美海が口にしたのは、もうこの世界に存在しない少年の名前だった。旭の手が一気に冷たくなり、美海に触れようとしていたのに、まるで体が凍り付いたみたいに動きが止まってしまった。

 「違うよ、美海。夏葉じゃない、旭だよ……」
 「……良かった、夏葉。ずっと探してたんだ、ずっと」

 話がまるで噛みあわない。美海の体が大きく揺れ、倒れ込みそうになる。旭はその体を抱きとめて、支えながら彼もベンチに座る。美海は旭の肩にもたれ掛かる。

 「美海? ……俺の事、分からなくなった?」

 何度呼びかけても、美海からの返事はなかった。またぼんやりと地面を見つめている。旭は急いで美海の両親と連絡を取った。美海は見つけたけれど、様子がおかしいことを伝えると、両親はすぐに公園にやってきた。

 「美海!」

 母の呼びかけにも返事をしない。ただ、同じ名前を繰り返し呼ぶだけだった。

 「……夏葉は?」
 「夏葉君……? 美海、夏葉君はもう……」

 そこで美海の母は口を閉ざした。今の美海に、夏葉はもうとっくの昔に亡くなったことを話したらどんな反応をするだろうか? もしかしたらパニックを起こしてしまうかもしれない。美海の両親と旭は顔を見合わせて頷く。

 「帰りましょう、美海」
 「そうだな。……旭君も、うちに寄って少し休んでいきなさい。君に話したいこともあるし」

 いい話ではないだろう。豹変した美海の様子、どこか諦めているかのような両親の様子を見て、旭は察する。三人で美海の体を支えながら帰路に着いた。
 美海の母が美海を寝かしつけた後。三人はダイニングテーブルに着いた。

 「旭君、美海のことで迷惑をかけたね。本当にすまなかった」
 「いや、俺の方こそ……美海が体調悪いかもしれないのに、それも考えず約束なんてしちゃって」
 「いいの、旭君。美海だってとても楽しみにしていたのよ」

 母の視線が美海の部屋に向く。

 「君にも無理をさせてしまって、本当に申し訳ないわ。旭君のことは、夏葉君のご両親から少しだけ聞いているの。転院先の病院の『先輩』で、夏葉君ともとても親しくしていたって。そして、その……君の『体』のことも、ちょっとだけ知っているわ」

 旭の胸が軋むようにドキンとうずく。別に秘密にしていたわけじゃないけれど、暴かれようとすると緊張してしまう。それに、自分の『体』のことはまだ機会がなくて美海にも話していなかった。

 「美海には話していないわ。君が自分の口で言いたいだろうと思って」
 「……ありがとうございます。あの、美海は大丈夫なんですか?」

 旭は本題に切り込む。両親は下を向き、首を横に振った。美海の母は口元を押さえ、目に浮かんだ涙をティッシュで拭う。美海の父が代わりに説明してくれる。

 「この前、学校を休んだ前日、いつもより強い頭痛の発作があったんだ。発作自体は薬を飲んで収まったけれど……夏葉君のノートを見て、美海が『自分のじゃない』なんて言い出して……ただの勘違いだったら良かったのだけど、いつもと様子が違っていて……」

 旭は膝に乗せていた手をぎゅっと握る。これから美海の両親が彼に伝えるのは、彼にとっても美海にとっても非常にむごい、現実の話だ。

 「主治医の先生から、脳の萎縮もとても進行していて、もう長くはない、と。これからどんどん症状が進んでいくだろう。徐々に記憶が保てなくなって、失われていって……最期には生命維持に関わる脳の機能も止まってしまって……」

 それ以上は話したくなかったのか、美海の父はそこで言葉を区切った。旭は俯く。

 「……夏葉も同じだった」

 旭の小さな呟きを聞いた美海の母がさらに嗚咽を漏らした。夏葉の様子を間近で見てきた旭だから、これから美海が辿る道がどんなに酷なものかよく知っている。リビングは静まり返る。

 「美海は今の生活を変えたくないって言っている。でも今日の様子を見ると……もう家で過ごすより、病院にいた方が安全なんじゃないかと思うんだ。でも、もしそうなっても、旭君は変わらず美海に会いに来てくれないか? もちろん、外出がしたいなら病院に掛け合って許可も取る。美海が望むなら、君もどんどん一緒に出掛けてほしい」
 「……ありがとうございます」

 旭は深く頭を下げる。美海の両親も同じように、深々とお辞儀をしていた。これからの時間は、美海が後悔しないように、これまで以上に美海を思って使っていこう。旭は自分自身にそう誓う。

 両親から話を聞いた旭は、美海が起きる前に彼女の家を後にした。そのまままっすぐ家に帰る気になれなくて、美海を見つけた公園のベンチにしばらくの間座り込んでいた。空を見上げる。うっすらと雲が広がり、青空はいつも以上に遠く感じられた。旭は手を伸ばす、今は昼間だから見えないけれど、この空の向こうには星が瞬いていて……もしかしたら流れ星だって流れているかもしれない。旭の願いを叶えてくれるような流れ星が。

 「起きないかな、奇跡が……」

 夏葉の時には起きなかった。でも美海はまだ生きている。もしかしたら明日にでも治療法が見つかって、美海が治るかもしれない。そんな奇跡を旭は願う。

 「起こしてくれよ、夏葉、奇跡をさ」

 ☆☆☆

 翌日、美海の母からは「念のため学校は休ませる」と連絡が来ていたから、旭はまた一人で学校に向かう。学校の最寄り駅に着いたとき、柱のあたりで見知った女子生徒がしゃがみ込んでいるのが見えた。

 「佐原野乃花……だっけ?」

 あまりいい思い出のない相手だ。でも、あたりをキョロキョロと見渡して慌てているようにも見えた。彼女の奥に、もう一人女子生徒がいるのが見える。野乃花が困っていることに気付いているのは旭だけなのか、周りはどんどんスルーして歩いて行ってしまった。仕方ない、と旭は野乃花に近づく。

 「佐原さん、どうかした?」
 「旭君! 青崎さんが!」
 「……美海?!」