「どういう意味……?」

 旭の言葉が理解できなくて、美海は聞き返す。今、彼はなんて言った? 夏葉が生きている? 旭は強く頷く。

「俺の心臓は、元は夏葉の物だ。俺は、夏葉が心臓を提供してくれたおかげで今も生きているんだ」

 心臓の移植。その言葉を聞いて、今まで疑問に思っていたことが一本の線として繋がっていく。夏葉が転院した病院に自分もいたと言っていた旭、運動をするとすぐ胸を押さえる仕草。転校してすぐだったのに保健室の位置を知っていたこと。命を軽視する言葉を聞いたときに見せた彼の怒り。何をしてもいつも「初めてだ」と子供みたいにはしゃいでいた旭の姿が頭をよぎる。きっと彼も、ずっと病院で過ごしていたのだろう。もしかしたら、夏葉や美海よりも長い時間を。

「どうして、早く言ってくれなかったの? そんな大事な事……」
「夏葉の力を借りずに、美海に頼ってもらいたかったから……かな。あとさ、心臓に病気があるって言ったら周りからすごく気を遣われるんだ。それが嫌で、誰にも話してなかった」

 旭は美海の手を握る。そして、大きく息を吸った。

「話すよ、全部。俺が今までどうしていたのか。夏葉とどんな話をしたのか……もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれないだろう?」

☆☆☆

 毎日、誰かが死んでくれることを心の底から願っていた。
 旭に心臓の病気が見つかったのは、彼が小学校に入学する直前。突然胸が苦しくなって、救急車で一番大きい病院に運ばれて、それからずっと入院生活だった。心臓の負担になるようなことはすべて禁止。ちょっとの運動もだめ、少しはしゃいで興奮してしまうのも禁止。ベッドの上で、まるで植物みたいにじっと動かない生活を送り続けていた。院内学級に通っていたけれど、同い年の子はいなかった。たまにやってきても、少し話している内に相手はすぐに退院してしまう。

「俺の体を治す方法は心臓移植の手術しかなかった。でも、どれだけ待ってもドナーなんて現れない。当たり前だ、都合よく自分の体に合った心臓を持つ子供が、突然脳死状態になるなんて不幸がそんなに起こるわけがない」

 海外に渡って手術を受ける、という選択肢は最初からなかった。資金面の問題もあったけれど、一番は旭の体調。長時間飛行機に乗って移動するなんて、当時の彼の体では耐えられなかった。

「でも、毎日祈ってたよ、そんな不幸が起きることを。俺が生き残るにはそれしかなかったんだ」

 体調が悪くて、ベッドの中で何日も臥せっている日の方が多かったかもしれない。たとえ意識が朦朧していても、彼はただその『奇跡』が起きることを祈るしかなかった。うなされていると、家族と医者が自分の余命について話をしているのが聞こえてくる。自分の心臓がもうじき使い物にならなくなる。そんな話を耳元で聞かされている間、悔しくて仕方がなかった。まだ何もしていない。学校にだって行ってみたかったし、友達だって恋人だって作って見たかった。何もできないまま、自分の人生に幕が下りてしまうなんて……考えたくなかった。

「そんな日々を送っていたある日、夏葉に出会った。もう一年も前になるんだな、ずっと遠い昔の出来事みたいだ」

 体調がいい時は、ただ時間を持て余す日々だった。一人で行っていい場所と言えば、トイレと談話室くらい。旭は点滴がぶら下がったスタンドを押しながら談話室に向かう。談話室には、入院患者なら誰でも借りることができる本がある。暇だし漫画でも読もうか、と談話室に入った瞬間、初夏の風が吹いた。生き生きと生い茂った葉の香りを乗せた、さわやかな風。その風の向こうに、一人の少年がいるのが目に飛び込んできた。自分と背格好が近い、きっと年齢も近いだろうと旭は思う。

「見たことがないヤツって思った。入院着を着ているけれど、怪我をしている訳でもない。俺みたいに点滴のスタンドを持っているわけでもない。どうせすぐ退院するんだろうなって思った」

