
「夏葉!」
夏葉はぼんやりとした目で旭を見つめる。その瞳に旭が映りこんでいるのに、自分の事なんて全く意識していないかのような視線。旭はぞっとして、尻餅をついていた。
「夏葉君、少し眠りましょうか。誰か、旭君を外に」
「はい!」
旭は看護師に支えられながら自分の病室へ戻っていく。彼がとても興奮してしまったことを看護師が諫める。
「あまり大きな声で怒鳴ったりすると心臓への負担が大きいって、先生も言っていたでしょ? なるべく落ち着いて過ごすようにしてね」
「でも、夏葉が変なんだよ。アイツ、どうしてあんな風に……夏葉の病気ってなんなの?」
「それは……個人情報だから教えることはできないの。ごめんなさいね」
旭も夏葉みたいに無理やりベッドに寝かされる。でも、眠りたい気持ちにはなれない。ずっと心臓はドキドキと強く脈を打っていて、息を吸っても上手く体に酸素を取り込めていないような気がしてきた。落ち着いて、と慣れた深呼吸を繰り返しているとき、病室のドアがノックされる。
「どうぞ!」
夏葉かもしれない! 旭は慌てて起き上がる。けれど、ドアを開けたのは想像していない相手だった。