野乃花の影になって見えなかった女子生徒、まさか美海だとは夢にも思わなかった。美海は膝を抱えて座り込み、旭や野乃花が名前を呼んでも顔を上げない。
「美海、今日は休むって美海のお母さんが言ってたのに。どうしてここにいるんだよ?」
「私がちょっと前に駅に着いたときには、もうここで座り込んでいたの。名前を呼んでも返事しないし……困っていたら旭君が来てくれて」
「ありがとう、佐原さん。おい、美海、美海? 大丈夫か?」
「私、駅員さん呼んでこようか?」
頼む、と言おうとした時、ようやっと美海が顔を上げた。
「……旭?」
彼女に名前を呼ばれて、旭はほっと胸を撫でおろした。今日は彼のことがちゃんとわかっている様子だ。
「どっか具合悪いのか? 学校なんて休んでいいんだから……」
「そうだ、私、学校に行こうと思って……」
美海はハッと目を大きく丸めた後、あたりを見て、不安そうに旭に縋りついた。
「そう、学校に行こうと思ったの。でも、でも……私、学校の場所が分かんなくなっちゃって」
旭の後ろにいる野乃花が息を飲む音が聞こえてきた。旭は美海を抱きしめる。
「わかった、大丈夫だから。今日はもう一緒に帰ろう? な?」
「でも、学校に行かないと。旭と、夏葉のリストをやるって約束したじゃない」
「また今度でいいから。お前、お母さんにちゃんと学校行くって言ったのか? また探されてるぞ、多分」
旭はスマートフォンを手にする。気づいていなかったけれど、美海の母からいくつもメッセージが届いていた。美海が駅にいたこと、これから家まで送る旨を返信する。くるりと振り返って、旭は野乃花と目を合わせた。
「佐原さん、ありがとう」
「えっ?」
まさか旭に礼を言われるなんて思ってもみなかったのか、野乃花は戸惑っている。
「いや、私なんて何もしてないし!」
「でも美海の事見つけて、助けようとしてくれたじゃん。ほら、美海も……」
旭は美海を抱えて立ち上がらせる。野乃花は美海と目が合って気まずいのか、手をぎゅっと握り合わせていた。しかし、美海の口から出てきたのは野乃花が予想だにしていなかった言葉だった。
「……だれ?」
まるで小さな子供が親に聞くみたいな、不安そうな声だった。驚いた野乃花はとっさに旭を見る。彼は野乃花に向かって小さく頷くだけだった。どうか今は何も聞かないで欲しい、その意図が野乃花にも伝わったのか彼女も深く頷いた。
「ほら、帰ろう、美海。佐原さん、悪いんだけど先生に遅刻するって言っておいてくれない? 美海を家まで送ってから学校に行くから」
「わかった。あの、気を付けてね!」
まさか彼女に心配される日が来るとは思わなかった。旭は笑って、小さく手を振る。美海も旭を真似するように野乃花に向かって手を振っていたけれど、相手が自分に嫌がらせをしてきた当事者であるということに全く気付いていないみたいだった。
二人の背中を見送った野乃花の胸で、どんどん後悔が膨らんでいった。美海の病気の深刻さをまるで理解していなかった。それに、自分はそんな彼女に対してあんなに酷いことを……旭にビンタされたときも、周りから責められた時も、心の端っこではそんなに悪いことをしたとは思っていなかった。美海が野乃花のことを分からなくなるなんて、そんな病気だなんて聞いていない。自分を戒めるみたいに唇を強く噛む。
「最低じゃん、私。……もっとちゃんと謝っておけば良かった。あんなこと、言うんじゃなかった」
悔いてももう遅い。でも、それでも自分にできることがあるんじゃないか? と野乃花は顔を上げる。そして学校に向かって一目散に駆け出していた、まずは美海の様子と旭が遅刻してくることを担任の先生に伝えなければ。これが、今の野乃花の役割だ。
