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 診察の翌日は、美海が通っている高校の始業式だ。美海も高校二年生になる。制服を着て玄関に向かったとき両親は美海のことをとても心配しているのか、彼女を引き留めようとしていた。

「大丈夫? 無理していかなくてもいいのよ」
「平気だって。それに、自分で決めたんだもん。症状が落ち着いているときはなるべく生活を変えないようにするって」
「そうだけど……でも、お母さん、やっぱり心配よ」

 不安そうな声を出す母の肩に、美海の父は手を添えた。

「美海がそう言うなら、ちゃんと尊重してあげよう。美海もわかっているだろうけれど、少しでも体調が悪くなったらすぐに連絡するか保健室に行くこと。連絡があればずぐに迎えに行くから」
「はーい」

 ローファーを履いた美海は駅に向かう。美海が通っている高校までは、電車に乗って30分ほど。もう1年通った道だから、今さら忘れようもない。玄関に張り出されたクラス名簿を確認して、美海は新しい教室に向かう。廊下からはもう賑やかな声が聞こえてきた。それを尻目に教室に入り、美海は指定された席にリュックを置いた。青崎、という名字の美海は出席番号が1番になることが多く、最初に指定される席はいつも最前列の最もドアに近い席。後ろの席の子はまだ来ていないみたいで空席のまま。席に座って、美海はあたりを見渡した。もうグループを作っている女の子たち、窓を見て何やら話している男子たち、その中で、美海に話しかけてくるクラスメイトはいない。美海は大人しく、リュックから本を取り出して読み始めた。

 彼女の病が分かった頃から、美海は積極的に友達を作ろうとはしなくなった。友達ができても、いずれ別れがやってくる。それが分かっているから、今さら友達を作ったり、誰かと仲良くするのはなんだか相手に悪いような気がしていた。

 美海が教室に入ってから10分ほど経ってから、担任の先生が入ってきた。ベテランそうな男の先生、クラスメイトの男子が「うわ~」と嫌そうな声を上げた。生活指導が厳しいんだよ、と後ろから声が聞こえてくる。美海はふと後ろを振り返った、真後ろの席はまだ空いたままだ。休みなのかな、と美海は首を傾げる。

「さっそくだが、このクラスに転校生がいるから、先に紹介しておく」

 挨拶もそこそこ、先生が言ったその言葉に教室がワッと湧き上がる。美海は廊下を見た、スラックスの裾が見える。どうやら転校生は男子生徒みたいだ。

「池光、入ってこい」
「はい!」

 池光と呼ばれた男子が教室に入ってきた瞬間、美海は驚きのあまり息が止まってしまった。目を大きく丸めて、背の高い少年を食い入るように見つめる。

(この子、昨日の……!?)

 病院で出会った不審な少年、まさかこんなところでまた出会うなんて! あの時感じた恐怖が蘇る。美海の視線を感じたのか、彼も美海を見る。目が合い、美海はとっさに視線を逸らした。

「池光 旭と言います。どうぞよろしくお願いします!」

 ハキハキと大きな声で名乗り、ニッコリと笑みを見せる旭。それだけでクラスメイト全員に彼の明るい人柄が伝わったに違いない。……美海以外、全員に。

「池光の席はそこの、前から二番目の空いているところだからな」

 担任のその言葉に美海は勢いよく後ろを振り返った。転校生の彼はまた「はい!」と明るく返事をして、美海の真後ろの席にやってくる。

「よろしくね」

 美海は上手く返事ができなかった、どう接するのが正解なのだろうか? 曖昧に頷き前を向く。とりあえず、彼と関わるのはやめておいた方がいいかもしれない……昨日出会ったときのことを思い出して、人知れず深く頷いた。

 始業式もつつがなく終わり、帰る支度を始める美海。背後の席ではもう転校生が女の子に囲まれていた。

「ねえねえ、どこから来たの?」
「部活は? どこ入るか決めてる?」
「家はどこ? バス使うなら、一緒に帰らない?」

 明るくて背が高くて、顔だってまあまあ悪くない。女子に囲まれるのは理解できるけれど、美海にとってはなんだかうるさくて煩わしい集まりだった。誰にも挨拶せずにひっそりと教室を出ていこうとしたとき、ガタッと机と椅子が動く音が聞こえてきた。

「み……あ、青崎さん!」

 名前を呼ばれて、ひぃっと美海は心の中で悲鳴を上げる。

「良かったら俺と一緒に帰らない?」

 女の子たちを振り切って美海に近づく転校生。女子たちの冷たい視線が美海に注がれる。しかし、どうして彼がこんな風に美海に話しかけてくるのか分からなくて、美海には旭の存在の方が恐ろしかった。美海は首をブンブンと横に振って教室を飛び出す。

「あ、ちょっと! 青崎さ……美海!」

 どうして私のフルネームを知っているの!? 逃げながら美海は心の中で叫んでいた。
 廊下を走り抜ける美海。学校の廊下は走っちゃいけないとか、病院で「あまり激しい運動をしてはいけない」と言われたこととか、そういう身を守るための決まりを全部振り切るように急いで玄関に向かう。どうして彼がこんな風に美海に声をかけてくるのか、そんなことは後で考えよう。まずは、逃げる。息を切らしながら玄関に辿り着き、美海はリュックを背負いなおして靴を履き替えようとした。その時――。

「待って……み、美海ってば!」

 また美海の背筋が恐怖で震えあがった。振り返ると、転校生の彼が追いついていたのだ。彼も急いで走ってきて息苦しいのか、胸を押さえて大きく肩を上下している。

「まさか逃げられるとは……はぁ、ちょっと待ってくれたっていいじゃないか……」
「あの、さようなら!」
「待ってってば! 美海!」

 転校生の彼は美海の手首を掴んだ。振り払おうとしても力が強くて離れない。

「は、離して……」
「離すから! その前にちょっと話させてよ、ちょっとだけだから!」

 どれだけ急いだのか分からないけれど、彼はまだ肩で呼吸を繰り返している。美海が「わかった」と大人しく頷くとようやっと手を放してくれた。人がいないところに行こうといわれ、美海と旭は学校の裏庭に向かって歩き出す。逃げてもまた追いかけてくるかもしれない、そう考えるとまた怖くなってきた。抵抗せず、大人しく彼についていく。

「それで、話って何? 名前、池光君って言ったっけ?」

 声にイライラとした感情が乗る。

「旭でいいよ」

 彼――旭は美海がいら立っていることに気付いていないのか、のんびりとそう言って、自分のカバンを漁り始めた。

「えっと……ここに入れていたはずなんだけど、あったあった」
「ねえ、私、早く帰らなきゃいけないんだけど」
「大丈夫、時間は取らせないから。すぐ終わるから」

 旭は顔を上げて、美海をまっすぐ見つめた。曇りのない真っ黒な瞳はまるで夜空みたいだった。

「夏葉のこと知ってるよね?」

 美海は自分の耳を疑う。この人、今、なんて言った? 震える脚で一歩だけ旭に近づき、美海は彼のブレザーの胸のあたりを掴んだ。

「どうして、君が夏葉のことを知っているの!?」