 ソイツはノートに何かを書き込んでいる。時折ペンを止めては何かを考えて、何かを思いついたのかハッと彼が顔を上げた瞬間、旭は彼と目が合った。

「変な奴だなっていうのが、第一印象。だって俺の方を見てニヤニヤ笑ってさ、気味が悪いと思ったよ。まあ、美海も俺に対して同じことを思ったんだろうけどさ」

 彼の視線は再びノートに戻る。そんなに一生懸命、何を書き込んでいるのだろう? 勉強しているのだろうか? 旭は彼の背後にある本棚を見るふりをしながら、後ろからそっと彼の手元を見る。何かをリストアップしていた。

「あれやりたい、とか。こんなことがやりたい、とか。ずいぶん能天気な奴だなって」

 旭がノートを覗いていることに気付いたのか、彼は振り返った。

「気になる?」

 そう言ってまた笑っている。何も考えてなさそうな表情だと旭は勝手に思い込んで、勝手に腹を立てていた。

「なに、それ?」

 年の近い相手と話す機会があまりなかったから、声が上擦ってぶっきらぼうになってしまう。

「やりたいことリスト。死ぬまでにやりたいことを考えているんだ」

 旭はギョッと目を丸める。一見すると健康そうなのに、彼はもう「自分が死ぬこと」のことを考えていたから。旭だって抗って生にしがみつこうとしているのに。

「なにそれ……そんなことしてて、むなしくならない? 辛くならない?」

 自分が死ぬなんて考えたくない。死ぬまでに何をして生きるかなんて、考えたくない! 旭はずっとそう考えていた。けれど、目の前にいる少年は少し違った。

「書いている間は楽しいことだけ考えればいいから、辛くないよ。……むしろ、楽しいことを考えていないと、現実に押しつぶされそうになる」

 自分と似たような『未来』に彼も直面しているのかもしれない。変な奴と思ったこととか、彼が一生懸命考えていた『やりたいこと』を馬鹿にしたことを反省する。旭が急に黙り込んだことを心配したのか、少年は慌てるように新しい話題を切り出した。

「君、名前は?」
「え?」
「僕は夏葉。君は?」
「……旭」
「何歳?」
「十五」
「え? 僕も十五歳! 良かった、同い年の人がいて。僕、この病院に移ってきたばっかりで、知り合いもいなくて不安だったんだ。よかったら話し相手になってくれない?」

 夏葉は旭に向かって手を差し出した。旭は少しだけ迷って、その指先を握る。夏葉の親し気な態度は不快ではなく、むしろ心地よかった。ずっと対等な友達という存在に憧れていたから。生まれて初めてできた友達、旭にとっての夏葉がそれだった。

「よろしくね」

 旭も「よろしく」って言いたかったけれど、何だか恥ずかしくてその言葉が出てこない。むずむずしていると、夏葉は隣の椅子を引いて「座りなよ」と促してくれる。

「……さっき、この病院にきたばっかりって言ってたけれど……どうして?」
「この街は僕の親の出身地なんだ。だから親戚も多くて……いざという時は、みんなに看取ってもらおうかと思ってね」
「そんなに体悪いの?」

 知り合ってばかりなのに失礼なことを聞いてしまった。旭はすぐに小さな声で「ごめん」と謝った。夏葉は少し言葉を詰まらせて、首を傾げて悩んで、言いにくそうに「うん」と返す。

「だから、いつか時間が来るまで僕と仲良くしてくれたら嬉しい」
「……わかった。まあ、俺も似たようなものだから」

 旭は自分の病状について話す。初めて他人に自分のことを話したせいで、緊張のあまり早口になっていく。それを夏葉は細かく相槌を打ちながら聞いてくれた。初めは変な奴だと思っていたのに、どんどん彼への印象が変わっていく。

「旭もいっしょにやらない?」
「……うん」

 以来、二人は一緒に過ごす時間が増えていった。