旭は三時間目が始める前に学校にやってきた。その背中から彼の心労が伝わってくる。野乃花はそっと旭に近づいていく。
「青崎さん、どうだった?」
「一応、家には送り届けた。これから病院に行くってお母さんは話していたけど……もしかしたら……」
美海は今までと変わらない生活を望んでいたけれど、今のままでは行方不明になったり、事故や事件に巻き込まれる可能性だってある。身の安全のためにはこのまま入院したほうがいいに決まっている。けれど、彼女は入院してしまったら二度と学校に来ることはないかもしれない。
「あのさ! もし、私に何かできることがあったら言ってね」
「え?」
「……反省しているの、青崎さんと旭君にひどいことを言ったから。だから、罪滅ぼしってわけじゃないけれど、私は二人の力になりたい」
「ありがとう、佐原さん」
午後の授業中、美海の母からメッセージが届いた。旭は先生にバレないようにこっそり通知を確認する。悪い予想はあたり、美海はこのまま『最期』まで入院することに決まったらしい。病室の番号も教えてくれ、いつでも会いに来てほしいと付け足してあった。旭はそれを野乃花にも伝えておく。彼女が愕然とした様子で口をぽっかりと開けて、そのまま黙り込んだ。何を考えているのかは分からないけれど、眉をひそめて深刻そうに深く息を吐いた。
美海が入院することになったという話は、帰りのホームルームでも担任の先生からクラス中に伝えられた。美海の母から連絡があったらしい。けれど、彼女の病状については伏せられていた。いつ退院するかはわからないけれど、いつかは学校に戻ってくるというように締めくくられる。
「あの! 先生、いいですか!」
「佐原さん? 何ですか?」
野乃花が勢いよく手を上げ、そのまま立ち上がる。
「あの、クラスのみんなにお願いがあります! 私、青崎さんの快復を祈願する千羽鶴を作ろうと思うんです。もし、協力してくれる人がいたら、一緒にやってもらえると助かります」
あの野乃花がこんなことを言うなんて。教室中が驚き、ざわめきが広がっていく。
「私、やるよ~」
「うちから使ってない折り紙持ってきてもいい?」
「色とかそろえた方がいいんじゃないの?」
そして次々と、野乃花を後押しするような声が上がった。彼女は緊張していたのか、やっと強張っていた体を緩めることができた。旭は野乃花を見つめていると、彼女と目が合った。野乃花は力強く頷く。終礼を終えた後、旭は野乃花に近づいた。
「ありがとう、佐原さん」
「ううん、私には奇跡が起こるのを祈る事しかできないから。むしろ、これくらいさせてよね」
「俺もやるから」
「待って。旭君はもっと大事な役割があるじゃない」
野乃花は旭のバッグを持って、彼の胸のあたりに押し付けた。
「旭君は青崎さんのそばにいてあげなきゃ。……旭君にとっては、青崎さんは特別な存在でしょう?」
「うん……」
「こっちのことは私に任せて。……奇跡が起きるように、青崎さんのそばで祈っててよ」
旭は頷き、手を振って教室を出た。なるべく急ぎ足で病院に向かった。
奇跡、奇跡……心の中で何度も念じていた言葉だ。自分に奇跡が起こりますように、夏葉に、美海に、みんな平等に奇跡が起こりますように。でも、この世界が不平等であることを彼が一番よく知っているのかもしれない。旭は夏葉のことを思い出す。転院してからしばらくは病状も落ち着いていたのに、急に悪くなって、面会もできなくなって……やがて、彼が亡くなったことを聞かされた。美海も、同じ道を辿るのだろうか。
美海の母に教えてもらった病室へ向かう。病室の周りはとても騒がしく、看護師や警備員が早口で何かをやり取りしていた。美海の母がふらっと病室から出てくる、旭を見つけて駆け寄ってきた。
「旭君! 美海、見てない?」